礼拝メッセージ「パウロの護送」

礼拝メッセージ「パウロの護送」

聖書箇所:使徒の働き23章12-35節

そしてふたりの百人隊長を呼び、「今夜九時、カイザリヤに向けて出発できるように、歩兵二百人、騎兵七十人、槍兵二百人を整えよ。」と言いつけた。また、パウロを乗せて無事に総督ペリクスのもとに送り届けるように、馬の用意もさせた。使徒23章23-24節

夜が明けると40人以上のユダヤ人が、パウロを殺してしまうまで飲み食いしないと誓い合いました。パウロ暗殺計画が話し合われていた時、パウロの姉妹の子がそれを耳にし、パウロにそれを知らせました。パウロは百人隊長を呼んで、その青年を千人隊長のところに連れて行くように頼みました。

その結果、上記のように武装した470人の兵士たちによって、パウロは無事にカイザリヤに護送されることになりました。

パウロに対する主なる神のお取り扱いを通して、私たちに対する主なる神のお取り扱いを覚えることができます。

主よ、感謝します!なぜならあなたは、私たちを鍛え上げるために、私たちを育て上げるために、苦しみや痛みの中を通されるからです。そしてあなたは真実な方ですから、私たちを耐え忍ぶことのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道(出口)も備えてくださいます。(ヤコブ1章2-4節、1コリント10章13節参照)

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ペンテコステ礼拝メッセージ「勇気を出しなさい」

ペンテコステ礼拝メッセージ「勇気を出しなさい」

聖書箇所:使徒の働き23章1-11節

その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。」と言われた。使徒23章11節

ローマ市民であることを主張したパウロは、鎖を解かれ、議会においてあかしをする機会が与えられました。パウロは、議員の中にサドカイ人とパリサイ人がいるのを見て、「私はパリサイ人であり、死者の復活という望みのことでさばきを受けているのです。」と叫びました。

サドカイ人は、復活や御使いや霊の存在を否定していました。しかしパリサイ人は、復活はあり、御使いや霊も存在すると肯定していました。

それで議会は真っ二つに割れ、大混乱になりました。論争がますます激しくなった時、千人隊長はパウロが彼らに引き裂かれてしまうのではないかと心配し、パウロが殺されないように兵営に連れ出しました。

その夜、パウロは上記のような励ましのメッセージを、主イエスから受けました。パウロは、度重なる試練の中で疲れ果て、勇気を失い、意気消沈していたのでした。

私たちの救い主である主イエス様は、私たちのすべてを知っていてくださいます。そして、『神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。(詩篇46篇1節)』なのです。

礼拝メッセージ「パウロの弁明」

礼拝メッセージ「パウロの弁明」

聖書箇所:使徒の働き22章1-30節

すると、主は私に、『行きなさい。わたしはあなたを遠く、異邦人に遣わす。』と言われました。」人々は、彼の話をここまで聞いていたが、このとき声を張り上げて、「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしておくべきではない。」と言った。使徒22章21-22節

パウロは、ユダヤ人同胞に向かってヘブル語で語りかけたので、人々はますます厳粛になり、パウロの話に耳を傾けました。パウロは、自らの生い立ちから始めて、神であられる主イエスが何をしてくださったのか、その後自分がどう変えられたのかを証ししました。

パウロは、厳格な教育をエルサレムで受けた正統派ユダヤ人でした。その熱心さは、キリスト者たちを迫害し、死に至らせるほどでした。

ところがダマスコ途上で、パウロは復活の主イエスの威光に打ちのめされました。弱さの中で心眼が開かれたパウロは、ためらわずにバプテスマ(洗礼)を受け、主イエスの証人とされたのでした。

「主なる神がパウロを異邦人に遣わされる」という内容のことをパウロが語った瞬間、静かに耳を傾けていた人々は、再び暴徒となりました。

千人隊長はパウロをむち打って取り調べることを命じました。けれどもパウロがローマ市民であることを主張したので、パウロは再び鎖を解かれ、議会において証言する機会が与えられました。

