礼拝メッセージ「金銀はないがあるものを」

礼拝メッセージ「金銀はないがあるものを」

聖書箇所:使徒の働き3章1-16節

すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、・・・使徒の働き3章6節

美しの門と呼ばれる門の前で、毎日のように施しを求める男がいました。この男は、生まれつき足を動かすことが出来ず、一度も自分の足で立ったり歩いたりしたことがありませんでした。

男はペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、いつものように施しを求めました。ペテロはヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい」と言いました。

男は、当然何かもらえると思って、ふたりに目を注ぎました。男が期待したのは金銀程度でした。しかし男は、期待を遙かに超えた素晴らしいギフトを、上からいただくことができ、自由にされたのです。

一度も力を入れることが出来なかった男の両足が、完全に強められ、自分の足でまっすぐに立ち、歩いたりスキップができるようになりました。

人々は、ペテロが自分の力とか信仰深さによって男を歩かせたかのように見つめました。しかしペテロはすべての栄光を主イエス・キリストにお返ししました。主イエス・キリストによって与えられる信仰。このキリスト信仰にこそ、真の自立支援があります。

礼拝メッセージ「父を用いられる神」

09 Father's Day

礼拝メッセージ「父を用いられる神」

聖書箇所:ヘブル人への手紙12章1-13節

すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。ヘブル人への手紙12章11-12節

父というのは、山の稜線の急峻な岩肌に、しがみつくようにして立っている大きな木のようです。

稜線は山々における馬の背のような部分ですから、いつも風や雨の当たりが強く、しばしば落雷がある所です。しかしどこにも逃げ場はなく、まさに矢面です。そんな過酷な所に、父は立ち続けなければならないのです。

ですから父の一週間は、まるで懲らしめを受け続けるかのような毎日です。週末になる前に、「やってられない今日この頃!」と叫びたくもなるでしょう。

しかし上記のみことばは、そのような苦しみの中に置かれている父、そして私たちに対する、天の父からの語りかけです。

天の父なる神は、地上の父たちに平安な義の実を結ばせようとしておられます。天の父なる神は、地上の父たちを豊かに用いて、やがて矢面に立ち、明日の家族と社会を背負って立つ子どもたちを、将来に備えて育成されるのです。

Trees like Father

礼拝メッセージ「愛の共同体」

礼拝メッセージ「愛の共同体」

聖書箇所:使徒の働き2章42ー47節

そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。使徒の働き2章42節

教会とは、神によって呼び集められたキリスト信者一人一人のことです。生み出された教会は、使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていました。教会は、そのようにして形成され、愛の共同体とされました。

使徒たちの教えとは、主イエス・キリストの教えです。ヨハネ福音書13章34-35節にその要約があります。『…わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。』

交わりとは絆を意味します。パン裂きとはキリストの愛を覚える聖餐式を意味します。

神との絆が回復する時にだけ、隣人との絆も回復します。そして人は、お金、モノ、仕事、自己実現よりも絆を大切にし、一緒に食事をし、語り合い、共に生きる交わりを喜びとする者に変えられます。

自分さえよければ他人はどうなってもかまわないと思っている人が、そのような人に新しく造り変えられる。これこそ神のなさる美しい奇跡です。

礼拝メッセージ「悔い改めなさい」

礼拝メッセージ「悔い改めなさい」

聖書箇所:使徒の働き2章22ー41節

「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」使徒の働き2章38節

聖霊に満たされたペテロは、まさしく「神の伝令」として、イエス・キリストを真っ直ぐに伝える伝道説教を熱く語り続けます。

ペテロが語る伝道説教は、鋭いメスによってなされる切開手術のようです。なぜなら、ペテロが上から預かって語っているのは、私たち人間の心に溜まっている膿や癌のような罪をすべて取り除き、私たちを死と永遠の滅びから救おうとする神の言葉だからです。

心を刺され、ペテロのことばを神の言葉として受け入れた人々は悔い改め(向きを変え)、行列となってバプテスマ(洗礼)を受けました。その日3000人ほどが弟子に加えられたと聖書は記録しています。

神の言葉と聖霊が、にわか雨のように豊かに降り注ぐ時、そこに行列のできる教会ができるのです。にわか雨は予測できません。恵みの雨は神の主権の中で局地的に注がれます。しかし私たち教会が、十字架のもとに力を合わせ、祈りに専念するなら、神はこの地域にも、豊かに雨を降らせてくださるでしょう。