総括

 北森嘉蔵は『神の痛みの神学』において、預言者エレミヤの聞いた「我が腸かれの為に痛む」という神の言葉(エレミヤ31:20)によって、福音の心を神の痛みとして見た。これは自らの高ぶり、偶像礼拝、背信によって神の怒りの懲らしめを受けたエフライムが、砕かれた魂、砕かれた悔いた心をもって、自分の罪を嘆いているのを聞いたときに主なる神の心の底から生じた動きであった。

 カール・バルトは、キリスト中心的に神学を続ける歩みの中で、神の神性の内に含まれる「神の人間性」を見た。このことは、『神の人間性』においてはっきりとアクセントをつけて語られた。「神の人間性」は、神を憐れみの行為(共に苦しむこと)へと揺り動かす故に「神の受苦性」とも言える。バルトは絶対他者としての神の神性の中に、この神の人間性、神の受苦性を見た。

 共観福音書に記されているイエス・キリストに目を向け、エレミヤ31:20の「我が腸かれの為に痛む」と同じ響きを持つスプランクニゾマイというギリシア語に注目することによって、キリスト中心的な『神の痛みの神学』を試みた。

 共時的に見たスプランクニゾマイは、イエス・キリストに対してだけ用いられており、まさしく神の神性の内に含まれた神の人間性を表現している言葉であると言える。イエス・キリストは地上で最も偉大な人間以上の、人間とは質的に異なった、天地万物を創造された無限の神であり、同時に私たちと同じ肉体を持たれ、一人のユダヤ人として私たちの間に住んで下さって、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣いて下さった、本当の人間、神のかたちそのものであったと言えるのではないか。

 スプランクニゾマイということばで表現される心の動きは受動的である。まず良き羊飼いである神から迷い出た人間の、救いなき姿がイエスの瞳の中に映り、その砕かれた望みなき姿こそが、イエスの心を心底からゆり動かしているのである。それは羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている姿であり、強盗に襲われて道端に倒れている姿であり、返済不可能な莫大な負債を抱えてあわれみを乞う姿である。やみの中、死の影の地、涙の谷、砂漠を満たされることなくさまよう者たちの姿である。

 スプランクニゾマイを通時的に見た場合、あわれむ、かわいそうに思うといった隠喩(メタファー)的意味は、ユダヤ教の文献と新約聖書にしか見出すことが出来ない。スプランクニゾマイによるラハムの翻訳は70人訳においては実際に導入されていなかった、しかし後期のユダヤ人の文献(12族長の遺訓)において、新しい翻訳として明確に取り入れられた。そしてその用例は特に、ヘブル語における終末的な要素を保ち、疑いもなく新約聖書における用法のための直接的な前提である。

 新約聖書において、イエス・キリストに対してだけ用いられたスプランクニゾマイの持つニュアンスは、エレミヤ31:20における「我が腸かれの為に痛む」という表現のニュアンス、また、同じテキストにおいて強意形で重ねて用いられているヘブル語ラハムの持つ「深くあわれまずにはおれない、必ずあわれむ」という言葉のニュアンスをさらに豊かにまた雄弁に語っていると考えられる。スプランクニゾマイによって、キリスト中心的に神の痛む心、また歓喜がさらに雄弁に、豊かに語られている。それはただ恵みによって、悔いた裏切り者を自由に赦し、和解へと招く驚くべき愛である。

 『神の痛みの神学』のキリスト中心的理解によって、より具体的に、また明確に「神の痛み」の認識が可能となる。具体的、また明確な「神の痛み」の認識が、「人の痛み」が持つ壁を破る力となる。

結論

1、砕かれた人間の姿によって心の底から揺り動かされる神

 預言者エレミヤの聞いた「我が腸かれの為に痛む」という神の言葉(エレミヤ31:20)によって、福音の心を神の痛みとして見た。また同じテキストに重ねて用いられているラハムも「彼をあわれまずにはおれようか。私は彼を必ずあわれむ」というニュアンスであった。そして、これらの言葉によって表現される神の心の動きは、自らの高ぶり、偶像礼拝、背信によって神の怒りの懲らしめを受けたエフライムが、砕かれた魂、砕かれた悔いた心をもって、自分の罪を嘆いているのを聞いたときに、主なる神の心の底から生じた動きであった。

