カテゴリー: 聖霊論
いのちのことば社Word Chapel
2016年8月23日(火)、東京中野にある、いのちのことば社本社ビルで持たれているWord Chapelに招かれ、感謝な時が与えられました。書籍やCDなどのプレゼントもいただき、5階建てビルの見学もさせていただき、本当にありがとうございました。いのちのことば社のすべての出版物が、これからますます、まだ聖書の素晴らしさを知らない方々のために、豊かに用いられますように。
メッセージタイトル:天を見上げて地上を旅する
聖書箇所:創世記15章1−6節
20160823Word Chapelメッセージ「天を見上げて地上を旅する」(クリックで聴けます)
まだ聖書の素晴らしさを知らない方々のために、以下の文章をこれからさらに練り直します。
福音的な聖書の読み方のコツ
福音的な聖書の読み方のコツ
先行する恵みにいつも思いを向ける。
聖書の中に命令が出てきたら、まず神がその命令を私に対して実践してくださったことに思いを向ける。
例えば、マタイ22章34−40節に記されている聖書の中で一番大切な命令について、実践してみよう。
1、心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、
あなたの神である主を愛せよ
2、あなたの隣人を自分自身のように愛せよ
まず神が、心を尽くして私を愛してくださったことに思いを向ける。
まず神が、思いを尽くして私を愛してくださったことに思いを向ける。
まず神が、知力を尽くして私を愛してくださったことに思いを向ける。
まず神が、私の良き隣人となって寄り添い、私をご自身のように愛してくださったことに思いを向ける。
そのように私を愛してくださった神に思いを向けるなら、神を喜び、神に感謝し、神を愛することはそんなに難しいことではなくなる。
これが福音的な聖書の読み方のコツ。先行する恵みにいつも思いを向けること。
私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。
1ヨハネの手紙4章19節
ヨハネ福音書の中で、主イエスの新しい戒めとして提示されている内容を覚えても、上記の内容を福音的な聖書の読み方として裏付けることができます。
あなたがたに新しい戒めを与えましょう。
互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。
ヨハネ福音書13章34−35節
互いに愛し合いなさい。なぜなら主がまず私たちを本気で愛してくださったから。
互いに仕え合いなさい。なぜなら主がまず私たちに仕え、汚れた足を洗ってくださったから。
互いに赦し合いなさい。なぜなら主がまず私たちを赦してくださったから。
そして主の愛と赦しは、実は私たちの悔い改めにも先行します。あらゆるものに先行する恵み。それを知った時初めて、私たちは真に悔い改めることができるのです。
ルカ福音書23章34節には、私たちの悔い改めに先立つ神の赦しが、十字架の主イエスによって明確に啓示されています。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」
私の武器
天を見上げて地上を旅する
埼玉県北葛飾郡杉戸町、旧日光街道沿い、古利根の流れのほとりに植えられた杉戸キリスト教会、野町真理牧師のゴスペルメッセージ。
新緑の筑波山
神の国の証人ブルームハルト父子 待ちつつ急ぎつつ
それが、そのような困難は承知の上で、やはり書かずにいられない気持ちになったことには、日本のキリスト教会の現状についてのーことに一九六九年以降の日本基督教団の現状についての、私自身の認識が関係している。今そのことについて、ここに詳しく述べることはできない。ただ一言で言えば、私には、今日の日本の教会にもっとも欠けているもの、そして日本の教会が(自覚的ではないにしても)今日もっとも必要としているものは、ブルームハルト的なものだと、思われてならない。ブルームハルト父子におけるような「活ける神」への立ち返りと素朴な信仰のリアリティの快復なしには、日本の教会の新しい出発はないと思われてならない。(あとがきより)
「イエスの出現によって、単に心情の問題が提出されたのではなくて、力の問題が提出された。」と言っている。これは重要な指摘である。ブルームハルトが、この出来事を通して、聖書が証しする事柄を、そしてわれわれの救いの問題を、単に心情の問題としてではなく、力の問題として捉え、「戦い」の問題として捉えたということ。これがブルームハルト父子を敬虔主義から区別する中心的なものであると共に、彼らがカール・バルトらに教えたもっとも重要なものの一つであり、今日のわれわれが自分自身の信仰の問題としてもっとも緊急に聞かなければならない事柄だと、私は思う。ド・ヴァレンティ博士に対する「弁明書」の中で語っているように、彼がゴットリービンの悲惨の中に見たものは、今も力を振るっている闇の力の支配のもとにある人間の姿であった。そのような事実に直面して、彼が覚えたのは、「憤怒」であった。彼が子どものころから聖書で読んだように、神が主イエスにおいてすでに勝利し給うたということがもし事実であれば、このような人間の悲惨に対して、どうして神の力の介入がないはずがあろうか。そのような焦燥が彼を捉えた。その場合、彼は、神の力の介入を、史的イエスの時代や使徒たちに限定することに堪えられなかった。主イエスの高挙の後の時代の有様が、それ以前と同じであって良いはずはないのであった。したがって、彼の問題は、主イエスの支配か、それとも彼に逆らう者の支配か、というまさに「力の問題」であった。p78-79
キリスト論と三位一体論について
