異郷に赴く神の子の道

和解論14章 僕としての主イエス・キリスト
59節 神の子の従順
1 異郷に赴く神の子の道 p173-174

しかし、神は、超然とした態度を取らずに、イエス・キリストにおいて人間に恵みを与え給うことによって、同時に異郷へと赴き給うのである。すなわち、この全く異なった神的でない存在、否、神に背く存在の悪しき世界へと、赴き給うのである。神は、このような存在に対して、尻ごみし給わない。また、盗賊に襲われた人の傍を祭司やレビ人が通りすぎたように、神はその傍を通りすぎ給わない。彼を放置し給わない。彼の状況を御自身のものと為給う。もちろん、神は、そのようなことを為ることによって、その栄光を失い給いはしない。人間の隣人となり、隣人として人間と交渉し、人間に対して働き給う時、神はもちろん神性のことを、少しも気遣い給う必要はない。否、むしろその反対である。

われわれは、この最初の節において、やがて決定的・基礎的なものとして示されるはずの次のような思想を、今すでに語っておこう。それは<神の恵みはそのような犠牲を払うことを欲し、また払い得給うのであるがーすなわち、神は、そのように謙虚となり、そのような過多な業を行い、そのような異郷への道を歩むことが出来、またそのことを欲し、またその用意を持ち給うのであるがー神はそのような事実においてこそ偉大であり、また真の神はそのような事実においてこそ真の神として現れ給うのだ>という思想である。

神を他のすべての神々と区別し卓絶させるのは、神々にはそのようなことが不可能であり、またそのようなことを欲しもせず、またそのような用意も持ってはいないという事実である。それらの神々は、その他界性・超自然性・彼岸性等のすべてによって、人間の高慢の映像である。すなわち、下に位するものに対して身を屈しようとせず・身を低くしようとしない高慢の映像である。神は高慢ではあり給わない。むしろ、神は、その高貴な尊厳さの中にありながら、謙遜であり給う。このような高貴な謙遜において、神は、世を自らと和解せしめる神として、語りまた働き給う。われわれは、和解の歴史を、まず第一に、そして何よりも先に、このような観点において、評価しなければならない。

先行する引き渡しと使徒的引き渡し

主イエスに対して、高価なものを捧げるのはもったいないと思う人がいるなら、
その人はやがて、主イエスを売り渡すことになるでしょう。
イスカリオテ・ユダに代表される12使徒たちがそうであったように、
主イエスはあなたにとって売り物となるでしょう。
イスカリオテのユダ
カール・バルト教会教義学神論Ⅱ/2 神の恵みの選び<下>

いまや、神がイエスを、イエスがご自身を、引き渡し給う。われわれは、ここで明らかに、すべてのそのほかの引き渡しに対して、威厳、重要さ、意味深さにおいて、先行する引き渡しとかかわらなければならない。ユダがイエスを引き渡す以前に、神はイエスを、イエスはご自身を、引き渡し給うた。イエスが使徒的引き渡し〔伝えること〕の対象となり給う前に、神はイエスを、イエスはご自身を、引き渡し給うた。神の怒りが異邦人とユダヤ人を引き渡し、捨て、自分自身にゆだねる前に、神はご自身のみ子を惜しまないで、われわれすべての者のために引き渡された(ローマ8・32)。明らかに、すべての引き渡しの必然性、力、意味は、この最初の、徹底的な引き渡しーその中で、神がイエスの人格の中で、あるいはイエスが神の子として、ご自身を、引き渡しの対象とし給う最初の、徹底的な引き渡しーの中に基礎づけられている。カール・バルト教会教義学 神論Ⅱ/2 神の恵みの選び 下 p338-339

パウロは、正確に、ユダが、その後悔によれば、逆転させたいと思い、また既に起こったことを撤回させたいと願ったそのところで、業を継続する。ーすなわち、ユダが気も転倒せんばかりに恐れたことであるが、大祭司と長老たちが、あの悪い系列の中の第二の輪としてなしたことをなすことによって、継続する。換言すれば、パウロは、まさに異邦人へのイエスの引き渡しを実行する。しかも、イスラエルの召命と派遣に対する不真実をもってではなく、それらに対する真実をもって、もはやイエスを殺すためではなく、むしろ、この殺されたが、しかしまた甦らされた方の支配を全世界にわたってうち立てるために、異邦人へのイエスの引き渡しを実行する。そのようなわけで、ユダが、使徒職の任命と樹立を無にしてしまうなどということは全くなかったのであり、十二使徒の円は、ただ単にすぐに再び塞がれるだけでなく、むしろそのことを越えて、この定員外の人物の中で、マタイ28・19の意味で、まことの使徒行伝が、すなわち、イエスを異邦人に正しく引き渡す〔伝えていく〕ことが、いまこそ始まるのである。カール・バルト教会教義学 神論Ⅱ/2 神の恵みの選び 下 p319-320

