四章において、『神の痛みの神学』が日本的思惟に影響される理由は、キリスト中心的に神学を試みないことによることが明らかになった。従って本章では『神の痛みの神学』をキリスト論的に試みる。
キリスト中心的に神観を受けとめていく最も適切な方法は、まず新約聖書におけるイエス・キリストについての証言に耳を傾けることであると考えられる。それは、祈りつつイエス・キリストの言動に対して用いられている言葉に聞き、文脈の中で、イエス・キリストがどのようなお方であるかということを思い巡らすことである。
ここで、新約聖書に用いられている「スプランクニゾマイ」というギリシア語の動詞に注目したい。この語は共観福音書において、12回だけ用いられている。しかも、いずれもイエス・キリストの心の動きに対してだけ用いられている言葉で、決して人に対しては用いられていない。
新改訳聖書において、「スプランクニゾマイ」は、「かわいそうに思われた」、「かわいそうに」、あるいは「深くあわれんで」、「深くあわれみ」、と翻訳されている。しかしこの言葉は、内臓・はらわたを指す「スプランクナ」ということばから派生した動詞で、多くの方がすでに指摘しているように、「内臓が揺り動かされる」、「はらわたわななく」という激しい痛みのニュアンスを持つ言葉である。ギリシャ語の中にいくつかのあわれみを意味することばがあるが、中でもこの「スプランクニゾマイ」は最も強いあわれみを表現することばである。
したがってこの語は、北森が『神の痛みの神学』における「神の痛み」の根拠として、中心的に引用しているエレミヤ31:20の「我が腸かれの為に痛む(文語訳)」「わたしのはらわたは彼のためにわななき(新改訳)」と同じ響きを持つギリシャ語であると考えられる。しかし、ここで指摘したいことは、北森は『神の痛みの神学』において、この言葉が持つ痛みのニュアンスには触れていないという事実である。従って、この「スプランクニゾマイ」というギリシャ語に注目することによって、『神の痛みの神学』のキリスト中心的理解をすることができると考えられる。注目すべきことは、この語がイエス・キリストが語られたたとえ話の中でも特に印象的な3つのたとえ話の要(核)に用いられているということである。それらのたとえ話とは、まず一万タラントの借金を赦す王のたとえ(マタイ18:21−35)、次に良きサマリヤ人のたとえ(ルカ10:25−37)、そして放蕩息子の父のたとえ(ルカ15:11−32)である。
バルトは『神の人間性』において、直接この言葉には触れていないが、スプランクニゾマイが使われているこの3つのたとえに言及し、この言葉を神の憐れみの行為として提示している。
『われわれに聖書で証しされているイエス・キリストにおいては、まさしく真の神性が真の人間性をも含んでいる、ということではないだろうか。そこにはまさしく、失われた息子を憐れむ父がおり、返済能力のない負債人を憐れむ王がおり、強盗に襲われた人を憐れむサマリヤ人がいる。憐れむとは、すなわち、予期せぬ寛大な徹底的な憐れみの行為において受け入れて下さるということである。そしてまた、これらの譬えがすべて天国の譬えとして指し示しているのは、憐れみの行為である。そこには一人の方がおられる。−まさしくこの方こそ、これらの譬えによって語っているお方である!―この方は、自分のまわりの群集の弱さと罪過、困惑と悲惨を深く心に留め、あるがままのこの群集を軽んじることなく、理解できないほどに重んじ、またこの群集を深く心に受け入れ、彼らの場所を自分の場所となす。』[1]。
まず最初に、それぞれの新約聖書の文脈の中で、この「スプランクニゾマイ」がどのようなニュアンスで用いられているのかを、共時的に見ることにする。次に当時の世俗ギリシャ世界での用例、後期ユダヤ文献における用例を通時的に見ながらワードスタディを試み、エレミヤ31:20で用いられているヘブライ語「ラハム」との関連を考察したいと思う。このイエス・キリストにだけ用いられている言葉に着目することによって、御子イエス・キリストの痛み、あわれみについて明白に知ることができ、それを通して御父の痛み、あわれみをも具体的に知ることができると考えられる。
1、共時的に見た新約聖書におけるスプランクニゾマイ |
2、通時的に見たスプランクニゾマイ ―世俗ギリシア語、後期ユダヤ文献、新約聖書におけるスプランクニゾマイ |
新約聖書における「スプランクニゾマイ」の用例が見られるのは福音書のみであり、しかもマタイ、マルコ、ルカという三つの共観福音書にのみ限定される。ヨハネの福音書には用いられていない。従って、以下に各共観福音書における「スプランクニゾマイ」の用例のコンテキストを共時的に概観する。
splagcnizomai@viao--3s 6 (verb ind aor pass dep 3rd per sing ) Mt9:36,14:14, Mk6:34, Lk7:13,10:33,15:20
splagcnizomai@vipn--1s 2 (verb ind pres mid or pass dep 1st per sing ) Mt15:32, Mk8:2
splagcnizomai@vpaonm-s 3 (verb part aor pass dep nom masc sing ) Mt18:27,20:34, Mk1:41
splagcnizomai@vraonm2s 1 (verb part (imper) aor pass dep nom masc 2nd per sing ) Mk9:22
マタイ9:35−10:1参照また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。 マタイ9:36
ここでスプランクニゾマイは、12弟子を遣わす直前に、イエスが、羊飼いのない羊のような、そして弱り果てて倒れている群衆を見られた時の、心の動きを表現している。苦しめられ、疲れ果てている群衆を見られて(マタイ9:36)のイエスの心の動きで、「はらわたが震えるほどのあわれみを覚えられた」というような意味だと思われる。
羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている大勢の群衆を見られたイエスは、そのとき、収穫は多いが働き手が少ないと言われた!つまり、イエスは羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている大勢の群衆を刈り取りを待っている大きな収穫として見られた。収穫の豊かさを見て取られたイエス様のまなざしがここに記されている。
J・シュニ―ヴァントは9:36に対して、『しかしイエスは困窮に心を痛められる―彼の生き方の特徴である―。』とコメントしている[2]。ウイリアム・バークレーは『深くあわれまれた、という意味のギリシャ語はスプランクニスサイスで、あわれみをあらわす一番強い言葉である。これはスプランクナ、すなわち腹という語から出たもので、心の奥底からあわれみ、同情する、という意味である。福音書ではこの語は、譬話の中に何度か用いられているほかは、イエスについてだけしか使われていない。』と記している[3]。
増田誉雄は『<かわいそうに思われた>と訳されたスプランクニゾマイは、強烈な心情の動きを表わすことばである。これは内臓を意味するスプランクナから出ている。ヘブル思想では内臓は人間の深い感情の宿る所と考えられていた。心底から激しく動かされて、積極的にあわれみの働きをせざるをえない心を示している。ここにイエスの宣教の動機を見出す。』と記している[4]。
なお、加藤常昭はこのテキストによる説教において、以下のようにスプランクニゾマイに言及している。
『…この「深くあわれむ」ということばは、少しも苦しんでいない神さまが、気の毒そうに、人間を高い所から見下ろされるのではありません。私は、何度でも喜んで説明をするのですが、「深くあわれむ」と訳されております言葉の語源は、<はらわた>です。<内臓>と言ってもよいのです。その「内臓が痛む」、「はらわたが痛む」という言葉であったのです。私どもも、激しい同情で胸まで痛くなるということがあるのです。はらわたが痛むほどに、主イエスは、同情に生きてくださったのです。いや、<同情>と言う言葉すら、もうここでは不十分です。人びとの愚かさに取り囲まれながら、主イエスはその愚かさを軽蔑することもせず、その愚かなことしか、言うことの出来ない人びとの惨めさに、自分の肉体が、心が、切り刻まれるような、思いを抱かれたというのであります。これほどに、はらわたが痛むほどに、愛を注ぐ神というのは、当時の人の知らない、神の姿でした。当時の世界の知恵者、ギリシアの哲学者も、知らなかったことでした。想像もつかないことでした。福音書の用語はギリシア語です。しかし、ギリシア人は、この言葉で、神について語ったことがなかったのです。むしろそれを拒否したのです。なぜかというと、心を痛めてしまうような神は、自分を、そのように苦しめるものに振り回されることになる。神が、自分に悩みを負わせる者に振り回されるというのは、全く神さまらしくない。頭の中でそう考えて、だから神というのは、あらゆるものを超越していなければいけない。あらゆるものを超越している神には、同情に、心を痛めるなどということは、あるはずがないと考えたのです。
このギリシア人の考え方はよく分かります。神々だけではないでしょう。私ども人間もそうです。私どもは本能的に、同情によって、心がとことんまで動かされることを拒否するところがあります。気づいていないかもしれませんけれども、そうなのです。映画や芝居やテレビドラマを見て心から涙を流し、かわいそうになどと、思うことはあっても、目の前に、同じ悲劇が起こった時には、私どもはそんなに簡単に涙を流したり、心を痛めたりしません。なぜかというと、うっかりここで同情し、うっかりここで心を痛めたら、この他者の悩みが、自分たちの生活の中に入ってきて、たまったものではないと思うからです。だから、私どもは、あるところまでは、同情するけれども、それ以上、他者に踏み込まれることは拒否するのです。ここで、はらわた痛むほどに、主イエスが<あわれみ>を抱かれたということは、この人々の愚かさの中で、自分自身が踏みにじられることを、お許しになったということであります。ギリシアの人びとの考えからすれば、神にふさわしいことでは、なかったかもしれません。しかし、他方、今のように問い詰めてまいりますと、実は、まさに神さまでなければ、できないほどの深い憐れみに生きられたのであります。人間には、こんなに深い憐れみの心はありません。私ども自身、正直に認めなければならないことなのです。私どもが、自分がどんなに同情深い人間、優しい人間だと思っていても、こんなに深く憐れみの中で、生きることはなかったのです。それが、すでに私どもの罪であります。
ここに述べられている、神の子イエスのお姿は、その通りギリシアの知者が、言う意味からすれば、そんなに深い同情を抱いたら、神が神でなくなってしまうほどでした。その通り、神が神であることを、おやめになるくらいに、「深いあわれみ」に生きられたのです。そこに、主イエスにおいて、現れた神のみわざの秘密があります。だいたい、神のみ子がこの世にお生まれになって、人びとに苦しめられ続けて、十字架につけられて、殺されるなどということほど、神さまらしくないことは、なかったのです。十字架につけられた、イエスを見た時に、人びとは言ったのです。「神のおぼしめしがあれば、今、救ってもらうがよい。自分は神の子だと言っていたのだから」。これにも理屈は通っているのです。だがそこで、そのような意味において、神であられることを貫かれないで、<あわれみ>の中で、自分自身の肉体を裂いてしまうほどの、愛に生きられる。聖書が語る神は、そういう神であり、そのような神のみ子のお姿であったのです。ここまで忍耐深く、人びとの罵り、誤解、愚かさに対して、罵りをもって報いることなく、「深いあわれみ」を抱くことが、おできになったのは、それほどまで「深いあわれみ」の自由に生きることが、おできになったのは、神だけでしか、なかったと私は信じるのです。私どもには不可能なことです。こういう主イエスのお姿を見ると、私自身の愛とか、同情とかいうものに絶望せざるを得ないのです。私ども自身の愛とか同情から、人びとのために何かできると思ったり、神さまのために、何かできると思うのは、傲慢としか言いようがないのです。このようなことからも、与えられている、み言葉の中でも、私どもの心を捕らえる、三七節の主イエスのみ言葉の意味もなおよく分かってくると思います。…』[5]
