三位一体の神

日本同盟基督教団の信仰告白 第二項に基づいて

日本同盟基督教団・杉戸キリスト教会

野町真理

日本同盟基督教団・信仰告白全文

1、旧、新約聖書66巻は、 すべて神の霊感によって記された誤りのない神のことばであって、 救い主イエス・キリストを顕わし、 救いの道を教え、 信仰と生活の唯一絶対の規範である。

2、神は霊であって、唯一全能の主である。 神は永遠に父と子と聖霊の三位一体であって、 その本質において同一であり、 力と栄光とを等しくする。 父なる神は、永遠のみ旨により万物を創造し、 その造られたものの絶対主権者であられる。

3、はじめに人は、神のかたちに創造され、 神と正しい関係にあった。 しかしサタンに誘惑され、 神の意志に反逆して罪を犯し、 神のかたちを毀損した。 それゆえ、すべての人は、罪と悲惨のもとに生まれ、 その思いと言葉と行為とにおいて罪ある者である。 自分の努力によっては、神に帰ることも、 また、そのみ旨に適う善行を行うこともできず、 永遠の滅びに至る。

4、主イエスキリストは、父なる神のひとり子であって、 聖霊により宿り、処女マリヤより生まれた。 真の神にして真の人である。 主は我らの罪を贖うために十字架にかかって死に、葬られ、 三日目に甦り、永遠の生命の保証を与えられた。 主は大祭司として父なる神の右に座し、 我らのために執り成したもう。

5、聖霊は、恵みによって、 我らに父と子を示し、 罪を認めさせ、 赦しを与え、 我らを新たに生まれさせ、 神の子となしたもう。 人が義とされるのは、自分の行為によるのではない。 主イエス・キリストが身代りに死んでくださったゆえに、 彼を信じるただその信仰によるのである。 さらに、聖霊は、 信じる我らの中に住み、 我らを聖化し、 我らにみ旨を行わしめ、 助け主、慰め主として世の終わりまでともにあり、 我らをキリストの共同の相続人となしたもう。

6、教会は、 聖霊によって召し出されたキリストの体であって、 キリストはそのかしらである。 贖われたものはみなその肢体である。 地上の教会は、再び来たりたもう主を待ち望みつつ、 聖書の真理に立ち、 礼拝を守り、 聖礼典を執行し、 戒規を重んじ、 すべての造られた者に福音を宣べ伝える。

7、終わりの時に、 主イエス・キリストは、 みからだをもって再臨し、 生ける者、死せる者を審判したもう。 主は、すべてのものを新たにし、 み国を父なる神に渡したもう。

序論:信仰と生活の唯一絶対の規範としての聖書

 聖書信仰に堅く立っている日本同盟基督教団は、教憲の第二条でその信仰を告白している。今回与えられている論題は、信仰告白第二項であるが、第二項に先立つ第一項をまず覚えたい。信仰告白の第一項では、聖書に関する信仰告白が、以下のようになされている。

旧、新約聖書66巻は、すべて神の霊感によって記された誤りのない神のことばであって、救い主イエス・キリストを顕わし、救いの道を教え、信仰と生活の唯一絶対の規範である。−信仰告白第一項

 これにより日本同盟基督教団は、「信仰と生活の唯一絶対の規範は、神のことばである聖書66巻である」と告白していることが確認できる。従って、第二項以下で告白されている内容は、この第一項で告白されている66巻の聖書に耳を傾けることによって、生み出された告白である。

 どんな地方・片田舎での開拓伝道であったとしても、逆にどんな大都市の教会であったとしても、時代を超えて、教団・教派を越えて、国境を越えて、書き記された神の言葉である聖書に聴き従って教会形成をしていかなければならない。もし聖書に聴き従わずに自分勝手に教会形成を試みていくなら、必ずキリストの教会とは呼べないものになってしまう故である。

 御言葉を通して、神はまず私たちの心の内側を深く探り、動機が何であるかを問われる。牧会伝道、教会形成、福音宣教のあらゆる動機は、偽りのない真実な愛でなければならない。

 書き記された神のことばである聖書にこそ、まさしくキリスト教会の青写真のオリジナルがある。旧約39巻、新約27巻、計66巻の聖書の中にこそ、私の目指す教会の青写真がある。