 スプランクニゾマイということばで表現される心の動きも受動的である。まず良き羊飼いである神から迷い出た人間の、救いなき姿がイエスの瞳の中に映り、その砕かれた望みなき姿こそが、イエスの心を心底からゆり動かしているのである。それは羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている姿であり、強盗に襲われて道端に倒れている姿であり、返済不可能な莫大な負債を抱えてあわれみを乞う姿である。それは、やみの中、死の影の地、涙の谷、愛のない砂漠、荒れ野を満たされることなく、自分勝手にさまよう罪人たちの姿である。

2、イエス・キリストによって明らかにされた「絶対他者」であり「痛む神」

 スプランクニゾマイは、イエス・キリストにだけ用いられることによって、私たち人間の痛み・あわれみと類比した場合のキリストの痛み・あわれみの質的差異を啓示している。そして同時に、この語はイエス・キリストの最も深いところからの痛み・あわれみを表現している。ただし、ルカの15章において放蕩息子の父親に対して用いられたスプランクニゾマイは、前後の文脈に共通して見られる喜びという調べから、失われていた息子を見つけた時の心底からの歓喜を表現している。

 そしてこの心の底からの動きが、イエスを具体的な愛の行動へと揺り動かしている。これが神を受肉と受難(COMPASSION)へと向かわせる神の大いなる情熱(PASSION)であり、和解によってあくまでも私たち人間と共に生きようとする動機である。

 スプランクニゾマイは、まさしく神の神性の極みとしての神の人間性(受苦性)を表現している言葉である。イエス・キリストは地上で最も偉大な人間以上の、人間とは質的に異なった、天地万物を創造された無限の神である。しかし同時に、イエス・キリストは私たちと同じ肉体を持たれ、一人のユダヤ人として私たちの間に住んで下さった人間である。イエス・キリストは喜ぶ者と共に喜び、痛む者と共に痛んで下さった、本当の人間、神のかたちそのものであったと言える。イエス・キリストによって明らかにされた真の神は、人間とは質的には異なるという意味で「絶対他者」であるが、私たちのために仕え、痛んで下さる恵み深い神である。スプランクニゾマイによって、キリスト中心的に神の痛む心、あわれむ心、喜ぶ心が雄弁に、豊かに語られている。それはただ恵みによって、悔いた裏切り者を自由に赦し、和解へと招く驚くべき愛である。

 『神の痛みの神学』のキリスト中心的理解によって、より具体的に、また豊かに「神の痛みに基礎づけられた愛」の認識が可能となった。この具体的、また豊かな「神の痛み」の認識が、私たち人間を心の底から揺り動かす。そして、この「神の痛みに基礎づけられた愛」への共鳴が、私たちを本当の意味で神を神として愛することへと促す。そしてこの揺り動かす愛が、私たちが持っている痛みの感受性を引き上げ、私たちが互いに愛し、赦し、隣人となって共に生きる原動力となる。

3、キリスト者の生活における苦難の積極的意味
  神の苦難へのチャレンジ

 新約聖書においてスプランクニゾマイが用いられている用例を見ると、以下のような苦難への招き、チャレンジが語られていると考えられる。これらはいずれもキリスト者の生活における苦難の積極的意味を提示している。

 赦す苦難、他者の為に生きる苦難、共に喜ぶ苦難、他者のために祈る苦難、信仰の苦難と表現したのは、キリストの愛に揺り動かされて、本気でキリストの命令に従おうとする時、しばしば葛藤や苦痛、困難を感じるチャレンジである故である。キリストは「自分の十字架を負ってわたしについて来なさい。」と言われる。このキリストに従う歩みとは、キリストの苦しみの欠けたところを満たすことに他ならない。苦しむこと、自己否定が目的(ゴール)ではない。しかし、苦難を通して、人間性がその極み(真の人間であるイエス・キリスト)の身丈まで成長すると私は確信する。

 これらの苦難の積極的な意味は、これらの御言葉に従うことを通して、私たちがイエス・キリストのように変えられるというところにある。それは、ちょうどアブラハムの生涯に見られるような、本当に私たち自身が全世界の祝福の基として他者のために存在する教会、キリスト者となるためであると考えられる。福音宣教の使命に生きる教会として、ともに公同のキリストのからだである世界教会のキリストの身丈まで成長していきたいと願わされている。

