このページでは、私のお勧めの本を順番に紹介しています。
ぜひどれかを読まれて、感想などをメールで送って下さい。
また、皆さんのお勧めの本もぜひ紹介して下さい。
メールをお待ちしています^・^。
ティム・ラヘイ/ジェリ−・ジェンキンズ著
上野五男訳
フォレストブックス(2002年)
「とても単純なことなんです。
神はわたしたちのために簡単にしてくださったんです。
だからといって霊的な行ないは抜きにするとか、
自分に都合のいいところだけを選んでいいというわけじゃありません。
私の犯したまちがいは、それだったんですけどね。
けれども、わたしたちが真理を知ってそれに従えば、
神は決してわたしたちをお見捨てになりません。」(本文より)
この本は、
「いかさまクリスチャンには救いがない!
救いのチャンスはいつまでも続くわけではない(いつ死ぬか、いつ主が再臨なさるかわからないので)!
悔い改めてイエス・キリストの福音を信じなければ良い行いをしていても救いがない!」
という目をさますメッセージによって、悔い改めさせられる良書です。
畑村洋太郎著
講談社(2000年)
この本は、以前から教えられていることを、改めて考えさせられる本だ。
最近注目されているものは何か?それは成功学ではなく失敗学!
なぜか?(失敗学が注目されている理由)
もし失敗の経験から学ぶことをしなければ、 同じ過ちを何度でも犯し、成長がない。
けれどももし失敗から学ぼうとするならば、少なくとも同じ過ちを犯すことから守られ、成長する。
失敗から学ぶということは、なぜ失敗したのかという原因を追求し、それに対処しながら生きること。
自分の失敗から学ぶことも大切であるが、
他人の失敗から学ぶことも、とても大切。
改めて聖書に耳を傾けると、聖書は失敗学のテキストで満ちている。
創世記2章以降は、人間の失敗の連続の歴史が記されているといっても過言でない。
サタンの誘惑に負け、 善悪の知識の木の実を取って食べた(神を神としない) という大失敗。
神ではなく自分の知恵や力に頼ることによる失敗。
自分に栄光を帰したいという誘惑に負ける失敗などなど。
牧会伝道・教会形成において、時に牧師・伝道師も失敗を犯す。
あるいはキリスト者・教会の歩みにも様々な失敗がある。
しかし聖書は、決して失敗なさらない神が、私たちと共に歩んで下さっていることを語っている。
取り返しのつかない失敗を犯した者に、やり直しの機会を与えて下さる神。
失敗を益に(マイナスをプラスに)変えて下さる救い主なる神。
そのお方こそ、私たちのすべての罪過のために身代わりに十字架について下さったお方。
その御名は、主イエス・キリスト。
成功談を聞いても、慰めを受けることはほとんどないが、
失敗談には慰めとやり直すことが出来るという福音がある。
池田香代子 再話
C.ダグラス・スミス 対訳
マガジンハウス(2001年)
私たちが住んでいるこの世界には、63億人の人が住んでいる。
もしそれを100人の村に縮めるとどうなるか…。
インターネットで世界中を駆けめぐった話題のeメールが、本となって出版された。
52人が女性で、48人が男性。
30人が子どもで70人が大人(内7人がお年寄り)… 。
61人がアジア人、13人がアフリカ人、13人が南北アメリカ人、12人がヨーロッパ人、
あとは南太平洋地域の人…。
20人は栄養がじゅうぶんではなく、
1人は死にそうなほど。でも15人は太り過ぎ…。
村人のうち、1人が大学の教育を受け、
2人がコンピューターを持っている。
けれど、14人は文字が読めない。
…などなど。
世界の中の、アジアの中の日本にいる村人の1人として、
自分がいかに豊かさの中に生かされているかを覚えさせられる一冊である。
豊かさそのものは神様からの祝福であって罪ではない。
神を神とせず、神に感謝もできない生き方、
自分さえよければ他の人はどうなってもかまわないという自己中心な生き方が罪なのである。
自分のためだけに時間とお金と能力、そして他者を使うならば、
孤独とむなしさと罪責感がつきまとう。
しかし聖書には、私たち人間が自己中心、エゴから解放されて、
他者とともに、そして他者のために、
感謝をもって生きていくことができるようにされるという喜びの福音がある。
スーザン・フォワード著
玉置悟訳
毎日新聞社 (1999年)
…あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。
卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。
してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。
とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」
新約聖書 ルカの福音書11章11−13節
先日私は、メッセージを準備していて、上記の聖書のことばを読んでいた。
21世紀を迎えた現代の社会で、実際に起こっている幼児虐待などの恐ろしい暴虐のことを考えていると、
私にはこういう考えが浮かんでしょうがなかった。
子どもがおなかがすいて魚を下さいと言うとき、魚の代わりに蛇、すなわち毒を与えるような父親がいるのでは……。
卵を下さいと言うのに、さそりを、すなわち毒を与えるような親がいるのではないか……。
私はそのことを6月24日の礼拝メッセージで語った。
そしてその後、先週古本屋で、この本のタイトルが飛び込んできた!
