礼拝メッセージ「弟子の代価」

礼拝メッセージ「弟子の代価」

聖書箇所:ルカ福音書14:25-35

ですから、塩は良いものですが、もしその塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられてしまいます。耳のある人は聞きなさい。ルカ14:23ー24

キリスト者は地の塩だと言われます。今日のみことばを文脈から読むと、キリスト者の塩けとは、人がキリストの弟子になるために、次のような代価を払う時に与えられるものだということがわかります。

1、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎む(26節)
2、自分の十字架を負って従う(27節)
3、自分の財産全部を捨てる(33節)

家族や自分のいのちまでも憎むとは、父や母、息子や娘、兄弟や姉妹、そして自分を、キリストよりも愛さないということです。

自分の十字架を負うとは、福音宣教のために、キリストと共に苦しみを味わうことです。

自分の財産全部を捨てるとは、経済的にもキリストだけに頼るということです。お金の問題ほど信仰と深く結びついている問題はありません。

信仰による確信と勝算の幻がなければ、このような代価を払うことも、塩けを保つこともできません。

父の日歓迎礼拝メッセージ「神の国の宴への招待」

07父の日歓迎礼拝

父の日歓迎礼拝メッセージ「神の国の宴への招待」

聖書箇所:ルカ福音書14:12-24

『街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は、ひとりもいないのです。』ルカ14:23-24

神の国の宴に招かれるということは、最高に光栄なことです。なぜならその宴は、天地万物の造り主である神が招いて下さる、盛大な宴だからです。実はあなたも、そんな素晴らしい宴に招待されています。

ところが、イエス様が語られたたとえでは、宴に招待された人々がみな、畑や牛や結婚に心奪われて、せっかくの招きを断ってしまいます。神の国の宴に招かれるということは、お返しが出来ないほど光栄なことなのに、彼らはそのことを理解できなかったようです。

断られた主人は怒り、「急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい者、からだの不自由な者、盲人、足のなえた者たちを連れて来なさい。街道や垣根のところに出かけて行って、無理にでも人々を連れて来なさい。」としもべに命じます。

神は、見返りを期待できない者たちを、気前よく招いて下さいます。しかし、「自分は神に対してもお返しができる、神に招かれて当然の者だ」と考えて、軽率にも神の招きを断ってしまうなら、そういう人は、「あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は、ひとりもいないのです。」という言葉を聞くことになります。

礼拝メッセージ「安息日の食卓」

礼拝メッセージ「安息日の食卓」

聖書箇所:ルカ福音書14:1-11

なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。ルカ14:11

メッセージのあらすじ

ある安息日に、イエス様は食事に招かれました。しかしその食卓は息の詰まるような雰囲気でした。安息日の食卓なのになぜそうだったのか。理由が2つありました。

1、裁きの眼差しを持った人々がいた

イエス様の真正面に、水腫をわずらっている人がいました。そしてみながじっとイエス様をみつめていたのです。イエス様は、「安息日に病気を直すことは正しいことですか。」と言われ、その人を抱いて直してやり、お帰しになりました。「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。」と問うイエス様に、彼らは答えることができませんでした。

2、人々に上座を選ぶ高慢があった

招かれた人々は上座を選んでいました。イエス様は彼らを、たとえをもって教えられました。「婚礼の披露宴に招かれたときには、上座にすわってはいけません。(中略)招かれるようなことがあって、行ったなら、末席に着きなさい。そうしたら、あなたを招いた人が来て、『どうぞもっと上席にお進みください。』と言うでしょう。そのときは、満座の中で面目を施すことになります。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

礼拝メッセージ「ああそれなのに」

礼拝メッセージ「ああそれなのに」

聖書箇所:ルカ福音書13:31-35

ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。ルカ13:34

今週の説教の背景

ルカが書いたルカ福音書と使徒の働きは、前後2巻セットになっています。そのつなぎ目にあるのがエルサレムという都です。

ルカ福音書では、ガリラヤからエルサレムに向かって旅をされるイエス様の姿が記されています。エルサレムには、十字架の死に至る受難と葬りが待っていました。しかし主イエスは、3日目の朝に復活され、天に上げられました。

使徒の働きでは、エルサレムから始まって、ユダヤとサマリヤの全土、そして地の果てへと向かう教会の旅が記されています。その原動力となったのが、ペンテコステにエルサレムで起こった聖霊降臨でした。

今日の所は、主イエスがエルサレムに向かって、旅を続けておられた一場面です。エルサレムは預言者殺しの都でした。そこに預言者が向かうということは、自殺行為でした。主イエスは、上述の嘆きとともに、神の敵となった罪人の都エルサレムに向かわれました。