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クリスマス礼拝メッセージ「人間になられた神」
クリスマス礼拝メッセージ「人間になられた神」(クリックで聴けます)
聖書箇所:ヨハネ福音書1章1-18節
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。ヨハネ福音書1章14節
「神のみことば」であられるイエス・キリストは、すべてのものの造り主(デザイナー、メーカー)です。
初めに、宇宙が創造される前から、父なる神と共におられ、すべてのものを創造された神。全宇宙の創造者。私の、そしてあなたの造り主なるお方。それがイエス・キリストであると聖書は語っています。
上記のみことばは、「その全宇宙を創造された神御自身が、私たちと同じ肉体を持たれ、人間になられた」という驚くべきクリスマスメッセージです。
永遠の昔から父なる神と共におられ、すべてのものを創造されたお方。私の、そしてあなたの造り主なるお方。いのちの源、光であられるイエス・キリストが、私たちと同じ肉体をもった人間となって、この世界に来て下さったのです。
なぜ神は人間になられたのでしょうか。
それは目に見える全人格的存在と行動を通して、神ご自身の愛を私たち人間に紹介するためでした。
礼拝メッセージ「楽園追放」
聖書箇所:創世記3章14-24節
神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。創世記3章21節
自らの罪を認めず、平気で神に責任転嫁するアダムとエバ。神は彼らをエデンの園から追放されます。しかしその前に、神は彼らのために皮の衣を作り、着せてくださいました。罪をおおい、赦して下さるあわれみ深い神が、ここに紹介されています。
皮の衣を作るためには、動物を殺さなければなりませんでした。いのちが絶たれ、血が流されたのです。人間が罪を犯しても、決して人間を見捨てられない神の恵みがここに紹介されています。
しかし同時に、聖書が語る罪の恐ろしさを考えさせられます。旧約聖書では、人間が罪を犯すたびに動物の血が流されます。新約聖書において、罪のために血が流される歴史に終止符が打たれます。
聖書は、私たちの罪がおおわれ、赦されるために、神のひとり子であられるイエス様が十字架にかかって死ななければならなかったと語ります。罪のないイエス・キリストが十字架にかかって死なれたのは、他の誰のためでもない、あなたのためであったと。
イエス様は3日目によみがえられ、今も生きておられます。イエス様は、楽園への道を命がけで切り開いて下さったのです。もしあなたがイエス様を信じるならば、あなたの罪をすべておおってくださる白い衣(義の衣)を、イエス様が着せてくださいます。
礼拝メッセージ「神からの逃走」
聖書箇所:創世記3章8-13節
そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたはどこにいるのか。」創世記3章8-9節
自分の過ちを指摘された時、 反射的に自分を守ろうとして、責任を他になすりつけてしまう。聖書は、そのような本当の私たちを映し出す鏡のようです。
神が食べてはならないと言われた善悪の知識の木の実。堕天使に誘惑されたとはいえ、ふたりは禁断の木の実を食べました。それはエバとアダムが、それぞれの責任において犯した過ちでした。
まず神は、夫アダムにその責任を問われます。 そのときアダムは、こう神に言い返すのです。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
「この女が」と言っているので、妻に責任をなすりつけているようです。けれどもアダムは、「あなたが私のそばに置かれたこの女が」と言っています。「神よ、こんな女を私のそばに置かれたあなたが悪い!」とアダムは主張し、言い逃れしているのです。
これが、私たちの姿であり、すべての人間の姿です。エバも似たように、蛇に責任をなすりつけますし、 アダムという名前は、人間を意味する言葉なのですから。神からの逃走、それは自らの過ちを素直に認めることからの逃走です。
礼拝メッセージ「天使の誘惑」
聖書箇所:創世記3章1-7節
そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」創世記3章4-5節
堕天使とは、堕落した天使(御使い)です。悪魔とかサタンとも呼ばれる存在です。かつては賛美リーダーとして、天使たちとともに美しい音楽、神をほめたたえる賛美を奏で、すべての栄光を神に帰す、素晴らしい存在でした。
ところが、堕落して堕天使となったのです。高慢になり、すべての栄光を自分に帰そうと神に反逆したため、神に裁かれ、地に落とされたのでした。
「しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。」と、コリント人への手紙第二の11章14節に教えられているように、その後堕天使は天使に変装し、巧みな言葉で人間を誘惑しました。
あなたに都合のいい基準を持って生きるように。
すべての栄光をあなたに帰すように。
あなたが神になるように。
そしてあなたがいのちを失い、必ず死ぬように。
そのように堕天使は、あなたを誘惑したのです。
礼拝メッセージ「結婚活動」
