礼拝メッセージ「クリスマスの足音」

CHRISTMAS IN SUGITO (JAPAN)

礼拝メッセージ「クリスマスの足音」

聖書箇所:ルカ福音書1章1-38節

ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。」ルカ福音書1章20節

ルカ福音書1章には、祭司ザカリヤと彼の妻エリサベツ、御使い、そしてキリストの母とされるマリヤが登場します。エリサベツは不妊の女でしたが、全能の神によって身ごもり、バプテスマのヨハネの母とされました。ザカリヤ夫婦に子どもが与えられる経緯を通して、全能の神がどのようなお方かを知ることができます。

ザカリヤは不信仰の故に、神の言葉が出来事になるまでものが言えなくなりました。しかし神の約束の言葉は、人間の不信仰を超えて、その時が来れば実現しました。厳密な意味で私たちが信じたとおりにしかならないのなら、全能の神の素晴らしいご計画はだめになるでしょう。この世界のすべてを再創造するという神の壮大なご計画は凍結し、私たちは滅んでいくことでしょう。

しかし全能の神のことばは、人間の不信仰を超えて、時が来れば必ず出来事になるのです。「神のことば」を「出来事」と訳すことが出来る理由がここにあります。喜びと希望をもたらすクリスマスの足音は、人間の不信を超えて近づきます。そして、神を信頼して人生を明け渡すマリヤのような人を、全能の神は豊かに用いられるのです。

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MISSION TRIP TAIWAN「When Love comes to the town 愛が町に来た時」

MISSION TRIP TAIWAN「When Love comes to the town(愛が町に来た時)」

聖書箇所:ルカ福音書19章1-10節

看哪!我站在門外敲門;如果有人聽見我的聲音就開門的,我要進到他那裡去,我要跟他在一起,他也要跟我在一起吃飯。

「お金があれば何でも出来る」、「もっとお金があれば幸せになれる」。 そんなことを私たちは考えてしまうのではないでしょうか? けれども、よく考えてみると、世の中にはお金で買えないものがたくさんあることがわかります。本当の友達、本当に自分を愛してくれる人、本当に自分のことを大切にしてくれる人、健康、平安、安眠などなど…。実は本当に大切なものは、お金では買えないのです。 聖書の中にザアカイという名前の人が登場します。ザアカイは取税人のかしらで金持ちでしたが、孤独の中をひとりぼっちで生きていました。

キセル、わいろ、恐喝、詐欺。現代に生かされている私たちも、お金に関わる事件を毎日のように耳にします。また、保険金目当ての殺人なども起こっています。お金のために、人を裏切り、だまし、殺すという罪にまみれた生き方をしている人が、やはり多いように感じます。「金の切れ目が縁の切れ目」という言葉もありますが、お金目当てで利用し、利用されるだけの付き合いも多くあります。本当の友、本当に自分を受け入れてくれる人、本当に自分を愛してくれる人がいない殺伐とした中で、今も多くの人が、お金のために不幸な人生を歩んでいます。あなたはどうでしょうか?お金持ちでもそうでなくても、本当の幸せに生きる道があることをご存知でしょうか?

イエス・キリストは、あのエリコの町のザアカイの所に来て下さったように、あなたの住んでおられる町、あなたの家にも来てくださるお方です。イエス様は、あなたを捜して救うために、あなたの所に足を運んでくださるお方なのです。 なぜなら、イエス様はあなたを愛しておられるからです。いのちをかけても惜しくないというあなたへの愛を、イエス様はあの十字架の上で最高に表わしてくださいました。イエス様は私たちの罪のために、十字架でいのちを投げ出してくださいましたが、3日目に復活されて、今も生きておられるお方です。

「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」と、イエス様はおっしゃいました。人の子とはイエス様がご自分のことを指してよく使われた言葉です。天地万物を創造されたまことの神であるイエス様は、私たちの造り主です。そして私たち人間は、この造り主なる神様に背を向けて罪の道を歩み続けています。けれどもその造り主なる神、イエス様は、失われた人を捜して救うために、肉体を持った人間となって、あなたの所に来て下さったのです。イエス様がこの世に来て下さった理由は、失われたあなたを捜して救うためだったのです。

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礼拝メッセージ「求め、捜し、たたけ」

礼拝メッセージ「求め、捜し、たたけ」

聖書箇所:ルカ福音書11章1ー13節

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。ルカ福音書11章9-10節

1、みことばに基づいて聖霊を求めなさい

『してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。』ルカ11:13

2、みことばに基づいて聖霊を捜しなさい

『…神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。』1コリント12:3

『あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。』
1コリント3:16

3、みことばに基づいて天の扉をたたきなさい

真夜中に友人宅の扉をたたき続けるように、天の扉をたたくならば、天の門が大きく開かれ、どんな人にも聖霊が与えられます。朝毎にそのように祈り求めるなら、与えられた御霊に満たされ続け、御霊の実(愛)を結び、御霊の賜物を用いて互いに仕え合い、苦しんでいる友の必要に応えることができます。

