Genesis
地球



あなたの造り主

初めに、神が天と地を創造した。
創世記1:1

これが、聖書の一番最初のページに書き記されている驚くべきメッセージです。

宇宙が造られるのを見た人、観察した人は誰もいません。
ですからこの言葉は、天と地の造り主であり、
そして自らの造り主なる神を体験的に知った人間による信仰告白です。
(創世記は科学論文ではありません)

実に、聖書の語る神とは、宇宙を創造された唯一の神です。

このお方は、人間が造った神ではありません。
人間をも造られた創造主なる神です。

太陽もこのお方によって創造されました。
月もこのお方の作品です。
夜空に輝く数え切れない星たちも、このお方の造られたものです。

夜と昼のサイクルによる日、1年12ヶ月というカレンダー、季節、
それらすべてのリズムをつくられたのもこの創造主です。

私たちが住んでいるこの地球、
水、空気、大地、海、山々、美しい草花や木々、動物、
食物をおのおのその種類にしたがって創造された神。
そして私たち人間も創造されたお方。
すべてのいのちの源なるお方。

そのような天地万物の創造主なる神を、聖書では神と呼んでいます。

ですから、このお方は、特定の国や特定の民族の神といった小さなお方ではありません。
全世界のすべての民族、すべての人の造り主なるお方が、聖書の神なのです。

ですから、このお方は、あなたの造り主でもあります。

母の胎の中で、あなたを組み立てられたお方、
あなたにいのちを与えられたお方、
あなたが生まれる前から、あなたを見つめておられるお方。
ありのままのあなたを、本当に愛しておられるお方。

それが、この聖書が語っている神なのです。

ここにあなたが「どこから来たのか」という問いに対する答え、
つまりあなたのルーツがあるのです。

あなたはこの造り主に愛されるために造られて、この世に生まれてきたのです。

第6日目(The Sixth Day)に、
造り主なる神様は私たち人間を創造されました。

聖書は私たち人間は創造の冠であり、
神のかたちに似せて造られていると教えています。


恵みの2ビート

「こうして夕があり、朝があった。第…日。」

創世記1章から2章3節は、詩的に記述されています。

「こうして夕があり、朝があった。第何日。 」ということばが繰り返し使われ、
これによって、リズムが造られています。

それは、「まず夕があり、そして朝がある」という2ビート(2拍子)のリズムです。

普通私たちが一日の始まりと考えるのは朝です。
しかし、旧約聖書のへブル人的感覚では、夕方こそ、一日の始まりなのです。

夕方から夜にかけて、人間は眠りにつきます。
働きを止めて休むのです。

そして新しい朝を迎え、私たちが目を覚ます時、
すべてが整えられ、神の計画が進んでいることに気づくのです。

創造主なる神は、人間が何もしない間に、
すべてのことを備え、またご自身の計画を進めておられます。

この世界とこの宇宙の動きは、人間が始めたわけではありません。
すべてを備えて下さり、動かし始められたのは創造主なる神です。

まず創造主の備えと素晴らしいご計画があるのです。
人間が何かをする前に、まず神の働きがあるのです。

そして次に、神は私たち人間に、ご自身の働きを委ねられるのです。
私たちを神様の働きの中に招き入れて下さる恵みが、ここにあるのです。

「こうして夕があり、朝があった。第何日。 」ということばは、
いつでも恵みの2ビートを奏でているのです。


ハーモニー

造り主なる神様が天地万物を創造された時、すべてが良きものでした。

すべてにおいて、そこには調和・ハーモニーがありました。

造り主なる神様との関係において、
人間関係において、
また、自然との関わりにおいて、
人間は、調和の中で、造り主なる神様を中心として生きていました。

造り主なる神様は、エデンの園に人間を置かれました。エデンとは喜びを意味することばです。
つまりエデンの園とは、神様を中心にした、喜びの園だったのです。

人間は、自らが造られたものであることをわきまえ、
神を神として歩んでいたからです。

神は人間に、自然を正しく管理していくことも委ねられました。
耕して守ることを委ねられたのです。

耕すということばは、英語のカルチャー・文化の語源になっていることばです。
つまり造り主なる神は、人間にあらゆる文化的な創造力も与えて下さり、
それを神の栄光のために用いるようにされたのです。


