礼拝メッセージ「この子は慰め」

この子は慰め

礼拝メッセージ「この子は慰め」(クリックで聴けます)

聖書箇所:創世記5章25-32節

レメクは百八十二年生きて、ひとりの男の子を生んだ。彼はその子をノアと名づけて言った。「主がこの地をのろわれたゆえに、私たちは働き、この手で苦労しているが、この私たちに、この子は慰めを与えてくれるであろう。」創世記5章28-29節

創世記5章に記録されているアダムの歴史、私たち人間の歴史には、神とともに歩んだ人物が2名紹介されています。1人は先週見たエノク、そしてもう1人は、今週見たいノアです。

ノアという名前には、「慰められる」という意味があります。神の祝福に背を向けた故に、働いても苦労の多い人生の中で、この子は慰め(ノア)を与えてくれるであろう。ノアの父レメクが、そのような思いを込めて、その子をノアと名付けました。

ノアの父レメクは、ノアを生んで後、さらに593年生き、息子、娘たちを生みます。そして聖書は、「レメクの一生は777年であった。こうして彼は死んだ。」と語っています。

創世記4章に登場したカインの子孫であるレメクは、77倍の復讐を要求し、慰めのない中で死を迎えたことでしょう。

一方、同じ名前ですが、セツの子孫でありノアの父であるレメクの一生は、777年でした。7という完全数が3つ並ぶ年齢。おそらくノアの父レメクには、息子ノアによって、慰めの多い人生が与えられたことでしょう。

礼拝メッセージ「神とともに歩む」

神とともに歩む

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聖書箇所:創世記5章1-24節

エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。エノクの一生は三百六十五年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。創世記5章21-24節

聖なるテクスト(聖書)が語っているアダムの歴史、それは私たち人間の歴史です。

神が私たちを創造された時、神に似せて造られ、男と女とに創造されました。私たちが創造された日に、神は私たちを祝福し、その名を人(アダム)と呼ばれました。

アダムからセツ、セツからエノシュ、エノシュからケナン、ケナンからマハラルエル、マハラルエルからエレデ、エレデからエノクが生まれます。エノクについて、聖書はスポットライトをあて、上記のみことばのように紹介しています。

聖書の行間を想像することになりますが、65歳で子どもを預かるまでのエノクの歩みはどうだったのでしょうか。神とともに歩んでいたかも知れませんし、あまり神とともに歩んでなかったかも知れません。

けれども、受験、就職、結婚、子どもの誕生、病気、事故、転職、退職、その他様々な出来事を通して、もっと近く、神とともに歩むように、インマヌエルと呼ばれる神が私たちを導かれることは確かなことです。

成人祝福礼拝メッセージ「祈りのある日常」

祈りのある日常 Living With Prayer

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聖書箇所:創世記4章17-26節

アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。創世記4章25-26節

人殺しの罪を犯したカインの子孫から、レメクという人が現れます。創世記4章23―24節に、以下のような重苦しいレメクの言葉が記録されています。

『さて、レメクはその妻たちに言った。「アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」』

一方アダム・エバ夫妻は、もうひとり男の子を授かり、セツと名づけます。セツが家庭を持ちエノシュが生まれた時から、人々は祈りのある日常を生きるようになりました。

祈りのある日常、それは神の愛と赦しに生かされる日常です。神はあなたを罪の鎖から解き放つために、身代わりに十字架で死なれ、3日目によみがえられ、今も生きておられ、孤独のとなりにおられます。

祈りのある日常、やがてそれは神を愛し隣人を愛する日常となり、神と隣人を愛する年月となります。

新年礼拝メッセージ「待ち伏せする罪」

2011年 新年礼拝のご案内

待ち伏せする罪

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聖書箇所:詩篇103章1-22節

そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」創世記4章6-7節

以下の質問をよく考え、答えを書いてみてください。

★なぜ兄カインは弟アベルを殺したのでしょうか?

★神はえこひいきをなさる方でしょうか?

★待ち伏せする罪とは何でしょうか?

★待ち伏せする罪を治める(罪に打ち勝つ)ためには、どうすればいいのでしょうか?

礼拝メッセージ「神の恵みを忘れるな」

神の恵みを忘れるな

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聖書箇所:詩篇103章1-22節

わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。詩篇103篇2―5節

忙しく走り回ること、歩き続けることをストップし、立ち止まって足跡を振り返ってみましょう。

ゆっくりする時間をとって、主なる神が良くしてくださったことを思い出し、数え上げてみましょう。

記憶によみがえってきた神の恵み一つ一つを、新たに心に刻みましょう。

忘れないように日誌(ログ)やアルバムに記録しましょう。

それは、聖書が教える信仰者の日常ですが、様々な節目の時、期の区切りの時に持つならば、スペシャルな恵み、特別な恵みの時となります。

今日は今年最後の主日礼拝です。もうまもなく、新しい年を迎えようとする今、ぜひ今年一年の足跡を振り返ってみましょう。

私たちの足跡を振り返り、恵みを数えてみると、喜びと感謝と賛美が、溢れてきます。神さま、一年間ありがとうございました!

クリスマスイブ礼拝メッセージ「命狙われた幼子」

命狙われた幼子

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聖書箇所:マタイ福音書2章より

クリスマス礼拝メッセージ「人間になられた神」

God was made flesh

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聖書箇所:ヨハネ福音書1章1-18節

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。ヨハネ福音書1章14節

「神のみことば」であられるイエス・キリストは、すべてのものの造り主(デザイナー、メーカー)です。

初めに、宇宙が創造される前から、父なる神と共におられ、すべてのものを創造された神。全宇宙の創造者。私の、そしてあなたの造り主なるお方。それがイエス・キリストであると聖書は語っています。

上記のみことばは、「その全宇宙を創造された神御自身が、私たちと同じ肉体を持たれ、人間になられた」という驚くべきクリスマスメッセージです。

永遠の昔から父なる神と共におられ、すべてのものを創造されたお方。私の、そしてあなたの造り主なるお方。いのちの源、光であられるイエス・キリストが、私たちと同じ肉体をもった人間となって、この世界に来て下さったのです。

なぜ神は人間になられたのでしょうか。

それは目に見える全人格的存在と行動を通して、神ご自身の愛を私たち人間に紹介するためでした。

礼拝メッセージ「楽園追放」

楽園追放

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聖書箇所:創世記3章14-24節

神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。創世記3章21節

自らの罪を認めず、平気で神に責任転嫁するアダムとエバ。神は彼らをエデンの園から追放されます。しかしその前に、神は彼らのために皮の衣を作り、着せてくださいました。罪をおおい、赦して下さるあわれみ深い神が、ここに紹介されています。

皮の衣を作るためには、動物を殺さなければなりませんでした。いのちが絶たれ、血が流されたのです。人間が罪を犯しても、決して人間を見捨てられない神の恵みがここに紹介されています。

しかし同時に、聖書が語る罪の恐ろしさを考えさせられます。旧約聖書では、人間が罪を犯すたびに動物の血が流されます。新約聖書において、罪のために血が流される歴史に終止符が打たれます。

聖書は、私たちの罪がおおわれ、赦されるために、神のひとり子であられるイエス様が十字架にかかって死ななければならなかったと語ります。罪のないイエス・キリストが十字架にかかって死なれたのは、他の誰のためでもない、あなたのためであったと。

イエス様は3日目によみがえられ、今も生きておられます。イエス様は、楽園への道を命がけで切り開いて下さったのです。もしあなたがイエス様を信じるならば、あなたの罪をすべておおってくださる白い衣(義の衣)を、イエス様が着せてくださいます。

礼拝メッセージ「神からの逃走」

神からの逃走

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聖書箇所:創世記3章8-13節

そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたはどこにいるのか。」創世記3章8-9節

自分の過ちを指摘された時、 反射的に自分を守ろうとして、責任を他になすりつけてしまう。聖書は、そのような本当の私たちを映し出す鏡のようです。

神が食べてはならないと言われた善悪の知識の木の実。堕天使に誘惑されたとはいえ、ふたりは禁断の木の実を食べました。それはエバとアダムが、それぞれの責任において犯した過ちでした。

まず神は、夫アダムにその責任を問われます。 そのときアダムは、こう神に言い返すのです。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」

「この女が」と言っているので、妻に責任をなすりつけているようです。けれどもアダムは、「あなたが私のそばに置かれたこの女が」と言っています。「神よ、こんな女を私のそばに置かれたあなたが悪い!」とアダムは主張し、言い逃れしているのです。

これが、私たちの姿であり、すべての人間の姿です。エバも似たように、蛇に責任をなすりつけますし、 アダムという名前は、人間を意味する言葉なのですから。神からの逃走、それは自らの過ちを素直に認めることからの逃走です。