礼拝メッセージ「祈りの原点」

礼拝メッセージ「祈りの原点」

聖書箇所:ルカ福音書11章1ー13節

友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ』ルカ福音書11章6節

経済格差、リストラ、いじめ、うつ、自殺、虐待、酒乱、薬物依存、ドメスティックバイオレンス(DV)、ポルノ、レイプ、中絶、離婚、殺人、高齢化、飢餓、テロ、病気、死。この世界の友は苦しんでいます。

しかし私たち教会は、自分自身を見るときに、やはり友の期待に応えることが出来ない自分の無力さを思い知らされます。私たち教会は、自分の力では期待に応えることができない、無力な存在です。

しかしここに祈りの原点があります。祈りの原点は、友の期待に応えることができない私たちの無力さにあるのです。自分の限界を覚えさせられた時、自分の無力さや愛のなさをいやというほど覚えさせられた時。私たちはその時初めて、祈らずに自分の知恵や能力に頼って何かを進めることを止め、まず神の前に跪いて御声に耳を傾け、必要を具体的に祈り求めることができるのです。

教会は他の誰よりも神に大いに期待されています。教会が世界の光、地の塩として生き、教会を通して、福音が友に宣べ伝えられるという大きな期待を持って、今も神は教会を導いておられます。そして父なる神は、私たちが友の期待に応えていくために、本気になって天の父に祈り求めることを切に願っておられます。

講壇交換礼拝メッセージ「キリストの弟子の祈り」

講壇交換礼拝メッセージ「キリストの弟子の祈り」

日本同盟基督教団・関東宣教区講壇交換メッセージ(2007年10月14日赤羽聖書教会にて)

聖書箇所:ルカ福音書11章1ー13節

説教題:「キリストの弟子の祈り」

主題:キリストの弟子が的を射た祈りをする秘訣は、キリストの御言葉に聴く祈りにある。

説教の要約:

 やみの中で的を射ようとする時、もし的を照らし出す光がなければ、どんなに努力をして的を射ようとしても、人は的を外すことしかできないでしょう。同様に、人はどんなに熱心であっても、的を指し示す証人がいなければ、的外れなことしか、罪を犯すことしかできないのです。使徒パウロもそうであったように、もし的を指し示す証人がいない(ハマルテュロス)のなら、どんなに熱心であっても、熱心にハマルティア(罪・的外れ)を犯すことしか、熱心に神の教会(主イエス)を迫害することしかできないのです。

 しかし主イエス・キリストは、真の証人として、私たちの所に降りて来て下さいました。そして、やみに覆われたこの地において、まことの光として、啓示の御言葉を与えて下さいました。そして、弟子たちのリクエストに答えて、祈る時にはこう言いなさいと「主の祈り」を教えて下さいました。「主の祈り」をひっくり返すと、以下のような、非常に恐ろしい、悪魔的な祈りになります。

 「私の名前があがめられますように。

  私を中心とした私の国が来ますように。

  私が心の中に思い描き、願っていることが、実現しますように。 

  私は、自分の力と知恵によって、今日も糧を得よう。

  だれでも私に罪を犯すものがあるなら、決してその者を赦さないで、報復をしよう。

  わたしは自分の力で、試みと悪から自分を救い出そう。

  国と力と栄え、世界に満ちるものはすべて、わたしのものだ。」

 私はこれを「罪人の的外れな祈り」と呼んでいます。絶対にアーメンと言ってはならない祈りです。主の祈りは、その一つ一つの祈願が、このような悪へと誘う悪魔を退け、悪に打ち勝つための祈りになっています。実に主の祈りには、福音の豊かさのすべてが含まれています。主の祈りは、世界を変える祈り、終末の時代に主イエスの再臨を待ち望みつつ、福音宣教に急ぐ祈りです。ですから教会では、まず何よりも主の祈りを共に味わい、主の祈りを自分たちの祈りとしていくことを学び続ける必要があると私は考えています。

ルカ福音書の文脈を見ると、主イエスは、まず何を祈ったら良いのかを教えて下さり、そして次に、その祈りをどのように祈り求めたら良いのかを教えて下さっています。主の足もとに座って、静かに御言葉に耳を傾けたベタニヤのマリアのように、何を祈ったら良いのか、どのように祈ったら良いのかを、改めて主に教えて頂きたいと願います。

礼拝メッセージ「悪に打ち勝つ」

礼拝メッセージ「悪に打ち勝つ」

聖書箇所:ルカ福音書11:1-13

私たちを試みに会わせないで、悪からお救い下さい。マタイ福音書6章13節

主の祈りそのもの、その一つ一つの祈願が、以下のような悪へと誘う悪魔を退け、悪に打ち勝つための祈りになっています。

1、神の御名ではなく、私の名前があがめられること
2、神の御国ではなく、私の国が来ること
3、みこころではなく、私の願いが成就すること
4、「私たちの」でなく「私の」ことだけを求めること
5、赦しではなく、報復を願う憎しみに生きること
6、神により頼まず、私の力と知恵により頼むこと
7、国と力と栄えを神から奪い、私のものとすること

『あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。』1コリント10章13節

『私たちの大祭司(イエス・キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。』ヘブル4章15-16節

礼拝メッセージ「和解の福音」

礼拝メッセージ「和解の福音」

聖書箇所:ルカ福音書11:1-13

私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。マタイ18章33節

王様から6000億円を借りて、返すことができずにいた人がいました。その人は王様の前に土下座してあわれみを求めました。王様は、彼の借金のすべてを赦されました。その後、王様に赦された人は、100万円を貸していた仲間に会いましたが、すぐ返さないからといって怒り、牢屋に入れてしまいました。それを聞いた王様は怒り、赦されたのに仲間を赦さなかった人を牢屋に入れてしまいました。

大きな大きな罪を赦された人が、なぜ仲間の小さな罪を赦すことができなかったのか。その理由を考えてみましょう。

自己中心だから、自分は正しいとしか思えず、人の罪が大きく感じられ、赦すことができない。

ただあわれみによって赦されたということを理解してないから、赦すことができない。

大切なことは、神のあわれみの大きさを知り、ただあわれみによって赦されたことを心にしっかりと刻むことです。神様のあわれみの大きさを知るということは、神様に対する自分の罪の大きさを知るということです。

礼拝メッセージ「生活必需品」

礼拝メッセージ「生活必需品」

聖書箇所:ルカ福音書11:1-13

そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。ルカ福音書11章2-3節

豊かさは神の祝福です。豊かさそのものは、神からの恵みであって罪ではありません。 しかしもし豊かさを神からの恵みとして受け止めることが出来ず、感謝もなく自己中心に、自分さえよければと生きているならば、それは罪です。

食物や豊かさは神の恵みです。このことを知らなければ、どんなにお腹が満たされても、決して満ち足りることはありません。感謝もなく、さらに貪欲になり、健康ブーム等に踊らされるだけです。

自分の健康ばかり気遣い、自分のいのちのことで何を食べようか何を飲もうかと心配することしかできません。同じ地球上で、1分間に17人(うち12人が子ども)、1日に2万5千人、1年間では1000万人もの人々が、飢えで死んでいるという現実を知ろうともせず、自己中心に生き続けることしかできません。

この祈りは、すべてのものを神からの恵みとして受け止め、共に生きるための祈りです。「私の」ことだけを考える自己中心な罪人の生き方から、「私たちの」ことを考え、共に食事をする生活へと変えられる祈りです。

召天者記念礼拝メッセージ「神の心願成就」

07杉戸キリスト教会召天者記念礼拝式

召天者記念礼拝メッセージ「神の心願成就」

聖書箇所:ルカ福音書11:1-13

だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。…マタイ福音書6章9-10節

「みこころ」とは天の父なる神が願っておられること(神の心願)です。みこころが行われる所は神の国となります。ですからルカ福音書の主の祈りでは、みこころに関する祈りは省略されています。

私たちは、みこころよりも自分の願いがかなえられることを切に願っていないでしょうか?けれども、人は道なりにしか進めず、道を備えられるのは主です。主はすべてのことを御手の中で統べ治めておられます。ある時には通行止めにされ、ある時には迂回路を設けられる。そのように万事を益に変え、私たちの歩みの一歩一歩を、みこころにかなった最善の道に導いてくださっているのです。

『天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。(イザヤ55:9)』とあるとおりです。

先は見えません。恐れや不安があります。けれども大丈夫だと主は語って下さっています。なぜなら、すべてをご存知で、すべてを統べ収めておられる主イエス様が、私たちと共にいてくださり、半歩先に立って、私たちを最善の道へと導いてくださっているからです。

礼拝メッセージ「来たれ神の国」

来たれ神の国

礼拝メッセージ「来たれ神の国」

聖書箇所:ルカ福音書11:1-13

そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。ルカ福音書11章2節

キリスト者が「御国が来ますように」と祈る時、それは第一に、心の王座を主イエスに明け渡す祈りです。キリスト者であっても、イエス様以外のものを中心としてしまうことがあります。しかし、主イエスを心の中心に迎える時、そこにはすでに神の国、すなわち主イエスの愛の統治があり、喜びと平安があります。

第二にそれは、聖霊なる神を求める祈りです。祈りが応えられるまで、御霊に満たされるまで、忍耐深く祈るべきだと主は教えて下さっています。聖霊なる神こそ、この地上において、神の国がいますでにそこに来ている現実を、私たちに体験させて下さるお方です。

第三にそれは、神に背を向け続けて生きている故に、いまだ神の国の外にいる人たちのためのとりなしの祈りです。祈り、出て行って証しする働きを通して、御国の福音は全世界のすべての国民にあかしされ、それから世の終わりの日が来ます。収穫は多いのですが、働き人が少ないのです。主イエスは、神の国の働き人を今も求めておられます。

第四にそれは、いまだ到来していない神の国、すなわち再び来たり給う主イエスを待ち望む祈りです。王の王、主の主であるイエスが再臨される時、すべての争いは止み、新天新地にて神の国は完成に至ります。