礼拝メッセージ「走るべき行程」

礼拝メッセージ「走るべき行程」

聖書箇所:使徒の働き20章22-27節

けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。使徒20章24節

パウロは、自分の人生を「走ること・ランニング」に例えて、「自分の走るべき行程を走り尽くす」という表現を用いています。それぞれの人生において、走るべき行程があり、その行程は一人一人違うのだということでしょう。

100メートルに満たない短距離を、あっという間に駆け抜けるような人生もあるでしょう。道半ばでアリーナに入り、近づいてくる死と戦いながら、最後の力を振り絞ってゴールを目指す人生もあるでしょう。マラソンのような長距離を、忍耐を持って走り抜く人生もあるでしょう。障害物だらけの行程で、転んだりつまずいたりしてボロボロになる人生もあるでしょう。

どのような行程であったとしても、自分の走るべき行程をはっきりと知り、それをしっかりと受け止めることができるなら、パウロのように、悔いのない人生を走り抜くことができるでしょう。

なぜなら、私たちの救い主であられるイエス様が、ご自分のいのちを少しも惜しいとは思われず、私たちの罪のために、十字架に至る行程を走り尽くし、復活の栄光にゴールインされたからです。

礼拝メッセージ「謙遜の限りを尽くし」

礼拝メッセージ「謙遜の限りを尽くし」

聖書箇所:使徒の働き20章13-21節

私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました。使徒20章19節

パウロは、急いでエルサレムに向かう途中、ミレトにエペソ教会の長老たちを呼び集め、告別説教を語りました。その素晴らしいメッセージを3回に分けて味わいたいと思います。それぞれの題は「謙遜の限りを尽くし」、「走るべき行程」、そして「教会とは何か」とします。

パウロが渾身の力を込めて語る告別説教は、説教者パウロの日常生活を語る内容でした。パウロは人々と一緒に日々生活したので、「皆さんは私がいつもどんなふうにあなたがたと過ごして来たか、よくご存じです。」と語ることができました。

パウロは、主イエスのしもべとして、謙遜の限りを尽くし、涙をもって、数々の試練の中で、主に仕えました。益になることは少しもためらわずに知らせ、公の場でも私的な場でも教えました。

ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張しました。

パウロのモデルは、謙遜な神であられる主イエスです。主イエスこそ、謙遜の限りを尽くし、涙をもって、数々の試練の中で、父なる神に仕え、そして私たちに仕えてくださった救い主(キリスト)です。

イースター歓迎礼拝メッセージ「生き返った青年」

イースター歓迎礼拝メッセージ「生き返った青年」

聖書箇所:使徒の働き20章1-12節

人々は生き返った青年を家に連れて行き、ひとかたならず慰められた。使徒20章12節

今年もキリストの受難(パッション)を覚える時を経て、復活祭(イースター)を迎えることができました。季節は移り、桜咲く春を迎えることができました。心から感謝します。

人生を四季に例えてみましょう。幼年から少年時代はわかばと桜の春。青年から壮年時代は、ひまわりが咲き汗が輝く夏。熟年時代は、秋桜が咲き、色鮮やかな紅葉と結実に向かう秋。晩年はしばしの眠りに向かう冬支度の時のようです。

しかし若くして、十分な冬支度もできない中、突然の死を迎える方も少なくありません。今日の聖書の箇所には、そのような青年が登場します。

彼はユテコという名前の青年でした。ユテコは窓のところに腰掛けてパウロの話を聞いていたのですが、睡魔に襲われ、眠り込んでしまいました。三階から下に落ちてしまったユテコは、抱き起こしてみると、もう死んでいました。

しかしいのちの源である神、死者の中から復活された神は、しばしの眠りについている死人を生き返らせることがお出来になる方です。そのような神が、今も生きておられます!ですから死は永眠ではなく冬眠なのです。

礼拝メッセージ「ただならぬ騒動」

礼拝メッセージ「ただならぬ騒動」

聖書箇所:使徒の働き19章21-41節

そのころ、この道のことから、ただならぬ騒動が持ち上がった。使徒19章23節

エペソで起こったただならぬ騒動は、エルサレムで起こったただならぬ騒動を思い起こす出来事です。エペソにおいては、使徒パウロがその騒動の中に巻き込まれました。エルサレムにおいては、主イエスがその騒動の中に巻き込まれました。

キリストの教会が霊的に覚醒し、主イエスの教会が未伝地に出て行き、異郷において福音を宣べ伝える時、ただならぬ騒動が起こることは避けられません。

それは主イエスが歩まれた道でした。主イエスは天から降りてきてくださり、異郷に赴いて福音を宣べ伝え、愛をもって真理を教えてくださいました。

ところが主イエスがまことの光としてこの地上に来られ、それまでやみの中にまぎれ、覆い隠されていた罪を明らかに照らし出すにつれ、人々は主イエスに反抗し、反逆し、敵対しました。

そしてただならぬ騒動が起こり、理性を失った私たち人間は、愛に生きられた主イエスを罪に定めるための訴えを繰り返し、ついに主イエスは、茨の冠と十字架の死に至る苦難を身に受けることになりました。しかしそこにこそ神の愛が照らし出されているのです。