1、 赦し(あわれみ)による和解への招き
  一万タラントの借金(罪の負債)を十字架によって赦された者として、 隣人を赦し、和解の務めに生きる苦難へのチャレンジ

Mat 18:27 1万タラント(6千億円)の借金を赦す王のたとえ
       ―赦し難い罪の負債を徹底的に赦すスプランクニゾマイ
Mat 18:27 しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。
Mat 18:33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。

2、 良き隣人となることへの招き
  良き隣人キリストに助けられた者として、他者のために生きる苦難へのチャレンジ
  (自ら造ったの壁を超えて、憐れみ深く共に生きること)

Luk 10:33 良きサマリヤ人のたとえ:強盗に襲われた敵の隣人になった動機
―(民族間の・神と人との間の)敵意の壁を打ち破るスプランクニゾマイ

Mat 15:32(⇔マルコ8:2) 空腹の群衆を見られたイエスの口から、弟子たちに対して出たスプランクニゾマイ

Mar 8:2 (⇔マタイ15:32) 空腹の群衆を見られたイエスの口から、弟子たちに対して出たスプランクニゾマイ

Mar 6:34 羊飼いとしてのイエスの、失われていた羊に対する深い愛を表わすスプランクニゾマイ (⇔マタイ9:36、14:14)

Luk 7:13 ひとり息子の死を嘆き悲しんでいるナインのやもめを見た時のイエスの思い ―死を打ち破るスプランクニゾマイ


Luk 10:33-37
ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、 自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。 『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」 するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

Luk 6:36 あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深い者となりなさい。

 

3、悔い改めと喜びへの招き
  信仰によって神の愛を体験した者として、共に喜ぶ苦難へのチャレンジ

Luk 15:20 ルカ15章のたとえ:父が遠くに帰ってきた放蕩息子を見つけた時の思い ―失われた(死んでいた)息子を見出した父親の歓喜を表わすスプランクニゾマイ

Luk 15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。 ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、 走り寄って彼を抱き、口づけした。

Luk 15:31 父は彼に言った。『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。

Luk 15:32 だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。 いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」

4、祈りによる宣教の情熱への招き
  他者の為に祈る苦難へのチャレンジ

Mat 9:36 (⇔マルコ6:34) 羊飼いとしてのイエスの、失われていた羊に対する深い愛と宣教の情熱を表わす スプランクニゾマイ

Mat 9:36 また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。

Mat 9:37-38 そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」

5、信仰への招き
  信仰の苦難へのチャレンジ

Mat 14:14(⇔マルコ6:34) イエスの後を追ってくる病んでいる人々を癒すスプランクニゾマイ

Mat 20:34 二人の目の見えない人たちの嘆願に応えて癒されるスプランクニゾマイ

Mar 1:41 ひとりのらい病人の信仰による嘆願に応えられ、癒しをもたらすスプランクニゾマイ

Mar 9:22 イエスに対しての不信仰な祈りの中で用いられたスプランクニゾマイ


Mat 14:13-14 イエスはこのことを聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。 すると、群衆がそれと聞いて、町々から、歩いてイエスのあとを追った。イエスは舟から上がられると、多くの群衆を見られ、 彼らを深くあわれんで、彼らの病気を直された。

Mat 20:29-34 彼らがエリコを出て行くと、大ぜいの群衆がイエスについて行った。すると、道ばたにすわっていたふたりの盲人が、イエスが通られると聞いて、叫んで言った。「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」そこで、群衆は彼らを黙らせようとして、たしなめたが、彼らはますます、「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」と叫び立てた。すると、イエスは立ち止まって、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」彼らはイエスに言った。「主よ。この目をあけていただきたいのです。」イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。 すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。

Mar 1:40-42 さて、ひとりのらい病人が、イエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。「お心一つで、私はきよくしていただけます。」イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」すると、すぐに、そのらい病が消えて、その人はきよくなった。

Mar 9:22-24 この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」

謝辞

 この卒業論文を書くにあたり、いつも笑顔をもって私を支えてくれた妻敦子にまず感謝をしたい。また、私をここまで育てて下さった父泰造と母瞳に、また妹紅理にも感謝をする。また親族の方々にも感謝をする。

