映画「ミッション THE MISSION」

この映画の脚本は史実をもとに書かれているが、まず宗教改革以降の国外宣教という視点から見ると、プロテスタントよりも早い時期に、国外に宣教師を派遣したローマ・カトリック教会の素晴らしさを覚えた。

南米のイグアスの滝に、十字架に磔にされた宣教師が落ちていく場面から映画は始まる。

殉教者が起こされた故に、新たな宣教師が派遣されることになった。そして音楽の賜物が与えられていた後続宣教師によって、頑なであった現地のインディアンたちの心が開かれ、多くの人々がキリスト教に帰依していくことになった。ジャングルの中、武器を持った現地の人たちに取り囲まれた宣教師が、「ガブリエルのオーボエ」という曲を奏でた時、賛美の調べが人々の琴線に触れ、宣教の門が開かれていくシーンは感動的だった。

やがて宣教(ミッション)は目に見える形で大成功を収める。現地に教会堂が建てられ、抜群の音楽的センスを持つ現地の人々は、美しい声で神を賛美する者とされた。人々は勤勉に働き、少なからずの収益を得るようにもなっていった。

しかし、国と国との間に利権争いが起こり、宣教師の派遣母体であるイエスズ会も政治的理由から現地の教会を切り捨ててしまう。最終的に現地の教会、村の人々は、現地にとどまった宣教師たちと共に、武力、軍事力をもって虐殺されるに至る。

1755年、イグアスの滝上流に住むグァラニー・インディオたちがカアイパテの戦いでスペイン軍に滅ぼされた史実が脚色されて描かれる。その際、何人かの宣教師たちは武器をもって戦ったが、銃弾に倒れていった。しかし一人の宣教師は非暴力を貫き、武器ではなく十字架を掲げ、神を賛美しながら行進し、銃弾に倒れていった。

あなたが宣教師の立場であるなら、どういう行動に出るだろうか?もし私がそのような立場に立たせられたなら、人間的な怒りや憎しみに主の祈りをもって打ち勝ち、非暴力を貫きたいと心から願う。

国外宣教の恵みー受けるよりも与えるほうが幸いである

GRACE OF MISSION1

GRACE OF MISSION2

教会形成の目指すべきゴール

以前、寺田由弘・ジンジャー宣教師を迎えての国外宣教研修会において教えられ、さらに河野勇一師を迎えての伝道懇談会においても教えられたことがあります。

それは、教会形成(伝道、牧会、宣教)の目指すべきゴールです。

まずは一番パーソナルな、個人伝道というレベルで考えてみましょう。ある人に祈りつつ福音を語って伝道する時、伝える側の責任は、いつ終わるのでしょうか。相手がバプテスマを(洗礼)を受けた時点で導いた人の責任が終わると考えやすいのですが、そうではありません。導かれた人が別の人を導くところまでフォローアップ&フォロースルーし、導かれた人を通して新たに救われる魂が起こされる時、はじめて導いた側の責任が終わると考えるのがより聖書的です。

教会形成というレベルでも同様のことが言えます。新しく生み出した教会を、自立するところまで導けばゴールと考えられやすいのですが、そうではないのです。新しく生み出した教会を自立させ、さらにはその教会が新しく教会を生み出すところまで涙と祈りをもって育て上げる。その教会から新しく直接献身者が起こされるまでフォローする。さらには、その教会から宣教師が派遣されるまで養い育てる。その時はじめて、教会開拓、教会形成のゴールにまで導いたということになり、産みの苦しみをした母教会の責任が終わると考えるのがより聖書的です。

それを英語で言うと、Reproduction。一言で言えば、教会形成(伝道、牧会、宣教)の目指すべきゴールは、再生のサイクルを形成するということです。

杉戸キリスト教会 2011年度方針

杉戸キリスト教会 2011年度方針(教会総会資料2010年11月より)

★ビジョン


『そして、彼を外に連れ出して仰せられた。
「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」
さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。』創世記15章5-6節

