内藤容子LIVE 090621 キリスト賛歌
歴史における科学とキリスト教
池波正太郎著「日曜日の万年筆」より
池波正太郎著「日曜日の万年筆」より
私は、仕事の行き詰まりを頭脳からではなく、躰のほうから解いて行くようにしている。p14
「そうよ、亭主なんて、フンゾウキよ」
「何、そのフンゾウキって?」
傍で聞いていた私も、これは、ちょっとわからなかった。
すると、鰻弁当をむしゃむしゃと食べながら、その中年の女客が「フンゾウキ」の意味を説明した。
すなわち「糞を造る機械」だから「糞造機」なのだそうである。
これにはさすがの私も魂消た。
三年ほど前に、長谷川一夫の芝居を観たとき、これも劇場の食堂で、とんかつ屋の看板にしたらよかろうとおもわれる顔だちの中年婦人が「わたくし、もし、長谷川に飛びつかれたら、とても抵抗しきれませんわ」と、いっているのを聞いたときよりもショックは大きかった。p18-19
沢田正二郎は土佐人の血をひいた熱血的な俳優であり、単なる俳優ではなく、これを政治家にしても教育家にしても、かならず抜群の業績を残したにちがいない。p23
いや、その前に・・・・まだ幼年のころに、私は母に連れられて、沢田正二郎の舞台を確かに観ている。それは本郷座の舞台で、半裸の男が十字架に縛りつけられている姿を、おぼろげながら記憶している。沢田が〔キリスト〕を演じたのだった。p26
亡き座長の机竜之助で大当たりをとった〔大菩薩峠〕を、辰巳柳太郎の竜之助、島田正吾の宇津木兵馬で東京劇場で上演したときの舞台を私は従兄に観せてもらった。辰巳も島田も座員たちも、必死の意気込みで舞台をつとめていたにちがいない。その舞台の、得体の知れぬ熱気の激しさ強さは、むしろ空恐ろしいほどのもので、十歳の私は興奮と感動に身ぶるいがやまなかった。「何を、ふるえているんだい?」と、私の肩を抱いた従兄の声を、いまも忘れない。いまにして思えば、この観劇の一日こそ、後年の私を劇作家にさせた一日だったといえよう。p27
収支という語を、こころみに辞典で見ると、〔収入と支出〕とある。私も、師にいわれたときは、単に経済の意味をふくめたものとして聞いていたにちがいないのだが、いまおもうと、師は、〔すべての物事に対するバランスの感覚〕のことを指していたのではあるまいか。そうなると、あの太平洋戦争の無謀な開戦も、収支の感覚を完全に欠いていたことになる。p34-35
自由とは不自由があってこそ成立するものなのだ。p38
物をつくるという手順を、感覚で躰におぼえこませたことが、いまの私の仕事の基盤になっているのだ。p43
先ず、ここまで書いたらやめてしまう。寝る時間ならば寝てしまう。まだ時間があるなら、別の仕事をする。そしてベッドへ入ると、書き出しの三、四枚が頭の中へ居座ってしまうから、寝ていても、食事をしていても、散歩をしていても、洗面所へ入っていても、無意識のうちに、前夜、書いておいたシチュエーションが頭の中でふくらみつつあるのだろうか。何かの拍子に、つぎの情況がぱっと浮かんでくる。浮かんでこないときは別の仕事をする。このようにして五枚、十枚と書きすすめるうち、人物の性格が生まれ、息づき、うごき出す。こうなれば、その人物の歩くままにまかせる。そこにテーマが浮きあがってくるのである。p47
つまり私は、あくまでも初心に映画を観ているのだ。それでないと私の場合、映画が自分の血肉となってくれないような気がする。映画を観るたびに新鮮なおどろきを感じるということは、いまの自分の毎日の些細な出来事にも、同じ感覚で接していることになる。それでないと、私がしているような仕事では、根が枯れてしまい、ついには、自分が何を書いてもつまらなくなってしまうのではあるまいか・・・。p52
続く
閉塞感を突き破る神の言葉<3>神のことば=出来事
閉塞感を突き破る神の言葉<3>神のことば=出来事
日本同盟基督教団・杉戸キリスト教会牧師 野町真理
『雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。』イザヤ書55章10−11節
「神のことば」を表すヘブル語「ダバール」は、「出来事」とも訳すことができます。神のことばは必ず出来事になるからです。上記のみことばは、そんな神のことばの力強さを教えています。
旧約聖書には、閉塞感に囚われ、神の約束を信じられなかったアブラハムとその妻サラの姿が記されています。創世記17章17節が語るアブラハムは、本音と建前を使い分け、ひれ伏しながら作り笑いをします。信仰の父アブラハムも、閉塞感に囚われて神の約束を信じられなかったのです。夫婦は似てきます。創世記18章12節が語るサラもまた、神の約束を信じられませんでした。ニヒルな笑いが響くサラの心の中は、まるで氷点下です。