不協和音

エデンの園の中央には、特別な2本の木がありました。

いのちの木と、善悪の知識の木です。

神様は、
「園のどの木からでも、 実を思いのまま食べていいよ。いのちの木からも食べていいよ」
とおっしゃいました。

けれども、たった一つだけ、禁断の木の実がありました。

それは、善悪の知識の木の実でした。

神様は、「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。
もしその実を取って食べるなら、あなたは必ず死ぬから。」
と警告されたのです。

けれども私たち人間は、悪魔の誘惑に負けて、
この禁断の善悪の知識の木の実を食べてしまいました。

そして、その時から、不協和音が全地に響き渡るようになったのです。

聖書では、善悪の知識の木の実を食べたことが罪の始まりであると語っています。

善悪の知識の木とは、善悪を判断するものさし・基準を意味していました。

善悪の知識の木の実を食べないということは、
何が善で何が悪かを判断する基準が神にある生き方をするということでした。

しかし、善悪の知識の木の実を食べるということは、
自分勝手な善悪の基準・ものさしを持って生きることを意味していました。

つまりそれは、神を基準とする生き方をやめて、
自らを基準とする生き方、
つまり、自らを神として生きる生き方を選んだということでした。

神を神としないで、自らを神として生きること。
それを聖書では罪と言っているのです。

むなしさ、孤独、不安、いらだち、絶望、死。
それらすべてのものを、私たちは罪を犯すことによって、
自らの人生の中にもたらしてしまったのです。

いまでも世界中で、その不協和音は鳴り続けています。


最大の神不幸

最大の親不孝とは、親を親として認めないことだと聞いたことがあります。
自分を生み育ててくれた親を、子どもが親として認めない時、親は最も苦しい思いを味わいます。

「親不孝」と似た、「神不幸」ということばを作ることができます。

世の中にお父さんと呼ばれる人はたくさんいます。
でも、その人のお父さんは世界でただ一人です。

同じように、世の中に神と呼ばれる存在はたくさんいます。
でも、あなたの造り主なる神、宇宙の創造者なる神は世界でただ一人です。

もしあなたが、あなたの造り主なる神を認めず、
「私は造られた者なんかじゃない!
私は進化してきたんだ!
私は自分の力で生きている!
神など私の人生に必要ない!
神は死んだ!」

などと言うならば、その時あなたは、最大の神不幸をしています。

さらに、子どもが本当のお父さんをお父さんとせず、
別のお父さんと呼ばれる人をお父さんとし、
その人に感謝をしたり、願い事をしたとしたらどうでしょうか?

そんなことをする子どもはいないとお考えでしょうか?

実はそれとまったく同じようなことをしているのが人間であると、聖書は語っています。

神の子どもとして造られて、愛されているはずのあなたは、
本当の神、天の父なる神を神とせず、
別の神と呼ばれる存在を神とし、
そのまつりあげた神に感謝をしたり、願い事をしたりしていませんか?

それこそが最大の神不幸であり、それを聖書は「的外れな罪」と呼んでいます。


責任転嫁

「責任転嫁」 という言葉があります。

この言葉は、「罪過や責任などを他のものになすりつけること」を意味します。
責任じられると書くので、もともとは嫁と姑の関係からつくられた言葉だと思います。
責任をなすりつけられた嫁が、怒ってつくった言葉でしょうか?^・^
でも、これがなかなか、自分にも深く染み付いている行動パターンだとつくずく思います。