聖書箇所:創世記2章18-25節
それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。創世記2章24節
「結婚」、「結婚活動」の起源は、聖書にあります。
「神のかたち」として造られた私たち人間は、神との関係の中に生かされ、人との関係の中で共に生きるようにデザインされています。これが、3つ目の視点から見た「神のかたち」の関係論的意味です。
実に人間は「人が、ひとりでいるのは良くない」という御心に基づいてデザインされています。それで神は、「わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう」と言われたのです。そして神は、男性のあばら骨からベストパートナーとしての女性を形造られ、素晴らしい出会いが与えられました。
新約聖書において、夫婦関係はキリスト(神)と私たち教会(人)との関係の反映であるという奥義が、説き明かされています。
「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。(エペソ5章21-33節参照)
礼拝メッセージ「喜びの園エデン」
聖書箇所:創世記2章4-17節
神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。神である主は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」創世記2章15-17節
自転車、オートバイ、車、電車、飛行機、トラクター、コンバイン、照明器具、時計、ラジオ、テレビ、冷蔵庫、電子レンジ、洗濯機、エアコン、携帯電話。あらゆる工業製品には、その製品をデザインし、組み立てたメーカーが存在します。どれ一つとして、偶然に存在しているものはありません。すべての製品はメーカーによってデザインされ、形造られ、存在へと招かれたのです。
時代を超える神の言葉である聖書は、私たち人間、つまりあなたをデザインし、組み立ててくださったあなたのメーカなる神がおられ、その方が私たちを存在の喜びへと招いてくださっていることを語り続けています。あなたは偶然の産物ではありません。
デザイン・設計という行為は、本来目的に基づいて行われます。神が人間をデザインされた時にも、目的に基づいてデザインされました。
神の代理人として、喜びの園エデンをふさわしく管理・運営していくという目的のために、人間はデザインされています。存在の喜びによるマネジメント。それが、神のかたちの目的論的な意味です。
礼拝メッセージ「土地のちりといのちの息」
礼拝メッセージ「土地のちりといのちの息」(クリックで聴けます)
聖書箇所:創世記2章4-7節
神である主は土地のちり(アダマー)で人(アダム)を形造り、その鼻にいのちの息(神の霊)を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。創世記2章7節
これまで見てきた創世記1章から2章3節には、天地万物の創造の中で、そのクライマックスとして、人間の創造が取り上げられていました。
創世記2章4節からは、創造の冠、最高傑作としての人間に改めてカメラが向けられ、人間がクローズアップされ、スローモーションで描写されています。
人間が神のかたちに基づいてデザインされているというのはどういう意味なのか。そのことが、3つのアングル・視点から紹介されていきます。最初のアングルは、いのちという視点から見た神のかたちです。
上記のみことばを原語で読むと、「人」と訳されていることばは「アダム」です。これは人間を意味する男性形の単語です。興味深いことに、「土地」と訳されていることばは「アダマー」となっており、これはアダムと同じ単語の女性形です。
人が土地のちりから形造られたとき、まだいのちを持つ生きものではありませんでした。いのちの源である主なる神が、その鼻にいのちの息(神の霊)を吹き込まれた時、人は生きものとなったのです。
中野教会にて関東宣教区講壇交換メッセージ「目的志向の人生」
礼拝メッセージ「7日目の休日」
聖書箇所:創世記1章1節-2章3節
こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。創世記2章1-3節
創世記に書き記されている天地創造のドラマには、恵みを刻む2つのリズムが、美しく響いています。
1つ目は、2拍子のリズムです。これは、「夕があり、朝があった。第~日。」という神の言葉によって生み出されます。
「私たちが何かをする前に、まず神が働いておられる。神はすべてを解決へと導いていて下さる。心配しないで。日はまた昇るから。」そんな希望と喜びに満ちたリズムです。このリズムを聴き続けるなら、安らぎと生きる力を得ることができます。
2つ目は、7拍子のリズムです。「夕があり、朝があった。第~日。」という神の言葉が6回繰り返された後、7回目の休符によって生み出されます。
7日目に休まれた神に倣って、7日目に休む。そのようにして、このリズムに生きることができます。6日間働いてすべての仕事をし、7日目にはすべての仕事を止めて神のふところで憩う。そのように私たち人間は造られているのです。
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