母の日歓迎礼拝メッセージ「母の涙」

母の日歓迎礼拝メッセージ「母の涙」

聖書箇所:使徒の働き21章17-40節

彼らがパウロを殺そうとしていたとき、エルサレム中が混乱状態に陥っているという報告が、ローマ軍の千人隊長に届いた。彼はただちに、兵士たちと百人隊長たちとを率いて、彼らのところに駆けつけた。人々は千人隊長と兵士たちを見て、パウロを打つのをやめた。使徒21章31-32節

パウロやルカたちがエルサレムに着くと、そこには嵐の前の静けさがありました。しかし静けさは、やはり長くは続かず、速やかに暗雲がエルサレムを覆い尽くしていきました。

突風が四方八方からパウロを目がけて吹き付け、横殴りの激しい雨霰が、容赦なくパウロの身体を痛めつけ、怒り狂った雷が、上から横からパウロに襲いかかっている。状況はまさしくそのようでした。同胞のユダヤ人たちが、明確な殺意をもってパウロを殺そうとしていたのです。

もしもその光景を、パウロの母が見ていたとしたら、どんな気持ちになったでしょうか。お腹を痛めて産んだ自分の息子が、屠殺されるような姿を見ていたとしたら。

パウロの場合には、その場に母はいなかったと思われます。そしてパウロは、エルサレムで殺されることにはなりませんでした。しかしイエス・キリストの場合には、そこに母マリヤがいて、死に至るその苦しみを見ていたことを聖書は記録しています。(ヨハネ福音書19章25-27節参照)

礼拝メッセージ「死を覚悟して」

礼拝メッセージ「死を覚悟して」

聖書箇所:使徒の働き21章1-16節

するとパウロは、「あなたがたは、泣いたり、私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています。使徒21章13節

使徒パウロはミレトでの告別説教を終えた後、船に乗り込み、エルサレムに向かって旅立ちました。

旅の途中、各地に立ち寄る度に、御霊に示された弟子たちや預言者が、パウロにエルサレムに上らないようにと忠告しました。

最後には旅の同伴者であったルカたちも、土地の人たちと共に、エルサレムには上らないようにとパウロに頼みました。

その時パウロがルカたちに語った言葉が、上記のみことばです。

パウロは主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟していたのでした。

パウロの姿は、なわめと苦しみが待つエルサレムに上っていかれた主イエスの姿と重なってきます。

主イエスは、私たちを救うために天から地上に降りて来られ、最後の晩餐(聖餐)を経て十字架の死に至るエルサレムに、死を覚悟して上っていかれたのでした。

礼拝メッセージ「教会とは何か」

礼拝メッセージ「教会とは何か」

聖書箇所:使徒の働き20章28-38節

あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。使徒20章28節

「教会」とは何でしょうか?あなたは「教会」と聞いて何をイメージされるでしょうか?教会(チャーチ)とは、教会堂(チャペル)ではありません。単なる仲間(フェローシップ)でもありません。

教会形成という大切な働きを、しっかりと引き継いでもらうために、パウロは以下のような聖書に基づく教会観を持って、告別説教を語りました。

①教会とは、呼び集められた自分自身と群れの全体である。集まるための建物ではなく、信仰告白による共同体である。

②教会は、神ご自身の尊い血をもって買い取られた。故に、教会の所有者であり雇い主は、神である。

③教会は、様々な嵐の中に置かれる。

④教会は、みことばによって育成され、苦しみを通って栄光の御国を受け継ぐ。

⑤教会は、地上における神の国の前衛であり、労苦して弱い者を助け、与える幸いに生きる。

礼拝メッセージ「走るべき行程」

礼拝メッセージ「走るべき行程」

聖書箇所:使徒の働き20章22-27節

けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。使徒20章24節

パウロは、自分の人生を「走ること・ランニング」に例えて、「自分の走るべき行程を走り尽くす」という表現を用いています。それぞれの人生において、走るべき行程があり、その行程は一人一人違うのだということでしょう。

100メートルに満たない短距離を、あっという間に駆け抜けるような人生もあるでしょう。道半ばでアリーナに入り、近づいてくる死と戦いながら、最後の力を振り絞ってゴールを目指す人生もあるでしょう。マラソンのような長距離を、忍耐を持って走り抜く人生もあるでしょう。障害物だらけの行程で、転んだりつまずいたりしてボロボロになる人生もあるでしょう。

どのような行程であったとしても、自分の走るべき行程をはっきりと知り、それをしっかりと受け止めることができるなら、パウロのように、悔いのない人生を走り抜くことができるでしょう。

