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「貴兄は、聖書こそが教科書だとおっしゃるが、その思想の根底において、多様性と個性を否定する一神教の考え方でどうやって新たな人間を作るというのか?ノアの箱舟の伝説に観られる如く、神という存在は、自らが生み出したものに対する責任を放棄して大量殺人を行った悪魔ではないのか?自ら以外の多くのものに迫害を加えてきた書物に、いったい何を期待せよというのか?」
(Oct. 10, 2001)
とても考えさせられるメッセージをありがとうございます。まず聖書の語る一神教の立場を改めて考えてみました。
この世界には、お父さんと呼ばれる存在が数え切れないほどいます。けれども、あなたの肉親としてのお父さんは世界でただ一人しかいません。同じように、この世界には、神と呼ばれる存在が数え切れないほど存在します(日本では八百万(やおよろず)いると言われます)。けれども、あなたの造り主なる神は、世界でただ一人しかいない。これが一神教の立場です。
実際、お父さんと呼ばれる方々とその人のお父さんとの間には、明確な区別、質的な違いがあります。そのような考えを、多様性と個性を否定する考えだとして否定する人がいるでしょうか。同じように、たとえ世界に神と呼ばれる存在が何百万あろうとも、その神々とあなたの創造主なる神との間には、明確な区別、質的相違があるはずです。
確かに一神教の思想は、神々の多様性と個性を否定しています。しかし、それは決して、人間の多様性と個性を否定することにはつながりません。むしろ一神教の思想は、神は世界の創造主であるという立場から、ナショナリズムや民族差別の偏狭な壁を越えて、全世界のすべての民族、すべての人間の多様性と個性を真に尊重することの出来る立場に立ち得るのではないでしょうか。このお方は私たち一人一人を、誰一人として同じ顔や同じ性格にはお造りになっていないのですから。
もちろん一神教の立場の人間であっても、なおナショナリズムや民族差別から抜け出せないで、他の人間の多様性と個性を否定するという恥ずべき過ち犯すことも多くあります…。
次に、「ノアの箱舟の伝説に観られる如く、神という存在は、自らが生み出したものに対する責任を放棄して大量殺人を行った悪魔ではないのか?」という質問に対して考えてみました。なるほど、ノアの箱舟の話だけを考えるなら、神という存在をそのような恐ろしいものとして考えてしまうこともあるかもしれません。けれどもそのような考えの中に、私たち人間の本当の姿があるように思います。
聖書が語る神とは全世界の造り主です。そして聖書は、人間はこのお方によって愛されるために造られたことを語ります。おっしゃるとおり、神という存在にとって私たち人間一人一人は、自らが生み出したものなのです。けれども人間は、神の愛を裏切り、神を神とすることを止めて、自らを神とする自己中心な生き方を始めたのです。造り主を造り主としないという罪を犯したのは、私たち人間でした。最初に人殺しをし始めたのも人間です。人間は、自らの造り主を否定して造られたものを拝むという的外れな生き方の中で、自らの罪と欲望の奴隷となり、自分さえよければいいというどうしようもない罪人に堕落したのです。自己中心な故に、自分は正しいとして、自らの過ちも他者に責任転嫁する歩みを始めたのです。そして、自らの罪責を、神になすりつけることを平気でするような、愚かな者となったのです(聖書の大冒険を参照にして下さい)。
神は、自らが生み出したものに対する責任を放棄して、大量殺人を行ったわけではありません。むしろ審きを行なわれることこそ、造り主なる神が、自ら造った者に対する責任を最後まで放棄しておられない証拠です。聖書の神は、機械仕掛けの神のように、造った後は何もなされないというような無責任な神ではないからです。
自ら造った人間が、神を神とせず、神から遠く離れて、自分勝手な道を歩み、お互いに殺し合いを続けるどうしようもない者になった時、神は、自らが生み出したものをすべてを滅ぼされてもよかったわけです。しかしあわれみ深い神は、そのようなことをなさいませんでした。私たちが滅ぼされなかったのは、ただ主のあわれみによるのです。そしてあのノアの箱舟の時にも、一人でも多くの人間が、悔い改めて救いの中に入ることを望んでおられたのです。自ら造った者を、どうして造り主が、何の痛みも苦しみもなしで、滅ぼすことが出来るでしょうか!神は滅ぼすことではなく、悔い改めて生きることを切に願っておられるのです。
それだけではありません。世界をお造りになり、今もそれを統べ治めておられる主なる神は、ご自分のひとり子であられるイエス様の上に、私たちのすべての罪を負わせ、イエス様を十字架の上で裁かれることによって、私たちのすべての罪を赦して、信じる者すべてを永遠の滅びの中から永遠のいのちの中に入れて下さる道を開いてくださったのです。神ご自身が、ただ一方的なあわれみによって、私たちの罪のために十字架の上で裁かれたのです。そしてイエス様は、3日目に復活されて今も生きておられる救い主、キリストなのです。造り主なる神は、決して自らが生み出したものに対する責任を放棄なさるお方ではないのです。
最後に、「自ら以外の多くのものに迫害を加えてきた書物に、いったい何を期待せよというのか?」と仰られますが、実は聖書ほど、迫害を受け、破り捨てられたり、焼かれたりしてこの地上から葬り去られようとした本は他にありません。聖書は、私たち人間の本当の姿を映し出す鏡のように、私たちの醜さや弱さ、愛のなさ、罪のリストを突きつけるので、多くの神に反逆し続ける人たちは、聖書とキリスト教を迫害し続けているのです。
あなたの上に、主イエス・キリストの恵みと祝福が豊かにありますように。(Oct. 10, 2001)
野町 真理
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野町 真理