マタイ14:12−14:22 参照イエスは舟から上がられると、多くの群衆を見られ、彼らを深くあわれんで、彼らの病気を直された。 マタイ14:14
ここでもスプランクニゾマイはイエスの心の動きに対して用いられている。イエスの後を追ってくる多くの群衆の姿がイエスの目に映った時、イエスの心の中に生じた動きである。その後、イエスは病気の癒しを行っている。増田誉雄は以下のように、この個所で用いられたスプランクニゾマイについて言及している[6]。
『<深くあわれんで>(スプランクニゾマイ)は、内臓まで動かされる切なるあわれみのこと。ヘブル思想では内臓は人間の深い感情の宿る所と考えられていた(→9:36注解)。マルコはこのイエスのあわれみをさらに詳しく描き、「彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた」(マルコ6:34)と記している。マタイはイエスが<病気を直された>ことを記し、イエスの宣教と奇跡の動機が常に深いあわれみによるものであることを再度示している(→9:36)。』
マタイ15:29−39 参照イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。彼らを空腹のままで帰らせたくありません。途中で動けなくなるといけないから。」 マタイ15:32
ここではスプランクニゾマイが、弟子たちに対して直接語られた、イエスの言葉として記されている。J・シュニ―ヴァントは、15:32に関して、『イエスは外的困窮を「かわいそうに思われる」、すなわち内心が騒ぐ。そして神のあわれみについて最大最後のこととして言われることがここで飢えている者たちに対して言われる。』とコメントしている[7]。
その時にイエスの目に映っていたものは、三日間何も食べずにイエスについて来ている故に、極度の空腹を覚えて疲れ果てている多くの群衆たち(女と子どもを除いて、男四千人)の姿であった。この群衆はイスラエルの神を賛美していた異邦人だったと考えられる。空腹で倒れそうになっている異邦人の群衆を見ても、何も感じていない弟子たちとの強烈な対比が描かれている。イエスはその後、4千人以上の群衆に対する給食(女と子どもを除いて、男四千人)の奇跡をなさった。
加藤常昭はこの個所から説教しているが、このときのイエスの心と弟子たちへのチャレンジを的確に述べていると思われるので、以下に記す[8]。
『三二節によれば、そのようにイスラエルの神への賛美が歌われている中で、イエスは弟子たちを呼び寄せておられます。これは、とても大事なことです。なぜかというと、前の五千人の奇跡の時には、どうして、主イエスは集まって来ている人びとに、パンをお与えになるようになったかというと、弟子たちが、主イエスに声をかけたからです。主イエスが、一生懸命癒しをしておられた時に、弟子たちが、主イエスに声をかけたのです。「ここは寂しい所でもあり、もう時も遅くなりました。群衆を解散させ、めいめいで食物を買いに、村々へ行かせてください」。弟子たちが心配したのです。しかし、ここでは、弟子たちはしらん顔をしているのです。群衆の飢えに気づき、それではかわいそうだ、と思ったのは弟子たちではないのです。主が言われたのです。「この群衆がかわいそうである」。この「かわいそう」という言葉は、「憐れに思う」とも訳されている言葉です。私が何度でも喜んで説明することですが、これは、とても具体的な心の痛みを意味する言葉です。「はらわたが痛む」、おなかが痛くなるほどに他者の悩みに心が動くのです。主イエスは、群衆のことを考えると、わたしは胸が痛い、はらわたが痛い、あなたがたはその痛みを知らないのか、と言われたのです。なぜここでは、そのように言われたのでしょうか。主の周りにいた人びとは異邦人でした。弟子たちはユダヤ人でした。ユダヤ人が、ユダヤ人でない人びとを差別すること深く、そのために異邦人の悩みに自分が痛む思いをすることは少なかったのです。白人と黒人が一緒にいる時に、黒人の飢えなど知らぬままに、白人が豊かな生活をしてきた歴史を、われわれは続けてきました。それと同じです。あるいは、また逆にのちの歴史においてはキリスト者たちが、共に生きるユダヤ人のために、心を痛めることを忘れました。ユダヤ人である弟子たちは、主イエスが一生懸命癒しをなさっている、その傍らに立っていました。癒しを受けて、今は、異邦の人びとが、自分たちの神を賛美している声を聞きました。しかし、その人びとの飢えに心を動かすことがなかったのです。いや、それだけではないのです。「もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない。しかし、彼らを空腹のままで帰らせたくはない。恐らく途中で弱り切ってしまうであろう」。三日かかってやって来たのです。主イエスは、その群衆とここで別れるのです。別れた群衆が、ツロ、シドンの地方に、また帰って行くその道すがら、お腹がすいて倒れ伏してしまう、その姿をすでにここで愛の幻の中で見ておられるのです。そして、群衆に対する、そのご自分の愛の痛みのなかに、弟子たちを呼び込んでおられるのです。招き入れておられるのです。そして「ほら、あの時のわざを、もう一度ここでしよう、あそこでしたように、あなたがたの手で、腹満ちるほど食べさせた、愛のわざをもう一度ここでしよう」と言われるのであります。』
マタイ18:15−35参照しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。 マタイ18:27
マタイの福音書において、スプランクニゾマイが用いられているたとえである。コンテキストを見ると、このたとえをイエスが話されたきっかけは、赦しについてのシモン・ペテロの質問『主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。』である。これに対してイエスは『七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。』(⇒7X70=490回⇒7は完全数ということも考えられるが、実際には無制限に赦すということ!)という言葉をもって質問に答え、たとえを語り始めている。
このたとえでイエスが語ろうとされたことは、「天の御国の様子」であることが、この導入の言葉によって明示されている。しかも天の御国が、地上の王にたとえられているのである。故に第一に着目すべきことはこのたとえの中に登場する「王」である。さらに、『七度を七十倍するまで赦しなさい。』という言葉からのつながりを考えるならば、この王の赦しに対する態度にそれは結晶化されていると考えられる。
驚いたペテロにイエスがたとえを話し始められた。「王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。」という状況設定のナレーションからこのたとえの幕は開く。そして王によって清算が始まる。ここで登場する王は清算をする王である。清算が始まると、一人ずつ王に借りのあるしもべが連れて来られることになった。そして最初に連れて来られたしもべは、一万タラントの負債を持っていた。
ここでたとえで語られている状況を把握するために、一万タラントという金額が今の日本円に換算すると具体的にはどれほどの額なのかを、確認しておきたい。当時のパレスチナの通貨にはデナリとタラントという単位が用いられていたようである。1デナリは当時の一日の日当であったと言われている。また1タラントは6000デナリに相当した。従って1タラントは6000日分(16、17年分)の給料ということになる。たとえの中に負債額として設定されている額は一万タラントであった。一万タラントをデナリに換算すると、以下の数式のようになる。
10000タラント=6000デナリX10000=60,000,000デナリ=6千万日(16、17万年)分の給料
仮に日当1万円とすると、一万タラントとは、6千万日X1万円=600,000,000,000(6千億)円!という途方もない額の負債であることが理解出来る。18:25を見ると、「しかし、彼は返済することができなかったので、」とあるが、一生働き続けても絶対に返済することができない理由が理解出来る。故に、この主人である王は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。これに対して、このしもべは主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』とあわれみを乞うたのである。そして、次に来るスプランクニゾマイが用いられている文章が、このたとえの大きな転換点となる。これは、以下に示す文学的集中構造(私案)によってもこのたとえの核であると考えられる[9]。
A 七度を七十倍するまで赦しなさい(イエスの言葉)
B 清算をしたい王
C 王のところに連れて来られる一万タラントの借りのあるしもべ
D 牢に投げ入れられそうになる返済できないしもべ
E 主人の前にひれ伏して赦しを乞うしもべ
F 深いあわれみによって(スプランクニゾマイ)しもべを赦し、借金を免除する主人(核)
F‘一万タラント赦されたのに100デナリの借りのある者の首を絞めるあわれみのないしもべ
E‘ あわれみのないしもべの前にひれ伏して赦しを乞う100デナリの借りのあるしもべ
D‘返済できないしもべを牢に投げ入れる、あわれみのないしもべ
C‘主人のところに呼びつけられる赦さなかったしもべ
B‘清算をした王
A’心から赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたを赦さない(イエスの言葉)
18:27 しもべの主人は、かわいそうに思って(スプランクニゾマイ)、彼を赦し、借金を免除してやった。
ここで、スプランクニゾマイはキリストがたとえを語る中で用いた言葉である。この語は1万タラントの借金を抱えたしもべの主人(地上の王=天の御国)の心の動きを描き出すために用いられている。そしてそれは、負債を抱えていたが返済することができないしもべの姿を見たことに対する反応として、心の中に生起した心の動きである。王の目に映ったものは、王の前にひれ伏し『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』と言うしもべの姿であった。そしてそれを見たことによって生じた思いがスプランクニゾマイなのである。新改訳聖書ではスプランクニゾマイをかわいそうに思ってと翻訳している。
「かわいそう」という言葉を国語辞典で引くと、『〔形動〕あわれで、人の同情をさそうようなさま。気の毒なさま。ふびんなさま。』とある[10]。一般的に、日本語の「かわいそうに思う」という表現は、表面的なあわれみ、一時的な同情といった浅い、単なる心の動きである場合が多いと考えられる。しかし、この文脈の中で、つまり、王である主人が免除した一万タラントが、6千億円という途方もない額であるということを知った上で、ここに訳された「かわいそうに思って」という表現を読む時、少なくとも表面的あるいは痛みを伴わないあわれみではないことを、はっきりと聞き取ることが出来る。こういう文脈で「かわいそうに思って」という言葉が用いられた時、この言葉は非常に深く、心から、しかも痛みを伴ってあわれむというニュアンスを持つ言葉となる。
さらにこの言葉の後には、赦すという行為、借金を免除するという行為を王が行ったことが書かれている。この文脈によって、この思いが、単なる思い、心の中だけの動きに留まらず、王を揺り動かし、6千億円の負債を赦すという行為、借金をすべて免除するという行為へと向かわせた原動力となったことを知ることができる。スプランクニゾマイという言葉は、ここに語られているこの地上の王が、私たちには考えられないほどあわれみ深いお方であることを雄弁に語っている。
ここで改めて考えたいことは、なぜ王はこれほどの借金を免除したのかという理由である。王が赦した動機、借金を免除した動機はただ王のあわれみによる。決してしもべが一生懸命願った熱心さや誠実さの故ではない。これは、神が私たちの罪をご覧になると、決して赦すわけにはいかないほど大きなものであることを意味している。
私たちは、ただ神の憐れみによって赦されている自分の罪がそんなにも大きいと考えることはあまりない。自分は他の人々よりも多少は真面目な人間だと思っていたりする。そうであれば、神から赦された自分の罪はごくわずかなものとしか思えない。そしてその結果は、神に対しては感謝が少ないこと、人に対して自分を誇る傾向が強いこと、人についてはささいなことで非難するようになるというような形で、生活の中に現れてくる。実はこのことは、このたとえの後半において現実のものとなる。10000タラント(=6千億円)もの借金が免除されたはずのしもべは、その後、100デナリを貸していた仲間に出会うが、彼に対してまったくあわれみのない態度をとるのである。このことは前述した集中構造の核において、あざやかに対置されている。
ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ。』と言った。彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。』と言って頼んだ。 しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。 マタイ18:28−30
ここで100デナリとはどれぐらいの金額なのかを考えたい。1デナリ=当時の一日の日当であった。100デナリ=100日(3、4ヶ月)分の給料である。仮に日当1万円とすると、100万円となる。これは大きい金額であろうか。彼が10000タラント=6千億円赦されたことを考えるとどうであろうか。
このたとえの展開は、自分が多くを赦されていながら、なぜ、ささいな他の人のことを赦せないのかという疑問を私たちにもつきつける。これは、自分の受けた赦しが、ただ主人の憐れみだけによって与えられたものであることを理解せず、また、それゆえにそのことを真実に感謝できないからではないだろうか。むしろ赦しを求めた自分の熱心さのために憐れみを与えられたと、自分の熱心さを誇っているのではないか。自分は憐れみを受けていながら、人にはその憐れみを反映することをしないで、自分の正当性だけを主張している姿がここにある。
次に、この様子を見ていた仲間たちの反応と主人の反応を見ることにする。
彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。 『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』 こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。 マタイ18:31−34
ここで王は、返すことのできない借金をしたことを責めているのではない。それはあわれみによって赦してもらえたことである。王からあわれんでもらったのに、仲間をあわれまなかったことを、主人は怒ったのである。しもべは王の憐れみを本当に理解していなかったゆえに、仲間を赦すことができなかったと言える。彼は、無慈悲になることによって、自分が赦されているという事実を拒んだのである。
スプランクニゾマイという言葉は、他の聖書個所を見るとき、イエス・キリストに対してだけ用いられている。イエスがこのたとえの中で用いたスプランクニゾマイは、神の無限の愛、抑えきれないあわれみを目に見えるようにはっきりと表現している言葉であるといえる。
スプランクニゾマイは神の憐れみの極みとしてのキリストの十字架と復活による和解の動機を表現していると思われる。イエスが十字架に架けられていた時に、テテレスタイという言葉を語られ、それから息を引き取られた。この言葉は借金の返済(刑法的代償ではなく民法的代償[12][13])をあらわす言葉で、「借金はすべて返済した!」という意味である[14]。罪のない主イエス・キリストが、自らその身に私たちの罪を背負って十字架にかかってくださり、私たちの罪の負債をすべて支払って下さった。イエス・キリストによってこの一万タラントの負債をただあわれみによって赦すあわれみ深い神がはっきりと明らかにされているのである。
天の御国は、ただ、キリストのあわれみ(私たちに対する神の自由な恵み・愛)によってだけ入れる所である!私たちは神に対して、生れた時から罪を犯し続けている。そしてその罪の負債は、人間の常識ではとても考えられないような大きなものである。普通、人はそのような負債があることさえ気づかない、気づいても素直に認めない。しかもそれは、自分の努力では決して返すことができないほど大きなものである。しかし、この天の御国のたとえは、その罪の負債が赦されている者の幸いを教えている。 福音とはただ神のあわれみによって、信じるものはその罪の負債を赦していただけるという神の約束である。赦しはただ神の方から来る。そして神の憐れみを信じる人は、確かに天の御国の幸いをすでに受け、赦されるだけではなく、神によって赦すことができる者に変えられる!福音に生きるチャレンジがここにある。
マタイ20:27−21:2参照イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。 マタイ20:34
このテキストは他の共観福音書にも記載されている記事であるが、マルコ、ルカの平行記事には「イエスはかわいそうに思って」という言葉がない。マタイだけがこの物語においてイエスの深いあわれみを記している[15]。ここでもスプランクニゾマイはイエスの心の動きを表わす言葉として用いられている。イエスの目に映ったものは、「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」と叫び立てて懇願する、道ばたにすわっていた2人の目の見えない人であった。イエスは立ち止まって彼らを呼び、「わたしに何をしてほしいのか。」と言われた。彼らは「主よ。この目をあけていただきたいのです。」とイエスに言った。この言葉を聞かれた時、イエスはスプランクニゾマイという言葉で表現される心からのあわれみを抱かれ、熱心にイエスに懇願する彼らの目にさわられ、そして彼らの目を開いて下さったのである。
E・シュヴァイッアーはこのイエスの憐れみが「わたしたちを憐れんで下さい」という典礼的叫びに対応していることを指摘する。また、イエスに用いられているこの言葉は、旧約聖書の比較的おそい部分でよく使われる言葉で、それがダビデの子について述べられているのは、ここにおいてのみであるとコメントしている[16]。
イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」マルコ1:41
マルコ1:40−2:1参照
ここでもスプランクニゾマイは、イエスの心の動きを表現するために用いられている。イエスの目に映ったものは、イエスのもとに来てひざまずいて嘆願するひとりのらい病人であった。彼は「お心一つで、私はきよくしていただけます。」と信仰をもってイエスに願った。当時、らい病人に触れればその人も汚れると考えられていた。しかしイエスは、あえて彼にさわられた。それは、イエスがその病人に対して心の底から揺り動かされるほどの深いあわれみを持っていた表われであると考えられる。なお森彬は、前後の文脈を含めたこのテキストに、以下のような集中構造があることを指摘している。この構造においても、スプランクニゾマイが用いられている節が核になっている。森はここでスプランクニゾマイに言及し、この語を「腸まで揺り動かされる」という激しい感情であるとしている[17]。
Aイエスの召命に従った4人の漁師たち
B教えたもうイエス
Cイエスの教えに驚く人々
Dイエスの命令で出て行く悪霊
Eイエスの権威(新しい教え)
F熱病で寝たままのシモンの姑
G病人たちをイエスの所に連れて来た人々
H戸口に集まった町中の人々とイエスのいやし
I寂しい所へ出て行くイエス
J「出て行って宣べ伝えよう」
K清められることを願うらい病人
Lイエスの深いあわれみと按手(核)
K‘らい病人を清めたもうイエス
J‘出て行って言い広める者
I‘寂しい所にとどまるイエス
H‘戸口にまであふれる人々とイエスの宣教
G‘中風の者をイエスの所に連れてきた人々
F‘中風で寝たままの男
E‘イエスの権威(罪の赦し)
D‘イエスの命令で出て行く中風の者
C‘イエスのいやしに驚く人々
B‘教えたもうイエス
A‘イエスの召命に従った徴税人レビ
イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。 マルコ6:34マルコ6:29−45参照
ここでもスプランクニゾマイはイエスの心の動きに対して用いられている。イエスと弟子たちは人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったので、舟で寂しい所へ行って、しばらく休もうと試みていた。しかし群衆は、舟に乗ったイエスを徒歩で追いかけてきたのである。イエスの目に映った羊飼いのいない羊のような多くの群衆によって、スプランクニゾマイで表現される心の底からあわれみが湧き上がった。そしてイエスは神の言葉によって、群衆を養われたのである。
マルコ7:31−8:10参照「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。 マルコ8:2
異邦人の地で、大ぜいの人の群れが集まっていたが、食べる物がなかったので、人々は3日も何も食べていない状態であった。6:34−44の場合は、その日一日、しかもその日の夕方に食べ物がなかった場合であるが、ここでは3日間も食べ物がなかったのである。この点で、5000人の給食と異なる。イエスは群衆の痛みを感じることが出来ない弟子たちを呼んで、愛の働きへとチャレンジされた。
この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」 マルコ9:22マルコ9:14−9:32参照
A復活・受難告知と弟子の無理解
B解決策を求めての論争
C弟子の無能力(父親の言葉の中で)
D地に倒れる息子
E悪霊による発作のため転げまわる息子
Fたびかさなる悪霊の脅威
G「おできになるなら、…お助けください」(←ここでスプランクニゾマイ)
H信仰に不可能なし(イエスの答え)(核)
G‘「信仰のないわたしをお助けください」
F‘「二度と入るな」(悪霊に対するイエスの叱責)
E‘悪霊による発作のため死んだようになる息子
D‘立ち上がった息子
C‘弟子の無能力(彼ら自身の問い)
B‘祈りこそ解決の秘訣(イエスの答え)
A‘受難・復活予告と弟子の無理解
マルコ9:22においては、汚れた霊を追い出してもらうための嘆願の祈りの中で、この言葉が使われている(マタイ17:15ではエレオスが使われている)。スプランクニゾマイは、イエスに対しての懇願の言葉の中に用いられている。しかし、その願いは「ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで(スプランクニゾマイ)、お助けください。」という非常に不信仰な願いであった。これは弟子たちが癒すことができなかったのを見て、失望していた時に出た父親の言葉であると考えられる。しかしイエスはそれに対して、「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」と叱責される。これがこのテキストの核、中心主題になっている。するとすぐに、その子の父は「信じます。不信仰な私をお助けください。」とイエスに叫んだ。イエスはその後、汚れた霊を追い出されるという御業をなさった。森彬はこのテキストにおいても、上記のような集中構造があることを指摘するとともに、「信仰は祈りであり、祈りは力である」という命題をここから汲み取っている[18]。
