映画『Oblivion(オブリビオン)』を観て

先週iTunes Storeで映画「オブリビオン」をレンタルして観た。オンラインで映画をレンタルし、ダウンロードして観る。時代の変化は目まぐるしい。

湖畔の隠れ家で、レコードプレーヤーから流れてくるProcol Harum(プロコル・ハルム)のA WHITER SHADE OF PALE(青い影)がやけに気に入ってしまい、ベスト版CDを買ってしまった。

ストーリーを改めて思い起こしながら、この世界のことを、いろいろと思い巡らしている。
新生体験(Born Again)と聖書通読(Bible Reading)によって聖書の世界観を持ち、聖書の視点・信仰の眼差しで物事を観ることができる方なら、私の思いにアーメンと同意してくださるだろう。
オブリビオンの世界に描かれている真実と虚偽、裏と表、本音と建前は、別の様々な形で私たちが生かされているこの世界に実在するのではないのか。
(以下ネタバレ有り)
トム・クルーズが演じる主人公ジャック・ハーパーは、真実な記憶をほとんど失い、オブリビオン(忘却)状態の中、任務に忠実にパートナーと協同生活を営んでいる。しかし妻と再会し、指輪を送ってプロポーズした思い出の場所を訪れたりすることで、忘却の彼方から少しづつ記憶を取り戻していく。そしてある時、敵だと思っていた者たちが同胞であり、味方だと思っていた者が敵であるという驚愕の真実を知ることになる。
私たち人間も、愛なる創造主によって造られたという真実な記憶をほとんど失い、オブリビオン(忘却)状態の中、どこから来てどこに行くのかもわからず、何のために生きるのかもわからず、人生の目的、意味、存在価値を見失い、罪と欲望の奴隷として、死と永遠の苦しみへと向かっている。背後には、悪魔・サタンと悪霊・汚れた霊たちによる支配がある。
モーガン・フリーマンが演じるマルコム・ビーチのように真実を伝える者、パウロのようにイエス・キリストの福音を宣べ伝える者の必要を強く覚える。

17 わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、
  彼らのところに遣わす。
18 それは彼らの目を開いて、
  暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、
  わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、
  聖なるものとされた人々の中にあって
  御国を受け継がせるためである。』
新約聖書 使徒の働き26章17−18節

敬老の日歓迎礼拝メッセージ「偽りのない愛」ローマ32

敬老の日歓迎礼拝メッセージ「偽りのない愛」ローマ32(クリックで聴けます)
聖書箇所:ローマ人への手紙12章9ー16節

9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。10 兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。12 望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。13 聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。14 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。15 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。16 互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。ローマ12章9−16節

礼拝メッセージ「一つのからだ 互いに器官」ローマ31

礼拝メッセージ「一つのからだ 互いに器官」ローマ31(クリックで聴けます)
聖書箇所:ローマ人への手紙12章3ー8節

3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。4 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、5 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。6 私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。ローマ12章3−8節

礼拝メッセージ「すべてのことの意味」ローマ19

礼拝メッセージ「すべてのことの意味」ローマ19(クリックで聴けます)
聖書箇所:ローマ人への手紙8章26ー30節

26 御霊も同じようにして、
  弱い私たちを助けてくださいます。
  私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、
  御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、
  私たちのためにとりなしてくださいます。
27 人間の心を探り窮める方は、
  御霊の思いが何かをよく知っておられます。
  なぜなら、御霊は、
  神のみこころに従って、
  聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
28 神を愛する人々、
  すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、
  神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、
  私たちは知っています。
29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、
  御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。
  それは、御子が多くの兄弟たちの中で
  長子となられるためです。
30 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、
  召した人々をさらに義と認め、
  義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。
ローマ人への手紙8章26-30節

すべてのことが益とされる。万事が益とされる。
そこにすべてのことの意味があります。
1、まずあなたが神を愛する者となるために、
  神はすべてのことを働かせて益としてくださいます。
2、次に召されたあなたを磨き上げ、
  キリストのような栄光の姿にあなたを変えるために、
  神はすべてのことを働かせて益としてくださいます。

礼拝メッセージ「苦しみの意味」ローマ18

礼拝メッセージ「苦しみの意味」ローマ18(クリックで聴けます)
聖書箇所:ローマ人への手紙8章18ー25節

18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに
 啓示されようとしている栄光に比べれば、
  取るに足りないものと私は考えます。
19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを
  待ち望んでいるのです。
20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、
 服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、
  神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、
  ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、
  心の中でうめきながら、子にしていただくこと、
  すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。
24 私たちは、この望みによって救われているのです。
  目に見える望みは、望みではありません。
  だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。
25 もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、
  私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。
  ローマ人への手紙8章18-25節

パウロは福音信仰の山頂で語ります。私たち人間だけでなく、神に造られた被造物全体、すなわち宇宙全体が苦しんでいる。今の時のいろいろな苦しみは、産みの苦しみである。苦しみがもたらすものに目を向けるなら、苦しみが取るに足らないものに見えてくる。苦しみがもたらすもの、それは、神の子どもとしての栄光と自由、私たちのからだの贖いである。

礼拝メッセージ「洗礼とは何か」ローマ14

礼拝メッセージ「洗礼とは何か」ローマ14(クリックで聴けます)
聖書箇所:ローマ人への手紙6章1ー14節

1 それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。
2 絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。
3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。ローマ人への手紙6章1-5節

自分に都合のいい解釈をしたい人間は、恵みが増し加わるために罪の中にとどまるべきだと主張します。それに対してパウロは、絶対にそんなことはないと反論し、洗礼(バプテスマ)とは何かを語ります。
キリストの死にあずかるバプテスマによって、私たちはキリストとともに葬られたのだとパウロは語ります。それは私たちが、キリストとともに復活し、新しい歩みをするためです。

洗礼とは何か

洗礼とは何か
杉戸キリスト教会地図

礼拝メッセージ「怒りを下す神は不正か」ローマ7

礼拝メッセージ「怒りを下す神は不正か」ローマ7(クリックで聴けます)
聖書箇所:ローマ人への手紙3章1ー18節

しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。「善を現すために、悪をしようではないか」と言ってはいけないのでしょうか‐‐私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが。‐‐もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。ローマ3章5-9節

悲惨な出来事の中で、「神がいるならどうしてこんなことが起こるのか?」という問いが生じます。
この問いの背後には、「怒りを下す神は不正である」という人間中心的な神学があります。「愛の神は正しいが、怒りを下す神は正しくない」、「赦す神は正しいが、裁く神は間違っている」というような考えです。このような神学は、「十字架を必要としない見せかけの神の愛と赦し」に行き着きます。
このような人間中心的な神学に対して、パウロは、「絶対にそんなことはありません」と強調します。
本当の神は、私たちの身代わりとして、十字架に磔にされたひとり子イエス・キリストの上に、容赦のない怒りを下された神です。