礼拝メッセージ「主イエスの御名」

礼拝メッセージ「主イエスの御名」

聖書箇所:使徒の働き19章1-20節

このことがエペソに住むユダヤ人とギリシヤ人の全部に知れ渡ったので、みな恐れを感じて、主イエスの御名をあがめるようになった。使徒19章17節

私たちは、必死に背伸びすれば、外側はきれいに見せることが出来るかもしれません。けれども、内にある醜い本当の自分を、自分できれいにできる人がいるでしょうか。

もしそれができるなら、罪のないイエス・キリストが私たちのために身代わりとなって十字架で死なれる必要は、まったくありませんでした。

心がかき回されなければ、自分は正しくて良い人間だと勘違いしています。しかし心がかき回されると、たちまち醜い本当の自分と向き合うことになります。いやで仕方がないけれども、自分で自分を変えることができない。私たちは本当にみじめな罪の奴隷です。

けれども聖書は、主イエス・キリストの御名の力強さを、紹介しています。

『キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。』ピリピ3章21節

礼拝メッセージ「神の道」

礼拝メッセージ「神の道」

聖書箇所:使徒の働き18章18-28節

彼は会堂で大胆に話し始めた。それを聞いていたプリスキラとアクラは、彼を招き入れて、神の道をもっと正確に彼に説明した。使徒18章26節

使徒パウロはコリントに腰を据えて宣教を続けた後、再び旅立ちました。パウロはシリヤに向かい、途中ケンクレヤ、エペソ、カイザリヤ、エルサレムを経てホームチャーチのあるアンテオケに戻りました。

アンテオケにしばらく滞在した後、パウロは3回目の宣教旅行に出発します。パウロはガラテヤ地方やフルギヤを巡って、すべての弟子たちを力づけました。

その時、エペソに滞在していたアクラとプリスキラは、アポロという雄弁で熱心に伝道している人物に出会いました。アポロは主の道の教えを受け、霊に燃えて、イエスのことを正確に語り、また教えていました。けれども、アポロはヨハネのバプテスマしか知りませんでした。

そこでプリスキラとアクラは、アポロを招き入れて、神の道をもっと正確に説明しました。

伝道、すなわち神の道を伝えるためには、熱心さや純粋さだけではなく、聖書に基づく正確さが求められます。

礼拝メッセージ「わたしがともにいる」

礼拝メッセージ「わたしがともにいる」

聖書箇所:使徒の働き18章1-17節

ある夜、主は幻によってパウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。」と言われた。使徒18章9-10節

「聖書の中に出てくる人たちはみな、強くて揺るぎない信仰を持った立派な人たちである」という思い違いを、多くの人がしています。

けれども、聖書を丁寧に読むと、強い信仰者というイメージの強い使徒パウロでさえも、時に困り果て、時に恐れを抱き、意気消沈した普通の人間であることを知ることができます。

上記のみことばは主なる神が、パウロに語りかけた内容です。

「恐れないで!わたしがあなたとともにいる!」と語る必要があったのは、パウロが恐れと孤独感に支配されていたからでしょう。

「語り続けなさい!黙ってはいけない!この町には、わたしの民がたくさんいるから!」と語る必要があったのは、パウロが身の危険を感じるほどの激しい迫害と反発に直面し、「この町には救われる人がもういない。だからこの町で福音宣教をするのは止めよう。語っても無駄だ。」と考えていたからに他ならないでしょう。

礼拝メッセージ「審判の日」

礼拝メッセージ「審判の日」

聖書箇所:使徒の働き17章16-34節

神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。使徒17章30-31節

ギリシアのアテネ。そこはギリシア神話の神々の像に溢れている町でした。また、エピクロス派とストア派の哲学者たちが論じ合っている町でした。

パウロはアレオパゴスに連れて行かれ、ギリシアの中心で神を叫ぶことになりました。

まずパウロは、アテネの人たちが宗教心にあつい方々だとほめました。評価できる点を最初に語ることは、福音提示の土台となる大切なことです。

次にパウロは、道ばたにあった『知られない神に』と刻まれた祭壇について触れ、そこから創造主なる神について語り始めました。

最後にパウロは、上記のみことばのように悔い改め(生き方の方向転換)の必要について、審判の日と死者の復活から論じました。

礼拝メッセージ「聖書とは」

礼拝メッセージ「聖書とは」

聖書箇所:使徒の働き17章1-15節

パウロはいつもしているように、会堂にはいって行って、三つの安息日にわたり、聖書に基づいて彼らと論じた。そして、キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならないことを説明し、また論証して、「私があなたがたに伝えているこのイエスこそ、キリストなのです。」と言った。使徒17章2-3節

パウロたちはテサロニケとベレヤにて、ユダヤ人の会堂に入り、聖書に基づいて論じ、神のことばを宣べ伝えました。聖書は今も、キリスト(救い主)について、以下のことを明確に語っています。

1、救い主は苦しみを受けなければならない。

2、救い主は死者の中からよみがえらなければならない。(そして栄光にはいる)

3、使徒たちが宣べ伝えているイエス。すなわち、十字架の苦しみを受けて死なれ、墓に葬られ、3日目によみがえられて今も生きておられる主イエスこそ、まさしくキリスト・救い主である。

日本同盟基督教団の信仰告白は、聖書に関する以下の告白から始められています。

1、旧、新約聖書66巻は、すべて神の霊感によって記された誤りのない神のことばであって、 救い主イエス・キリストを顕わし、救いの道を教え、信仰と生活の唯一絶対の規範である。

礼拝メッセージ「家族の救い」

礼拝メッセージ「家族の救い」

聖書箇所:使徒の働き16章25-40節

ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。使徒16章31節

真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていました。ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまいました。

目をさました看守は、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとしました。そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」と叫びました。

看守はあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏しました。そしてふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言いました。

ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言い、彼とその家の者全部に主のことばを語りました。

看守はその夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗いました。そしてそのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けました。それからふたりを家に案内して食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜びました。