古河教会にて講壇交換メッセージ「目的志向の人生」

古河教会

古河教会にて講壇交換メッセージ「目的志向の人生」(クリックで聴けます)

聖書箇所:ルカ福音書11章1-13節

古河教会の長谷川望牧師と講壇交換をしました。感謝。

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2010年9月26日 古河教会 講壇交換メッセージ要約

「目的志向の人生」 杉戸キリスト教会牧師 野町真理
 聖書箇所:ルカ福音書11章1ー13節

私の名前は真理と書いて「しんり」と言います。女性でも、牧師の息子でも、クリスチャンホームでもありません。20歳まで聖書を読むことも教会に行くこともありませんでした。20歳の時、クリスチャン留学生に出会い、「塩狩峠」(三浦綾子著)に出会い、そしてイエス・キリストに出会い、私の人生の向きが大きく変えられました。

その後、大学進学のため高知県から愛知県豊橋に移り住み、そこで森川昌芳牧師に出会い、豊橋ホサナキリスト教会で大変お世話になりました。森川牧師から主任牧師のバトンも受けたのですが、ちいさなロバのような私には荷が重過ぎて、4年前に杉戸キリスト教会に転任することになりました。尊敬する森川先生が牧会されていた古河教会に、楽しみにして参りました。

さて、イエス・キリストに出会って、私の何が一番違ったのか、今日はそのことをルカ福音書11章からお話させていただきます。

ある時イエス様が祈っておられました。「天と地がつながっているような祈りだ。確かに祈りが通じている。私もあんなふうに祈りたい。」弟子たちにそんな憧れを抱かせるお姿でした。

ですから、「主イエス様。祈る時には何をどのように祈ったいいのですか?祈りを教えてください。」そう弟子の一人が尋ね、聴く祈りをしました。その時「祈る時にはこう祈るんだよ。」と教えられたのが主の祈りです。

主の祈りをひっくり返すと、以下のような大変恐ろしい祈りになります。主の祈りを自分の祈りとして毎日祈るために、目的志向の人生を選び取るために、ぜひメモしていただけたら感謝です。

最初に申し上げます。この祈りに絶対にアーメン(それが私の心からの願いです)と言わないでください。無意識に祈ることがあっても、絶対に意識的には祈らないでください。非常に悪魔的な祈りですから。これ以上、的外れで罪深い祈りはありませんから。

自分の名前があがめられ、ほめられますように。
自分を中心とした自分の思い通りになる国が来ますように。
私の願い、考え、計画が、その通りになりますように。
私が今日もがんばって、日ごとの糧を得よう。(神など必要ない)
誰でも私に罪を犯す者があるなら、絶対に赦さないで、必ず報復しよう。
私は自分の力であらゆる誘惑に打ち勝つことができ、
自分で自分を悪から救い出すことができる。(救い主など必要ない)
国と、力と、栄え、世界に満ちるすべてのものは、私(俺)のものだ。

私はこれを、「罪人の自己中心な祈り」と名付けました。正直にあなたの心の中をのぞいて見てください。心密かにいつも願っていること、いつも考えていることがこのような内容と方向性であるなら、あなたも聖書の言う「罪人」です。行き着く先は、死と永遠の滅びです。しかし主の祈りの行き着く先は、喜びと感謝と永遠のいのちです。どちらに向かって生きるのか、あなた自身が日々選び取らなければなりません。

以前の私は、主の祈りをひっくりかえした内容をいつも願い求めていました。けれども、死と永遠の滅びに向かって暴走していた私のために、十字架で命を捨ててくださり、よみがえった主イエスによって、主の祈りの指し示す内容を目指して、喜んで生きるように変えられたのです。

熱心に祈る前に、いつもまず向きを確認する必要があります。「まず向きを確認し、次にその方向性で、聖霊を与えてくださる天の父にあつかましいほど熱心に祈り続けなさい。」そう主イエスは教えておられます。

用いられれば用いられるほど、目に見える結果が出せれば出せるほど、すべての栄光を神にお返しすることが難しくなります。自分に栄光を帰したいという誘惑、神を十字架につけて殺し、自分が神になりたいという誘惑がますます強くなるからです。