「毒になる親」!
この衝撃的なタイトルを見て本を手に取った私は本をパラパラとめくりながら知った。
そうだ。この悲惨な世の中には子どもが食べ物を下さいと言う時、毒を与える親が現実にいるのだと。
そして毒そのものになってしまっている親がいるのだと。
家族という名の強制収容所の中で、
苦しんで苦しんで生きているぼろぼろになった方たちがたくさんいることを…。
なんとかしてその方たちにも、イエス・キリストの福音をお伝えしたい。
そうでなければ、虐待の呪縛と果てしなく続く苦しみは、世代を超えて引き継がれ続ける!
そう思わされた本がこれである。
ケン・ジョセフ シニア&ジュニア著
徳間書店
しばらく前、ある青年が私にこのようなことを尋ねた。
「日本にキリスト教が伝わったのは1549年ですよね。
じゃあそれまでイエス様のことを知らずに生きていた日本人はどうなったんでしょうかねー。」 と。
キリスト教を最初に日本に伝えたのはフランシスコ・ザビエルであって、
それは1549年(「いごよく」広まったなどど語呂合わせで私は覚えている)のことである。
これが、日本で通説とされている歴史である。
しかしこの本を読むと、「本当にそうだろうか?」という疑問とともに、その一つの答えがある。
かつてアジア大陸を横断するかたちで、シルクロードと呼ばれる道が西アジアから日本にまで伸びていた。
そのシルクロードを通して、はるばる日本の京都や奈良にまでやってきた人々によって、
日本には昔から様々な国の人々との国際交流があった。
そしてその交流の中で、文化や様々なものと一緒に、キリスト教も伝えられていた。
ザビエルよりもはるか以前から、キリスト教は日本に伝わっていて、
その文化的影響が日本に色濃く残っている。
そう考えるのに何の無理もない。
著者たちはこの本を通して、アッシリア人である自らのルーツと日本人のルーツを探っている。
彼らは日本人は単一民族ではなく、多民族国家であると結論づけている。
最近の遺伝子情報もそのことを裏付ける。
また、仏教や神道の中に見られるユニークな聖書の思想と神観、
全国に存在するキリシタン遺跡などがそれを支持している。
聖書を見ると、すべての人類、すべての民族のルーツはアダムとエバに辿り着く。
またバベルの塔によって人種がわかれていった地こそ西アジア、中近東の地域である。
そこからヨーロッパに向かっては白色人種(コーカソイド)が、
アフリカに向かっては黒色人種(二グロイド)が、
そしてアジアに向かっては黄色人種(モンゴロイド)が主に移り住んでいった。
黄色人種だけではなく、白い人たちや褐色の人たちの血も日本人には流れている。
彼らはシルクロードを通って渡来し、帰化した日本人のルーツである。
そう考えるのに何の無理もない。
日本は今、先進国の中で、唯一人殺しの武器を外国に輸出していない唯一の国である。
そして、日本人は今、世界中を訪れている。
この日本という国が、聖書が示す平和をつくる者(ピースメーカ)として、
戦争が起こる前に予防外交(PDO:Preventive Diplomacy Operations)をする国であってほしい!
