礼拝メッセージ「アブラハムのしもべ」

礼拝メッセージ「アブラハムのしもべ」

聖書箇所:創世記24章34ー67節

アブラハムのしもべは、彼らのことばを聞くやいなや、地にひれ伏して主を礼拝した。創世記24:52

アブラハムのしもべは、とても大切な働きに任命され、アブラハムの息子イサクのために花嫁さがしの旅に遣わされました。

目的地付近に着いた時、アブラハムのしもべは具体的な相談を神さまとしていました。ところが、心の中で話し終わらないうちに、リベカさんという素敵な女性が現れ、『お飲みください。あなたのらくだにも水を飲ませましょう。』と言いました。

アブラハムのしもべは、具体的な祈りによって具体的な答えを神さまからいただき、さらに具体的に話を進めました。その結果、相手と相手の家族から驚くばかりの応答をいただき、神さまが旅を成功させてくださったことを確信することができました。

私たちは洗礼(バプテスマ)を受ける時、アブラハムのしもべのように、とても大切な働きに任命され、旅に派遣されます。それは福音宣教、世界宣教、キリストの花嫁である教会形成、花嫁さがしの旅です。

信仰によって、具体的に祈りつつ前に向かって歩んで行く時、みこころかどうかを確証することができます。その時私たちは、それぞれの旅を成功させてくださる神を体験することができるのです。

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礼拝メッセージ「旅を成功させてくださる神」

礼拝メッセージ「旅を成功させてくださる神」

聖書箇所:創世記24章1ー33節

この人は、主が自分の旅を成功させてくださったかどうかを知ろうと、黙って彼女を見つめていた。創世記24:21

晩年のアブラハムは、あらゆる面で主なる神からの祝福を受けていました。しかし、自分がこの地上の人生を締めくくるにあたって、気がかりなこと、祈りの課題がありました。それは約束の子として授かった一人息子イサクの結婚相手でした。

それでアブラハムは、信頼の置ける最年長のしもべを呼び寄せ、誓わせて花嫁さがしの旅に出させます。

アブラハムのしもべは、アブラハムの生まれ故郷へと旅します。旅の道中、しもべはとても具体的な祈りをしつつ、みこころを確かめようと努めます。

驚くべきことに、しもべがまだ祈り終わらないうちに、一人の女性がしもべの前にあらわれ、しもべが祈ったとおりのことを語り、行いました。しもべは、主が自分の旅を成功させてくださったかどうかを知ろうと、黙って彼女を見つめていました。

主なる神は、私たちが願う前にあなたの必要をよくご存じです。そして主はいつでも、あなたにとっての最善を用意し、待っていてくださいます。あきらめずに忍耐をもって、具体的に祈りつつ旅を続けていく時、主が備えてくださっている最善に出会うことが出来るのです。

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礼拝メッセージ「墓地への葬り」

礼拝メッセージ「墓地への葬り」

聖書箇所:創世記23章1ー20節

こうして後、アブラハムは自分の妻サラを、カナンの地にある、マムレすなわち今日のヘブロンに面するマクペラの畑地のほら穴に葬った。創世記23:19

人生を共に歩み、苦楽を共にした最愛の妻サラが死んだ時、夫アブラハムは慟哭し、嗚咽し、滂沱しました。

『祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。』伝道者の書7章2節

ある日突然死が訪れ、墓地へ葬られる。厳粛な事実です。病気やケガがいやされることは感謝なことです。しかしそれらは一時的な救いでしかありません。やがて私たちの肉体は、罪の故に死に至り、土に帰るのです。

しかし、神の御前に心を注ぎ出し、天を見上げる時、人は新しく力を得て、死に勝利することができます。アブラハムは、復活信仰をもって死者のそばから立ち上がり、墓地を買い取り、妻サラを墓地へ葬りました。

私たちのために十字架で死なれ、葬られ、3日目に復活されたイエス・キリストを信じる者は、永遠のいのちを持ち、天に国籍を持ちます。死は本当の終わりではなく、新しいいのちの始まりなのです。

