礼拝メッセージ「聖霊による伝道」

礼拝メッセージ「聖霊による伝道」

聖書箇所:使徒の働き8章26ー40節

御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい」と言われた。そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが、わかりますか」と言った。使徒の働き8章29-30節

『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』(ゼカリヤ4章6節)と語られているように、教会の働きは、聖なる神の霊に導かれたキリスト者一人一人の働きです。

教会の働きが権力や能力によって進められようとするなら、そこから教会は誤った道にそれ、いのちの輝きと塩気を速やかに失います。

危機の時代の中で、教会が教会であるためには、静まって主の前にひれ伏し、祈りつつ心を開いて聖書のみことばに耳を傾け、聖なる神の霊に聞き従うことがどうしても必要です。

聖霊は、謙遜に道先案内をしてくださる最高の導き手であり、最高のコーチです。聖霊は、先導してくださいますが大切な働きを私たちに託してくださり、私たちを用いて神の働きを進めてくださるのです。

あなたもピリポのように、日常生活において聖霊のナビゲーションに素直に聞き従うならば、求めている方との出会いが与えられ、魂の救いという大切な働きのために、神に用いていただけます。

礼拝メッセージ「神の賜物・聖霊」

礼拝メッセージ「神の賜物・聖霊」

聖書箇所:使徒の働き8:14ー25

ペテロは彼に向かって言った。「あなたの金は、あなたとともに滅びるがよい。あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。使徒の働き8章20節

魔術師であったけれども信じてバプテスマを受けたサマリヤのシモンは、使徒たちが手を置くと、御霊(聖なる神の霊なので聖霊とも呼ばれる)が人々に与えられるのを見て驚きました。

そしてシモンは、それが欲しいという思いに囚われ、使徒たちのところに金を持って来て、聖霊を授けることのできる権威を手に入れようとしました。上記のみことばは、その時に使徒ペテロがシモンに向かって語ったことばです。

聖霊は決して、人間が意のままに操ることのできるようなお方でも、買収できるようなお方でもありません。なぜなら聖霊は、三位一体の神御自身であられ、人間が自分勝手に利用できるようなエネルギーやパワーではないからです。

聖霊は、神の子どもであることの証印、霊のいのちの内住、御国を受け継ぐことの保証などをもたらす神の賜物です。聖霊は、値段がつけられないほど高価な賜物ですが、誰であっても求めるなら受けることができます。誰でも救いの福音を信じ、イエスをキリストとして心に受け入れるならば、聖霊が私たちの身体に内住してくださいます。

召天者記念礼拝メッセージ「嵐の中の教会」

Sugito Memorial Worship

召天者記念礼拝メッセージ「嵐の中の教会」

聖書箇所:使徒の働き8:1ー13

その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のために非常に悲しんだ。使徒の働き8章1-2節

時に私たちが、人生において嵐の中に置かれるように、キリストの教会も、嵐の中に置かれることがあります。

ステパノに対して激しい憎悪を抱いた人々は、ステパノを殺した後も怒りが収まらず、教会に対して怒りの矛先を向け、激しい迫害を始めました。その時、サウロという青年が、教会迫害の中心的人物として精力的に活動していたことを聖書は記録しています。

そのような中、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされ、彼らによって福音宣教の働きが拡大し前進していきました。残された敬虔な人たちは、悲しみつつステパノを葬りました。

万事を益に変えてくださる神がおられ、今も生きておられます。すべてのことは神の御手の中にあります。この方は嵐を追い風に、危機を好機に、マイナスをプラスに、悪を善に、死をいのちに、悲しみを喜びに変えてくださる素晴らしい方です。

八ヶ岳主峰赤岳を目指して

八ヶ岳主峰赤岳を目指して

杉戸キリスト教会牧師 野町真理

今年の夏も、本当は妻と一緒に山登りがしたかったが、妻が怪我をして松葉杖だったのでそれは無理。それで一日だけ、妻に家でおとなしくしてもらい、妻にはきつい登山計画を一人で実行することにした。

日曜日の間に、つまり午前0時になる前に高速に乗れば、高速代1300円で行けること。
午後の雷雨や霧を避けるため、朝早くから登頂を始め、午後の早い時間に山を降りること。

この2点を考え、日曜の午後9時すぎに夕拝を終えた後、妻のために留守中簡単に食べれるものを買いに走り、ガソリンを満タンにし、そして川越ICを目指した。さすがにこの時間だと16号もすいている。

無事に日付が変わる前に高速に乗り、圏央道から中央道へと抜けていく。須玉ICで高速を降り、清里方面に車を走らせる。清里駅周辺の街明かりを後にしてしばらく走ると、野ウサギが車の前を横切った。