ですから電波時計のように、毎日聖書に耳を傾けて聴く祈りをし、主の祈りの向きに軌道修正しながら生きる。そうすれば、造られ、救われ、生かされている本来の目的に導かれた、目的志向の人生を生きることができます。

礼拝メッセージ「求め、捜し、たたけ」

礼拝メッセージ「求め、捜し、たたけ」

聖書箇所:ルカ福音書11章1ー13節

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。ルカ福音書11章9-10節

1、みことばに基づいて聖霊を求めなさい

『してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。』ルカ11:13

2、みことばに基づいて聖霊を捜しなさい

『…神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。』1コリント12:3

『あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。』
1コリント3:16

3、みことばに基づいて天の扉をたたきなさい

真夜中に友人宅の扉をたたき続けるように、天の扉をたたくならば、天の門が大きく開かれ、どんな人にも聖霊が与えられます。朝毎にそのように祈り求めるなら、与えられた御霊に満たされ続け、御霊の実(愛)を結び、御霊の賜物を用いて互いに仕え合い、苦しんでいる友の必要に応えることができます。

礼拝メッセージ「祈りの原点」

礼拝メッセージ「祈りの原点」

聖書箇所:ルカ福音書11章1ー13節

友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ』ルカ福音書11章6節

経済格差、リストラ、いじめ、うつ、自殺、虐待、酒乱、薬物依存、ドメスティックバイオレンス(DV)、ポルノ、レイプ、中絶、離婚、殺人、高齢化、飢餓、テロ、病気、死。この世界の友は苦しんでいます。

しかし私たち教会は、自分自身を見るときに、やはり友の期待に応えることが出来ない自分の無力さを思い知らされます。私たち教会は、自分の力では期待に応えることができない、無力な存在です。

しかしここに祈りの原点があります。祈りの原点は、友の期待に応えることができない私たちの無力さにあるのです。自分の限界を覚えさせられた時、自分の無力さや愛のなさをいやというほど覚えさせられた時。私たちはその時初めて、祈らずに自分の知恵や能力に頼って何かを進めることを止め、まず神の前に跪いて御声に耳を傾け、必要を具体的に祈り求めることができるのです。

教会は他の誰よりも神に大いに期待されています。教会が世界の光、地の塩として生き、教会を通して、福音が友に宣べ伝えられるという大きな期待を持って、今も神は教会を導いておられます。そして父なる神は、私たちが友の期待に応えていくために、本気になって天の父に祈り求めることを切に願っておられます。

講壇交換礼拝メッセージ「キリストの弟子の祈り」

講壇交換礼拝メッセージ「キリストの弟子の祈り」

日本同盟基督教団・関東宣教区講壇交換メッセージ(2007年10月14日赤羽聖書教会にて)

聖書箇所:ルカ福音書11章1ー13節

説教題:「キリストの弟子の祈り」

主題:キリストの弟子が的を射た祈りをする秘訣は、キリストの御言葉に聴く祈りにある。

説教の要約:

 やみの中で的を射ようとする時、もし的を照らし出す光がなければ、どんなに努力をして的を射ようとしても、人は的を外すことしかできないでしょう。同様に、人はどんなに熱心であっても、的を指し示す証人がいなければ、的外れなことしか、罪を犯すことしかできないのです。使徒パウロもそうであったように、もし的を指し示す証人がいない(ハマルテュロス)のなら、どんなに熱心であっても、熱心にハマルティア(罪・的外れ)を犯すことしか、熱心に神の教会(主イエス)を迫害することしかできないのです。

 しかし主イエス・キリストは、真の証人として、私たちの所に降りて来て下さいました。そして、やみに覆われたこの地において、まことの光として、啓示の御言葉を与えて下さいました。そして、弟子たちのリクエストに答えて、祈る時にはこう言いなさいと「主の祈り」を教えて下さいました。「主の祈り」をひっくり返すと、以下のような、非常に恐ろしい、悪魔的な祈りになります。