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イースター歓迎礼拝メッセージ「復活信仰」

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イースター歓迎礼拝メッセージ「復活信仰」

聖書箇所:創世記22章1ー24節

御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」創世記22:12

不信仰を超えて約束を果たしてくださる全能の主を知ったアブラハムは、試みの時、主の命令の通り、自分の子、自分のひとり子イサクさえ惜しまないで、神にささげました。

新約聖書へブル人への手紙11章17-19節には、この時のアブラハムの信仰が説き明かされています。

『信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。』

神には人を死者の中からよみがえらせることもできる。実にアブラハムは、そのような復活信仰をもって全能の神を仰ぐ信仰の父へと変えられ、死者の中からイサクを取り戻したのでした。これはキリストの弟子たちでさえ見習うべき復活信仰です(ルカの福音書24章41節等参照)。

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礼拝メッセージ「苦しさの裏側にあること」

礼拝メッセージ「苦しさの裏側にあること」

聖書箇所:創世記22章1ー24節

これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。創世記22:1

春の前には冬があり、夜明け前には闇があるように、復活の前には十字架の死があり、歓喜の前には苦しさがあります。

キリストの愛に揺り動かされて、本気でキリストに従おうとする時、私たちは葛藤や苦痛、困難に直面します。しかしキリストは「自分の十字架を負ってわたしについて来なさい」と言われます。キリストに従うことは、キリストの苦しみの欠けたところを満たすことに他なりません(コロサイ1:24参照)。

苦しむこと、自己否定が目的(ゴール)ではありません。しかし苦難を通して、人間性がその極みまで、真の人間であるイエス・キリストの身丈まで成長すると私は確信します。

苦難の意味は、キリストに従うことを通して、私たちがキリストのように変えられるところにあります。それは、私たち自身が、全世界の祝福の基として、他者のために存在する教会となるためです。

世界宣教の使命に生きる教会として、自分の十字架を負い、ともにキリストに従っていきましょう。

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礼拝メッセージ「神は夢の中で」

礼拝メッセージ「神は夢の中で」

聖書箇所:創世記19章30ー20章18節

神は夢の中で、彼に仰せられた。「そうだ。あなたが正しい心でこの事をしたのを、わたし自身よく知っていた。それでわたしも、あなたがわたしに罪を犯さないようにしたのだ。それゆえ、わたしは、あなたが彼女に触れることを赦さなかったのだ。創世記:20:6

ロトの娘たちは、閉塞感の中、父に酒を飲ませ、父によってみごもり、モアブ人とアモン人の先祖となります。背後には、ロトの娘たちの胎を堅く閉じられない主なる神がおられます。

旅を続けるアブラハムは、再び妻サラを妹だと偽り、その結果サラは、ゲラルの王アビメレクに召し入れられてしまいます。しかし主なる神は、正しい心を持つ王アビメレクが罪を犯さないように、夢の中で彼に警告と命令を与えられたのでした。

アビメレクがサラをアブラハムに返し、アブラハムが神に祈った時、アビメレク家の女性たちは、また子を産むようになりました。主が胎を再び開かれたからです。

すべての女性の胎を、閉じたり開いたりすることのできる主権者。それが主と呼ばれるアブラハムの神です。人間は不信仰によって神の計画を妨げます。しかしアブラハムの神は、閉塞感という名の不信仰や人間の過ちに、愛と真実をもって介入され、確実にご計画を前に進ませておられます。

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礼拝メッセージ「神の自問自答」

礼拝メッセージ「神の自問自答」

聖書箇所:創世記18章1ー33節

主はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。・・・創世記18:17-18

主は御使いと共にアブラハムに現れ、神のことばの確かさを語られます。人の不信仰を超えて、時が来ると必ず出来事となる。それが神のことばです。主は、主の時刻表通りに事を成されます。遅れることはありません。いつでも主は、最善の時に最善の事をなさいます。

夫婦は似てくると言われますが、アブラハム夫婦もそうでした。夫アブラハムは、作り笑いをしながら、心の中では不信仰な苦笑いをしました。同じように妻サラは、心の中で笑って言うのです。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」

