ダビデ王の所信表明 旧約聖書・詩篇101篇より
現代日本においては、政治家、官僚、そして資本家という三者が一体になって、この国の政治システムを形成しています。長い時を経て生活習慣病になっている人の体質改善が容易でないように、長い経緯の中で金や利権が複雑に絡み合った政治システムの体質改善は容易ではありません。そんな中、体質改善を促す解毒剤のような詩篇101篇に、まずはじっくりと耳を傾けましょう。
指導者の中の真実
1 私は、恵みとさばきを歌いましょう。主よ。あなたに、ほめ歌を歌いましょう。
2 私は、全き道に心を留めます。
いつ、あなたは私のところに来てくださいますか。
私は、正しい心で、自分の家の中を歩みます。
3 私の目の前に卑しいことを置きません。私は曲がったわざを憎みます。
それは私にまといつきません。
4 曲がった心は私から離れて行きます。私は悪を知ろうともしません。
構成員の中の真実ー国の中の真実な人たち
5 陰で自分の隣人をそしる者を、私は滅ぼします。
高ぶる目と誇る心の者に、私は耐えられません。
6 私の目は、国の中の真実な人たちに注がれます。
彼らが私とともに住むために。全き道を歩む者は、私に仕えます。
7 欺く者は、私の家の中には住みえず、
偽りを語る者は、私の目の前に堅く立つことができません。
8 朝ごとに、私は国の中の悪者をことごとく滅ぼします。
それは主の都から、不法を行う者をことごとく断ち切るためです。
kitokai20120502
タグ: 聖書
田植えの季節 with PENTAX K-5
杉戸町でも、宮代町でも、田植えの季節になりました。今朝PENTAX K-5を持って散歩していると、素敵な風景が広がっていました。収穫を期待して種まきがなされ、そして田植えが行われています。大収穫になりますように!
1 あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。
2 あなたの受ける分を七人か八人に分けておけ。地上でどんなわざわいが起こるかあなたは知らないのだから。
3 雲が雨で満ちると、それは地上に降り注ぐ。木が南風や北風で倒されると、その木は倒れた場所にそのままにある。
4 風を警戒している人は種を蒔かない。雲を見ている者は刈り入れをしない。
5 あなたは妊婦の胎内の骨々のことと同様、風の道がどのようなものかを知らない。そのように、あなたはいっさいを行われる神のみわざを知らない。
6 朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない。伝道者の書11章より
礼拝メッセージ「アメイジング・グレイス」ローマ13
礼拝メッセージ「アメイジング・グレイス」ローマ13(クリックで聴けます)
聖書箇所:ローマ人への手紙5章12ー21節
20 律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。
21 それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。ローマ人への手紙5章20-21節
大変有名な神をほめたたえる歌に、「アメイジング・グレイス」があります。日本語では聖歌229番に「おどろくばかりの」という題で収録されています。歌詞は以下のような内容です。
1、驚くばかりの 恵みなりき
この身の汚れを 知れる我に
2、恵みは我が身の 恐れを消し
任する心を 起こさせたり
3、危険をも罠をも 避けえたるは
恵みの御業と 言う他なし
4、御国に着く朝 いよよ高く
恵みの御神を 讃えまつらん
かつてイギリスで奴隷船の船長をしていたジョン・ニュートンが、神の驚くばかりの恵みを体験した後、この歌は生まれました。人は恵みによって変えられるのです。
アメイジング・グレイス
礼拝メッセージ「罪をおおわれた人たちの幸い」ローマ9
礼拝メッセージ「罪をおおわれた人たちの幸い」ローマ9(クリックで聴けます)
聖書箇所:ローマ人への手紙4章1ー16節
それでは、肉による私たちの父祖アブラハムの場合は、どうでしょうか。もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあります。働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」 ローマ4章1-8節
今年も受難週を迎えました。春を迎えるために厳しい寒さを通らなければならないように、イースター(復活祭)を迎えるためには、厳しい受難週を通らなければなりません。
同様に、あなたが罪をおおわれた人たちの幸いに至るには、あなたが自分の罪深さと無力さをごまかさずに認め、自分で自分を救えないことを素直に認め、神に降伏することがどうしても必要です。
何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、アブラハムやダビデのように、その信仰が義とみなされるのです。罪がおおわれるとは、神があなたの罪を完全に忘れてくださり、すべてなかったことにしてくださるという恵みです。
罪をおおわれた人たちの幸い
礼拝メッセージ「価なしに義と認められる」ローマ8
礼拝メッセージ「価なしに義と認められる」ローマ8(クリックで聴けます)
聖書箇所:ローマ人への手紙3章19ー31節
さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。ローマ3章19-24節
ローマ人への手紙の主題は、「信仰義認」という四文字熟語で言い表すことができます。これは「イエス・キリストを信じる信仰によってのみ、あなたは神の前に価なしに義と認められる」という聖書の真理、イエス・キリストの福音を要約したものです。
けれども多くの人になじみ深いのは、「信仰義認」ではなく「行為義認」です。これは「自分の努力と頑張り、行為によって、代価を払うことのできた者だけが神の前に義と認められる」という考えです。
「信仰義認」の真理は、あなたを義と認め、罪責感や良心のとがめ、劣等感や優越感から解放し、あなたに喜びと平安と神への賛美を与えます。
価なしに義と認められる
礼拝メッセージ「怒りを下す神は不正か」ローマ7
礼拝メッセージ「怒りを下す神は不正か」ローマ7(クリックで聴けます)
聖書箇所:ローマ人への手紙3章1ー18節
しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。「善を現すために、悪をしようではないか」と言ってはいけないのでしょうか‐‐私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが。‐‐もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。ローマ3章5-9節
悲惨な出来事の中で、「神がいるならどうしてこんなことが起こるのか?」という問いが生じます。
この問いの背後には、「怒りを下す神は不正である」という人間中心的な神学があります。「愛の神は正しいが、怒りを下す神は正しくない」、「赦す神は正しいが、裁く神は間違っている」というような考えです。このような神学は、「十字架を必要としない見せかけの神の愛と赦し」に行き着きます。
このような人間中心的な神学に対して、パウロは、「絶対にそんなことはありません」と強調します。
本当の神は、私たちの身代わりとして、十字架に磔にされたひとり子イエス・キリストの上に、容赦のない怒りを下された神です。