主の祈りについて

日本人にとって、主の祈りは、お題目やお経のように感じてしまう場合があるかもしれません。意味がわからずに、あるいは意味をよく考えずに祈るなら、主の祈りもお題目や意味不明のお経のようになってしまいます。
そこで改めて、主の祈りの意味について考えてみたいと思います。主の祈りの意味を良く知るために、以下のように主の祈りをひっくり返してみましょう。
天におられる私たちの父よ!➡省略
御名(神の名前)があがめられますように➡私の名前があがめられますように。「○○さんすごいね!」と。
御国(主イエスを中心とした神の国)が来ますように➡私を中心とした、私の国が来ますように。
みこころがなりますように。天でなされているようにこの地でも。➡私の心と願い(心願)、私の考えと計画が、この地において成就しますように。
私たちの日毎の糧を今日もお与えください➡私は自分の力で今日も糧を得よう。神などいなくても生きていける。
私たちの罪を赦してください。私たちに罪を犯す者を、私たちも赦します。➡誰でも私に罪を犯す者は、絶対に赦さず、いつか必ず仕返ししてやる。倍返しだ。
私たちを試みにあわせないで、悪から救ってください。➡私は自分の力であらゆる誘惑に打ち勝ち、自分で自分を悪から救い出そう。私が救い主だ。
国と力と栄光は、永遠にあなた(神)のものです。アーメン(心からの真実な願いです)。➡国と力と栄光は、永遠に私のものだ。
いかがでしょうか?主の祈りをひっくり返すと、私たち人間が心密かに願い求めている内容になります。このような的外れで自己中心で自分勝手な願望こそ、聖書が語る「罪」です。
意味を考えながら主の祈りを祈るなら、自らの内にある罪と格闘し、神を中心とし、的を射た人生を勝ち取ることができます。そして主の祈りを心を合わせて共に祈るなら、神の家族として共に生きることができます。

聖書は「老人」について何を教えているのか?

★聖書は「老人」について何を教えているのか?
Lev. 19:32 あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、
      またあなたの神を恐れなければならない。 わたしは【主】である。
Prov. 17:6 孫たちは老人の冠、子らの光栄は彼らの父である。
Is. 65:20 そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。
  百歳で死ぬ者は若かったとされ、
  百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。
Acts 2:17 『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。
   すると、あなたがたの息子や娘は預言し、
   青年は幻を見、老人は夢を見る。

今この国に必要なもの

平均すると40秒毎に1人が、自ら命を絶っているこの国。
羊飼いのない羊のように、弱り果て、倒れている人々で満ち溢れているこの国。
影のように過ごす、むなしい、束の間の人生において、一瞬の刹那に生きるこの国。
平気で嘘をつく人々、偽りとごまかし、虚偽に満ちたこの国。
この国に、今必要なものは何でしょうか。
それは、罪と死と誘惑に打ち勝つ、主イエス・キリストの福音、十字架と復活です。
神の子どもとされる特権、罪の赦し、からだのよみがえり、永遠の命です。
恵みに生かされている世の光、地の塩としてのキリスト者、
先行する恵みによって、愛の輝きと塩けを取り戻した教会の存在、
そこから逃げ出さず、置かれた場所で花を咲かせるキリスト者の存在です。
主よ!収穫は多いですが、働き手が少ないです!
だから主よ!収穫の主よ!収穫のために働き手を送ってください!
ここに私がおります。私をより良い働き手として整え、私を遣わしてください!

安息年休暇グレイスノート 2014 SUMMER

早いもので、2000年春に東海聖書神学塾の教職志願者コースを卒業し、教会の働きに教職として関わる恵みに入れられてから、はや14年経ちました。ただ主の恵みとあわれみのみです。
最初の7年(2000年〜2007年)は、愛知県豊橋市の豊橋ホサナキリスト教会にて、次の7年(2007年〜2014年)は、埼玉県北葛飾郡杉戸町の杉戸キリスト教会にて、伝道牧会の働きに携わりました。
7年目はちょうど転任の時期と重なったため、安息年休暇はとることができませんでした。けれども、今年は教職14年目ということで、2週間安息年休暇をいただくことができました。教職教育部の先生方と杉戸キリスト教会の皆さんに心より感謝します。これまで休みといっても日曜日を挟まない形で、休み中も説教準備をしながらという休みでした。ですから感謝とともに、以下に安息年休暇の恵みを記します。

