礼拝メッセージ「暗やみから光に」

礼拝メッセージ「暗やみから光に」

聖書箇所:使徒の働き26章1-23節

わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』使徒26章17-18節

人間の堕落によって、この世界は光から暗やみに滑り落ちました。神の愛からサタンの支配に滑り落ちてしまったのです。滑り落ちた先は、創世記冒頭に記されている、あの天地創造前の風景に似ています。

『地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。』創世記1章2節(新改訳第3版)

突破口をなかなか見つけられず、暗く重苦しい閉塞感に覆われているこの地は、茫漠として何もなく、やみが大水の上にあります。しかしそこには、まさしく神の霊がおられ、神の霊は私たちのために休むことなく動いておられるのです。

やがて神は仰せられます。「光があれ。」と。すると光が訪れるのです。光とは昼であり、やみとは夜です。光の訪れとは、夜明け・サンライズの時なのです。信仰をもって東を見つめるなら、やがて昇ってくる光の軌跡を、夜明け前の最暗黒の中にも見ることができるでしょう。

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父の日歓迎礼拝メッセージ「父の涙」

父の日歓迎礼拝メッセージ「父の涙」

聖書箇所:使徒の働き25章13-27節

私としては、彼は死に当たることは何一つしていないと思います。しかし、彼自身が皇帝に上訴しましたので、彼をそちらに送ることに決めました。使徒25章25節

パウロの生き様は、くっきりと主イエスの姿を描き出しています。ゴスペルシンガー岩渕まことさんが作詞作曲した歌の中に、「父の涙」という素晴らしい歌があります。父なる神とひとり子主イエスの姿を描き出しているその詩を、以下に引用します。

一、心にせまる父の悲しみ
  愛するひとり子を十字架につけた
  人の罪は燃える火のよう
  愛を知らずに今日も過ぎてゆく

  十字架からあふれ流れる泉
  それは父の涙
  十字架からあふれ流れる泉
  それはイエスの愛

二、父が静かに見つめていたのは
  愛するひとり子の傷ついた姿
  人の罪をその身に背負い
  父よ彼らを赦して欲しいと

  十字架からあふれ流れる泉
  それは父の涙
  十字架からあふれ流れる泉
  それはイエスの愛

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礼拝メッセージ「カイザルへの上訴」

礼拝メッセージ「カイザルへの上訴」

聖書箇所:使徒の働き25章1-12節

もし私が悪いことをして、死罪に当たることをしたのでしたら、私は死をのがれようとはしません。しかし、この人たちが私を訴えていることに一つも根拠がないとすれば、だれも私を彼らに引き渡すことはできません。私はカイザルに上訴します。使徒25章11節

使徒の働きの時代、地中海沿岸諸国はローマ帝国の統治下にありました。エルサレムもローマ統治下にあり、州総督によって統治されていました。

ペリクスに代わってフェストが州総督として着任した時、牢につながれたまま2年間放置されていたパウロは、改めて取り調べを受け、カイザル(ローマ皇帝)に上訴することになりました。

歴史を導かれる主なる神は、時の為政者をも用い、世界の中心であったローマに福音を届ける道を開いていかれたのでした。

ローマによって当時の世界はグローバルな国際社会となっていました。ローマによって統一と平和がもたらされ、ローマによってかつての国境を越える交通網(道)が整備されたのです。

しかしそこに住んでいた人々は混迷を極めていました。夢破れて絶望し、イエス・キリストの福音を必要としていました。その状況は今も同じです。羊飼いのいない羊のような数え切れない人々が、今も福音が届けられるのを待っているのです。

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礼拝メッセージ「一時的預かりもの」

礼拝メッセージ「一時的預かりもの」

聖書箇所:使徒の働き24章1-27節

また、義人も悪人も必ず復活するという、この人たち自身も抱いている望みを、神にあって抱いております。そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。 使徒24章15-16節

死後に義人も悪人も必ず復活し、やがて来る審判において、一時的に神から預かった地上の人生をどう生きたかが問われる。パウロは、そのことをいつも覚えて、毎日最善を尽くして生きていました。