主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい。」と言われた。 ルカ7:13ルカ7:11−7:23参照
イエスと弟子たちは、ナインという町の門に近づかれた。すると、やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであった。町の人たちが大ぜいその母親につき添っていた。そこでイエスの目に映ったものは、ひとり息子に先立たれ、やもめとなって出棺に立会い、嘆き悲しんでいるナインの母親の涙であった。ここでスプランクニゾマイは、ひとり息子の死に嘆き悲しんでいるナインのやもめを見られたときに、イエスが持たれた、はらわたが震えるほどの深いあわれみを語っている。主はその母親に、「泣かなくてもよい。」と言われ、死んだ息子を生き返らせる奇跡を行われたのである。榊原康夫はこの個所に用いられているスプランクニゾマイについて、以下のようなコメントをしている。
『<かわいそうに思う>は腸を揺り動かされること。死の問題はある意味では死ぬ本人よりも愛する者に先だたれる遺族の心にあるから(→創世記44:22、Uサムエル18:33)、主のやもめに対する激しい同情は大きな福音である。主が来れば<泣かなくてもよい>(Tテサロニケ4:13以下)。 <棺に手をかけられると>、普通なら自分自身汚れた者となる(民数19:11)』[19]
ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、 … ルカ10:33ルカ10:25−37参照
このたとえが語られた背景は、ある律法学者がイエスをためそうとして「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」という質問によって始まる。それに対して、イエスは「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」と言われた。すると彼は「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」と模範解答を答えたのである。それに対してイエスは「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」言われた。しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」と逆にイエスに問い掛けるのである。
おそらく彼には、隣人を限定し自分の好きな人々ということにするなら、自分は隣人を愛しているという自負があったと思われる。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」という質問に対して、イエスは良きサマリアのたとえを語ることによって答えられたのである。イエスがこのたとえを彼に語った理由は、彼に憐れみによって生きてないことを悟らせ、神の憐れみによって永遠のいのちに生きるように招くためであったと思われる。森彬が指摘している、このたとえにおける集中構造を以下に示す[20]。
A「何をしたら…?」(律法学者の問い)
B隣人愛
C「隣人とはだれですか」
D奪う者
E傷つける者
F行き過ぎる者
G到来し、深くあわれむサマリア人(核)(←スプランクニゾマイ)
F‘近寄る者
E‘介抱する者
D‘差し出す者
C‘「だれが隣人になったと思うか」
B‘慈悲深い行い
A‘「同じようにしなさい」(イエスの答え)
10:30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。…
エルサレムからエリコまでは距離約27キロメートル、高低差約1200メートルの行程である。岩の多い下り坂が続き、強盗がよく出没したことから、別名「血の道」と呼ばれていたほどの難所で、この道は今でも危険である。
ここでエルサレムからエリコへ下る道で強盗に襲われた人は、ユダヤ人であったと考えられる。そこに三人の人が順番に通りかかった。一人目は祭司、二人目はレビ人、そして三人目はサマリア人であった。祭司とレビ人は同じユダヤ人の同胞を見たが、目をふさいで反対側を通り過ぎていった。しかし、あるサマリヤ人は、強盗に襲われた人の隣人になったのである。サマリア人とは、ユダヤ人とは敵対関係にあった民である。ユダヤ人にとって、サマリア人は隣人とは思えない存在であった。榊原康夫はこの個所で、サマリア人とユダヤ人との関係について触れつつ、以下のようなコメントをしている。
『<サマリヤ人>は混血の「外国人」(17:18)だからユダヤ人の「隣人」規定に含まれないのに、ユダヤ人の隣人になり、「宿屋の主人」(35)にも被害者をあなたの隣人だと言って押しつけず、「帰り」まで自分の隣人として扱い通す。サマリヤ教団はエルサレム祭司階級の血統問題(ネヘミヤ13:28)から分裂した異端教団なので、「祭司」「レビ人」が最も敵視していた。』[21]
このたとえでは驚くべきことに、このユダヤ人とは民族的に敵対関係にあったサマリア人が、ユダヤ人が倒れているのを見て、心の底から揺り動かされ(スプランクニゾマイ)、応急処置をし、宿屋に連れて行って介抱したのである。次の日、このサマリア人は、宿屋の主人にお金を払って倒れていた人を介抱してくれるように頼んで用事に出かけようとする。しかもその際、もっと費用がかかったなら、帰りに払うという約束までしたのである。
ここでサマリヤ人は旅の途中であったが、そこに来合わせた状況であった。危険を冒して旅をしていた故に、とても大切な用事があっての旅であったと考えられる。ひまがあったわけではない。むしろ一刻も早く危険な所を通り過ぎたいという思いであったと考えられる。しかしこのサマリア人は、3つのものをその人のために割いた。すなわち時間、労力、お金である。なぜサマリヤ人はこれら3つのものを割いたのか?その理由をスプランクニゾマイは雄弁に語っていると思われる。
10:33 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
10:34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。…
10:33においてスプランクニゾマイは、サマリア人が旅の途中に、強盗に襲われて倒れているユダヤ人を見た時の心の動きを表わしている。新改訳では「かわいそうに思い」と訳されているが。しかし彼が、危険を犯して、時間、労力、お金を割き、彼を介抱する行動に移ることから、「心の底から揺り動かされるほどの憐れみに駆られて」というような意味であると考えられる。
ここでスプランクニゾマイは、サマリア人が強盗に襲われた敵(ユダヤ人)の隣人になった動機そのものであると考えられる。それは民族間の敵意の壁を打ち破る情熱である。そして神と人との間の敵意の壁を打ち破る情熱でもあると考えられる。心の最も深いところから揺り動かされた時、その揺り動かされた心が愛の行動を生み出したのである。
ここで、イエス・キリストによって明らかにされた憐れみ深い神に思いを向けたい。イエス・キリストはこの愛と希望の無い、競争によって殺伐とした世に降りて来て下さり、飼い葉桶の中に生れて下さった。天地万物を創造された神が、私たちと同じ肉体を身にまとわれ、私たちと共に住んで下さるために異郷に赴いて下さったのである。イエス・キリストは強盗に襲われた人の傍らを祭司やレビ人が通り過ぎたように、その傍を通り過ぎることをなさらなかった。イエス・キリストによって明らかにされた憐れみ深い神は、神に敵対した結果、罪にまみれて倒れている私たち人間の隣人となってくださるために、多大な犠牲を払って仕えて下さる僕となって下さったのである。まず神が、私たちのために献身して下さったのである。神はそのような事実においてこそ偉大であり、また真の神はそのような仕える姿においてこそ真の神として現れ給うのである。ここにおいて、仕えられることを求める人間の高慢の映像である偶像の神々と、真の神との違いが最も明確になる[22]。
そのイエス・キリストが私たちの罪の負債をすべて支払うために十字架に架かって下さった。そして、キリストは復活して今も生きておられ、わたしたちのためにとりなしの祈りをしてくださっているお方である。イエス・キリストは、今も私たちをごらんになって、深くあわれんでくださっているお方である。キリストがこのような行為をなして下さっている動機がスプランクニゾマイではないだろうか? 自分が憐れみによって生きていないことを自覚する者は、この神の憐れみを受け取ることができ、永遠のいのちに生きることが出来る。この律法学者は、ただ憐れみによってのみ生きることができ、ただそのようにしてだけ永遠の生命を受け継ぐ者になることができるということを知らなかったのである。しかし、神の憐れみによって生きることがもたらす結果は、敵をも愛する隣人になる生き方が出来るようになることである。キリスト者がこの地上に生かされている使命は祝福の基として他者のための存在として共に生きるということである。「あなたも行って同じようにしなさい。」というキリストの命令は私たちにも語られている。それは、敵意とすべての隔ての壁を越えて、私自身が隣人になり、共にあわれみ深く生きる生活をすることである。
こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。 ルカ 15:20ルカ15:1−32参照
15:1―3節の文脈に、イエスがこのたとえを話されたきっかけが書かれている。またそこには、誰に対してイエスがこのたとえを語られたのかということも明記されている。
15:1 さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。
15:2 すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」
15:3 そこでイエスは、彼らにこのようなたとえ(単数形=一つのたとえ)を話された。
取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして近寄って来たその時、それを見ていたパリサイ人、律法学者たちがイエスに「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」とつぶやいた。そうつぶやいたパリサイ人、律法学者たちに向かって、イエスは以下の3つのたとえ(羊のたとえ、銀貨のたとえ、息子のたとえ)を話されたのである。彼らはちょうどたとえの最後の部分に登場して父親を非難する兄息子のようである。彼らはイエスと共に喜べないでイエスを非難したのである。
一見するとルカ15章には、羊のたとえ、銀貨のたとえ、息子のたとえという3つのたとえが書かれているように見える。しかしこれら3つのたとえは関連した1つのたとえであると解釈することができる。たとえという単語(テン パラボレン)が単数形で書かれていること、3つのたとえがいずれも、パリサイ人や律法学者たちに対して語られていること、そして3つのたとえが以下のような共通点を持っていることが、このことを裏付ける根拠である。
3つのたとえ(羊のたとえ、銀貨のたとえ、息子のたとえ)は、以下のような共通点を持っている。
1、3つの失われたもの(羊、銀貨、息子)
2、3つの回復されたもの(いのち、価値、関係)
3、3つの歓喜:失われたものが見つかることによってわき起こる非常な喜び
(天に、神の御使いたちに、父に)!
