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桜並木 with PENTAX K-7
礼拝メッセージ「悪者と共に葬られた神 A grave with the wicked」
礼拝メッセージ「悪者と共に葬られた神 A grave with the wicked」(クリックで聴けます)
聖書箇所:イザヤ53章7−9節
彼(イエス・キリスト)の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。イザヤ53章9節
今年もいよいよ受難週に入りました。聖書に記されているように、無罪のイエス・キリストが、私たちが受けるべき天罰を身代わりに受け、十字架で死なれたのが金曜日でした。それで受難週の金曜日は、「良い金曜日 GOOD FRIDAY」と呼ばれています。
東日本大震災が起こったのは、受難節に入ったばかりの3月11日金曜日14時46分でした。
イエス・キリストが十字架の上で息を引き取られたのは、金曜日の15時すぎでした(マタイ福音書27章等参照)。あらゆる苦難の中に十字架が立っています。
預言者イザヤは、上記のみことばのように、救い主の墓は悪者どもとともに設けられることを預言しました。しかし福音書には、まだだれも葬られたことのない新しい墓にイエス・キリストは埋葬されたと記録されています(ヨハネ福音書19章等参照)。
実に信仰のスタートラインであるバプテスマ(洗礼)においてこそ、預言者イザヤが預言した神の言葉は出来事になるのです。
「私たち(悪者ども)は、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。」ローマ書6章4節
宮代町の桜並木 with PENTAX K-7
杉戸町からサザエさん通りへ with PENTAX K-7
礼拝メッセージ「痛みと病を負う神 Pain of God」
礼拝メッセージ「痛みと病を負う神 Pain of God」(クリックで聴けます)
聖書箇所:イザヤ53章4−6節
まことに、彼(イエス・キリスト)は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。イザヤ53章4節
イザヤが語る神、イエス・キリストが、「悲しみ」、「痛み」、そして「病」を知っておられる理由。
それはイエス・キリストが、被災地に実際に赴かれた結果、もはや支援者ではなく、被災者になられたからです。
その時私たちは思いました。イエスは罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
私たちは思ったのです。イエスの上に天罰が下ったのだと。
しかしイエス・キリストが受けられた苦難の真相は、今日のみことばに明確に啓示されています。
『まことに、彼(イエス・キリスト)は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。・・・しかし、彼(イエス・キリスト)は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼(イエス・キリスト)への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼(イエス・キリスト)の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼(イエス・キリスト)に負わせた。』
痛みと病を負う神 Pain of God
Sugito Gospel Cafe 杉戸福音喫茶のご案内
杉戸キリスト教会清地チャペル
礼拝メッセージ「痛みと病を知る神 Pain of God」
礼拝メッセージ「痛みと病を知る神 Pain of God」(クリックで聴けます)
聖書箇所:イザヤ52章13節-53章3節
彼(イエス・キリスト)はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人(痛みを知る人)で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。イザヤ53章3節
イースター・復活祭へと向かう受難節の中、今日から4回に分けて、イザヤ書を通して、今を懸命に生きようとする私たちに語りかける神のみことばに耳を傾けましょう。
イザヤ書は預言の書の一つです。イエス・キリストがこの世に肉体をもって来られる700年ほど前に、預言者イザヤは神から預かったみことばを書き記しました。そこには、神のしもべイエス・キリストの、栄光と苦難に満ちた姿が詳細に描かれています。
イザヤはまず、高く上げられたしもべの栄光に満ちた姿を描きます。そして次に、そのしもべが高く上げられる前、最も低いところに下られた時の、苦難に満ちた姿を克明に描き出します。
「悲しみの人」という表現は、「痛みを知る人」とも訳せます。そしてその方は、「病を知っていた」とイザヤは語ります。実にイザヤが語る神は、「悲しみを知る方」であり、「痛みを知る方」であり、そして「病を知っていた方」です。
なぜイザヤが語る神は、「悲しみ」や「痛み」や「病」を知っておられるのでしょうか。
それはその方が、被災地に実際に赴いた結果、もはや支援者ではなく、被災者になられたからです。