私は著者らと共に、切にそう願う。
中澤啓介著
新世界訳研究会
「ものみの塔という宗教団体、
およびエホバの証人と呼ばれる人々についてどのように考えたらよいのか。」
本書は、この問題を明らかにしている。
このテーマは、日本人のすべてが知っておかなければならない。
なぜなら、日本中のどこに住んでいても、2、3週間に一度の割合で、
エホバの証人たちの訪問を受けるからである。…
前書きより引用
鈴木啓之著
雷韻出版(2000年)
ヤクザから牧師へ
ここまで赤裸々に語れるものでしょうか。
これは読者に対する懺悔です。
疲れ切った、悩みをかかえた、迷っている人々、
この本を読んでもう一度元気を取り戻して下さい。
渡瀬恒彦の推薦のことばより引用
ヘンリ・ナーウェン著
後藤敏夫訳
あめんどう(1993年)791円+税
ヘンリ・ナーウェンはかつてハーバード大学の神学部教授として活躍し、人々から賞賛を得ていた。
しかし彼は、祈りのうちにハーバード大学でのアカデミックな生活を捨て、
カナダのトロントにあるラルシュ共同体の司祭となる。
ラルシュでの生活を通して、
自らの過去が、いかに能力を誇示し、人々の歓心を集め、
権力を手にしようとする欲求に影響されていたかを知る。
すでに召されたヘンリ・ナーウェンによる、
21世紀におけるクリスチャン・リーダーシップについての豊かな洞察と指針がこの本にはある。
このWebサイトの「主の祈り」における、「私たちを試みに会わせず、悪からお救いください。」という祈りの項は、
この本の誘惑についての深い洞察を、参考にさせて頂いている。
「神学」という言葉の本来の意味は、
「祈りにおいて神と結ばれる」ということなども改めて教えられる良書である。
三浦綾子
新潮文庫(1973年)
結納のため札幌に向った鉄道職員永野信夫の乗った列車が、塩狩峠の頂上にさしかかった時、
突然客車が離れ、暴走し始めた。
声もなく恐怖に怯える乗客。
信夫は飛びつくようにハンドブレーキに手をかけた……。
明治末年、北海道旭川の塩狩峠で、自らの命を犠牲にして大勢の乗客の命を救った一青年の、
愛と信仰に貫かれた生涯を描き、
人間存在の意味を問う長編小説。
10年ほど前、この本を読んだ時から私の人生は変わった。
もしこの本を読まなかったら、私はキリスト者になっていなかったと思う。
井上良雄
新教出版社(1982年)
私には、今日の日本の教会にもっとも欠けているもの、
そして日本の教会が(自覚的ではないにしても)今日もっとも必要としているものは、
ブルームハルト的なものだと、思われてならない。
ブルームハルト父子におけるような「活ける神」への立ち返りと
素朴な信仰のリアリティの快復なしには、
日本の教会の新しい出発はないと思われてならない。
(あとがきより)
この本の中には、「イエスは勝利者だ!」という力強い叫びが響いている。
負の遺産も持ったままで21世紀を迎えようとしている今、
この本は確かな希望と勝利の道を指し示してくれている。
デボラ・キャドバリー
集英社(1998年)
この本はそのタイトルにあるように、環境ホルモンによって汚染され、
地球規模でメス化している自然の危機を訴えている。
環境ホルモンとは、環境中に存在していて女性ホルモン(エストロゲン)と同じ働きをする合成化学物質のことである。
環境ホルモンの正式な名称は「内分泌かく乱物質」であり、生物のホルモンシステムをかく乱する。
人間はもちろん、あらゆる生物は、
胎児期に環境ホルモンにさらされると、生殖健康(Reproductive Health)に致命的なダメージを受ける。
メスに性転換していく魚、メス同士で巣を作るカモメ、生殖不能になったオスのワニやヒョウ、
人間の精子数の激減や子宮内膜症の増加、新生児の性器異常などが世界各国から報告されている…。
合成エストロゲンのDESやピル、工業用科学物質のビスフェノールA、殺虫剤のDDTやDDE、
PCBやダイオキシン類などなど。
本書が書かれた時点で、70種類をこえる化学物質が環境ホルモンとして挙げられている。
科学技術や現代医学に対する警鐘を鳴らしている本書は、進化論の立場ではあるが必見である。
バラ・マカルピン宣教記念誌発刊編集委員会
つのぶえ社(1978年)
この本を読んで、最も心の内に残ったものは、
3代に亘るバラ・マカルピン宣教師の日本伝道に対する燃えるような宣教スピリットである。