なぜなら、私たちの救い主であられるイエス様が、ご自分のいのちを少しも惜しいとは思われず、私たちの罪のために、十字架に至る行程を走り尽くし、復活の栄光にゴールインされたからです。

礼拝メッセージ「謙遜の限りを尽くし」

礼拝メッセージ「謙遜の限りを尽くし」

聖書箇所:使徒の働き20章13-21節

私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました。使徒20章19節

パウロは、急いでエルサレムに向かう途中、ミレトにエペソ教会の長老たちを呼び集め、告別説教を語りました。その素晴らしいメッセージを3回に分けて味わいたいと思います。それぞれの題は「謙遜の限りを尽くし」、「走るべき行程」、そして「教会とは何か」とします。

パウロが渾身の力を込めて語る告別説教は、説教者パウロの日常生活を語る内容でした。パウロは人々と一緒に日々生活したので、「皆さんは私がいつもどんなふうにあなたがたと過ごして来たか、よくご存じです。」と語ることができました。

パウロは、主イエスのしもべとして、謙遜の限りを尽くし、涙をもって、数々の試練の中で、主に仕えました。益になることは少しもためらわずに知らせ、公の場でも私的な場でも教えました。

ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張しました。

パウロのモデルは、謙遜な神であられる主イエスです。主イエスこそ、謙遜の限りを尽くし、涙をもって、数々の試練の中で、父なる神に仕え、そして私たちに仕えてくださった救い主(キリスト)です。

イースター歓迎礼拝メッセージ「生き返った青年」

イースター歓迎礼拝メッセージ「生き返った青年」

聖書箇所:使徒の働き20章1-12節

人々は生き返った青年を家に連れて行き、ひとかたならず慰められた。使徒20章12節

今年もキリストの受難(パッション)を覚える時を経て、復活祭(イースター)を迎えることができました。季節は移り、桜咲く春を迎えることができました。心から感謝します。

人生を四季に例えてみましょう。幼年から少年時代はわかばと桜の春。青年から壮年時代は、ひまわりが咲き汗が輝く夏。熟年時代は、秋桜が咲き、色鮮やかな紅葉と結実に向かう秋。晩年はしばしの眠りに向かう冬支度の時のようです。

しかし若くして、十分な冬支度もできない中、突然の死を迎える方も少なくありません。今日の聖書の箇所には、そのような青年が登場します。

彼はユテコという名前の青年でした。ユテコは窓のところに腰掛けてパウロの話を聞いていたのですが、睡魔に襲われ、眠り込んでしまいました。三階から下に落ちてしまったユテコは、抱き起こしてみると、もう死んでいました。

しかしいのちの源である神、死者の中から復活された神は、しばしの眠りについている死人を生き返らせることがお出来になる方です。そのような神が、今も生きておられます!ですから死は永眠ではなく冬眠なのです。

礼拝メッセージ「ただならぬ騒動」

礼拝メッセージ「ただならぬ騒動」

聖書箇所:使徒の働き19章21-41節

そのころ、この道のことから、ただならぬ騒動が持ち上がった。使徒19章23節

エペソで起こったただならぬ騒動は、エルサレムで起こったただならぬ騒動を思い起こす出来事です。エペソにおいては、使徒パウロがその騒動の中に巻き込まれました。エルサレムにおいては、主イエスがその騒動の中に巻き込まれました。

キリストの教会が霊的に覚醒し、主イエスの教会が未伝地に出て行き、異郷において福音を宣べ伝える時、ただならぬ騒動が起こることは避けられません。

それは主イエスが歩まれた道でした。主イエスは天から降りてきてくださり、異郷に赴いて福音を宣べ伝え、愛をもって真理を教えてくださいました。

ところが主イエスがまことの光としてこの地上に来られ、それまでやみの中にまぎれ、覆い隠されていた罪を明らかに照らし出すにつれ、人々は主イエスに反抗し、反逆し、敵対しました。

そしてただならぬ騒動が起こり、理性を失った私たち人間は、愛に生きられた主イエスを罪に定めるための訴えを繰り返し、ついに主イエスは、茨の冠と十字架の死に至る苦難を身に受けることになりました。しかしそこにこそ神の愛が照らし出されているのです。