 1、星の数ほど老若男女が満ちあふれる教会、行列のできる教会
 2、日々みことばに聴く祈りをし、主の祈りに沿って熱心に願い求める教会
 3、天から聖霊を受け続けることにより、与える幸いに生きる教会
 4、熱い祈りによって信仰、希望、愛、そして賛美が満ちあふれる教会
 5、人と緑を生かしてオアシスを再創造する教会
 6、魂を救い、人を育てることによって神の国を建て上げ、世界を変える教会
 7、日本とアジアと世界に仕える教会(JAWS21:地域、宣教区、国内、国外)

★2011年度の取り組み

 1、各個人が日々聴く祈りをし、目的宣言文に沿った「目的志向の人生」を目指す

 2、私たち杉戸キリスト教会の目的宣言文を共に作成し、
   「目的志向の教会」を目指す

★5つの目的に基づいた教会の働き

 1、礼 拝ーあなたは神の喜びとしてデザインされた
 
 2、交わりーあなたは神の家族としてデザインされた
 
 3、成 長ーあなたはキリストのようにデザインされた
 
 4、奉 仕ーあなたは神に仕えるためにデザインされた
 
 5、宣 教ーあなたは使命(魂の救いと人育て)のためにデザインされた

★目的志向の人生と教会を目指して

 参照聖書箇所:ルカ福音書10章38節-11章13節

ある時主イエスが祈っておられました。「天と地がつながっているような祈りだ。私もあんなふうに祈りたい。」そんな憧れを弟子たちに抱かせるお姿でした。ですから、「主イエス様。祈りを教えてください。」そう弟子の一人が尋ね求め、素直に聴く祈りをしました。その時主イエスが「祈る時にはこう祈るんだよ。」と教えてくださったのが主の祈りです。

主の祈りをひっくり返すと、以下のような大変恐ろしい祈りになります。主の祈りを自分の祈りとし、「目的志向の人生」を日々選び取るために、ぜひ覚えてください。そしてこの祈りに絶対にアーメン(それが私の心からの願いです)と言わないでください。無意識に祈ることがあっても、意識的には祈らないでください。悪魔的な祈りで、これ以上的外れで罪深い祈りはありませんから。これは、善悪の知識の木の実を食べた者の恐ろしい祈りですから。

自分の名前があがめられ、ほめられますように。

自分を中心とした自分の思い通りになる国が来ますように。

私の願い、考え、計画が、その通りになりますように。

私が今日もがんばって、日ごとの糧を得よう。(神など必要ない)

誰でも私に罪を犯す者があるなら、絶対に赦さないで、必ず報復しよう。

私は自分の力であらゆる誘惑に打ち勝つことができ、

 自分で自分を悪から救い出すことができる。(救い主など必要ない)

国と、力と、栄え、世界に満ちるすべてのものは、私(俺)のものだ。

これは「罪人の自己中心な祈り」です。正直にあなたの心の中をのぞいて見てください。心密かに願っている本音がこのような内容と方向性であるなら、あなたも聖書の言う「罪人」です。行き着く先は死と永遠の滅びです。しかし主の祈りの行き着く先は、喜びと感謝と永遠のいのちです。どちらに向かって生きるのか、あなた自身が日々選び取らなければなりません。

以前の私は、主の祈りをひっくりかえした内容をいつも願い求めていました。けれども、死と永遠の滅びに向かって暴走していた私のために、十字架で命を捨ててくださり、よみがえった主イエスによって、主の祈りの指し示す内容を目指して、喜んで生きるように変えられたのです。「まず向きを確認し、次にその方向性で、聖霊を与えてくださる天の父にあつかましいほど熱心に祈り続けなさい!」そう主イエスは教えておられます。

用いられれば用いられるほど、目に見える結果が出せれば出せるほど、すべての栄光を神にお返しすることが難しくなります。自分に栄光を帰したいという誘惑、神を十字架につけて殺し、自分が神になりたいという誘惑がますます強くなるからです。

ですから電波時計のように、毎日聖書に耳を傾けて聴く祈りをし、主の祈りがコンパスのように指し示している向きに軌道修正しながら生きる。そうすれば、造られ、救われ、生かされ、杉戸キリスト教会に神の家族として呼び集められている本来の目的に導かれた、目的志向の人生を生きることができます。

礼拝メッセージ「結婚活動」

For Marriage

礼拝メッセージ「結婚活動」(クリックで聴けます)