とても心が燃やされ、これからの伝道者としての生き方の一つの良き見本であると受け止めた。
また、ある伝道師の先輩が私にアドバイスして下さった、
「伝道者は伝道することによってのみ、人々から尊敬を受ける」
という言葉を思い出し、改めて心に刻むことが出来た。
教会が偏見と誤解の中で信頼をかちえて、土着の人々の入信がなされていった理由は、
これらの宣教師たちが、よき信仰とよき生活の証しに生きられたと言うことに尽きると思う。
しかし、見えるものの度合いによってキリストへの信仰の軽重を量る世俗主義や天皇を主とする国家主義に、
いつしか支配された日本のキリスト教会の姿をも見ることが出来た。
その中で、異国の宣教師たちは名利を捨て、ただ主のために黙々と農山村の人々を相手に宣教の業に励んだ。
そのような宣教師たちに心を開いて、福音に接した多くの人々は、農村に根付いて教会建設の土台となった。
私は高知県で生まれ育った。
そしてこの9年間は豊橋に住み、後半4年間は名古屋の東海聖書神学塾に週3回、
名鉄と市電を乗りついで片道1時間40分かかる距離を通った。
高知、豊橋、名古屋。
いずれの土地における宣教も、この本の中に多くの紙面を割いて書かれてあった。
そして私の郷里において、かつて伝道集会に1000人の聴衆が集まり、
600名を越す教会が建てられていたという事実は、私にとって大きな励ましとなった。
現代社会は、かって宣教師たちが宣教した時代とは比べ物にならないほど、
交通機関、通信網が地球規模で整備されている。
将来どこに遣わされたとしても、マイチャーチ主義、教団主義ではない、
教団教派を超えた、世界を視野に入れた宣教をし続ける伝道生涯を歩んでいきたい。
大江健三郎 著
講談社文庫 1976年
新しい「戦前」が、重く、制禦しがたく、苦しく、
時代によって懐胎されていると告げる声が起こっている。
しかし、よく「戦後」を記憶し、それをみずからの存在のなかに生かしつづけている者のみが、
もっともよく新しい「戦前」を感知するであろう。…われわれの前には、戦後文学者と呼ばれた作家たちの、
現にこの時代にかかわりつづけながらの活動がある。
かれらに冠せられた戦後文学者という名は、およそ近代以来の、
わが国の文学的造語のうち、もっとも充実した意味内容をもつ言葉であろう。
それは、個人の恣意や、集団の政治がつくりだした言葉ではなかった。
時代そのものが、この言葉をつくったのである。戦後文学者たちは、新しい時代にむけて、その仕事をはじめた。
しかも、かれらはことごとく、ひとつの終末観的ヴィジョン・黙示録的認識を、
その存在の核心においているように感じられる。
それはいま、新しい「戦前」の凶々しいものをはらんだ微光に照して、その全体が、
かならずしもくっきりと浮びあがるというのではないが、
しかしそれがそこに実在することは、疑いようがないと思える。
それらの存在の芯をつらぬくようにして、僕は、同時代としての「戦後」をとらえなおすことをしたい。
われわれの時代を明日にむけて新しくとらえることをしたい。
(前書きより)
この本では、以下のような戦後文学者の生き様が論じられている。
野間宏、大岡昇平、埴谷雄高、武田泰淳、堀田善衛、木下順二、
椎名麟三、長谷川四郎、島尾敏雄、森有正…。
大江氏はこれらの戦後文学者の仕事を見つめることにより、
同時代としての「戦後」をとらえなおすこと、
われわれの時代を明日にむけて新しくとらえることを試みている。
彼らが身をもって味わったことは、
「人間の歴史において<戦後>は常に<戦前>でしか有り得なかった。」
という事実であった。
この本は大江健三郎氏によって、24年前に出版されている。
しかし今日においてこそ、その深い洞察にもとづく警鐘が聞かれなければならないと私は思う。
(なお、朝日新聞沖縄WEBページには、大江氏の30年ぶりの沖縄ノート、「沖縄の魂から」が記載されている
http://www.asahi.com/paper/okinawa/ )
リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー
永井清彦 訳
岩波書店 1986年
…問題は過去を克服することではありません。
さようなことができるわけはありません。
後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。
しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。
