U2の歌「SONG FOR SOMEONE」の意訳
You got a face not spoiled by beauty
I have some scars from where I’ve been
イエス様、あなたは美しさでだめになってない顔を持っておられ、
僕はこれまでほんと大変なことだらけで、深い傷を負っていた。
You’ve got eyes that can see right through me
You’re not afraid of anything they’ve seen
あなたは僕の本当の姿を見抜くことができる目を持っておられ、
あなたは恐れないで僕のすべてを受け止めてくれた。
I was told that I would feel nothing the first time
I don’t know how these cuts heal
But in you I found a rhyme
最初は何も感じないでしょうと言われ、
どのように癒されるのかわからなかった。
だけど、僕はあなたの中に歌を見つけたんだ。
If there is a light you can’t always see
And there is a world we can’t always be
もし光があるなら、それはいつも見えるわけじゃない。
それでも神の国という霊的な世界が存在する。僕らはいつもそちら側にいることはできないが。
If there is a dark that we shouldn’t doubt
And there is a light, don’t let it go out
もし僕らが疑うべきでない闇があるとしても、
それでも光はやみの中に輝いている。だからその光を消しちゃいけない。
And this is a song, song for someone
This is a song, a song for someone
この歌は誰かのための歌。
この歌は、誰かのための歌。
You let me in to a conversation
A conversation only we could make
イエス様、あなたは僕を会話に招いてくださる。
僕らだけができる会話の中に。
You break and enter my imagination
Whatever’s in there it’s yours to take
あなたは僕の空想の中に割って入られる。
だから僕の中に何があろうと、どう受け止めるかはあなた次第。
I was told I’d feel nothing the first time
You were slow to heal but this could be the night
最初は何も感じないでしょうと言われた。
でもあなたはゆっくりと癒された。時間がかかったのは夜の闇が深かったからでしょう。
If there is a light you can’t always see
And there is a world we can’t always be
もし光があるなら、それはいつも見えるわけじゃない。
それでも神の国という霊的な世界が存在する。僕らはいつもそちら側にいることはできないが。
If there is a dark within and without
And there is a light, don’t let it go out
闇が心の内にも外にも存在したとしても、
それでも光はやみの中に輝いている。だからその光を消しちゃいけない。
And this is a song, song for someone
This is a song, a song for someone
この歌は誰かのための歌。
この歌は、誰かのための歌。
And I’m a long long way from your Hill of Calvary
And I’m a long way from where I was and where I need to be
そして僕は長い長い道の途上にある。イエス様、あなたが十字架にかけられたカルバリの丘からの道に。
僕は長い旅の途上にある。かつていた場所、僕がいなければならなかったあの場所からの道に。
If there is a light you can’t always see
And there is a world we can’t always be
もし光があるなら、それはいつも見えるわけじゃない。
それでも神の国という霊的な世界が存在する。僕らはいつもそちら側にいることはできないが。
If there is a kiss I stole from your mouth
And there is a light, don’t let it go out
もし口づけがあるなら、僕があなたから奪った裏切りの口づけ。あのイスカリオテ・ユダのように。
それでも光はやみの中に輝いている。その光を消しちゃいけない。
タグ: イスカリオテ
先行する引き渡しと使徒的引き渡し
主イエスに対して、高価なものを捧げるのはもったいないと思う人がいるなら、
その人はやがて、主イエスを売り渡すことになるでしょう。
イスカリオテ・ユダに代表される12使徒たちがそうであったように、
主イエスはあなたにとって売り物となるでしょう。