 私が現在所属している日本同盟基督教団・豊橋ホサナキリスト教会の森川昌芳牧師夫妻、阿部起士牧師夫妻、田中秀之牧師夫妻、阿部真和師、ケアン宣教師、また役員の方々、スタッフの方々、教会員の方々、青年会、ファミリー、豊橋技術科学大学・聖書研究会の卒業生と在学生の兄弟姉妹に心から感謝する。特に、豊橋ホサナキリスト教会の兄姉は、この4年間、私を教会献身者として受け入れて下さり、祈りと尊い捧げ物によって私を支え、東海聖書神学塾に送り出して下さった。またアルバイトをさせて頂いた竹下電気設備商会の兄姉にも心から感謝をする。また、神学生として私のことを祈りに覚え、学びを支えて下さった、東海地区を中心とする諸教会、またCCC、KGKの兄弟姉妹にも心から感謝をする。

 そして、本論文の執筆に関して、特に御指導を頂いた河野勇一師に感謝する。また、私が受講したクラスにおいて、手弁当で教鞭をとって下さった鈴木健之師、後藤喜良師、末松隆太郎師、ブルッテル・モニカ師、エミー・ミュラー師、富沢誠治師、水上勲師、入川達夫師、兼松一二師、渡辺睦夫師、川口一彦師、隈上正敏師、村上久師、安村仁志師、黒川知文師、明田勝利師、吉永真師、赤坂泉師、杉山明師、小峰明師、相馬伸郎師、橋谷英徳師、鍛治勉師、服部真光師、岡本伸之師、服部滋樹師ら、そして羽鳥純二塾長に心から感謝する。

 また、羽鳥泰樹師、野田英敏師、野田喜裕師、湯沢英房師、森澤伸次師、井森隆司師、神明宏師、鴨下直樹師、小岩井健師、佐野泰道師、吉田和郎兄、馬場茂寿兄、林栄人兄、荒川善久兄、河合昭雄兄をはじめとする東海聖書神学塾の卒業生と在塾生にも心より感謝する。また、『横浜上野町教会よりアジアの中の日本にある基督教徒に送る手紙』を送って下さった横尾茂安兄にも感謝する。

 たくさんの方々の励ましと祈りによって、これからの伝道・牧会のために必要な学びと訓練の時を持たして下さったことに心から感謝をする。そして何よりも、私に永遠のいのちを与えるために、十字架に架かって死んで下さり、復活され、世の終りまでもいつも共にいてくださる、恵みとまことに富んでおられる主イエス・キリストの三位一体の神に、心から感謝と賛美とすべての栄光を捧げる。

栄光在主

A.D.2000年2月25日

豊橋ホサナキリスト教会・東田チャペルにて

野町 真理

参考文献

 ここでは、本文中に脚注という形で引用した文献に加えて、参考にした文献を項目ごとに挙げる。なお、本論文中の聖書テキストは文語訳を除いてJ・BIBLE 1stと2nd(日本コンピュータ聖書研究会)及びBible Works4.0(HERMENEUTIKA)から引用した。