非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、
またそうした危険に陥りやすいのです。ユダヤ民族は今も心に刻み、
これからも常に心に刻みつづけるでありましょう。
われわれは人間として心からの和解を求めております。まさしくこのためにこそ、心に刻むことなしに和解はありえない、という一事を理解せねばならぬのです。
何百万人もの死を心に刻むことは世界のユダヤ人一人一人の内面の一部なのでありますが、
これはあのような恐怖を人びとが忘れることはできない、というだけの理由からではありません。
心に刻むというのはユダヤの信仰の本質だからでもあるのです。 …
(本文より)
ドイツの敗戦40周年にあたる1985年の5月8日、
ドイツ連邦共和国のリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領は、
連邦会議で「荒れ野の40年」という演説を行なった。
このブックレットには、その全文が紹介されている。
日本がアジア諸国と和解をしていくために必要なこと。
また、全世界の民族が、互いに和解をしていくために必要なことが、この演説の中にある。
信州夏期講座 編
いのちのことば社 1999年
もくじ
はじめに 小寺肇
沖縄から日本の宣教史を再考する 渡辺信夫
沖縄から… 島田善次
アジア的視点・世界的視点から見た日本 油井義昭
沖縄問題とは何か 登家勝也
沖縄の人たちは、よく知っている。
今なお教育改革という名のもとに、国家が知らず知らずのうちに実施している教育は、
皇民化教育、つまり天皇のために死ぬ国民を育てる教育であることを。
そこにはいつも日の丸と君が代があることを。
沖縄の人たちは、よく知っている。
天皇制こそ無責任な日本人の原点であることを。
沖縄の人たちは、よく知っている。
「愛国心」という言葉がペテンの言葉であることを。
沖縄の人たちは、よく知っている。
「国家・公あっての個人」ではなく、「個人あっての国家・公」であることを。
沖縄の人たちは、よく知っている。
「民族」はエゴであることを。
沖縄の人たちは、よく知っている。
平和憲法が空洞化していることを。
沖縄の人たちは、よく知っている。
天皇制とは死であり、戦争の地獄であることを。
沖縄の人たちは、よく知っている。
天皇元首化と靖国神社こそ、死のためのイデオロギーであることを。
沖縄の人たちは、よく知っている。
私たちの政治的無知、現実放棄が全体主義国家を生み出していることを。
沖縄の人たちは、よく知っている。
天皇制に歯が立たない神学ではだめだということを。
リック・ウォレン 著
河野勇一 訳編
いのちのことば社 1998年
この本の原題は「目的によって導かれる教会」というような意味である。
すべての教会は、何らかの力によって主導されている(ドライブされている)。
伝統に主導される教会、個人に主導される教会、財政に主導される教会、
プログラムに主導される教会、建物に主導される教会、行事に主導される教会、
求道者に主導される教会などなど…。
この本は聖書的な教会のモデルとして、
新約聖書が示す5つの目的によって主導される教会を提示している。
じっくり読めば、 聖書的でバランスのとれた、組織的な教会成長論が提示されている。
教会はバランスのとれた健康状態であれば、自ずから成長する主のからだである。
岡崎照男 訳
立風書房 1981年
もくじより
パパラギのからだをおおう腰布とむしろについて
石の箱、石の割れ目、石の島、そしてその中に何があるかについて
丸い金属と重たい紙について
たくさんのものがパパラギを貧しくしている
パパラギにはひまはない
パパラギが神さまを貧しくした
大いなる心は機械よりも強い…
パパラギとは「白人」のこと、「見知らぬ人」のこと、言葉どうりに訳せば「天を破って現れた人」だそうです。
皮膚の色こそ違いますが、私たち日本人の心の中やライフスタイルはまさにパパラギだと痛感します。
サン・テグジュペリ 作
内藤濯 訳
岩波少年文庫2010
岩波書店 1953年
ある日、サハラ砂漠のまん中に不時着した飛行士が、ふしぎな子どもに出会いました。(裏表紙のことばより)
”ほんとうのこと”しか知りたがらない男の子、
それが「星の王子さま」でした。
子どもの心や愛について深く考えさせられる、美しい本です。