厳密な意味で、私たちが信じたとおりにしかならないのなら、閉塞感に囚われた者に救いはありません。静かにあきらめ、ニヒルに笑う仮面の道化師として、行き止まりの路地裏で死ぬ以外に道はありません。アブラハム夫婦がイサクを授かることもなかったでしょう。アブラハムの子孫としてイエス・キリストが来られるクリスマスも、十字架で私たちのために死なれたキリストが復活するイースターもなかったでしょう。
しかし、「神のことば」は、聖書信仰によって「出来事」と訳すことができます。なぜなら聖書に書き記された神のことばは、私たちの閉塞感を突き破って、時が来れば必ず出来事になるからです。アーメン。主イエスの再臨と救いの完成がますます近づいています。閉塞感を突き破る神のことばをしっかりと握りしめ、天を見上げて地上を旅しましょう。
SUGITO GOSPEL CAFE 2016-11-25
牧師にとって両刃の剣のような本
ある意味で、本書は、牧師にとって、また牧師を志す人々にとって、「両刃の剣」のようなものであると言えるかもしれない。それはつまり、私たちが本書を、牧師としての進むべき道を指し示し、その道を切り開く上での力強い助けとして受けとめることもできると共に、他方では、それと同時に、本書が私たちを刺し通し、私たちの内なる思いや考えを奥底まで切り分け、明るみにさらすようなものとして立ち現れてくる場合もあるということである。おそらくは本書における著者のねらいもそうしたところにあるのであって、さらに想像をたくましくするならば、こうした複雑な叙述の奥には、著者自身も歩んできた牧師としてのいろいろな体験が、ことに痛みを伴う失敗や挫折といった経験とそこから学んだことが、色濃く反映されているようにも思われてならないのである。
ウイリアム・ウイリモン著『牧師 その神学と実践』の訳者あとがきより(p566-567)
対抗文化(カウンター・カルチャー)を生み出すために働く存在
雪の日に 吉野弘詩集より
雪の日に 吉野弘詩集より
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雪がはげしく ふりつづける
雪の白さを こらえながら
欺きやすい 雪の白さ
誰もが信じる 雪の白さ
信じられている雪は せつない
どこに 純白な心など あろう
どこに 汚れぬ雪など あろう
雪がはげしく ふりつづける
うわべの白さで 輝きながら
うわべの白さを こらえながら
雪は 汚れぬものとして
いつまでも白いものとして
空の高みに生まれたのだ
その悲しみを どうふらそう
雪はひとたび ふりはじめると
あとからあとから ふりつづく
雪の汚れを かくすため
純白を 花びらのように かさねていって
あとからあとから かさねていって
雪の汚れを かくすのだ
雪がはげしく ふりつづける
雪はおのれを どうしたら
欺かないで生きられるだろう
それが もはや
みずからの手に負えなくなってしまったかのように
雪ははげしく ふりつづける
雪の上に 雪が
その上から 雪が
たとえようのない 重さで
音もなく かさなってゆく
かさねられてゆく
かさなってゆく かさねられてゆく
閉塞感を突き破る神の言葉<1>
閉塞感を突き破る神の言葉<1>
日本同盟基督教団・杉戸キリスト教会牧師 野町真理
『ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。』ルカ福音書1章20節
ルカ福音書1章には、閉塞感に囚われていた祭司ザカリヤと彼の妻エリサベツが登場します。忠実な二人でしたが、祈りが答えられない年月によって年輪を重ねた結果、御使いによって子どもを授かると聞いても信じられませんでした。もう年ですから。長い間祈りが答えられない中での高齢化は、じわじわと効いて私たちを閉塞感へと誘います。けれども不妊の女だったエリサベツは、全能の神によって身ごもり、高齢出産でも守られ、キリストの道備えをするバプテスマのヨハネの母とされました。
ザカリヤは不信仰であった故に、神の言葉が出来事になるまで、期間限定でものが言えなくなりました。けれども神の言葉は、人の不信仰を超えて、その時が来れば実現したのです。『私のことばを信じなかったからです。(けれども)私のことばは、その時が来れば実現します。』と聖書は語ります。「信じなかったから、あなたはもうおしまい。あなたの信仰の通りにしかならないから。」と切り捨てると、もはやキリスト教ではなくキリステ教になってしまいます。聖書の語る福音は、信じられない者にとっても福音です。
厳密な意味で、私たちが信じたとおりにしかならないのなら、全能の神の素晴らしいご計画は、計画倒れになるでしょう。世界宣教によって宇宙を再創造するという神の壮大なご計画は凍結し、私たちは閉塞感の中で滅んでいくしかありません。しかし神の言葉は、私たちの不信仰を突き破って、時が来れば必ず出来事になります。そのことを聖書は力強く証言しています。閉塞感を突き破る神の言葉を体験する。それが世界を覆っている暗雲を跡形もなく吹き飛ばすはじめの一歩です。