神の前に失われたものが見つかること(回復されること)を非常に喜ばれる神!
4、悔い改めて、イエスと共に喜ぶことへの3度の招き: 「恵みを知って、わたしといっしょに喜んで下さい!」
しかし、3つのたとえはまったく同じことを語っているわけではなくそれぞれ以下の事柄に焦点をあてて記されていると思われる。羊のたとえではいのちの回復という側面、銀貨(ドラクマ)のたとえでは存在価値・使命(目的)の回復という側面、そして息子のたとえでは関係の回復(子どもとして下さること)という側面がそれぞれ強調されていると思われる[23]。今回は、スプランクニゾマイが用いられている放蕩息子の父のたとえに焦点をあてて考察する。
おそらく救いという概念において、最も豊かな表現は、信仰によって「神の子どもとされる」ということではないかと考える。なぜなら神の子どもとされる時、そこには三位一体の神との関係の回復があり、神を「天のお父さん!」と呼ぶことの出来る身分とされ、神の持っている豊かなものをすべて共有することが出来、神に似た者とされていくからである。
森彬が指摘しているように、このたとえには以下の二つの集中構造があると考えられる[24]。放蕩息子のたとえの中心は、明らかにスプランクニゾマイによって表現された父親の法外な愛である。
A「あなたのものを私に」(弟が父に)
B弟の家出
C放尽
D飢えに苦しむ弟
E豚飼への零落と人々の冷遇
F父へのざんげ(決意として)
G父の所へ出かける子
H息子を見つけて、深くあわれむ父(核)(←スプランクニゾマイ)
G‘走り寄る父
F‘父へのざんげ
E‘子としての復権と父の厚遇
D‘「食べて楽しもう」(父が弟息子に)
C‘蕩尽(兄が言及)
B‘弟の帰還(兄が言及)
A‘「私のものはお前のものだ」(父が兄息子に)
A生き返り、見つかった弟
B開かれる祝宴
C帰還した弟(これまで父と別居)
Dほふらせた肥えた子牛
E孝行息子(兄)
F兄の不服の申し立て(核)
E‘放蕩息子(弟)
D‘ほふらせた肥えた子牛
C‘兄(いつも父と同居)
B‘開かれる祝宴
A‘生き返り、見つかった弟
15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。 ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、 かわいそうに思い(スプランクニゾマイ)、走り寄って彼を抱き、口づけした。
ここでスプランクニゾマイは、父が遠くに帰ってきた放蕩息子を見つけた時の思い、つまり失われた息子を見出した時の父親の歓喜を表わしていると考えられる。放蕩息子の父親に対して用いられたスプランクニゾマイは、前後の文脈に共通して見られる喜びという調べから、失われていた息子を見つけた時の心底からの歓喜を表現するという意味で、痛みではなく喜びのニュアンスを持つと理解したほうがよいと思われる。「走りよって彼を抱き口づけした」という父親のその後の行動からも、喜びのニュアンスを感じることができる。フィリップ・ヤンシーは、中東で立派な人物は決して走らず威厳を持って歩くということに言及し、このイエスの話の父親が、長い間いなくなっていた息子を迎えるために「走った」ことは、聴衆にとって息を飲むほどの衝撃であったことを指摘している[25]。
ここに自由な赦しの愛により、再び子どもとして受け入れられる恵み・関係の回復を見ることが出来る。そして、先行する大きな父の愛・恵みを知る(体験する)ことが、息子を心からの悔い改め、罪の自覚と真摯な告白へと導いたと考えられる。放蕩息子の信仰による悔い改め(方向転換)が父の恵みを体験する鍵になっていることも見逃すことが出来ない事実である。
以下にJ・シュニーヴァントによる、このテキストにおけるスプランクニゾマイについてのコメントを引用する。
『さて、かくして、息子は帰っていった。異国でかれを帰省にかりたてたもの、それは父の家の思い出であった。かれは父を心に思ったゆえに、あるがままの姿で、そのもとへとあえて帰っていったのである。かれがほんとうに帰ってゆく、まさにその時、かれに先立っていたのは父の愛である。父はただ息子を遠くから認めただけで、心をいためた。人はこのことばが物語りの一番初めにこなくてはならないと考えるかもしれない、「息子が父親からはなれてゆくとき、父は心をいためる」と。けれど、そこにはなくて、ここに、息子が帰ってきたところに初めて、このことばが語られている。ここでもやはり旧約のことばが思いおこされるのである。「わたしの心は彼をしたっている。わたしは必ず彼をあわれむ」(エレミヤ31:20:口語訳)、「わたしはしばしあなたを捨てたけれども、大いなるあわれみをもってあなたを集める」(イザヤ54:7:口語訳)と。ルターが「哀れに思った」(es jammert eihn)と訳した、憐れみについてのこのことばは、ヘブル語でもギリシャ語でも心の内奥が動かされることを意味している。まさに、神から迷いでたものの救いなき姿こそ、神の心を動かすのである。イエスのみことばにおいておなじことば(スプランクニゾマイ)が「ゆるさない僕のたとえ」(マタイ18:27)にもあらわれてくる。そこにもまた、負債をおった者にたいする王の憐みがしるされている。さらに福音書には、多くの個所で、イエスご自身の憐みを描くことばが用いられている。イエスは、民衆の困窮をごらんになり、彼らを飼う者なく、見すてられ散らされた羊の群れにたとえられ(マタイ9:36)、民のまた個々人の外的・内的な苦悩を抱擁されるのである(マルコ6:34、マタイ20:34、ルカ7:13)。それはイエスの憐みのなかに反映している神の憐である―そして、迷える者の苦悩のところを尊大ぶって通りすぎる敬虔な者たちには、まさにこの憐みがかけているのである。』[26]
ここでJ・シュニーヴァントが指摘しているように、スプランクニゾマイという言葉は、息子が父のもとを去っていく時ではなく、あわれな姿で家に帰って来るのを見たときの父の心の動きとして語られている。これは、父のもとを去っていく時の父の心の内が、なすがままにさせる(引き渡す)という意味での怒りであったことを示唆しているように考えられる(ローマ1章参照)。「おやじ早く死んでくれ!」というような態度[27]で父親から相続財産を受け取り、家を出て行こうとする息子に、父親は「おまえの好きなように、勝手にしなさい!」という怒りの態度を持って引きとめることをしなかったと思われる。神は高ぶる者に対しては敵対し、へりくだる者には恵みとあわれみを注がれる方であることが、この文脈から理解できる。
ここで、共時的に見た新約聖書におけるスプランクニゾマイの用例の外観を以下のようにまとめる。
Mat 9:36 (⇔マルコ6:34) 羊飼いとしてのイエスの、失われていた羊に対する深い愛と宣教の情熱を表わすスプランクニゾマイ
Mat 14:14(⇔マルコ6:34) イエスの後を追ってくる病んでいる人々を癒すスプランクニゾマイ
Mat 15:32(⇔マルコ8:2) 空腹の群衆を見られたイエスの口から、弟子たちに対して出たスプランクニゾマイ
Mat 18:27 1万タラント(6千億円)の借金を赦す王のたとえ ―赦し難い罪の負債を徹底的に赦すスプランクニゾマイ
Mat 20:34 二人の目の見えない人たちの嘆願に応えて癒されるスプランクニゾマイ
マタイの福音書において、この語は5回用いられている。1回は、イエスが話された1万タラント(6千億円)の借金を赦す王のたとえにおいて、要になる言葉として用いられている。そこでは、王が赦し難い罪の負債を徹底的に赦す動機としてスプランクニゾマイという言葉が使われている。他の4回は、羊飼いのいない羊のように弱り果て倒れている群衆の姿、イエスの後を追ってくる病んでいる人々の姿、飢え渇いている群集の姿、目の見えない人たちが必死に嘆願する姿を見られた時のイエス・キリストの心の動きを表現している。マタイ15:32において、イエスはその思いを直接弟子たちに対して語られた。
Mar 1:41 ひとりのらい病人の信仰による嘆願に応えられ、癒しをもたらすスプランクニゾマイ
Mar 6:34 羊飼いとしてのイエスの、失われていた羊に対する深い愛を表わすスプランクニゾマイ (⇔マタイ9:36、14:14)
Mar 8:2 (⇔マタイ15:32) 空腹の群衆を見られたイエスの口から、弟子たちに対して出たスプランクニゾマイ
Mar 9:22 イエスに対しての不信仰な祈りの中で用いられたスプランクニゾマイ
マルコの福音書において、この語は4回用いられている。マルコ固有の記事としては、らい病人が嘆願する姿を見られた時のイエス・キリストの心の動きを表現しているスプランクニゾマイ(マルコ1:41)と、イエスに対しての不信仰な祈りの中で用いられたスプランクニゾマイ(9:22)が挙げられる。
Luk 7:13 ひとり息子の死を嘆き悲しんでいるナインのやもめを見た時のイエスの思い ―死を打ち破るスプランクニゾマイ
Luk 10:33 良きサマリヤ人のたとえ:強盗に襲われた敵の隣人になった動機 ―(民族間の・神と人との間の)敵意の壁を打ち破るスプランクニゾマイ
Luk 15:20 ルカ15章のたとえ:父が遠くに帰ってきた放蕩息子を見つけた時の思い ―失われた(死んでいた)息子を見出した父親の歓喜を表わすスプランクニゾマイ
ルカの福音書において、この語は3回用いられているが、いずれもルカ固有の記事である。まず、ひとり息子の死を嘆き悲しんでいるナインのやもめを見た時のイエスの思いを表わす言葉としてスプランクニゾマイが用いられている。これはそのあと息子をよみがえらせる奇跡をなさったことから、死を打ち破るスプランクニゾマイということができる。あとの2回は良きサマリヤ人のたとえとルカ15章のたとえにおいて用いられている。それらのたとえの中で、スプランクニゾマイは強盗に襲われた敵の隣人になった動機として、また、父が遠くに帰ってきた放蕩息子を見つけた時の歓喜を表わす言葉として用いられている。いずれの場合もスプランクニゾマイは要となる決定的な言葉として用いられている。
以上のように、この語はイエス・キリストにだけ用いられることによって、私たち人間の痛み・あわれみと類比した場合のキリストの痛み・あわれみの質的差異を主張し、イエスを絶対他者として提示している。そしてこの語の用いられている文脈では、その思いが、思いだけに留まらず、具体的な愛の行動として奇跡や癒しなどが行われたことが記されている。ここでは神の痛み・あわれみの超越性が主張されている。そして同時に、この語はイエス・キリストの最も深いところからの痛み・あわれみを表現している。ただし、ルカの15章において放蕩息子の父親に対して用いられたスプランクニゾマイは、前後の文脈に共通して見られる喜びという調べから、失われていた息子を見つけた時の心底からの歓喜を表現するという意味で、痛みではなく喜びのニュアンスを持つと理解したほうがよいと思われる。
まとめると、スプランクニゾマイは、まさしく神の神性の内に含まれた神の受苦性を表現している言葉であると言える。イエス・キリストは地上で最も偉大な人間以上の、人間とは質的に異なった、天地万物を創造された無限の神であり、同時に私たちと同じ肉体を持たれ、一人のユダヤ人として私たちの間に住んで下さって、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣いて下さった、本当の人間、神のかたちそのものであったと言える。
スプランクニゾマイということばで表現される心の動きは受動的である。まず良き羊飼いである神から迷い出た人間の、救いなき姿がイエスの瞳の中に映り、その砕かれた望みなき姿こそが、イエスの心を心底からゆり動かしているのである。それは羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている姿であり、強盗に襲われて道端に倒れている姿であり、返済不可能な莫大な負債を抱えてあわれみを乞う姿である。やみの中、死の影の地、涙の谷、砂漠を満たされることなくさまよう者たちの姿である。
ここではスプランクニゾマイ、スプランクナというギリシャ語が、世俗ギリシア語においてどのような意味で用いらていたのか、また、後期ユダヤのギリシア語の文献において旧約聖書の言葉がどのように翻訳されているのかを通時的に見る。そのことによって、新約聖書におけるスプランクニゾマイの旧約聖書とのつながり、特にエレミヤ31:20においてはらわたわななくという表現とともに、深くあわれむの意味で用いられているヘブル語ラハムとの関係を見たいと思う。
スプランクニゾマイを通時的に見た場合、あわれむ、かわいそうに思うといった隠喩(メタファー)的意味は、ユダヤ教の文献と新約聖書にしか見出すことが出来ない。スプランクニゾマイによるラハムの翻訳は70人訳においては実際に導入されていなかった、しかし後期のユダヤ人の文献(12族長の遺訓)において、明確に取り入れられた。そしてその用例は特に、ヘブル語における終末的な要素を保ち、疑いもなく新約聖書における用法のための直接的な前提である。
A、ギリシア語の用例 |
B、後期ユダヤの文献における用例 |
C、新約聖書における用例 |
スプランクニゾマイのヘブル語ラハムとの関連性について |
ラハミム(ラハム)とヘセッドについて |
ギリシア語には、あわれみを表す3つの異なった単語Eleos, oiktirmos, splanchnaがある。Eleosはあわれみを感じることを表す。Oiktirmosは他人の不運を見ることによるあわれみの叫び、感嘆を表す。そしてSplanchnaは感情の座、内臓あるいは今日ではおそらくハートと呼ばれるものを表す。ここでは特に、スプランクナとその語群についての用例に注目する。
Mercy, Compassion
splavgcna(スプランクナ):内臓、はらわた、腸、よって感情、心、愛の座。
splagcnivzomai(スプランクニゾマイ):あわれむ、あわれみを示す、同情する
スプランクノンについて(ホメロス(B.C.8世紀)からたどって)、ほとんど完全に複数形で使われている。最初は内臓やはらわた(いけにえの動物の)を意味し、特に高価な部分、心臓、肺、肝臓を意味していた。しかし脾臓や腎臓をも意味していた。いけにえの動物を殺した後直ちに、それらは取り出され、焼かれ、いけにえの食事の最初に食されたので、この言葉はいけにえの食事そのものを指して使われるようになった。アイスキュロス(B.C.5世紀)以降は、スプランクナを人間の内臓、特に受胎と誕生の力の置かれている所としての男性の生殖器官や女性の子宮を指す言葉としても使っている。したがって子供たちが時々スプランクナと呼ばれ、エク・スプランクノンはその人自身の肉と血とからという意味である。
腸は自然なパッション(怒り、落ち着かない願望、愛)のある所と考えられていたので、この言葉は心(感情や心の動きの器官としての)の象徴的意味、あるいは予感の感覚を持つようになる。最後にこの語はまさに愛情や愛を表すに至る。したがって、紀元前5世紀の文献において、この語はあわれみ、コンパッション、愛を意味する。
この動詞の最古の形はスプランクネウオーで、内臓を食べる、内蔵によって予言することを意味する。後のスプランクニゾマイという形は、紀元前4世紀の世俗ギリシア語碑文において一度だけ用いられているだけで、同じ意味である。あわれむ、かわいそうに思うといった隠喩(メタファー)的意味は、ユダヤ教の文献と新約聖書にしか見出すことが出来ない。H.-H. Esser
1、 名詞
初期のギリシアの文献において、この名詞はほとんどいつも複数形で用いられている。もともとこの単語はいけにえの内臓、(エウテラ、エグカタと区別されて)特に高価な部分、すなわち、心臓、肝臓、肺、腎臓を意味する。それらはいけにえから取り出され、いけにえを食する際、最初に関係者によって食される。このため、この単語はいけにえ自身を意味するようになる。5世紀から人類学的に、この言葉が人間の内臓を指して使われるようになる。…肝臓、肺、脾臓のようなそれぞれの部分はスプランクナと呼ばれる。最後に、人類学的な用語として、この語は特に、体の下部を表す力強い言葉である。特に出産の力の座としての子宮や腰部を意味する。この用法から派生して、子どもがスプランクナと表現されている記述が時折見られる。しかしこれは自立的なものではなく、内臓ということに深く関係して派生した意味である。
転じた用法として、スプランクナは衝動的なパッション(例えば、怒り、切望した願い、愛といったもの)の座として見られる。この語は最終的に、転じた意味として、ほとんどheartと同じ意味を持つに至る。それは個人的な感情(feeling)、感受性(sensibility)の中心である。愛、憎しみ、勇気、恐れ、喜びと悲しみといった、より高尚な愛情の座としてのカルディアと比較した場合、スプランクナはより包括的な、あるいはしばしばよりあからさまな、力強いそして明白な用語である。
ギリシア語の用法、少なくともキリスト教以前の時代においては、後期ユダヤ教や最初のキリスト教文章において見られるように、スプランクナが心からのあわれみの座として用いられている例を見ることは出来ない。発展したあるいは転じられた用法は見られず、スプランクナはあわれみそのものの意味では決して用いられていない。この荒削りな用語は、キリスト者の徳あるいは神的なふるまいを表現するためにはまったく適合しないように見られる。
2、 動詞
動詞スプランクネウオーはいけにえの内臓のためのスプランクナの用法に基づいている。意味は(a)“いけにえの内臓を食べること”(いけにえの食事の際に)、(b)“内臓を占いのために用いること”である。世俗ギリシア語において、スプランクニゾーはKos(紀元前4世紀)に一度だけ(a)の意味で使われている。転じたこの語の意味はユダヤ教や初期のキリスト教文章以外では見つけることが出来ない。
3、 合成(複合)語
ユダヤ教や初期のキリスト教文章の中に使われたこの語の合成語として、私たちは時折アスプランクノスだけを見ることが出来、キリスト教以前のギリシア文章ではエウスプランクニアを見つけることが出来る。ポリュ(エウ)スプランクノスは今までのところ、古典世界において見いだすことは出来ていない。アスプランクノスは“勇気のない”“力あるいは救済者なしで”(cf “no guts”)を意味する。エウスプランクニアは“大胆さ”(あるいはおそらく“度量の大きいこと、寛大”)を意味する。このように、他の合成語も何者かの“気性”と関連する。参照として、メガロスプランクノスは女魔法使いメディアの“抑えきれないプライド”を表し…。