神がなし給うたイエス・キリストの引き渡しこそが、本来的な、実在の引き渡し(言い伝え)である。その引き渡しの中で、神の全能の愛が、人間に、力を発揮しつつ向けられた。この引き渡しの中で、神と人間の間の深淵に橋がかけられた。この引き渡しの中で、神は人間を探し求め、見出し給うた。この引き渡しの中で、人間が神の前に立ち、神と共に生きることができる可能性が造り出された。この引き渡しの中で、その点で人間を妨げていたこと、人間を神の敵として、神との契約から閉め出さなければならなかったことが、取り除かれた。この引き渡しの中で、人間が、その罪からきよめられることによって、神の国にはいる門が開かれ、永遠の生命へのその確かな希望の基礎づけにまできた。この引き渡しの中で、教会は、誰かの人間的な手が、それに対してただ指一本だけでもふれる前に、基礎づけられたし、また基礎づけられている。その引き渡しの中で、神はわれわれのために危険におもむき給うた。なぜといって人間と、神ご自身人間となり、人間としてほかの人たちの間にまじって、彼らのもとでご自分の事柄をなしてゆくという仕方で、人間と、かかわることは、どうして神にとって危険で、迷惑となることでなく、人間の栄誉を脅かすものでないはずがあろうか。この引き渡しの中で、神は、この危険に、事実、屈し、人間としてほかの人間たちによって無力にされ、捨てられ、殺されることを進んで身にうけ給うたのである。しかし、まさにこの引き渡しの中で、神は人間にかかわるそのよき意志を、まさに次のことー神がこの危険に身をさらし、まさにこの危険に屈することの中でこそ、人間のため、その益のため、その救いのため、永遠の生命の希望の基礎づけのために、決定的な一歩をなすことーによって、実行に移し給うた。カール・バルト教会教義学 神論Ⅱ/2 神の恵みの選び 下 p356

しかし、そのことでもって、また、神が、捨てられた人間、選ばれなかった人間、に関して、意志し、計画の中に入れておられることを問う一般的な問いに対して、必要なすべてのことが語られたのである。答えは、ただ次のようでありうる。神は、まさに彼〔捨てられた人間〕こそが福音を聞き、それと共にまた彼の選びの約束を聞くようになることを欲し給う。したがって、神は、彼に対してこの福音が宣べ伝えられることを欲し給う。神は、彼が希望ー彼に対して、福音の中で与えられている希望ーをつかみ、その希望によって生きることを欲し給う。神は、捨てられた者が信じるようになり、信じる者として選ばれた捨てられた者となることを欲し給う、と。彼は神の前で、捨てられた者としての独立した存在をもっていない。彼は、神によって、ただ、捨てられた者でしかないようにと定められてはおらず、むしろ、彼が選ばれた捨てられた者であることを自分に向かって語らせ、自分自身語ることがゆるされるということに向かって定められている。これが、新約聖書の選ばれた者である。すなわち、その棄却の中で、棄却からして、選ばれた捨てられた者ーそのものたちの中にユダが生きていたが、しかしまた、(パウロにおいてそのことが起こったように)殺された、捨てられた者ーである。彼らは捨てられた者ーそのようなものとして、信仰へと呼び召されている捨てられた者、イエス・キリストの選びに基づいて、またイエス・キリストがご自身、彼らのために引き渡されたということを念頭において、自分たちの選びを信じる捨てられた者ーである。カール・バルト教会教義学 神論Ⅱ/2 神の恵みの選び 下 p372

アイルランド出身のロックバンドU2は、イスカリオテ・ユダである私たちのことを幾つかの歌にしている。

キリスト教の中心ー神われらと共に

私たち人間は否定した。私たち人間を造り、共に生きるようにと招かれた創造主なる神を。

それ故私たち人間は、神の最高傑作としての自分自身を否定し、絶望的な状況に陥った。

しかし神は、イエス・キリストにおいて、そのような望みなき人間に、救いの手を差し伸べてくださった。

神われらと共に

キリスト教の中心とは何か?
信仰の対象、愛の起源、希望の内容とは何か?
福音の中心、福音の対象・起源・内容の中心とは何か?
それは、「和解の業において成就された契約」である。

和解論が取り扱う、この「キリスト教の中心」の近似値=「神われらと共に」

狭い共同体(教会)から広い共同体(地域住民)に向かっての福音宣教

神は狭い共同体(教会)の方々と、共におられる。
しかしそれだけではない!
神は、まだ福音を聞いたことがないすべての方々とも、共におられる。
神は、まだ福音を知らないすべての方々とも、共におられる。
神は、広い共同体(地域住民)のお一人お一人と、共におられる。

被災地におられるあなた。神はあなたと共におられます。
 大切な方を亡くされたあなた。神はあなたと共におられます。
  泣いてるあなた。神はあなたと共におられます。
   インマヌエルー神は私たちとともに。
    インマヌエルーいつも共におられるイエス・キリストは、そう呼ばれています。
   インマヌエルー神は私たちとともに。
  途方にくれているあなた。神はあなたと共におられます。
 慰められることを拒んだあなた。神はあなたと共におられます。
被災地におられるあなた。神はあなたと共におられます。

1、神の一つの行為・行為における神の中心的出来事の報道

2、今ここで唯一無比な出来事として起こる唯一の特別な行為

3、人間の救済(存在の究極)に関する出来事・救済史

4、救済が定められている人間と共に(創造の目的としての救済)

5、救済と存在を失った人間・放蕩息子として悲惨の中に生きている人間と共に

6、以前の状態の回復をはるかに超える、さらにより偉大なこと
  究極・救済・完成・終末・エスカトンの到来

7、われら神と共にー信仰と希望と愛、神の恵みの讃美