美し森駐車場に無事到着したのは午前2時だった。エンジンを止めて外に出る。うわー!すごい!!!天を見上げると、まさに数え切れないほどの星たちが、静かに瞬いていた。「さあ天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。・・・あなたの子孫はこのようになる。」(創世記15章5節)の御言葉を覚えつつ、祈りをささげる。しかし5分も外にいるとかなり冷えてきてしまう。星空の写真を撮ろうとしたが、三脚がないのであきらめた。車の中で仮眠をする。

午前4時に荷物を抱えて車を後にする。舗装された道路を30分ほど歩くと登山口。そこから県界尾根を目指して歩き始める。途中夜明けとなり、遠くに雄大な八ヶ岳連峰が姿を現した。

県界尾根は長野県と山梨県の県境に位置する尾根。小天狗から大天狗、そして赤岳山頂を目指す。八ヶ岳は小屋ヶ岳とも言われるほど、山小屋が多い。しかし東側からの赤岳登山ルートには山頂付近にたどりつくまで山小屋が一つもない。駐車場から考えると約5時間の登りとなる。だから水分を2リットルほどリックサックに入れて来た(ポカリスエットとカインズでまとめ買いした緑茶)。食料はカロリーメイト、クリームパン、そしてメロンパン。

大天狗を越えたあたりからは鎖や梯子が用意されている急峻な登りになるので、軍手も用意している。クマ鈴の代わりに、iPhoneをスピーカーで鳴らす。クリス・トムリンのアルバム、Hello Loveを繰り返し聴きながら賛美する。

大門沢に沿って1時間ほど歩くと、いよいよ小天狗を目指しての急な登りとなる。そこから小天狗までは約1時間、小天狗から大天狗までが約1時間30分、大天狗から山頂までが2時間弱となる予定。途中で朝日を背に迎えた後は、Power Filmの折りたたみ太陽電池パネルをリックの上に広げ、iPhoneを充電しながら音楽を聴く。

山登りにおいては、一歩前に歩き出さないかぎり、目指す山頂にたどりつくことはできない。人生においても、とにかく一歩前に歩き出さなければ、目指す所にたどりつくことはできない。

山登りにおいて、苦しさの裏側にあるのは、尾根や山頂にたどり着いた時に味わうことのできるすばらしい景色と喜び、そして達成感。人生において、苦しさの裏側にあるのは、目指す所にたどり着いた時に味わうことのできる歓喜。そして、十字架の苦しさの裏側、死の向こう岸にあるのは、復活のいのちと永遠の喜び。

人生には、地図とコンパスが絶対に必要だ!

Yokotake

八ヶ岳の主峰赤岳を目指して、県界尾根から登山した際に迫ってきた横岳の姿。

横岳の標高は2,829m。八ヶ岳の主峰赤岳に次ぐ高さを誇る。

Wikipediaで横岳を調べると、

夏山登山でも硫黄岳から硫黄岳山荘にむけて下ってきた辺りから横岳大同心、小同心を中心とした赤岳方面まで一帯の稜線を縦走する登山道は、吹き上げる西風の影響などから(時として足元が見えないぐらいの)濃霧に見舞われやすく、落石や道を見失って迷ったり、転落、スリップに注意を要する。横岳付近の登山道には逸れ行き別れになってしまった仲間への書置きや追悼登山の石積みが多く見られる。

とある。

その通りに赤岳を目指して登っていた時にはその姿を現していた横岳は、赤岳登頂後には霧に包まれてしまった。

yokotake mist

山の天気は変わりやすいと言われるが、まさにその通り。

人生の天気も変わりやすいことを覚える。

晴れ間が見えていたかと思えば、たちまち五里霧中で道に迷うこともよくある。

だからこそ、人生には、地図とコンパスが絶対に必要だ。

正確で信頼に足る人生の地図でありコンパス、それは聖書以外にはない。

礼拝メッセージ「いと高き方にならいて」

礼拝メッセージ「いと高き方にならいて」

聖書箇所:使徒の働き7:46ー60

そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。使徒の働き7章60節

捨て身で神のことばを語ったステパノは、キリスト教会の歴史において、最初の殉教者となりました。

上記のみことばは、ステパノが地上の人生を終える最期に叫んだ、勝利のことばです。

ステパノが一生懸命祈っている彼らは、その時、怒りと憎しみと殺意に歪んだ恐ろしい形相で、次々にステパノに大きな石を投げつけていました。

しかしステパノは、そのような彼らの罪を、彼らに負わせないでくださいと、祈ることができたのです。

人はいと高き方・主イエス・キリストにならう日常生活の中で、少しずつキリストのように変えられる。そして人は、遂に憎しみよりも強い愛に生きることができる。愛と勝利の高嶺に登ることができる。

ステパノは身をもってそのことを実証し、一粒の麦として、しばらくの間、眠りについたのでした。そしてそこには、サウロという青年がいました。