しかし、ポストクラシックの用法においては意味の変化が起こり、あわれみが勇気にとって変る可能性がある。… H. Koster
LXX(70人訳)には、この単語が名詞形で15回、動詞形で2回使われている。二回のみ、この単語の名詞はヘブル語の単語に訳すことができる。箴言12:10ではこの単語はラハミム(→エレオスOTとoiktirmos OT)、(ヘブル語で)あわれみ(mercy)を表し、箴言26:22ではbeten、内臓、はらわたを表す。残りのケースは2マカベヤや4マカベヤといった外典において、ヘブル語の原文はないが見られる。そこにおいて、腸(2マカベヤ9:5、4マカベヤ5:30、10:8)、母の愛(4マカベヤ15:22、29)、心(heart)(2マカベヤ9:6)といった意味を見ることができる。H.-H. Esser
この語の名詞(複数形のみ)と動詞は、70人訳において決して普通に見られるものではない。名詞はたいてい後の部分に制限されている。従って2、3の用例においてのみ、ヘブル語の同意語を参照できる。箴言12:10(ラハミム)、26:22…、Sir. 30:7 Syr. “heart”。他の12回の用例すべてにおいては、ヘブル語がないか、あるいはギリシア語がオリジナルである(こちらが通説)かどちらかである。
動詞は箴言17:5(中態)と2マカベア6:8(能動態)にしか見られない。どちらの用例においてもヘブル語のオリジナルではない。従ってギリシア語におけるユダヤ人のスプランクナの用法に関して、70人訳によって旧約聖書のヘブル語的背景が何であるかを語ることは出来ない。70人訳において、通常ラハミムと同意の言葉はスプランクナではなく、オイクティルモイである。同様に70人訳において、ラハムの同意語はオイクティロー(新約においてはR.9:15における旧約からの引用のみ)またはエレオーであって、決してスプランクニゾマイではない。2マカベヤ6:8において、この語はいけにえのための用語である。…他の参照個所においてこの語の一般的な意味は「内臓」である。
しかし、ときどきスプランクナが“感情の座”を意味する用法が見られる。この意味への移行が見られる一つは2マカベヤ9:5f.である。LXT 2 Maccabees 9:5f.(“耐えられない悲しみが彼の上に彼のはらわたに迫った”、“他の者の心”)。この関連において箴言26:22も参照する。“陰口をたたく者のことばは、おいしい食べ物のようだ。腹(スプランクナ)の奥に下っていく。”Sir.30:7:…
少なくとも、さらに明確な用法のヒントが箴言の2つの個所に見られる。箴言12:10の(悪者のあわれみ(スプランクナ)は、残忍である。)はおそらくスプランクナを明白にあわれみがわき起こる座であると見なしていることを前提とする。70人訳の箴言17:5は、スプランクニゾマイ(中態)が現れる唯一の例であり、初めてこの動詞が“あわれみ深くあること”という意味で使われている。他の場合に転じた用例におけるスプランクナはただ“自然な感情”を意味する。4マカベヤ14:13ではこの語は“母の愛”を意味している。…終りに、アブラハムはこの感情の戦いのモデルとして明白に示されている。14:20,15:28。Wis. 10:5 においてもまた、アブラハムは… H. Koster
Test.]U(12族長の遺訓:後期ユダヤ文献)は顕著にあわれみ深い、あわれみを示すといった意味が含まれる最初の文献であり、名詞、動詞共に頻繁に用いられている。またここではスプランクナとスプランクニゾマイがそれぞれラハミムとラハムの代りにされており、新約聖書における用法のための備えを作り出している。(cf. Test.Zeb. 7:3; 8:2, 6 with 1QS1:21; 2:1; cf. H Koster, TDNT VII 552)。H.-H. Esser
総括的に12部族の遺訓における用例を見ると、スプランクナ、スプランクニゾマイ、エウスプランクノスは、70人訳において用いられていたオイクティルモイ、オイクティロー、オイクティルモーンに代って、完全に置き換えられているということを見ることができる。従ってそれらは、ヘブル語ラハミム、ラハム、ラフ―ムの新しい翻訳(a new translation)である。ヘセッドとラハミムという組み合わせは旧約聖書においてよく見られるが、12部族の遺訓においては、もはや70人訳で見られたエレオスとオイクティルモイ(ホセア2:21)ではなくエレオスとスプランクナである。 特に、スプランクナ エレウースという属格の組み合わせ(Test. Zeb. 7:3; 8:2,6)によって、後期ヘブル語における用例、すなわち死海写本における用例に戻って参照することができる。これはヘブル語の逐語的な翻訳である (1QS1:22、1QS2:1)。
スプランクナによるラハミムの翻訳は70人訳においては実際に導入されていなかった、しかし後期のユダヤ人の文献において、明確に取り入れられた。そしてその用例は特に、ヘブル語における終末的な要素を保ち、疑いもなく新約聖書における用法のための直接的な前提である。このことは70人訳でよく用いられているオイクティルモイの語群が、なぜ新約聖書において非常にまれにしか見られないのかという理由を説明する。それはいくつかの初期のキリスト者の文献において、スプランクナの語群が、非常に明確にヘブル語ラハミムの感覚を表現しているからである。 H. Koster
NT1 ルカ1:78における用法は別として、共観福音書において、スプランクナ(名詞)とその形容詞の派生語を見つけることは出来ない。しかし共観福音書においてのみ、その動詞形を見つけることが出来る。
NT2 動詞スプランクニゾマイは次に示す2つのケースにおいて用いられている。
(a)イエス・キリストの態度、感じ方において
(b)3つのたとえ話の転換点における重要人物の行動において
(a)この単語の意味は、人々の必要の叫びを目にして“イエス・キリストの心は急激に締め付けられた”という逐語的な意味を超え、イエス・キリストのメシアニック・コンパッションを表している(cf.H. Koster, TDNT VII 554)。そのような例は以下の箇所に見られる。→嘆願するひとりのらい病人(マルコ1:41)、羊飼いのいない羊のような人々(マルコ6:34、マタイ14:14、またマルコ8:2、マタイ15:32も参照:“I have compassion(新改訳:かわいそうに)”と直接語っている)、12弟子を遣わす直前に、苦しめられ、疲れ果てている群衆(マタイ9:36)、イエスに懇願する2人の目の見えない人(マタイ20:34)、ひとり息子が死んで嘆き悲しんでいるナインのやもめ(ルカ7:13)。マルコ9:22においては、悪霊を追い出してもらうための嘆願の祈りの中で、この言葉が使われている!(マタイ17:15ではエレオスが使われている)
(b)以下の2つのたとえ話、すなわち、マタイ18:23−35の赦さないしもべのたとえ、そしてルカ15:11−32における放蕩息子のたとえにおいて、スプランクニゾマイは最も強いあわれみの感情(the strongest feeling of a merciful)(マタイ18:27)、あるいは最も強い愛の反応(loving reaction)(ルカ15:20)を表現している。そしてそれらのたとえ話において、スプランクニゾマイは物語の転換点を形成している。そして対照的に、どちらのケースにおいても、私たちはもっともな拒絶(righteous rejection)の極み(→怒り)の表現を見ることが出来る(マタイ18:34、ルカ15:28、 TDNT VII 554参照)。いずれのたとえ話においても、スプランクニゾマイは抑えきれない神の無限のあわれみを、あきらかに感じとれるように表現している。最初のたとえ話においては、致命的、決定的な怒りをも、私たちは見る。それは、あわれみを体験し続けているが、彼自身が無慈悲になることによって、そのあわれみを受けているという事実を拒んだしもべに対しての怒りである。
良きサマリヤ人のたとえ(ルカ10:30−37)において、33節のスプランクニゾマイはあらゆる手段、時間、力、そしていのちを、危機的な状況において救助のために用いることをいとわない態度(the attitude of complete willingness)を表している。それは反対側を通り過ぎていくことと対照的である(31,31節)。見ることと、助けるために備えることは一つであるので、それはイエスご自身がそうであったように、eleos(37a)と呼ばれているこの一連の出来事のような行動に向かわせる。人間性と隣人愛は質ではなく、行動である(37節)。H.-H. Esser
1、 共観福音書におけるsplagcnivzomai Test. XII(→551,14ff.)における用法がここでも用いられている。しかし、イエスの語られた独創的なたとえ以外においては、人間に対して使われている用例はない。この語はいつでもイエスの態度を記述するために用いられており、彼の神性を特徴づけている。共観福音書以外においてこの動詞が用いられている初期のクリスチャン文章のひとつ、すなわちヘルマスの牧者においても、この語は神に対してだけ用いられている。→558,5ff. 最終的に、このsplagcnivzomaiという動詞はただ単に神に関する属性を表現するものとなった。