聖書箇所:創世記2章18-25節

それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。創世記2章24節

「結婚」、「結婚活動」の起源は、聖書にあります。

「神のかたち」として造られた私たち人間は、神との関係の中に生かされ、人との関係の中で共に生きるようにデザインされています。これが、3つ目の視点から見た「神のかたち」の関係論的意味です。

実に人間は「人が、ひとりでいるのは良くない」という御心に基づいてデザインされています。それで神は、「わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう」と言われたのです。そして神は、男性のあばら骨からベストパートナーとしての女性を形造られ、素晴らしい出会いが与えられました。

新約聖書において、夫婦関係はキリスト(神)と私たち教会(人)との関係の反映であるという奥義が、説き明かされています。

「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。(エペソ5章21-33節参照)

礼拝メッセージ「喜びの園エデン」

喜びの園エデン

礼拝メッセージ「喜びの園エデン」(クリックで聴けます)

聖書箇所:創世記2章4-17節

神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。神である主は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」創世記2章15-17節

自転車、オートバイ、車、電車、飛行機、トラクター、コンバイン、照明器具、時計、ラジオ、テレビ、冷蔵庫、電子レンジ、洗濯機、エアコン、携帯電話。あらゆる工業製品には、その製品をデザインし、組み立てたメーカーが存在します。どれ一つとして、偶然に存在しているものはありません。すべての製品はメーカーによってデザインされ、形造られ、存在へと招かれたのです。

時代を超える神の言葉である聖書は、私たち人間、つまりあなたをデザインし、組み立ててくださったあなたのメーカなる神がおられ、その方が私たちを存在の喜びへと招いてくださっていることを語り続けています。あなたは偶然の産物ではありません。

デザイン・設計という行為は、本来目的に基づいて行われます。神が人間をデザインされた時にも、目的に基づいてデザインされました。

神の代理人として、喜びの園エデンをふさわしく管理・運営していくという目的のために、人間はデザインされています。存在の喜びによるマネジメント。それが、神のかたちの目的論的な意味です。

礼拝メッセージ「土地のちりといのちの息」

土地のちりと命の息

礼拝メッセージ「土地のちりといのちの息」(クリックで聴けます)

聖書箇所:創世記2章4-7節

神である主は土地のちり(アダマー)で人(アダム)を形造り、その鼻にいのちの息(神の霊)を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。創世記2章7節

これまで見てきた創世記1章から2章3節には、天地万物の創造の中で、そのクライマックスとして、人間の創造が取り上げられていました。

創世記2章4節からは、創造の冠、最高傑作としての人間に改めてカメラが向けられ、人間がクローズアップされ、スローモーションで描写されています。

人間が神のかたちに基づいてデザインされているというのはどういう意味なのか。そのことが、3つのアングル・視点から紹介されていきます。最初のアングルは、いのちという視点から見た神のかたちです。

上記のみことばを原語で読むと、「人」と訳されていることばは「アダム」です。これは人間を意味する男性形の単語です。興味深いことに、「土地」と訳されていることばは「アダマー」となっており、これはアダムと同じ単語の女性形です。

人が土地のちりから形造られたとき、まだいのちを持つ生きものではありませんでした。いのちの源である主なる神が、その鼻にいのちの息(神の霊)を吹き込まれた時、人は生きものとなったのです。

古河教会にて講壇交換メッセージ「目的志向の人生」

古河教会

古河教会にて講壇交換メッセージ「目的志向の人生」(クリックで聴けます)

聖書箇所:ルカ福音書11章1-13節

古河教会の長谷川望牧師と講壇交換をしました。感謝。

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2010年9月26日 古河教会 講壇交換メッセージ要約

「目的志向の人生」 杉戸キリスト教会牧師 野町真理
 聖書箇所:ルカ福音書11章1ー13節

私の名前は真理と書いて「しんり」と言います。女性でも、牧師の息子でも、クリスチャンホームでもありません。20歳まで聖書を読むことも教会に行くこともありませんでした。20歳の時、クリスチャン留学生に出会い、「塩狩峠」(三浦綾子著)に出会い、そしてイエス・キリストに出会い、私の人生の向きが大きく変えられました。