北森嘉蔵に関する文献

日本基督教団千歳船橋教会『「神の痛み」の60年−北森嘉蔵牧師記念誌』、1999年

北森嘉蔵『ガラテヤ人への手紙講解説教』、教文館、1999年

ジョアンナ&アリスター・マグラス『自分を愛することのジレンマ(THE DILEMMA OF SELF-ESTEEM)』、いのちのことば社、1996年

北森嘉蔵『日本人と聖書』、教文館、1995年

A.リチャードソン/J.ボウデン編、佐柳文男訳『キリスト教神学事典』、教文館、1995年

井上良雄『戦後教会史と共に1950−1989』、新教出版社、1995年

佐藤敏夫『キリスト教神学概論』、新教出版社、1994年

宮本威『神の痛みの神学を読む』、キリスト新聞社、1993年

中島修平『ホスピスの窓から−産みの痛みの神学』、キリスト新聞社、1993年

中島修平、中島美知子『福音主義神学16「実践的神義論をめざして:痛みの神学的解釈と牧会的応用−末期癌性痛を中心として」』、日本福音主義神学会、1985年

北森嘉蔵『憂いなき神―聖書と文学』、講談社学術文庫、1991年

J.モルトマン『二十世紀神学の展望』、新教出版社、1989年

北森嘉蔵『神の痛みの神学』、講談社学術文庫、1986年

『新教コイノニア3 日本のキリスト教とバルト』、新教出版社、1986年

E.S.ゲルステンベルガー/W.シュラーゲ、吉田泰/鵜殿博喜訳『苦しみ(Leiden)』、ヨルダン社、1985年

H.G.ペールマン、蓮見和男訳『現代教義学総説』、新教出版社、1982年

北森嘉蔵『自乗された神』、日本之薔薇出版社、1981年

北森嘉蔵以外による神の受苦性に関しての文献

J.モルトマン、沖野政弘訳『今日キリストは私たちにとって何者か』、新教出版社、1996年

A.リチャードソン/J.ボウデン編、『キリスト教神学事典』、教文館、1995年

中島修平『ホスピスの窓から−産みの痛みの神学』、キリスト新聞社、1993年

J.モルトマン、土屋清訳『組織神学論叢1 三位一体と神の国 神論』、新教出版社、1990年

寺園喜基『バルト神学の射程』、ヨルダン社、1987年

E.S.ゲルステンベルガー/W.シュラーゲ、吉田泰/鵜殿博喜訳『苦しみ(Leiden)』、ヨルダン社、1985年

H.G.ペールマン、蓮見和男訳『現代教義学総説』、新教出版社、1982年

エバハルト・ユンゲル、大木英夫・佐藤司郎訳『神の存在−バルト神学研究』、ヨルダン社、1984年

ヘルムート・ティーリケ、大崎節郎訳『主の祈り−世界を包む祈り』、新教出版社、1962年

カール・バルトに関する文献

カール・バルト、小川圭治・岩波哲男訳『世界の大思想33 ローマ書講解(第2版)』、河出書房新社、1969年

カール・バルト、井上良雄訳『教会教義学 和解論T/1 和解論の対象と問題』、新教出版社、1959年

カール・バルト、井上良雄訳『教会教義学 和解論T/2 僕としての主イエス・キリスト<上>』、新教出版社、1960年

カール・バルト、井上良雄訳『教会教義学 和解論T/3 僕としての主イエス・キリスト<中>』、新教出版社、1960年

カール・バルト、井上良雄訳『教会教義学 和解論T/4 僕としての主イエス・キリスト<下>』、新教出版社、1961年

カール・バルト、井上良雄訳『地上を旅する神の民−バルト「和解論」の教会論』、新教出版社、1990年

カール・バルト、鈴木正久訳『キリスト教倫理U−交わりにおける自由』、新教出版社、1964年

カール・バルト、井上良雄訳『啓示・教会・神学/福音と律法』、新教出版社、1960年

カール・バルト、寺園喜基訳『神の人間性―カール・バルト著作集3』、新教出版社、1997年

カール・バルト、加藤常昭訳『福音主義神学入門―カール・バルト著作集10』、新教出版社、1968年

カール・バルト、天野有訳『キリスト教的生T』、新教出版社、1998年

カール・バルト、天野有訳『キリスト教的生U』、新教出版社、1998年

カール・バルト、佐藤敏夫訳『バルト自伝』、新教出版社、1996年復刊第1刷

エバーハルト・ブッシュ、小川圭治訳『カール・バルトの生涯』、新教出版社、1989年

富岡幸一郎『使徒的人間―カール・バルト』、講談社、1999年

大木英夫『人類の知的遺産72 バルト』、講談社、1984年

大島末男『人と思想75 カール=バルト』、清水書院、1986年

『新教コイノニア3 日本のキリスト教とバルト』、新教出版社、1986年

寺園喜基『バルト神学の射程』、ヨルダン社、1987年

吉永正義『受肉と聖霊の注ぎ−バルト神学とその特質U』、新教出版社、1992年