誰かから自分の気づかなかった点を指摘されたり、
あるいは、自分の過ちを指摘された時、
反射的に自分を守ろうとして、責任を他のものになすりつけてしまう…。
自分ではなく、誰か他の人のせいや、まわりの環境のせいにしてしまう…。
そして素直に自分の過失や罪を認めようとしない…。

創世記3章の記事は、 そのような自分の中の醜さ、本当の自分を映し出す鏡のようです。

神様が食べてはならないと命じていた善悪の知識の木の実。
それを蛇(すなわち悪魔)にそそのかされたとはいえ、エバとアダムは食べてしまいました。

それは、明らかにエバとアダムが、それぞれ自分の責任において犯した過ちでした。

まず神様は、夫であるアダムにその罪の責任を問われます。
(家庭において、すべての責任は妻にではなく夫にあると聖書は教えています)

しかし、そのとき夫アダムは、こう神様に言い返すのです。

「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
創世記3章12節

一見すると、「この女が」と言っているので、夫アダムが妻エバに責任をなすりつけているのかと思います。

けれどもよくよく見ると、「あなたが私のそばに置かれたこの女が…」とアダムは言っています。

つまり、アダムは、「神様、あなたが悪いんですよ!こんな女を私のそばに置かれたあなたが!」
と主張していることに気付きます。

なんとアダムは、自分の責任をぜんぶ神様になすりつけようとしたのです。

これが、私自身の姿であり、すべての人間の姿でもあると私は思います。
(エバも似たように、蛇に責任をなすりつけますし、
アダムという名前は、人間を意味する言葉なのですから )

あなたは、どう思われますか???


和解への道

神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。
創世記3章21節

自らの犯した罪を認めないばかりか、平気で神様に責任転嫁するアダムとその妻エバ。

主なる神様は、神を神とすることをやめて、神に反逆する彼らをエデンの園から追放されます。

けれども彼らを楽園から追放する前に、
主なる神様はアダムとエバのために皮の衣を作り、
それを着せてくださったと聖書には記されています。

ただ神のあわれみによる和解への道を、ここにはっきりと見ることが出来ます。

聖書全体が描いている、罪をおおってくださる主なる神様の姿を、
ここに見ることが出来るのです。
罪をおおい、罪を赦して下さるあわれみ深い神様の姿がここに描かれています。

皮の衣を作るためには、動物を殺さなければなりませんでした。
いのちが絶たれ、血が流されたのです。

たとえ人間が罪を犯しても、
決して人間を見捨てることがない神様のあわれみがここにあらわされています。

しかし同時に、聖書が語る罪の深刻さを、ここで考えさせられます。

日本人の罪意識は、お祓いをすれば払えたり、水に流せたりする程度の軽いものです。
しかし聖書は、動物の血が流されなければならないほど、重い問題として罪をとらえているのです。

確かに払ったり、水で洗えば外側はきれいにすることが出来ます。
しかし、心の内側はそんなことではきれいに出来ません。

旧約聖書をずっと読んでいくと、
人間が罪を犯すたびに、動物の血が流され続ける歴史を知ることが出来ます。

そして新約聖書を読んでいくと、
罪のために血が流される歴史に終止符が打たれた出来事に出会います。

それは、罪をまったく犯されなかったイエス様が、
まるで動物のようにほふられて血を流し、
十字架の上でいのちを絶たれたという出来事です。

聖書は、私たちの罪がおおわれ、赦されるために、
罪のないイエス様が十字架にかかって死ななければならなかったと語ります。

聖書は語っています。

罪のないイエス・キリストが十字架にかかって死なれたのは、
他の誰のためでもない、あなたのためであったと…。

そしてイエス様は3日目によみがえられ、今も生きておられます。

イエス様は、和解への道を文字通り命がけで、切り開いて下さったのです。

もしあなたがイエス様を信じるならば、
あなたの罪をすべておおってくださる白い衣を、イエス様は私たちに着せてくださいます。

(続く。しばらくお待ち下さい)


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野町 真理