1、人生は一時的である
 

主よ。お知らせください。私の終わり、私の齢が、どれだけなのか。
 私が、どんなに、はかないかを知ることができるように。
 詩篇39篇4節

2、人生は神からの預かりものである
 

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。
 そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、
 地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。 
 創世記1章26節

3、人生はテストである
 

神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
 神である主は、人に命じて仰せられた。
「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。
 それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」
 創世記2章15-17節

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礼拝メッセージ「パウロの護送」

礼拝メッセージ「パウロの護送」

聖書箇所:使徒の働き23章12-35節

そしてふたりの百人隊長を呼び、「今夜九時、カイザリヤに向けて出発できるように、歩兵二百人、騎兵七十人、槍兵二百人を整えよ。」と言いつけた。また、パウロを乗せて無事に総督ペリクスのもとに送り届けるように、馬の用意もさせた。使徒23章23-24節

夜が明けると40人以上のユダヤ人が、パウロを殺してしまうまで飲み食いしないと誓い合いました。パウロ暗殺計画が話し合われていた時、パウロの姉妹の子がそれを耳にし、パウロにそれを知らせました。パウロは百人隊長を呼んで、その青年を千人隊長のところに連れて行くように頼みました。

その結果、上記のように武装した470人の兵士たちによって、パウロは無事にカイザリヤに護送されることになりました。

パウロに対する主なる神のお取り扱いを通して、私たちに対する主なる神のお取り扱いを覚えることができます。

主よ、感謝します!なぜならあなたは、私たちを鍛え上げるために、私たちを育て上げるために、苦しみや痛みの中を通されるからです。そしてあなたは真実な方ですから、私たちを耐え忍ぶことのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道(出口)も備えてくださいます。(ヤコブ1章2-4節、1コリント10章13節参照)

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ペンテコステ礼拝メッセージ「勇気を出しなさい」

ペンテコステ礼拝メッセージ「勇気を出しなさい」

聖書箇所:使徒の働き23章1-11節

その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。」と言われた。使徒23章11節

ローマ市民であることを主張したパウロは、鎖を解かれ、議会においてあかしをする機会が与えられました。パウロは、議員の中にサドカイ人とパリサイ人がいるのを見て、「私はパリサイ人であり、死者の復活という望みのことでさばきを受けているのです。」と叫びました。

サドカイ人は、復活や御使いや霊の存在を否定していました。しかしパリサイ人は、復活はあり、御使いや霊も存在すると肯定していました。

それで議会は真っ二つに割れ、大混乱になりました。論争がますます激しくなった時、千人隊長はパウロが彼らに引き裂かれてしまうのではないかと心配し、パウロが殺されないように兵営に連れ出しました。

その夜、パウロは上記のような励ましのメッセージを、主イエスから受けました。パウロは、度重なる試練の中で疲れ果て、勇気を失い、意気消沈していたのでした。

私たちの救い主である主イエス様は、私たちのすべてを知っていてくださいます。そして、『神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。(詩篇46篇1節)』なのです。

礼拝メッセージ「パウロの弁明」

礼拝メッセージ「パウロの弁明」

聖書箇所:使徒の働き22章1-30節

すると、主は私に、『行きなさい。わたしはあなたを遠く、異邦人に遣わす。』と言われました。」人々は、彼の話をここまで聞いていたが、このとき声を張り上げて、「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしておくべきではない。」と言った。使徒22章21-22節

パウロは、ユダヤ人同胞に向かってヘブル語で語りかけたので、人々はますます厳粛になり、パウロの話に耳を傾けました。パウロは、自らの生い立ちから始めて、神であられる主イエスが何をしてくださったのか、その後自分がどう変えられたのかを証ししました。

パウロは、厳格な教育をエルサレムで受けた正統派ユダヤ人でした。その熱心さは、キリスト者たちを迫害し、死に至らせるほどでした。

ところがダマスコ途上で、パウロは復活の主イエスの威光に打ちのめされました。弱さの中で心眼が開かれたパウロは、ためらわずにバプテスマ(洗礼)を受け、主イエスの証人とされたのでした。

