一九四五年の日本の壊滅的な敗戦のあと、もっとも根源的な自己批判を展開した日本の仏教徒、市川白弦が、侵略的軍国主義の正当化の支えとなった、仏教の伝統における十二の特徴をあげたとき、そのリストに仏教の基本的教義のほとんどすべてーたとえば、あらゆる現象は絶えざる流動のなかにあるとみなす、縁起ないし因果をめぐる仏教的教義とそれに関連した無我をめぐる教義、厳格なドグマの不在と人格<神>の不在、正義ではなく内面的平安を重視すること、等々ーを入れざるをえなかったのは、なんら不思議なことではない。 ・・・スラヴォイ・ジジェク著『操り人形と小人 キリスト教の倒錯的な核』青土社p49-50より
以下、市川白弦著「仏教者の戦争責任」春秋社1970年より引用
歴史的世界の悪を傍観して自己の清潔を守る宗教者の「徳」を、D・ボンヘッファーは宗教者の「敬虔なる怠慢」とよんでいる(森野善右衛門訳『現代キリスト教倫理』二六四頁)p4
西欧では宗教の名による戦争がしばしばおこなわれたが、仏教のばあいは決してそうではなかった、というたぐいのことばを、明治以後に生まれた仏教者、「破邪」「折伏」などの論理を「聖戦」に奉仕させたわれわれ仏教者は、つつしみたいと思う。中国を侵略した仏教は、もともと中国から学んだものであった。p20