まず妻の実家がある長野に向かい、それから私の実家がある高知を旅して埼玉に戻って来ました。全部で2,100KmぐらいDRIVE JAPANしました。「貴重な時間を大切な人のために使うのが愛」だというバイブルメッセージを実践できて、疲れたけど最高でした!
8月18日(月):韓国短期宣教チーム受け入れ、世界宣教大会、主日礼拝奉仕などで力尽き、午前中に二週間分の週報原稿などを仕上げ、何とか荷物をまとめる。昼ごはんを食べて杉戸から長野の実家に車で移動。夕方5時ぐらいに到着。
8月19日(火):おばあちゃんと一緒に飯綱高原・大座法師池へ。ランチにざるそばを食べる。おじいちゃんはバイクで病院へ検査。かつて少年飛行兵だったおじいちゃんから戦争体験などを伺う。もう少し戦争が長引いていれば、おじいちゃんは帰らぬ人になっていた。そうすると私の妻も存在しなかったはず。二度と戦争が起こりませんように。
8月20日(水):長野の実家での滞在3日目。郵便局の後全員でイオンタウンへ。はま寿司でランチ。広島では深夜の集中豪雨でひどい土砂災害。夕方から長野市内でも雷と強風。長野は昼間だけ少し暑いが、一階はかなり涼しい避暑地で感謝。
8月21日(木):午前中はゆっくり。ランチはサンドイッチ。午後からは私たちだけでHANGRY CATERPILLARでコーヒーとケーキ。大座法師池のボート、パンダ号に家族3人で乗る。飯綱山登山口も確認。
8月22日(金):朝食を食べてから飯縄山登山。晴天に恵まれて壮大なパノラマを満喫。写真はゴミ写りと感度6400固定のままというミスでちょっと残念。
8月23日(土):午後から小布施道の駅に出かける。栗のソフトクリームを食べる。
8月24日(日):午前中は長野めぐみ教会で礼拝。平島先生ご夫妻も夏期休暇中で、ベネディクト宣教師がメッセージを語ってくださる。流暢な日本語は、両親が宣教師で日本で生まれ育ったからとのこと。9月ウォーク・ウイズ・ジーザス奥州街道歩いて伝道で杉戸に来られる予定。長野でも夕食に鰹のたたきをいただく。
8月25日(月):朝食後、8時半に長野の実家を出発。高知に着いたのは午後6時ぐらい。夕飯にビーフカレーを食べる。
8月26日(火):午前から海を見に桂浜へ行く。水族館に入り、鰹のたたき定食を食べて帰る。坂本龍馬と太平洋とアカメに会えた。晴天で気温は35度まで上がる。おじいちゃんが来る。鮎の塩焼きとチキン照り焼きをいただく。
8月27日(水):午前中は二階の掃除。89歳のばあちゃんが来て一緒に昼食。夕方すべり山へ。
8月28日(木):おじいちゃんとおばあちゃんと一緒に足摺岬へドライブ。伊野インターから高速に。8時半発で12時に足摺岬着。海が青い。黒潮接岸地臼ばえから竜串まで行った後、帰路に。帰りはずっと雨。かなり疲れが出る。
8月29日(金):昨日の疲れを覚えてゆっくり休む。
8月30日(土):朝食を食べてアンパンマンミュージアム(香美市立やなせたかし記念館)へ。晴天に恵まれる。高知イオンモールに寄り、コインランドリーで洗濯。かつての商店街は寂れ、今はイオンモール賑わい。おじいちゃんが手作りパン、鹿肉とアメゴの薫製、チキンライスを差し入れてくれる。すき焼きと一緒に美味しくいただいた。
8月31日(日):朝は高知一粒の麦キリスト教会へ。リフォーム中の新会堂で礼拝。すてきなハンドベルの音色。肝試しのグッズ。若者たちの元気な賛美。高知高専、豊橋技科大、東海聖書神学塾いずれも先輩にあたる森澤伸次牧師のメッセージ。もとひろくん、かほちゃんの成長に驚く。冷やし中華食べながら分かち合い。ギター賛美。バンドにドラムスで途中まで加わって教会を後にする。ばあちゃん、のりあきさん、みっちゃん、父上、母上、全員集合。午後4時半には皆に見送られて高知を後にし淡路島のホテルへ。南国PAでお土産を買う。車の中に蚊が侵入。8時前にチェックイン。
9月 1日(月):淡路島から杉戸へロングドライブ。草津JCTから新名神、豪雨の名港トリトン。刈谷パーキングエリアでランチ。味噌カツ丼、きしめん、大あんまき。新東名、東名海老名JCTから圏央道へ。ガソリン補給のため高尾山ICで下へ。再度圏央道に乗って桶川北本まで。杉戸サイゼリアで夕食。カスミで買い物。無事帰宅。全行程が守られ感謝。祈りに覚えてくださった皆様、留守番をしてくださった皆様、そして礼拝メッセージをしてくださった兄に心から感謝。
ピットインしないで走り続ける車。
休憩しないで長距離ドライブする車。
ガソリンスタンドに入らないで走り続ける車。
水分補給しないで走り続けるマラソン選手。
仕事を中断して研ぐことをしないで、切れ味が鈍くなった斧を、がむしゃらに力を込めて振り回し続ける者。
休暇を取ってスキル・熟練技術を磨くことをしないで、昼も夜も職場を離れず、黙々と働き続ける者。
人生という過酷な耐久レースをリタイアせずに走り抜くためには、何が必要だろうか?
より良い仕事を効率良くするためには、何が必要だろうか?
安息日と安息年休暇。休むことは罪じゃない!