その後、大学進学のため高知県から愛知県豊橋に移り住み、そこで森川昌芳牧師に出会い、豊橋ホサナキリスト教会で大変お世話になりました。森川牧師から主任牧師のバトンも受けたのですが、ちいさなロバのような私には荷が重過ぎて、4年前に杉戸キリスト教会に転任することになりました。尊敬する森川先生が牧会されていた古河教会に、楽しみにして参りました。

さて、イエス・キリストに出会って、私の何が一番違ったのか、今日はそのことをルカ福音書11章からお話させていただきます。

ある時イエス様が祈っておられました。「天と地がつながっているような祈りだ。確かに祈りが通じている。私もあんなふうに祈りたい。」弟子たちにそんな憧れを抱かせるお姿でした。

ですから、「主イエス様。祈る時には何をどのように祈ったいいのですか?祈りを教えてください。」そう弟子の一人が尋ね、聴く祈りをしました。その時「祈る時にはこう祈るんだよ。」と教えられたのが主の祈りです。

主の祈りをひっくり返すと、以下のような大変恐ろしい祈りになります。主の祈りを自分の祈りとして毎日祈るために、目的志向の人生を選び取るために、ぜひメモしていただけたら感謝です。

最初に申し上げます。この祈りに絶対にアーメン(それが私の心からの願いです)と言わないでください。無意識に祈ることがあっても、絶対に意識的には祈らないでください。非常に悪魔的な祈りですから。これ以上、的外れで罪深い祈りはありませんから。

自分の名前があがめられ、ほめられますように。
自分を中心とした自分の思い通りになる国が来ますように。
私の願い、考え、計画が、その通りになりますように。
私が今日もがんばって、日ごとの糧を得よう。(神など必要ない)
誰でも私に罪を犯す者があるなら、絶対に赦さないで、必ず報復しよう。
私は自分の力であらゆる誘惑に打ち勝つことができ、
自分で自分を悪から救い出すことができる。(救い主など必要ない)
国と、力と、栄え、世界に満ちるすべてのものは、私(俺)のものだ。

私はこれを、「罪人の自己中心な祈り」と名付けました。正直にあなたの心の中をのぞいて見てください。心密かにいつも願っていること、いつも考えていることがこのような内容と方向性であるなら、あなたも聖書の言う「罪人」です。行き着く先は、死と永遠の滅びです。しかし主の祈りの行き着く先は、喜びと感謝と永遠のいのちです。どちらに向かって生きるのか、あなた自身が日々選び取らなければなりません。

以前の私は、主の祈りをひっくりかえした内容をいつも願い求めていました。けれども、死と永遠の滅びに向かって暴走していた私のために、十字架で命を捨ててくださり、よみがえった主イエスによって、主の祈りの指し示す内容を目指して、喜んで生きるように変えられたのです。

熱心に祈る前に、いつもまず向きを確認する必要があります。「まず向きを確認し、次にその方向性で、聖霊を与えてくださる天の父にあつかましいほど熱心に祈り続けなさい。」そう主イエスは教えておられます。

用いられれば用いられるほど、目に見える結果が出せれば出せるほど、すべての栄光を神にお返しすることが難しくなります。自分に栄光を帰したいという誘惑、神を十字架につけて殺し、自分が神になりたいという誘惑がますます強くなるからです。

ですから電波時計のように、毎日聖書に耳を傾けて聴く祈りをし、主の祈りの向きに軌道修正しながら生きる。そうすれば、造られ、救われ、生かされている本来の目的に導かれた、目的志向の人生を生きることができます。

メルヘン街道・麦草峠 by PENTAX K-7

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礼拝メッセージ「バランスを保つ」

礼拝メッセージ「バランスを保つ」

聖書箇所:ローマ人への手紙1章18ー32節

というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。ローマ1:21

教会(目に見える建物ではなく召集されたキリスト者一人一人)は、約束の地、天の都エルサレムに向かって旅をします。

この世の荒波から逃れ、現実逃避をして静かな港の中に留まり続けるのではありません。安全な港から出て、荒れ狂う大海原を乗り越え、そして向こう岸を目指す旅なのです。

荒れ狂う大海原の正体は、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対する神の怒りです。

彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなっています。彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。

バランスを崩して転覆しない秘訣は、船に同乗してくださっている船長、嵐でさえも鎮めることのできる主イエス・キリストに信頼し、祈ることです。

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