NEW! 2001年 6月24日 主日礼拝式メッセージ
(野町 真理)

キリストの弟子の祈り@
「父よ!」

虹

聖書個所:ルカ11章1−13節

11:1 さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」
11:2 そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。
11:3 私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。
11:4 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。』」
11:5 また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。
11:6 友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。
11:7 すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』
11:8 あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。
11:9 わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
11:10 だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
11:11 あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。
11:12 卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。
11:13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」

主題:私たちが「父よ!」と祈ることの出来る理由は、主イエスが命じて下さっているからである。

導入:聴く祈りを通して知ることの出来る、キリストの弟子の祈り

 前回私は、「人生の中でどうしても必要なこと」と題して、ルカ10章の最後の部分からメッセージさせて頂きました。ベタニヤ村のマルタとマリヤの家に、主イエス様が招かれた時のエピソードを通して、人生の中でどうしても必要なことは、主の足もとに座って聴く祈りである、ということを教えられました。ちょうどガリラヤ湖が、流れてくる川の流れをいつも受け続けているように、私たちが、いのちのことばである主イエス様の声に耳を傾け続けることが、感謝と喜びにあふれて生きる秘訣であることを教えられたのです。

 さて今日は、その後に語られているみことばに、続けて耳を傾けていきたいと思っています。今日の箇所では、キリストの弟子の祈りについて、主イエス様ご自身が語られています。キリストの弟子、クリスチャンが何をどのように祈ったらいいのか。それは主イエスに聴く祈りを通してのみ知ることが出来るのです。キリストの弟子の祈り。それは、「主の祈り」と呼ばれている素晴らしい祈りです。

 キリスト教会には、主イエス様から受け取った、この「主の祈り」という素晴らしい祈りがあります。これは、「世界で最も素晴らしい祈り」、あるいは「世界を包む祈り」などど言われています。この「主の祈り」は、主イエス様御自身が、この地上での十字架に向かう苦難の歩みにおいて、生涯祈り続けておられた祈りです。主イエス・キリストは私たちの罪のために十字架につけられ、死んで葬られましたが、三日目に死人の内からよみがえられ、天にのぼり、今は全能の父なる神の右に座しておられます。今も、主イエス様は、父なる神の右において、私たちのためにこの「主の祈り」を祈って下さっていると私は確信しています。

 主イエス様はその言葉と生き様を通して、私たちに父なる神の大きな愛を明らかにして下さいました。この神の大きな愛を知った全世界のキリスト者は、時間と空間を越えて、イエス様と一緒に2000年間、全世界で「主の祈り」を祈り続けています。

 「主の祈り」はマタイの福音書とルカの福音書の中に記されています。以前私は、祈祷会や東田チャペルの水曜礼拝において、マタイの福音書の方から「主の祈り」について語らせていただきました。これからしばらく、私が住吉チャペルでメッセージさせて頂く時には、ルカの福音書の主の祈りに耳を傾けて、ご一緒に考え、深い恵みを味わいたいと思っています。

 11章の1節から2節を見てください。

本論1:主が祈る姿を見て祈りへの渇きを覚えた弟子たち−「主よ。私たちにも祈りを教えて下さい!」

11:1 さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。
「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」
11:2 そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。…

 イエス様が、ある所で祈っておられました。聖書を見ると、よくイエス様が祈っておられたということを知ることが出来ますが、今日の聖書の箇所でも、そのことを知ることが出来ます。主イエスが、ある所で、祈っておられました。ここでは、「さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、…」とだけ書かれています。この福音書を書いたルカは、イエス様がどんなふうに祈っておられたのか、そのことについては、まったく触れていません。けれども、ちょっと皆さん、想像してみてください。どんなふうにイエス様は、祈っておられたのでしょうか?

 そのイエス様の祈っておられる姿をじっと見ていた弟子のひとりが、祈り終わったイエス様に、「わたしたちにも祈りを教えてください!」とお願いしたぐらいですから、おそらく、本当に父なる神様との生き生きとした、素晴らしい交わりをしておられたのではないかと私は想像します。

 私は祈っている時、本当にこの祈りは神様に届いているんだろうか、と思ってしまうことがあります。祈りを独り言のように感じてしまう時があるのです。けれども、イエス様の祈りは、独り言のような祈りではなく、生き生きとした祈りだったと思います。天の窓が開いて、祈りの一つ一つが、確かに天に届いている!そのような手応えのある主イエスの祈りを、弟子たちは肌で感じることができたのでしょう。それ故に、弟子たちは、私たちもあのイエス様のような祈りをしたい!という願いが湧き上がってきて、それが「主よ。わたしたちにも祈りを教えてください!」という言葉になったのだと思います。

 さて、主イエス様は、この弟子の願いに答えて、「祈るときには、こう言いなさい。…」と、祈りを教えて下さいました。弟子たちは、イエス様に聴くことによって、何をどう祈ったらいいのかを知ることができたのです。今日の私たちも同じです。聖書に書き記された神のことば、主イエス様に聴く祈りによって、何をどう祈ったらいいのかを知ることができるのです。

 主イエス様が教えて下さった「主の祈り」を、通して、主イエス・キリストの弟子が、つまり私たちキリスト者が何をどう祈るべきか、そのことを改めて心に刻んでいきたいと思います。

本論2:祈るときには、こう言いなさい。「父よ!」

そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。 『父よ!