「さっきの秘密をいおうかね。なに、なんでもないことだよ。
心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。
かんじんなことは、目に見えないんだよ」
(キツネのことばより)
マックス・ルケード 著
セルジオ・マルティネス 絵
ホーバード・豊子 訳
いのちのことば社・フォレストブックス 1998年
ウイミックスと呼ばれる木の小人たちは毎日同じことばかりしていた。
ほかの小人に、金の星のシールか、灰色のだめじるしシールをはること。
なめらかな木でできて絵の具もきれいにぬられたかわいい小人たちはいつでも星がもらえた。
才能のある小人たちもそうだ。
でも、あんまりいろいろなことができない小人や絵の具がはげている小人たちには
みにくい灰色のだめじるしシールがはられてしまった。
パンチネロは、そんな小人のひとりだった。
彫刻家エリは、パンチネロに彼がどんなに大切な存在か
−ほかのウイミックスたちが彼をどんなにけなそうとも−
を悟らせようとする。
(裏表紙のことばより)
私たちは子どもの頃から、絶えず強いプレッシャーを受け続けて生きています。
それは次のような、福音ではないメッセージです。
「あなたが価値ある大切な存在であるためには、
何か能力や特技がなければならない。
美しくなければならない。
成功しなければならない。 …」
そのためには、目に見える結果を出すために必死に努力し、
自分が価値ある存在だということを、自分で証明しなければなりません。
けれども、本当にそうなんでしょうか?
能力がなければ、何かが出来なければ、成功しなければ、
人間は存在価値がないのでしょうか?
たいせつな存在ではないのでしょうか?
この絵本の中には、素晴らしいタッチの絵とともに、
すべての人に対する素晴らしい福音のメッセージが、
込められています。
村上龍 著
文芸春秋 2000年7月20日 第一刷発行
『希望の国のエクソダス』オフィシャルサイト
http://www.ryu-exodus.com/
エクソダスという言葉は、旧約聖書の中に収められているエジプト脱出を描いた出エジプト記の英語名ですが、
この本では「絶望の国日本から希望の国への脱出」という意味で使われています。
この本は現代日本社会の現実を、巧みに描ききった近未来小説だと思います。
著者はコミュニケーション、信用・信頼がますます失われていく中で、
教育・メディア・金融・経済・ITにおける問題点を目の前に浮き彫りにし、
信頼の創造、教育改革、日本再生を本気で考えています。
一人でも多くの方が、この本を読むことをきっかけにして、
聖書の中に約束されている本当の希望の国を、見出していただけたらと私は切に願います。
イエス・キリストが、死の恐れ・罪・欲望の奴隷となって絶望の中を歩んでおられる方々の希望の光となりますように。
越定男 著(元関東軍第七三一部隊第三部本部付運輸班員)
教育史料出版会 1983年8月15日 第1刷発行
…今まで戦後の三十数年は、沈黙を至上のことと考えてきたが、今や私は語らねばならないと思う。
なぜなら、三十数年を経た今日でも、未だこの世に戦争の起きる危険性が存在し、
時にそのカマ首をもたげようとしている。
そしてひとたび戦争が起これば、またあの忌しき七三一の亡霊が眠りをさますかもしれないからである。
歴史の空白を埋める作業こそが二度と戦争をおこさない道につながることだと信じる。
…もう「日の丸」のうたを歌わないために、私は、これから、ありのままを話したい。(序 私はもう「日の丸」のうたを歌わない より)
この本は2日前、古本屋で見つけて来て読んだ本です。
戦時下の日本が、日の丸・君が代のもとに、どれほどの暴虐を行ったのかが、
生き証人としての著者たちによって書き記されています。
この本には、日本人が同じ人間をマルタと呼び、
まるでマウスやモルモットのように、おぞましい生体実験のための材料とした過去が記されています。
著者はマルタと呼ばれる中国人やロシア人たちにとって、
まさに死への強制連行人として生きたことを証言しています。
ハルピン付近で密かに行動した七三一部隊によって、
ペスト米、ペストのみをはじめとする細菌兵器の実験台として、
また、ガス実験の標本として、生きたまま解剖され、
多くの人間が生き地獄の中で殺されていった事実が記されています。
それらはすべて、子どもの頃から教育によって植え付けられた、