イエス・キリストは、ナザレのイエスとして処女マリヤの胎内で受胎し、出生した時(クリスマス)に、はじめて存在するようになった方ではありません。永遠のはじめから神とともにおられ、父のふところにおられ、永遠のはじめから父との愛の交わり、聖霊の交わりの中におられる方です。永遠の神の内的生命の中におられるのは、単に永遠なるロゴスではなく、肉となった永遠のロゴス、人間イエスです。このことは教会の教理の中で、三位一体論と呼ばれています。
John 1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 2 この方は、初めに神とともにおられた。 3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。 5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。 6 神から遣わされたヨハネという人が現れた。 7 この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。 8 彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。 9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。 10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。 11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。 12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。 13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。 14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。 15 ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことです。」 16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。 17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。 18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。
三位一体の神の内部において、イエス・キリストだけを切り離し、父および聖霊との関係をぬきにして考えることはできません。それ故、私たち人間の間でも、人間を他者との関係から切り離して考えたり、男性と女性という関係をぬきにして人間とは何かを考えてはならないのです。
Shine Jesus Shine 輝け主の栄光 教会福音讃美歌156
愛の光輝き 暗闇を照らし出す
わが主イエス世の光 自由を与える力
いのちのみことば
輝け 主の栄光 地の上に
心を燃やしたまえ
あふれよ 主の恵み 憐れみ
この地を生かしたまえ
神が美しくなられるためにー神学的美学としての実践神学
神が美しくなられるためにー神学的美学としての実践神学
R.ボーレン著、加藤常昭訳
本書が刊行されて、もう40年の時が流れました。なぜ、今これを訳したのか。・・・しかし、それよりも遥かに切実な思いは、今日の日本の教会と神学の状況を思い、どうしても紹介したくなったのです。当時のドイツの閉塞状況は厳しいものでした。・・・訳者あとがきより
花咲くこと、そして蝶について何ごとも知ることがないような弟子たちの群れは、光の軽やかさを失う。p158
キリスト者たちが創造のみわざを見過ごすようになったときに、伝道する力をも失ってしまうということである。p159
教会は醜い社会である。醜いものと美しいものとの混合体である。そのなかで神は美しくなることをお始めになるのである。美しさは醜いものの将来である。それゆえにパウロは教会を醜い者たちの集まりだと見ているのである。「あなたがた兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことをよく見なさい」(コリントの信徒への手紙一第一章二六節)。教会は愚かな者、弱い者、卑しく生まれた者、侮られている者、認められていない者たちの集合体であった。それが「キリスト・イエスにおいて」美しくなるのである!
この局面は牧師にとっても信徒にとっても非常に大きな重要性を持っている。牧師と信徒が教会を、その可能性において知覚する用意があるかどうかということによって大きく事柄が決定される。教会をその可能性において見るということは、これが何を目指すものとして捉えられているかということにおいて教会を見るということである。
このようにしてこそ、ローマの信徒への手紙第八章二九節以下がアオリストで語られているということを、われわれは理解することができる。われわれが眼前に見ている教会はこのアオリストの文体によって新しく見出される。ローマの信徒への手紙第八章二九節から三〇節までは、教会をレゲンデとして物語るようにと導いてくれる。
「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」p194-195
牧師になるために、神学生は学生時代に三つのことを学ばなければならない。人びとと交わること、自分自身の時間を生かすこと、そして、神ご自身との交わりに生きること、である。これらはキリスト者の存在にとって基本的な要素となる諸局面であって、これが神学生によって模範的に生活化されることが求められるのである。人びととの対話、自分自身との対話、神との対話、それができるようになるということ、学生は、これを三つとも相並んで学ばなければならない。 p27