「主なる神がパウロを異邦人に遣わされる」という内容のことをパウロが語った瞬間、静かに耳を傾けていた人々は、再び暴徒となりました。

千人隊長はパウロをむち打って取り調べることを命じました。けれどもパウロがローマ市民であることを主張したので、パウロは再び鎖を解かれ、議会において証言する機会が与えられました。

母の日歓迎礼拝メッセージ「母の涙」

母の日歓迎礼拝メッセージ「母の涙」

聖書箇所:使徒の働き21章17-40節

彼らがパウロを殺そうとしていたとき、エルサレム中が混乱状態に陥っているという報告が、ローマ軍の千人隊長に届いた。彼はただちに、兵士たちと百人隊長たちとを率いて、彼らのところに駆けつけた。人々は千人隊長と兵士たちを見て、パウロを打つのをやめた。使徒21章31-32節

パウロやルカたちがエルサレムに着くと、そこには嵐の前の静けさがありました。しかし静けさは、やはり長くは続かず、速やかに暗雲がエルサレムを覆い尽くしていきました。

突風が四方八方からパウロを目がけて吹き付け、横殴りの激しい雨霰が、容赦なくパウロの身体を痛めつけ、怒り狂った雷が、上から横からパウロに襲いかかっている。状況はまさしくそのようでした。同胞のユダヤ人たちが、明確な殺意をもってパウロを殺そうとしていたのです。

もしもその光景を、パウロの母が見ていたとしたら、どんな気持ちになったでしょうか。お腹を痛めて産んだ自分の息子が、屠殺されるような姿を見ていたとしたら。

パウロの場合には、その場に母はいなかったと思われます。そしてパウロは、エルサレムで殺されることにはなりませんでした。しかしイエス・キリストの場合には、そこに母マリヤがいて、死に至るその苦しみを見ていたことを聖書は記録しています。(ヨハネ福音書19章25-27節参照)

礼拝メッセージ「死を覚悟して」

礼拝メッセージ「死を覚悟して」

聖書箇所:使徒の働き21章1-16節

するとパウロは、「あなたがたは、泣いたり、私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています。使徒21章13節

使徒パウロはミレトでの告別説教を終えた後、船に乗り込み、エルサレムに向かって旅立ちました。

旅の途中、各地に立ち寄る度に、御霊に示された弟子たちや預言者が、パウロにエルサレムに上らないようにと忠告しました。

最後には旅の同伴者であったルカたちも、土地の人たちと共に、エルサレムには上らないようにとパウロに頼みました。

その時パウロがルカたちに語った言葉が、上記のみことばです。

パウロは主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟していたのでした。

パウロの姿は、なわめと苦しみが待つエルサレムに上っていかれた主イエスの姿と重なってきます。

主イエスは、私たちを救うために天から地上に降りて来られ、最後の晩餐(聖餐)を経て十字架の死に至るエルサレムに、死を覚悟して上っていかれたのでした。

礼拝メッセージ「教会とは何か」

礼拝メッセージ「教会とは何か」

聖書箇所:使徒の働き20章28-38節

あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。使徒20章28節

「教会」とは何でしょうか?あなたは「教会」と聞いて何をイメージされるでしょうか?教会(チャーチ)とは、教会堂(チャペル)ではありません。単なる仲間(フェローシップ)でもありません。

教会形成という大切な働きを、しっかりと引き継いでもらうために、パウロは以下のような聖書に基づく教会観を持って、告別説教を語りました。

①教会とは、呼び集められた自分自身と群れの全体である。集まるための建物ではなく、信仰告白による共同体である。

②教会は、神ご自身の尊い血をもって買い取られた。故に、教会の所有者であり雇い主は、神である。

③教会は、様々な嵐の中に置かれる。

④教会は、みことばによって育成され、苦しみを通って栄光の御国を受け継ぐ。

⑤教会は、地上における神の国の前衛であり、労苦して弱い者を助け、与える幸いに生きる。