新共同訳と聖書協会共同訳の比較

聖書協会共同訳
この冬に、カトリックとプロテスタントが共同で翻訳した新共同訳が31年ぶりに新しくなり、聖書協会共同訳として出版されました。手元に届いたので、早速読み始めました。礼拝で用いられることを目的とし、特に聖書朗読のために配慮して翻訳されたとのこと。引照と注が新たに加えられています。聖書は66巻で完結していますが、参考に旧約聖書続編付きを買いました。(更新中)

創世記2章1節

天地万物は完成された。(新共同訳)

こうして天と地、そしてその森羅万象が完成した。(聖書協会共同訳)

森羅万象!斬新な訳です!

創世記2章7節

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。(新共同訳)

神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。(聖書協会共同訳)

新共同訳では聖書本文にかっこ付きで原語の言葉遊びが紹介されていましたが、本文ではなく注で紹介されるようになりました。創世記2章23−24節の女(イシャー)と男(イシュ)も同様です。

創世記15章5−6節

主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(新共同訳)

主はアブラムを外に連れ出して言われた。「天を見上げて、星を数えることができるなら、数えてみなさい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(聖書協会共同訳)

「天を仰いで」が「天を見上げて」に。

詩編81篇11節

わたしが、あなたの神、主。
あなたをエジプトの地から導き上った神。
口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう。(新共同訳)

私は主、あなたの神
エジプトの地からあなたを上らせた者。
口を大きく開けよ。私はそれを満たそう。(聖書協会共同訳)

「口を広く開けよ」が「口を大きく開けよ」に。

詩編100篇1ー5節

【賛歌。感謝のために。】
全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。
喜び祝い、主に仕え
喜び歌って御前に進み出よ。
知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。
わたしたちは主のもの、その民
主に養われる羊の群れ。

感謝の歌をうたって主の門に進み
賛美の歌をうたって主の庭に入れ。
感謝をささげ、御名をたたえよ。
主は恵み深く、慈しみはとこしえに
主の真実は代々に及ぶ。(新共同訳)

【賛歌。感謝の詩。】
全地よ、主に向かって喜びの声を上げよ。
喜びながら主に仕えよ。
喜び歌いつつその前に進み出よ。
主こそ神と知れ。
主が私たちを造られた。私たちは主のもの。
主の民、その牧場の羊。

感謝して主の門に進み
賛美しつつ主の庭に入れ。
主に感謝し、その名をほめたたえよ。
主は恵み深く、主の慈しみはとこしえに。
そのまことは世々に及ぶ。(聖書協会共同訳)

礼拝への招き。より簡潔になりました。

エレミヤ書31章20節

エフライムはわたしのかけがえのない息子
喜びを与えてくれる子ではないか。
彼を退けるたびに
わたしは更に、彼を深く心に留める。
彼のゆえに、胸は高鳴り
わたしは彼を憐れまずにはいられないと
主は言われる。(新共同訳)

エフライムは私の大事な子ではないのか。
彼のことを語る度に、なおいっそう彼を思い出し
彼のために私のはらわたはもだえ
彼を憐れまずにはいられないーー主の仰せ。
(聖書協会共同訳)

エレミヤ書31章20節。文語訳に近い良い訳になりました。

ヨハネによる福音書1章12節

しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる資格を与えた。(新共同訳)

しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた。(聖書協会共同訳)

「神の子となる資格」が「神の子となる権能」に。

ヨハネによる福音書4章24節

神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(新共同訳)

神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真実をもって礼拝しなければならない。」(聖書協会共同訳)

「礼拝で用いられることを目的として」とのことですから、この箇所は外すことはできないでしょう。「霊と真理をもって礼拝しなければならない。」が「霊と真実をもって礼拝しなければならない。」になりました。

ローマの信徒への手紙12章1ー2節

こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。(新共同訳)

こういうわけで、きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を造り変えていただき、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかをわきまえるようになりなさい。(聖書協会共同訳)

「礼拝で用いられることを目的として」とのことですから、この箇所も外すことはできないでしょう。「なすべき礼拝」が「理に適った礼拝」に。「心を新たにして自分を変えていただき」が「心を新たにして自分を造り変えていただき」になりました。

礼拝式における祝祷について

礼拝式における祝祷について

主の日(日曜日)ごとの礼拝式において、キリスト教会で行なわれていることは何でしょうか?

それは、一つ所(教会堂)に呼び集められた神の民(教会)が、御言葉(聖書)によって取り扱われ、自らのからだを、十字架の故に、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげること。そして、自らを委ねた復活の主の御手の中から、一人一人、それぞれの生活の場に、祝福の基として派遣される、散らされるということではないでしょうか。

祝祷は、もう一度散らされて、一人一人、それぞれの生活の場に、祝福の基として派遣される際になされます。

その時、牧師は何をしているのでしょうか?

その時、牧師は、三位一体の主の祝福が、散らされて派遣されていくお一人お一人の上に、豊かに限りなくありますようにと祈ります。牧師は祝祷において、派遣されるお一人一人の上に、祝福の祈りを捧げています。そしてそれは同時に、お一人お一人に対する派遣の宣言でもあります。

私たちは、祝福の基として世界に遣わされるために集められるのですから、礼拝式において、司会者、奏楽者、説教者、そしてすべて集められた礼拝の民が目指すべきことは、祝祷においてクライマックスを迎えると言っても過言ではないと私は考えています。

世界を変えるために派遣されるお一人お一人が聖霊に満たされ、上からの祝福に満ち満ちるようにと、祝祷の時牧師は祈っているのです。