 先週父の日がありましたが、イエス様はここで弟子たちに、祈る時にはまず「父よ!」と呼びかけなさいと教えて下さいました。祈りにおいて「父よ!」と呼びかけるお方が、どのような父なのか、そのこともイエス様は教えて下さいました。すこし飛びますが、11節から13節を見て下さい。

11:11 あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。
11:12 卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。
11:13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」

天の父と地上の父の大きな違い

 ここでは、私たちが「父よ!」と呼びかけるべきお方が、天の父として紹介されています。このお方は地上の人間としての父ではなく、無条件の愛に満ちた、天におられる、すべてのものの造り主、私たちの造り主なる父なのです。

 私たちの地上の父は、神様ではないですから愛において完全ではありません。どんなに立派なお父さんでも、弱さや欠けがあります。地上の父は、自分の期待に応えてくれる者、つまり自分にとってかわいいものだけを愛するということが、どうしてもあります。ですから、2人以上子どもがいたら、その子どもたちを同じように愛することは、地上の父にとって、とても難しいことなのです。
 しかし天の父は、すべての人をえこひいきすることなく、全く同じように、等しく愛を注いでおられるお方である。聖書はそう語っています。「天の父は悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるお方である」 とイエス様は仰いましたし、パウロも「神にはえこひいきなどはないからです。」と書いていますから。

 また、地上の父にとって、親の期待に応えない者、親のいうことを聞かない者を愛することは非常に難しいのです。ですからあなたが父という言葉を聞いてイメージするお方は、一生懸命頑張って、親の期待に応えないと愛してくれない父、何か父親の気に入るパフォーマンスをしないと、愛してくれない父であるかもしれません。
 しかし天の父は、一生懸命頑張って、親の期待に応えないと愛してくれない父ではありません。何か父親の気に入るパフォーマンスをしないと、愛してくれない父でもありません。天の父は、無条件に、あなたを愛しておられる。聖書はそう語っています。ですから私たちキリスト者は、神や人に愛されるためにパフォーマンスをするのではありません。神がまず私たちを愛してくださった故に、自分のためではなく、神と人のためにパフォーマンスをすることのできる者に変えられるのです。父なる神の愛を土台として人生を歩み始める時、すべての人は、自分のために必死になってパフォーマンスすることから解放されるのです。

 また、世の中には、暴力的な父、無責任な父、あるいは怠惰な父がいることも確かです。ですからあなたが父という言葉を聞いてイメージするお方は、もしかしたら、暴力的な父、無責任な父、あるいは怠惰な父といった、尊敬することが非常に難しい父のイメージであるかもしれません。
 しかし天の父は、理由もなく突然暴力を振るったりするような恐ろしい父では絶対ありません。天の父は、無責任どころか、最後まで責任をとって面倒をみてくださる父です。天の父は、怠惰どころか、まどろむこともなく、眠ることなく私たちのことを見守っていて下さり、守っていてくださるお方であると聖書は語っています。

父なき世界のように見える現代社会の恐ろしい現実-人命軽視

 もう一度、11節、12節を見て下さい。イエス様は、こう言われています。

11:11 あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。
11:12 卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。

 けれども、21世紀を迎えた現代の社会で実際に起こっている恐ろしい現実を見ると、子どもがおなかがすいて魚を下さいと言うとき、魚の代わりに蛇、すなわち毒を与えるような父親がいるように私は思えてなりません。卵を下さいと言うのに、さそりを、すなわち毒を与えるような親がいるように思えてならないのです。

 毎日のように、悲惨なニュースが私たちの目と耳に飛び込んできます。人のいのちや人格があまりにも軽んじられています。その中で多くの人々が、痛みや悲しみ、不安や恐れ、憎しみ、怒りの中で生きています。

 私たち日本人が無意識に使ってしまう表現に、「子どもをつくる」という表現があります。 けれども決して、子どもは両親によってつくられるわけではありません。 世の中には、子どもを切に願っていても与えられない方がたくさんいます。子どもは親がつくろうと思ってつくれるものではないのです。 このことを真剣に理解しないと、子どもをまるで自分の所有物のように思ってしまったり、「あなたは望んでいなかったのに、避妊に失敗して、中絶もしなかったから生れてきたのよ!」 というような言葉を、平気で自分の子どもに浴びせ掛ける、鬼のような親になりかねません!

