#author("2019-05-15T23:58:45+09:00","","") [[welcome]] *ダビデの賛歌 [#p4ac02ea] >主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。 あなたが私とともにおられますから。 あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。 私の杯は、あふれています。 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。 私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。 (旧約聖書詩篇23篇) 「主」とは、私たち人間一人一人と、本当に親しい関係をもって、 どんなときも共に歩んでくださる神様の名前です。 かつて羊飼いであったダビデは、神様をよく「主」と呼んでいます。 そしてダビデは、「主は私の羊飼いです」という書き出しで始まる素敵な詩を書き残しています。 キリスト者が「われらの主、イエス・キリストを信ず」と告白する時、 それは、「イエス様は私たちの良い羊飼いなんです」と告白しているのです。 主という言葉の持つ響きは、羊飼いというイメージととてもよく重なります。 羊飼いはいつもひつじの傍にいて、一匹一匹のひつじを気にかけています。 羊飼いは一匹一匹のひつじの名前を呼んで、 群れを緑の牧場やいこいの水のほとりに導いて下さるのです。 狼が襲ってきたりした時、羊飼いはいのちがけでひつじを危険から守ってくれます。 100匹のひつじを飼っていて、そのうちの一匹でも迷い出たなら、 羊飼いは見つかるまで必死になって、失われたひつじを捜し出して下さるのです。 聖書は人間をよくひつじにたとえています。 そしてイエス様は、ご自分のことを、次のように自己紹介して下さいました。 >…わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。 (ヨハネの福音書10章10−11節) *神は霊であって、唯一全能の主である。 [#f1cdbe84] 旧約聖書の中に啓示された主なる神(YHWH) 新改訳聖書において太字で主と表記されている所にはすべて、神の御名(YHWH)が記されている。 ここで主なる神(YHWH)とはどのようなお方であるのかを考えるために、出エジプト記3章14節に着目したい。 >3:14 神はモーセに仰せられた。 「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。 「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。 『わたしはあるという方が、 私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」 出エジプト記3章14節 出エジプト記3章14節には、エヘイエーという動詞が2回使われている。実はこの動詞は、主と表記されている神の御名(YHWH)と同じ語根の言葉である。このエヘイエーという言葉の意味について、浅井導は以下のような考察をしている。 >『この「エヘイエー」という動詞は、「ハヤー」という動詞の未完了態(imperfect)、第一人称単数の形です。「ハヤー」は英語のBe動詞にあたる、「ある」という意味の動詞ですが、実は、へブル語では、「…である」という現在時制の意味で、この動詞が使われることはありません。もし、現在時制での「存在」の意味で、「わたしがそこにいる(存在する)」ということが言いたいのであれば、「アニー(わたし)・シャム(そこ)」というように、動詞を使わないで表現します。そうすると、まず注意しなくてはならないのは、この個所で、聖書は決して、この動詞(ハヤー)を使って、「わたしはある」、つまり「わたしは存在する」というような、ギリシャの形而上学的、あるいは存在論的な意味で、「神が存在する」という提示を行っているのではないということです。…日本語だけでなく、ほとんどの言語でも、これを「わたしはある」と訳していますが、正確には正しくなく、また誤解を招き易いようです。』浅井 導『神のかたちに−聖書が語るあなたとは』(キリスト新聞社,1993年),pp.160−161。 ここで浅井は、エヘイエーという動詞は、「わたしは存在する」というような静的な意味の言葉ではないとし、「わたしはあろうとする」というような動的な意味を持つ言葉であると結論付けている。そして、出エジプト記3章14節の主の語りかけを「わたしは、『わたしはあろうとする(エヘイエー)』者である。」と訳している。 一般的に、へブル語は動的な言語だと言われ、ギリシャ語は静的な言語だと言われるが、浅井の上述のような考察は、そのような考えを裏付けるような内容となっている。 旧約聖書の中に啓示された主なる神とは、永遠に存在しておられるお方であるが、ただ永遠に自存しておられるお方というイメージを超えて、「なろうとするものに何でもなれる全能の神」であると言える。 そしてこのお方が、私たちのために、肉体を持った人間の幼子となって降りて来て下さり、私たちの間に住まわれ、その愛を余すところなく示して下さったことを覚え、深く感謝を捧げる。 新約聖書の中に啓示された主なる神(エゴー・エイミ) ヨハネ福音書の中には、イエス・キリストが、エゴー・エイミという言葉を7回用いて、ご自分のことを紹介して下さったことが記されている。その内容は以下の通りであるが、それぞれの言葉が主イエスの口から語られた言葉として記されている。 -1、わたしは、いのちのパンです(ヨハネ6:48)。 -2、わたしは、世の光です(ヨハネ9:5)。 -3、わたしは、門です(ヨハネ10:7、9)。 -4、わたしは、よい牧者です(ヨハネ10:11)。 -5、わたしは、よみがえりです、いのちです(ヨハネ11:25)。 -6、わたしは、道、真理、いのちです。(ヨハネ14:6) -7、わたしは、まことのぶどうの木です(ヨハネ15:1、5)。 エゴー・エイミという言葉は、「わたしはある」のギリシャ語訳である。故にここで主イエスは、ご自分が旧約聖書に啓示された主なる神(YHWH)であることを宣言しておられることになる。 いのちのパン、世の光、門、よい牧者、よみがえり・いのち、道・真理・いのち、そしてまことのぶどうの木。これらはすべて、私たち人間にとってなくてはならないもの、必要不可欠のものばかりである。 さらに7という数字は完全数であるので、主イエスが7回エゴー・エイミと語られたということは、「わたしはあなたがたの必要に応じて何にでもなれる全能の神(YHWH)である!」という驚くべき主なる神宣言と言える。実に主イエスは、私たちの必要に応じて、何にでもなれる唯一全能の神ご自身として、ご自身を啓示されたお方である。 (野町)