しかし心の中をご覧になる主は、「なぜ笑うのか。」「主に不可能なことがあろうか。」「いや、確かにあなたは笑った。」と問い詰められます。

その後、主と御使いたちは、きわめて重い罪を犯し続けるソドムとゴモラを滅ぼすために視察されます。その時、主なる神は自問自答なさいました。その内容を聖書は特筆しています。主はいつも、その時の私たちにとって何が最善かを自問自答なさり、私たちの信仰を養い育ててくださいます。感謝。

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礼拝メッセージ「全能の神」

礼拝メッセージ「全能の神」

聖書箇所:創世記17章1ー27節

わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。創世記17:1-2

主なる神は、具体的な約束をもってアブラムの信仰を育まれます。創世記17章で、主なる神は全能の神(エル・シャダイ)として現れ、アブラムとその子孫との間に割礼による契約を結んでくださいます。

全能の神は、アブラムにアブラハム(多くの国民の父)という名前を、妻のサライにサラ(王女)という新しい名前を与えられました。

アブラハムは、イシュマエルをはじめ家族内のすべての男と共に割礼を受けて契約を成立させます。けれども、全能の神の御前にひれ伏しながら笑顔を見せるアブラハムの心中には、なお不信仰な冷笑とつぶやきがあったことを聖書は明記しています。

『アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」』創世記17:17

これが、旧約聖書が語っている等身大の信仰の父、アブラハムです。しかし私たちが見上げている同じ全能の神は、そのような私たちを信仰の成人へと育て上げることの出来る全能の神です。

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礼拝メッセージ「ご覧になる神」

礼拝メッセージ「ご覧になる神」

聖書箇所:創世記16章1ー16節

そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ。」と呼んだ。それは、「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは。」と彼女が言ったからである。創世記16:13

アブラム夫婦は、神の約束を信じて旅を続けます。しかし困難な状況の中、再び神を信じきれない弱さが表に出てきます。しかし愛の眼差しをもって、すべてをご覧になる神が、いつでも共におられます。

信仰生活における問題は、神の約束を信じきれない弱さです。約束が与えられていて、そのために祈っているがなかなか答えられない。祈っていても困難な状況が生じてくる。いくら神でもこの状況で約束が現実のものになるとはとても信じられない。信仰の父アブラムにも、何度もそういう時がありました。

かつてアブラムは、不信仰から自分の命だけを守ろうとして大失敗を犯しました。この度は、不信仰から人間的な小細工によって神の約束を成就させようと試みたのです。危機的な状況の中、神の約束を信じきれないアブラムの弱さが、再び家族を一触即発の危険へと導きます。

アブラムを多くの国民の父として選んだ主なる神は、そのような時に、力強い御手をもって介入し、問題を解決してくださる方です。人間的な小細工によってどうしようもなくこじれていく関係の中でも、主は祝福を与え、問題を解決してくださいます。アブラム夫婦が不信仰でも、主はいつも真実と忍耐をもって、一人一人の家族を細やかに導かれるのです。

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礼拝メッセージ「星空散歩」

礼拝メッセージ「星空散歩」

聖書箇所:創世記15章1ー21節

そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。創世記15:5-6

私たちを養育するために、主なる神がお用いになる事の一つ。それは、「時間をかけて約束を出来事に至らせる」ということです。

待つという長い時の中、恐れるアブラムを主なる神がご覧になった時、主は幻のうちにアブラムに臨み、力強いみことばをもってアブラムを励まされました。その時アブラムは、率直に不安や不信の思いを主に打ち明けました。

星空の下をアブラムと共に散歩しながら、主は「見上げること」をアブラムに促します。見上げた先からアブラムの目に飛び込んできたもの。それは星屑(スターダスト)でした。天の川をはじめとする、数え切れない星たちが、天には静かに瞬いていたのでした。その壮大なビジョンの中、上記のような約束のことばが語られ、アブラムは主を信じ、主はそれを彼の義と認められたのでした。

信仰義認。信仰によって義と認められるという教えは、16世紀に宗教改革者たちが再発見した真理ですが、ここにはっきりと記されています。

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