 あまり知られてはいませんが、人工妊娠中絶によって闇に葬られている小さないのちは、日本で年間100万あるいは、300万ともいわれています。3人の赤ちゃんが母の胎に宿ったら、そのうち1人しか生まれ出でることが出来ないのです!産ぶ声をあげることもなく、1日に数千の割合で、赤ちゃんが闇に葬り去られています。出生前DNA検査がこれに拍車をかけています。「お母さんぼくを殺さないで!」…声なき声をあげて小さないのちは泣き叫んでいます…。法律では罰せられませんが、確かに、人命軽視と殺人の罪はここから始まっています。

 天地の造り主であり、全能の父なる神様だけが、子どもをつくることができます。そして、あなたがこの世に生れてきて今生かされているということは、決して偶然でも、両親の意思によることでもありません。あなたは、私たちの天の父なる神様が望まれた故に、愛されるために生れて来たのです。

 いのちはもちろんですが、性・セックスを与えてくださったのも、私たちの天のお父さんです。 そして、私たちの天の父は、性を2つの目的のために与えてくださいました。 それは、「結婚関係の中で喜び楽しむため」、そして「子どもを預ける手段」です。 性はいのちと深く関わっていて、全人格的なものです。性を結婚関係以外で用いることは、罪であると聖書ははっきり語っています。 なぜなら、不倫、婚前交渉、援助交際、フリーセックスは、自分と自分の家族だけでなく、相手とその家族までも確実に不幸にするからです。結婚関係以外での性を用いることは、信頼を破壊する道であり、無責任な生き方しか出来ない道です。

成人した世界にもおられる父なる神

 この世界は、「成人した世界」であると、ボンヘッファーという神学者は言いました。その意味は、人間が神なしで生きていけると思い違いをして、父なる神なしでうまくやっていこうとし、神なしでひとり立ちした世界、そういう意味でボンヘッファーは成人した世界であるということを言いました。

 人間が父なる神から離れて、神なしで歩み始めた時、成人したはずの世界に生じたもの、それはまさに未熟さでした。父親が、母親が、自分の子どものいのちさえ軽んじ、子どもを育てることも出来ない未熟さであります。自分さえよければいいとして、自分のことしか考えることができず、他人の痛みや気持ちがまったく理解できない未熟さであります。神なしで歩んでいる故に生じるそれらの未熟さは、今も、いのちを軽んじ、いとも簡単に他人の命を奪ってしまう悲惨へと人間を追い立てているのです。まさに、罪から来る報酬は死であります。

(大阪の小学校で起こった悲惨な小学生殺害事件などを知らされた時などに祈らずにはおれないこと)

 天の父なる神よ!あなたは私たちが苦しむ時、どこにおられるのですか?

…わたしはどこか遠くにいる神ではない。あなたが苦しむ時、そこにいて、あなた以上に苦しんでいるのだ。

 なぜ、あなたはその全能の御手をもって、暴虐を止められないのですか?

…もしあなたに苦しみや痛み、なやみやむなしさがなければ、あなたはわたしに叫ぶこともなく、わたしに背を向けつづけて、永遠の滅びへとさまよい続けることを、わたしはよく知っているからだ。けれども、どの苦しみも悲惨も、まずわたし自身を通って、私を刺し貫き、それから後、あなたの所に向かうのだ!

 聖書は、世界を包む御手を持って、苦しみ痛んでおられる父なる神が、確かにおられることを語っています。 この世界は、父なき世界に見えますが、そうではありません。あなたが苦しむ時、孤独と絶望に打ちひしがれる時、捨て鉢になろうとする時、天の父はそこにおられ、腸がわななくほどの痛みを味わっておられます。そして、あなたが天の父を呼ぶずっと前から、天の父はあなたを呼んでおられます。そして天の父は、私たちの呼びかけるのを聴いていてくださるのです。

 そのことを身をもって示し、明らかにして下さったのが、主イエス・キリストです。まさにすべての苦しみと悲惨が、十字架の上のイエス様を刺し貫きました。実にキリストは、あなたの罪のために、十字架の上で、両手両足とわき腹を刺し貫かれたのです。

 イエス・キリストはあなたを愛するために造り、あなたにご自分のいのちを与え、永遠のいのちの中にあなたを生かそうとしておられるお方です。もしあなたが、このイエス様のことを受け入れて、「父よ!」と神を呼び求める歩みを始められるなら、次のような約束があります。

『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、
あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』
エレミヤ書 33章3節

祈り

主イエス・キリストの父なる神様!
私たちは、あなたなしで自己中心に生きることを選び、死と永遠の滅びへと向かっていました。
しかし主よ。あなたは私たちのために御子イエス様を遣わし、
その大きな愛を十字架によってあらわして下さったことを、心から感謝します。
この世の中は、今もあなたなしで、神なしで生きていけると勘違いをしています。
それゆえに、毎日、悲惨な事件が起こりつづけています。
どうか主よ、新しく始まった一週間、私たちがあなたを父よ!と呼びながら、
イエス様の祈りにあわせて、私たちもこの主の祈りを祈ることを通して、
まだあなたの愛を知らずに滅びに向かっているこの世界と多くの人々のためにとりなすことができますように。
それぞれの遣わされる所において、世の光として輝くことができますように。
地の塩として、腐敗を防ぐことができますように。
祝福の基として、他者のために生きる存在とさせて下さい。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。


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野町 真理

このページの写真は玉田一志さんの作品です。