 「私の名前があがめられますように。

  私を中心とした私の国が来ますように。

  私が心の中に思い描き、願っていることが、実現しますように。 

  私は、自分の力と知恵によって、今日も糧を得よう。

  だれでも私に罪を犯すものがあるなら、決してその者を赦さないで、報復をしよう。

  わたしは自分の力で、試みと悪から自分を救い出そう。

  国と力と栄え、世界に満ちるものはすべて、わたしのものだ。」

 私はこれを「罪人の的外れな祈り」と呼んでいます。絶対にアーメンと言ってはならない祈りです。主の祈りは、その一つ一つの祈願が、このような悪へと誘う悪魔を退け、悪に打ち勝つための祈りになっています。実に主の祈りには、福音の豊かさのすべてが含まれています。主の祈りは、世界を変える祈り、終末の時代に主イエスの再臨を待ち望みつつ、福音宣教に急ぐ祈りです。ですから教会では、まず何よりも主の祈りを共に味わい、主の祈りを自分たちの祈りとしていくことを学び続ける必要があると私は考えています。

ルカ福音書の文脈を見ると、主イエスは、まず何を祈ったら良いのかを教えて下さり、そして次に、その祈りをどのように祈り求めたら良いのかを教えて下さっています。主の足もとに座って、静かに御言葉に耳を傾けたベタニヤのマリアのように、何を祈ったら良いのか、どのように祈ったら良いのかを、改めて主に教えて頂きたいと願います。

礼拝メッセージ「悪に打ち勝つ」

礼拝メッセージ「悪に打ち勝つ」

聖書箇所:ルカ福音書11:1-13

私たちを試みに会わせないで、悪からお救い下さい。マタイ福音書6章13節

主の祈りそのもの、その一つ一つの祈願が、以下のような悪へと誘う悪魔を退け、悪に打ち勝つための祈りになっています。

1、神の御名ではなく、私の名前があがめられること
2、神の御国ではなく、私の国が来ること
3、みこころではなく、私の願いが成就すること
4、「私たちの」でなく「私の」ことだけを求めること
5、赦しではなく、報復を願う憎しみに生きること
6、神により頼まず、私の力と知恵により頼むこと
7、国と力と栄えを神から奪い、私のものとすること

『あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。』1コリント10章13節

『私たちの大祭司(イエス・キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。』ヘブル4章15-16節

礼拝メッセージ「和解の福音」

礼拝メッセージ「和解の福音」

聖書箇所:ルカ福音書11:1-13

私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。マタイ18章33節

王様から6000億円を借りて、返すことができずにいた人がいました。その人は王様の前に土下座してあわれみを求めました。王様は、彼の借金のすべてを赦されました。その後、王様に赦された人は、100万円を貸していた仲間に会いましたが、すぐ返さないからといって怒り、牢屋に入れてしまいました。それを聞いた王様は怒り、赦されたのに仲間を赦さなかった人を牢屋に入れてしまいました。

大きな大きな罪を赦された人が、なぜ仲間の小さな罪を赦すことができなかったのか。その理由を考えてみましょう。

自己中心だから、自分は正しいとしか思えず、人の罪が大きく感じられ、赦すことができない。

ただあわれみによって赦されたということを理解してないから、赦すことができない。

大切なことは、神のあわれみの大きさを知り、ただあわれみによって赦されたことを心にしっかりと刻むことです。神様のあわれみの大きさを知るということは、神様に対する自分の罪の大きさを知るということです。

礼拝メッセージ「生活必需品」

礼拝メッセージ「生活必需品」

聖書箇所:ルカ福音書11:1-13

そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。ルカ福音書11章2-3節

豊かさは神の祝福です。豊かさそのものは、神からの恵みであって罪ではありません。 しかしもし豊かさを神からの恵みとして受け止めることが出来ず、感謝もなく自己中心に、自分さえよければと生きているならば、それは罪です。

食物や豊かさは神の恵みです。このことを知らなければ、どんなにお腹が満たされても、決して満ち足りることはありません。感謝もなく、さらに貪欲になり、健康ブーム等に踊らされるだけです。

自分の健康ばかり気遣い、自分のいのちのことで何を食べようか何を飲もうかと心配することしかできません。同じ地球上で、1分間に17人(うち12人が子ども)、1日に2万5千人、1年間では1000万人もの人々が、飢えで死んでいるという現実を知ろうともせず、自己中心に生き続けることしかできません。