NHK大河ドラマ「龍馬伝」メモ


世界標準の日本人・世界に通用する日本人としての坂本龍馬
母上が教えてくれたがじゃ。憎しみからはなんちゃあ生まれん。
憎しみが憎しみを生む。それが戦がもたらす悲劇ぜよ。
土佐を上士も下士もない国にするがやき。
もう日本人同士でケンカしゆう場合じゃないがぜよ。
私心があっては志とはいわん。
戦をせずに異国の侵略から日本を守る方法。ケンカをせんと日本を守る方法。
この国を洗濯することぜよ。
大嵐の中で船長の取るべき行動は何か?船員のいのちを守ること。
武士が力づくでではなく、志のある者が議論を尽くして治めていく。
どんな時にも望みがある。
武士も大名もなくなってしもうた世の中に何が残る?
異国と堂々と渡り合う日本人が残るがです。
いのちを狙われるぐらいのことをせんと、日本は変わらんがぜよ。
うみ。海。この海の向こうに世界が広がっちゅう。

神のみこころ、神が願っておられることは何だろうか

神のみこころ、神が願っておられることは何だろうか。それを知るためには、書き記された神のみことばである聖書に、静まって耳を傾けなければならない。あなたがもし他の教会に転入会すべきかどうかと迷っておられるなら、ぜひコリント人への手紙の第一と第二に静かに耳を傾けてほしい。
これが神の教会なのだろうかと思うような問題だらけのコリント教会に対して、主イエスはパウロを通して、「コリントにある神の教会へ」と呼びかけられた。今あなたが置かれている○○教会に対しても、主イエスは「○○にある神の教会へ」と呼びかけておられる。
そして主イエスは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」(ヨハネ福音書13章34−35節)と命じておられる。

Joyful, joyful, we adore Thee


愚かにも過去を水に流し、再び戦争へと強引に舵を切り続けるこの国の為政者を覚えて祈りつつギターを弾きました。
Joyful, joyful, we adore Thee。
ベートーベンの第九で有名なメロディを用いた賛美です。
聖歌85番に「みかみのあいをば」という題で以下のような日本語の歌詞があります。
みかみのあいをば うとうわれらの
むねはひらきたる はなのごとくに
みかおのひかりに まよいのきりも
うたがいのくもも きえてあとなし
みつかいせいとら うたえみいつを
つきほしたいよう たたえよかみを
ゆきふるたかねも はなさくたにも
はやしものはらも さばくもうみも
みかみはつみある  ものをもあいし
みこなるイエスをば つかわしませり
ゆるしのみめぐみ  きよむるちから
ふでにもこえにも  のべつくしえず
みかみはわれらの  ちちおやなれば
みこなるイエスをば あにうえとよばん
よびとよしたしみ  たがいにたすけ
みむねのなる日を  しのびまてかし