日本民族優越感に基ずく愛国心によるものだと著者は記しています。
もし今、再びかつてのように、日の丸・君が代と教育勅語をもって教育改革が行われたならば、
人命を軽視する心の教育が、日本政府によってなされることは間違いないでしょう。
かつてもそうでしたが、その魔の手は今も教育現場から始まろうとしています。
末包敏夫 編
日本YMCA同盟出版部 1983年6月10日 第1刷発行
…とくに、日支事変以来のことであるが、
国家が、キリスト教の神観と、キリスト教倫理の超民族的超国家的性格を問題とし、
キリスト教に対する思想的、あるいは直接的弾圧がはげしかった。
日本のキリスト教界は、純なる愛国的動機からそのような態度に出たのであろうが、
いかにして国家の要望するものに応じうるかを発見するのに腐心し、
いわゆる、日本的キリスト教の樹立への神学的探求労作が行われてきたのである。これはキリスト教信仰の最後的のものを断固として守りぬくとともに、
心の向かうところは、なんとかして、国家の要求と相一致する領域を見出したいとの願いをもち、
主張すべきものを明確に主張するというよりも、第一の関心はどこまでも主張せずに置いて、
国家の要求に応じうるかということを発見するにあった。このように、われわれの当然主張すべきものを、明確に主張しなかったことは、
たとえ事態の真相を知らされていなかったためとはいいながら、
今や、痛烈に、神の前に責任を問われることになった。
もしも日本のキリスト教徒が、終戦後の今日のような考えに、戦時中も、
断固として立ち、わが身を犠牲の祭壇にささぐる覚悟をもって、
戦争反対と、世界平和のために行動していたならば、あるいは、
広島数十万の人々が、死し、また傷つかずに済んだかもしれぬと思い、
深い責任を感ぜざるをえない。…(広島キリスト教会牧師 木村文太郎師の寄稿文「つぐないの道」より引用)
安載禎 編著
韓国教会元老牧師手記編纂委員会 2000年4月15日 第一刷
発売 プレイズ出版
本書は私たちに加害者としての自覚と、同じ日本民族としての深刻な認罪の思いに目覚めさせ、
悔い改めと執り成しの祭壇に跪かしめるでしょう(エズラ・ネヘミヤ・ダニエル書の各9章参照)。
このことは日本の全国的リバイバルに先行しなければなりません。…日本の多くの牧師・信徒の方々が本書をお読み下さることにより、悔い改め運動が拡散し、
リバイバルの障害が取り除かれ(歴代誌下7:14) 、愛する祖国日本の福音化に大きく道が開かれて、
一日も早く全国の津々浦々にリバイバルの慈雨が降り注がれるようになることを確信し、
隣国より切にお祈り致しております。(ソウル日本人教会牧師 吉田耕三師の推薦のことばより引用)
Working the Angles
The Shape of Pastoral Integrity
E・H・ピーターソン 著
越川弘英 訳
日本基督教団出版局
本書は、牧師の本来的な働きとは「聞くこと」であり、(裏表紙のことばより)
また「神が聖書において、祈りにおいて、そして隣人たちにおいて語る時、
人々がその御言葉を聞きとる援助をすること」であると定義することによって、
牧師の召命を教会運営という宗教的事業経営のごときものに矮小化しようとする
強い圧力に対する解毒剤を提供する。
この本は、「牧会とは何か?」、 「牧師の最優先すべき働きとは何か?」
といった問いを投げかけている。
それらの問いを通して、 牧師のアイデンティティが再確認される。
この本の原題は「角度を調節する」である。
著者は牧会における大切な3つの行為として
「祈ること」、「聖書を読むこと」、そして「霊的導き」を挙げる。
それら3つを三角形の「角」と考え、 牧会の働きを三角形のモデルで提示している。
そのモデルによると、
牧会とは、「祈り」「聖書」「霊的導き」という三つの角度を調節することによって、
三角形、すなわち牧会のかたちを形成することである。
その際、三角形の3つの辺を、目に見える牧師の働きと考えている。
目に見える牧師の働きとは、説教、教育、事務的働きである。
三つの角度は目に見えてこないが、実は非常に大切な土台である。
私はまだ伝道師であり、教会の牧会を任されているわけではないが、
将来のために非常に学ばされる一冊である。
The Gospel of Jesus Christ(Shinri Nomachiのホームページ)へ
メールで感想、意見、質問などお寄せください。
野町 真理