いまや、神がイエスを、イエスがご自身を、引き渡し給う。われわれは、ここで明らかに、すべてのそのほかの引き渡しに対して、威厳、重要さ、意味深さにおいて、先行する引き渡しとかかわらなければならない。ユダがイエスを引き渡す以前に、神はイエスを、イエスはご自身を、引き渡し給うた。イエスが使徒的引き渡し〔伝えること〕の対象となり給う前に、神はイエスを、イエスはご自身を、引き渡し給うた。神の怒りが異邦人とユダヤ人を引き渡し、捨て、自分自身にゆだねる前に、神はご自身のみ子を惜しまないで、われわれすべての者のために引き渡された(ローマ8・32)。明らかに、すべての引き渡しの必然性、力、意味は、この最初の、徹底的な引き渡しーその中で、神がイエスの人格の中で、あるいはイエスが神の子として、ご自身を、引き渡しの対象とし給う最初の、徹底的な引き渡しーの中に基礎づけられている。カール・バルト教会教義学 神論Ⅱ/2 神の恵みの選び 下 p338-339
パウロは、正確に、ユダが、その後悔によれば、逆転させたいと思い、また既に起こったことを撤回させたいと願ったそのところで、業を継続する。ーすなわち、ユダが気も転倒せんばかりに恐れたことであるが、大祭司と長老たちが、あの悪い系列の中の第二の輪としてなしたことをなすことによって、継続する。換言すれば、パウロは、まさに異邦人へのイエスの引き渡しを実行する。しかも、イスラエルの召命と派遣に対する不真実をもってではなく、それらに対する真実をもって、もはやイエスを殺すためではなく、むしろ、この殺されたが、しかしまた甦らされた方の支配を全世界にわたってうち立てるために、異邦人へのイエスの引き渡しを実行する。そのようなわけで、ユダが、使徒職の任命と樹立を無にしてしまうなどということは全くなかったのであり、十二使徒の円は、ただ単にすぐに再び塞がれるだけでなく、むしろそのことを越えて、この定員外の人物の中で、マタイ28・19の意味で、まことの使徒行伝が、すなわち、イエスを異邦人に正しく引き渡す〔伝えていく〕ことが、いまこそ始まるのである。カール・バルト教会教義学 神論Ⅱ/2 神の恵みの選び 下 p319-320
神がなし給うたイエス・キリストの引き渡しこそが、本来的な、実在の引き渡し(言い伝え)である。その引き渡しの中で、神の全能の愛が、人間に、力を発揮しつつ向けられた。この引き渡しの中で、神と人間の間の深淵に橋がかけられた。この引き渡しの中で、神は人間を探し求め、見出し給うた。この引き渡しの中で、人間が神の前に立ち、神と共に生きることができる可能性が造り出された。この引き渡しの中で、その点で人間を妨げていたこと、人間を神の敵として、神との契約から閉め出さなければならなかったことが、取り除かれた。この引き渡しの中で、人間が、その罪からきよめられることによって、神の国にはいる門が開かれ、永遠の生命へのその確かな希望の基礎づけにまできた。この引き渡しの中で、教会は、誰かの人間的な手が、それに対してただ指一本だけでもふれる前に、基礎づけられたし、また基礎づけられている。その引き渡しの中で、神はわれわれのために危険におもむき給うた。なぜといって人間と、神ご自身人間となり、人間としてほかの人たちの間にまじって、彼らのもとでご自分の事柄をなしてゆくという仕方で、人間と、かかわることは、どうして神にとって危険で、迷惑となることでなく、人間の栄誉を脅かすものでないはずがあろうか。この引き渡しの中で、神は、この危険に、事実、屈し、人間としてほかの人間たちによって無力にされ、捨てられ、殺されることを進んで身にうけ給うたのである。しかし、まさにこの引き渡しの中で、神は人間にかかわるそのよき意志を、まさに次のことー神がこの危険に身をさらし、まさにこの危険に屈することの中でこそ、人間のため、その益のため、その救いのため、永遠の生命の希望の基礎づけのために、決定的な一歩をなすことーによって、実行に移し給うた。カール・バルト教会教義学 神論Ⅱ/2 神の恵みの選び 下 p356
しかし、そのことでもって、また、神が、捨てられた人間、選ばれなかった人間、に関して、意志し、計画の中に入れておられることを問う一般的な問いに対して、必要なすべてのことが語られたのである。答えは、ただ次のようでありうる。神は、まさに彼〔捨てられた人間〕こそが福音を聞き、それと共にまた彼の選びの約束を聞くようになることを欲し給う。したがって、神は、彼に対してこの福音が宣べ伝えられることを欲し給う。神は、彼が希望ー彼に対して、福音の中で与えられている希望ーをつかみ、その希望によって生きることを欲し給う。神は、捨てられた者が信じるようになり、信じる者として選ばれた捨てられた者となることを欲し給う、と。彼は神の前で、捨てられた者としての独立した存在をもっていない。彼は、神によって、ただ、捨てられた者でしかないようにと定められてはおらず、むしろ、彼が選ばれた捨てられた者であることを自分に向かって語らせ、自分自身語ることがゆるされるということに向かって定められている。これが、新約聖書の選ばれた者である。すなわち、その棄却の中で、棄却からして、選ばれた捨てられた者ーそのものたちの中にユダが生きていたが、しかしまた、(パウロにおいてそのことが起こったように)殺された、捨てられた者ーである。彼らは捨てられた者ーそのようなものとして、信仰へと呼び召されている捨てられた者、イエス・キリストの選びに基づいて、またイエス・キリストがご自身、彼らのために引き渡されたということを念頭において、自分たちの選びを信じる捨てられた者ーである。カール・バルト教会教義学 神論Ⅱ/2 神の恵みの選び 下 p372
アイルランド出身のロックバンドU2は、イスカリオテ・ユダである私たちのことを幾つかの歌にしている。