この祈りは、すべてのものを神からの恵みとして受け止め、共に生きるための祈りです。「私の」ことだけを考える自己中心な罪人の生き方から、「私たちの」ことを考え、共に食事をする生活へと変えられる祈りです。

召天者記念礼拝メッセージ「神の心願成就」

07杉戸キリスト教会召天者記念礼拝式

召天者記念礼拝メッセージ「神の心願成就」

聖書箇所:ルカ福音書11:1-13

だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。…マタイ福音書6章9-10節

「みこころ」とは天の父なる神が願っておられること(神の心願)です。みこころが行われる所は神の国となります。ですからルカ福音書の主の祈りでは、みこころに関する祈りは省略されています。

私たちは、みこころよりも自分の願いがかなえられることを切に願っていないでしょうか?けれども、人は道なりにしか進めず、道を備えられるのは主です。主はすべてのことを御手の中で統べ治めておられます。ある時には通行止めにされ、ある時には迂回路を設けられる。そのように万事を益に変え、私たちの歩みの一歩一歩を、みこころにかなった最善の道に導いてくださっているのです。

『天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。(イザヤ55:9)』とあるとおりです。

先は見えません。恐れや不安があります。けれども大丈夫だと主は語って下さっています。なぜなら、すべてをご存知で、すべてを統べ収めておられる主イエス様が、私たちと共にいてくださり、半歩先に立って、私たちを最善の道へと導いてくださっているからです。

礼拝メッセージ「来たれ神の国」

来たれ神の国

礼拝メッセージ「来たれ神の国」

聖書箇所:ルカ福音書11:1-13

そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。ルカ福音書11章2節

キリスト者が「御国が来ますように」と祈る時、それは第一に、心の王座を主イエスに明け渡す祈りです。キリスト者であっても、イエス様以外のものを中心としてしまうことがあります。しかし、主イエスを心の中心に迎える時、そこにはすでに神の国、すなわち主イエスの愛の統治があり、喜びと平安があります。

第二にそれは、聖霊なる神を求める祈りです。祈りが応えられるまで、御霊に満たされるまで、忍耐深く祈るべきだと主は教えて下さっています。聖霊なる神こそ、この地上において、神の国がいますでにそこに来ている現実を、私たちに体験させて下さるお方です。

第三にそれは、神に背を向け続けて生きている故に、いまだ神の国の外にいる人たちのためのとりなしの祈りです。祈り、出て行って証しする働きを通して、御国の福音は全世界のすべての国民にあかしされ、それから世の終わりの日が来ます。収穫は多いのですが、働き人が少ないのです。主イエスは、神の国の働き人を今も求めておられます。

第四にそれは、いまだ到来していない神の国、すなわち再び来たり給う主イエスを待ち望む祈りです。王の王、主の主であるイエスが再臨される時、すべての争いは止み、新天新地にて神の国は完成に至ります。

礼拝メッセージ「まず祈るべきこと」

礼拝メッセージ「まず祈るべきこと」

聖書箇所:ルカ福音書11:1-13

そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。ルカ福音書11章2節

人間の心の一番深い所から、密かに頭をもたげてくる願望は、「自分の名前が、自分自身があがめられますように」という願いである。そう言っても過言ではありません。心の王座からまことの神を追い出し、代りに自分が王座に座り、自分があがめられることを求めて生きること。これこそが、聖書の語る本物の罪です。

いのち、健康、能力、仕事、結婚相手、子供、食べ物、着る者、住む所。数え上げたらきりがありませんが、どれ一つとして、神から与えられたものでないものはありません。けれども、これらすべてのものを、あたかも自分で勝ち得たかのように、神を無視し、感謝もせずに生きる者はすべて、聖書が語っている罪人です。罪人は、他人はもちろん神様でさえも、自分のために利用します。まるで自分の召使であるかのように。

主の祈りの内容は、その一番最初から、人間が自分からは決して願えない祈りです。しかし聖霊に促されて、「父よ!私の名前ではなく、あなたの御名があがめられますように!」と本気で祈るなら、人はエゴイズムから解放されて、神の栄光を現す真の人間となることが出来ます。