エバハルト・ユンゲル、大木英夫・佐藤司郎訳『神の存在−バルト神学研究』、ヨルダン社、1984年

日本的思惟・罪責告白に関する文献

大内三郎、土肥昭夫、堀光男、柏井創編纂、『日本基督教団史資料集 第2篇 戦時下の日本基督教団(1941〜1945年)』、日本基督教団出版局、1998年

土居健郎『「甘え」の構造』、弘文堂、1971年

太田和功一『アジアのキリスト者とともに』、いのちのことば社、1986年

井戸垣彰『このくにで主に従う―日本人とキリストの福音』、いのちのことば社、1985年

井戸垣彰『日本の教会はどこへ―戦前・戦中・戦後の教会の姿』、いのちのことば社、1992年

井上良雄『戦後教会史と共に1950−1989』、新教出版社、1995年

日本同盟基督教団・横浜上野町教会役員会一同、『横浜上野町教会よりアジアの中の日本にある基督教徒に送る手紙』、1995年2月26日

渡辺信夫『教会が教会であるために 教会論再考』、新教出版社、1992年

渡辺信夫『今、教会を考える』、新教出版社、1997年

リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー、永井清彦訳『荒野の40年―ヴァイツゼッカー大統領演説(岩波ブックレットNO.55)』、岩波書店、1986年

J.モルトマン『二十世紀神学の展望』、新教出版社、1989年

スプランクニゾマイ、ラハムに関する文献

Editor:Colin Brown, ”The New International Dictionary of New Testament Theology”

Editors:GERHARD KITTEL, GERHARD FRIEDRICH, “Theological Dictionary of the New Testament(TDNT) Vol.VII”, EERDMANS

Horst Balz, Gerhard Schneider, ”EXEGETICAL DICTIONARY OF THE NEW TESTAMENT(EDNT) Vol.1-3”, EERDMANS

森彬『聖書の集中構造上―旧約篇』、ヨルダン社、1991年

森彬『聖書の集中構造下―新約篇』、ヨルダン社、1994年

ヘンリー・J.M.ノーエン共著『コンパッション―揺り動かす愛』、女子パウロ会、1994年

レオン・モリス『愛―聖書における愛の研究』、教文館、1989年

加藤常昭『加藤常昭説教全集7 マタイによる福音書2』、ヨルダン社、1990年

加藤常昭『加藤常昭説教全集8 マタイによる福音書3』、ヨルダン社、1991年

J・シュニ―ヴァント『NTD 別巻 マタイの福音書』

E・シュヴァイッアー『NTD マタイの福音書』

ウイリアム・バークレー『聖書注解シリーズ マタイ福音書上』、ヨルダン社

増田誉雄『新聖書注解 新約1(マタイの福音書)』、いのちのことば社、1973年

山口昇『新聖書注解 新約1(マルコの福音書)』、いのちのことば社、1973年

榊原康夫『新聖書注解 新約1(ルカの福音書)』、いのちのことば社、1973年

鈴木英昭『新聖書講解シリーズ3 ルカの福音書』、いのちのことば社、1983年

J・シュニ―ヴァント『放蕩息子』、新教出版社、1961年

鈴木英昭『神の国への招き−たとえ話のこころ』、いのちのことば社、1999年

A.M.ハンター、吉田信夫訳『イエスの譬えの意味』、新教出版社、1982年

河野勇一『神学概論−東海聖書神学塾・基礎科(組織神学部門)』、1997年度改訂第二版

J・ジースラー、森田武夫訳『パウロの福音理解−オックスフォード聖書概説シリーズ』、ヨルダン社

D・ジェームズ・ケネディ、『拡大する伝道プログラム』、日本EE推進委員会、1995年

国語大辞典(新装版)小学館、1988年

その他

R.ボーレン、加藤常昭訳『憧れと福音』、教文館、1998年

D.ボンヘッファー、森平太訳『ボンヘッファ−選集3 キリストに従う(NACHFOLGE)』、新教出版社、1975年

D.ボンヘッファー、森野善右衛門訳『共に生きる生活』、新教出版社、1975年

ヘンリー・J.M.ノーエン、太田和功一訳『いま、ここに生きる』、1997年

フィリップ・ヤンシー、村瀬俊夫訳『痛むキリスト者とともに』、いのちのことば社、1996年(改題発行)

フィリップ・ヤンシー、山下章子訳『神に失望した時』、いのちのことば社、1996年

フィリップ・ヤンシー、山下章子訳『だれも知らなかった恵み』、いのちのことば社、1998年


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