a.この動詞はイエスの3つのたとえにおいて中心的位置を占める。そしてここで、非常に明確に人間の特別な態度を示す。最初に記されるべきことは、その3つのうち2つのたとえではあるが、この人間の態度は究極的には神の国の到来の視点から詳細に説明するものとなる。ひどいしもべのたとえ(Mt.18:23-35)において、しもべは…と祈り(26節)、そしてその答を私たちは27節に読む:…。 H. Koster
ここで、改めてエレミヤ31:20において「我が腸かれの為に痛む」と並行して用いられているラハムという動詞に注目したい。北森はこの語についてコメントしていないが、ラハムは子宮を意味する名詞レヘムあるいはラハムから派生した動詞で「あわれむ」という意味である。エレミヤ31:20において、このラハムという語は以下のように重ねて2回用いられている。
(WTT Jeremiah 31:20 参照)
ここでレヘイムはラハムの不定詞の独立形(強意法)であり、強意語幹の能動態(piel形)である。さらにその直後に重ねて用いられている語は、同じくラハムの強意語幹の能動態(piel形)であるが、未完了形、1人称、両性、単数である。これに「彼を」を意味する3人称男性単数の接尾辞がついている。
ここではラハムが強調形で重ねて用いられることによって非常に強調され、「私は必ず深くあわれむ!いや、私は彼をあわれまずにはおれないのだ!」というようなニュアンスの言葉になっていると考えられる。このようなニュアンスはまさに平行してその直前に記されている「我が腸かれの為に痛む」と同じニュアンスを持つ言葉であると言える。従って、このラハムというヘブル語はギリシア語スプランクニゾマイと同じニュアンスを持った言葉であると言える。12部族の遺訓における翻訳の用例も、このことを確証づける強力な根拠となる。ヘンリー・J.M.ノーエン[28]、J・シュニ―ヴァント[29]、らもこのことを指示している。
けれども新約聖書において、スプランクニゾマイによって、キリスト中心的に神の心が語られているのを見る時、エレミヤ31:20における「我が腸かれの為に痛む」という表現のニュアンス、また、同じテキストにおいて強意形で重ねて用いられているヘブル語ラハムの持つ「深くあわれまずにはおれない、必ずあわれむ」という言葉のニュアンスを、さらに豊かにまた雄弁に語っていると考えられる。
なお、エレミヤ31:20の前の文脈を見ると、このように神の心を深いあわれみへと揺り動かしたものが何であったのかが記されている。
わたしは、エフライムが嘆いているのを確かに聞いた。『あなたが私を懲らしめられたので、くびきに慣れない子牛のように、私は懲らしめを受けました。私を帰らせてください。そうすれば、帰ります。主よ。あなたは私の神だからです。私は、そむいたあとで、悔い、悟って後、ももを打ちました。私は恥を見、はずかしめを受けました。私の若いころのそしりを負っているからです。』と。 エレミヤ31:18−19
ラハムの名詞形ラハミムというヘブル語はヘセッドと組み合わせて用いられることが多い。以下にラハミム(ラハム)とヘセッドの違いを、レオン・モリスの著書『愛―聖書における愛の研究』から引用する。ヘセッドは相応しくない者と一方的に結んだ恵みの契約に対する誠実である。しかしラハミム(ラハム)は、契約を破り、裏切った相手に対する愛であると言える。本来ならば、相手が契約を破った故に、裏切られた者には相手に誠実を尽くし続ける何の義務もない。しかしラハムは、ただ恵みによって、悔いた裏切り者を自由に赦す驚くべき愛である。
『ラハミムが用いられるときには、ヘセッドの場合のように義務に対する忠誠という意味あいは含まれていない(2)。ヘセッドは普通、対応する義務(おそらく契約)との関係を含むように思われる。それゆえ、W・アイヒロットは、その語[ラハミム]は「いかなる義務によっても喚起されない愛の全く自然な表現(3)」を指すと主張している。この用語が用いられるとき、「愛」の意味内容は、それが特に悩みや窮乏のうちにある人々に対する愛であるにもかかわらず、表面的である。だが、これで全部というわけではない。なぜなら、この語はすべての人に対する神の愛を記述するためにも用いられているからである―事実、それは、すべての被造物に対する神の愛を指している。「主はすべてのものに恵みを与え、造られたすべてのものをあわれんでくださいます」(詩145:9)と言われている。この愛には限界がない。そして、神のあわれみは神のすべての被造物に及んでいる。(4)この用語は、さらに限定された意味において、ヤハウエとイスラエルの結婚の「結納」の決定的な要素である。すなわち、「わたしはあなたと…いつくしみとあわれみとをもってちぎりを結ぶ」(ホセ2:19)と言われている。N・グレックは、ラハミムは「ヘセッドの境界を越える」と注釈している。彼は、「ヘセッドは契約に対する誠実であり、ラハミムはゆるす愛である(5)」と言って、両者の対照をいっそう簡潔にしている。名詞は全部で三九回用いられているが、そのうちの二七回が神に言及するために、そして、わずかに一二回が人間に言及するために用いられている。この種の愛は特に神(LORD)に特有なものであり、その用語は、神の恵みが豊かであることを強調するために用いられている。
これに対応する動詞ラハムも、全く同じ仕方で用いられている。この語に固有な訳は「あわれむ」(出33:19、など)であり、ヤハウエとの関連が、名詞の場合よりもいっそう明らかに認められる。四九回出てくるうち四十回も、主が、慈愛、あわれみ、愛を示し給うことについて語っている。形容詞ラフムは、語根を同じくする他の語ほど頻繁には用いられていない(全部で一三回出てくる)。それは常に神について語るために用いられている。それは普通、恵みの思想と関連づけられている(一一回)。そのことは、「主よ、あなたはあわれみと恵みに富む」(詩86:15―この節はさらに神のヘセッドについて語っており、これはこの形容詞が用いられている他の個所にも見られる現象である)とある通りである。悩みのうちにある者に対する神の恵み深い愛という思想は、旧約聖書の重要な要素である。』[30]
[1] カール・バルト『神の人間性―カール・バルト著作集3』、363頁
[2] J・シュニ―ヴァント『NTD 別巻 マタイの福音書』、257頁
[3] ウイリアム・バークレー『聖書注解シリーズ マタイ福音書上』、ヨルダン社、385頁
[4] 増田誉雄『新聖書注解 新約1』、いのちのことば社、1973年、118頁
[5] 加藤常昭『加藤常昭説教全集7 マタイによる福音書2』、ヨルダン社、1990年、479−481頁
[6] 増田誉雄『新聖書注解 新約1』、135頁
[7] J・シュニ―ヴァント『NTD 別巻 マタイの福音書』、393頁
[8] 加藤常昭『加藤常昭説教全集8 マタイによる福音書3』、393−395頁
[9] 集中構造については、ヨルダン社から刊行されている森彬の『聖書の集中構造上―旧約篇』(1991年)と『聖書の集中構造下―新約篇』(1994年)を参照
[10] 国語大辞典(新装版)小学館 1988
[11] 鈴木英昭『神の国への招き−たとえ話のこころ』、いのちのことば社、1999年、216−221頁を参照した
[12] 河野勇一『神学概論−東海聖書神学塾・基礎科(組織神学部門)』、1997年度改訂第二版、58−61頁参照
[13] J・ジースラー、森田武夫訳『パウロの福音理解−オックスフォード聖書概説シリーズ』、ヨルダン社、146−147頁参照
[14] D・ジェームズ・ケネディ、『拡大する伝道プログラム』、日本EE推進委員会、1995年、55頁
[15] J・シュニ―ヴァント『NTD 別巻 マタイの福音書』、454頁参照
[16] E・シュヴァイッアー『NTD マタイの福音書』、548頁
[17] 森彬『聖書の集中構造下―新約篇』、ヨルダン社、1994年、25−28頁
[18] 森彬『聖書の集中構造下―新約篇』、32−35頁
[19] 榊原康夫『新聖書注解 新約1(ルカの福音書)』、347頁
[20] 森彬『聖書の集中構造下―新約篇』、60−63頁
[21] 榊原康夫『新聖書注解 新約1(ルカの福音書)』、365頁
[22] カール・バルト、井上良雄訳『教会教義学 和解論T/2 僕としての主イエス・キリスト<上>』、6−7頁参照
[23] 河野勇一『神学概論−東海聖書神学塾・基礎科(組織神学部門)』、53-54頁参照
[24] 森彬著、聖書の集中構造下―新約篇、ヨルダン社、1994年
[25] フィリップ・ヤンシー、山下章子訳『だれも知らなかった恵み』、いのちのことば社、1998年、87−88頁
[26] J・シュニーヴァント『放蕩息子』、新教出版社、55−56頁
[27] フィリップ・ヤンシー『だれも知らなかった恵み』、87頁参照
[28] ヘンリー・J.M.ノーエン共著『コンパッション―揺り動かす愛』、女子パウロ会、1994年、25−26頁
[29] J・シュニ―ヴァント『放蕩息子』、新教出版社、1961年、55-56頁
[30] レオン・モリス『愛―聖書における愛の研究』、教文館、1989年、106-107頁
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