今日は受難週の受難日。
今年も、受難週の受難日を迎えた。
受難週の受難日に、私のために十字架に磔にされた主イエス・キリストを想う。
十字架は血なまぐさい処刑の道具、けれども十字架は、私に対する神の愛の印。
私のために父なる神に見捨てられた主イエス・キリスト。
私のために苦しまれた主イエス・キリスト。
私のために赦しを祈られた主イエス・キリスト。
私のために十字架で死なれた主イエス・キリスト。
私のために命を捨てられた主イエス・キリスト。
主よ。ありがとうございます。
主よ。私はあなたを愛します。
カテゴリー: 祈り PRAYER
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新約聖書が語る主イエス
新約聖書が語る主イエスは、一言で言えば、エホバの証人が証言するような「最も偉大な人間」ではありません。新約聖書が語る主イエスは、明らかに全てが、私たち人間とは質的に違います。まるで天と地の違いのように。そのような質的な違いが認識されていなければ、新約聖書が語っている啓示のメッセージを本当に聞いていることにはならないでしょう。
新約聖書が語る主イエスは、私たち人間を断罪しつつ、しかも解放する全権を持っておられるお方です。また、私たちを御許に召すと共に、御自身に結びつける全権を持っておられるお方です。そして、人間があらゆる宇宙的制約を持っているのに対して、宇宙的全権を持っておられるお方。主イエスとならんでは、他に先行者も後続者もない救い主・キリスト。すなわち「神の行為」であり「終末的な救いの出来事」であるお方です。主イエスは、「人間になられた神」であられ、万物を創造し、万物を支えておられる「神の言葉」です。