 聖書の中にこそ、キリスト教会のルーツが存在する。地上を旅する神の民としてのキリスト教会の姿は、旧約聖書の中にも見ることが出来る。神の民は、アブラハム、イサク、ヤコブの神、海を分けてイスラエルを奴隷の家・エジプトから解放した主なる神、唯一まことの創造主、全能の主を信じていた。

 聖書の中にこそ、「なぜ主が再び来られるまでの間、地上を旅する神の民としての教会が存在しているのか」という問いに対する答えがある。聖書の中にこそ、「教会とは何か」、「教会の使命・存在目的は何か」、「教会の土台は何か」、「教会に与えられ、保たれ、伝えられてきたものは何か」、といった問いに対する答えがある。

 このことをまず確認してから、本論に入りたい。

本論:日本同盟基督教団信仰告白第二項

 日本同盟基督教団の信仰告白第二項では、「神はどのようなお方なのか」という神論が言い表されている。神論は、日常生活・ライフスタイルにおいて、信仰者としての神との接し方(祈り方、礼拝のし方)、隣人との接し方、そして教会形成のありかたを規定する故に、信仰告白の要であると言える。

「神はどのようなお方なのか」。これが論題として提示され、本論文で論じようとする内容である。第二項で告白されている内容を考えて、告白されている神について、以下の3つの部分に分けて論じることとする。

 1、神は霊であって、唯一全能の主である。

 2、神は永遠に父と子と聖霊の三位一体であって、その本質において同一であり、力と栄光とを等しくする。

 3、父なる神は、永遠のみ旨により万物を創造し、その造られたものの絶対主権者であられる。

 なお、それぞれの神論が私の信仰と教会形成にどのような意義を持っているかについては、それぞれの個所で随時述べることとする。

本論1:神は霊であって、唯一全能の主である。

A、神の霊性

 信仰告白の第二項でまず告白されていることは、「神は霊である」ということである。ここでは、へブル語で霊を表すルアハという言葉と、ギリシャ語で霊を表すプニューマという言葉についてのワードスタディを行い、神が霊であるとはどういう意味なのかを論じたい。

ヘブル語での霊:ルアハ

 旧約聖書はへブル語で書かれているが、へブル語で霊を表す言葉はルアハという単語である。へブル語のルアハは、風、息、いのちといった意味を併せ持った言葉である。へブル語はもともとダイナミックな言葉であるが、特にこのルアハという言葉は、力強い響きを持った言葉である。紅海が分かれた時の強い風という言葉にはルアハが使われている*1

 この言葉は、創世記1章2節にまず使われている。ここでは、神(エロヒーム)という言葉と共に、ルアハによって、力と愛といのちに満ちた神の動きが描写されている。

初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、 神の霊は水の上を動いていた。創世記1:1−2(新改訳第二版)

 霊を意味するルアハという言葉が、風や息という意味を持っているのも大変興味深い。風と息。これらはいずれも動いているものであり、止まっている状態では決して存在しないものである。風が止まれば無風状態となり、息が止まれば、息を引き取った状態、つまりいのちが失われ、もはや動くことが出来ない死体となり、やがてちりに帰るのである。 このように、ルアハという言葉には絶えず動きといのちがある。実にルアハのある所には、いのちがあり、ルアハのない所にいのちはない。詩篇104篇29−30節は、ルアハが持つこのような原則を言い表している。ここでは、29節の息という言葉と30節の御霊という言葉にルアハが使われている。

あなたが御顔を隠されると、彼らはおじ惑い、 彼らの息を取り去られると、彼らは死に、 おのれのちりに帰ります。あなたが御霊を送られると、彼らは造られます。詩篇104篇29−30節

 この他にも、エゼキエル37章などに、いのちの息としてのルアハのイメージが、ダイナミックに描かれている。 ルアハが神について用いられると、力に満ちて働かれる神、そのみこころを必ず成し遂げられる神、いのち溢れる神のイメージが生き生きと描き出される。これが、旧約聖書が語っている霊なる神のイメージである。

ギリシャ語での霊:プニューマ

*70人訳において

 ギリシャ語で霊を表す言葉はプニューマである。旧約聖書のギリシャ語訳である70人訳(LXX)において、へブル語テキストでルアハが用いられている個所の四分の三近くがプニューマと訳された。創世記1章2節においても、ルアハを翻訳する際にプニューマが用いられている。

 70人訳では、きわめて単純にプニューマと神の霊とを同一視する新しい思想が導入されている。

 ヘレニズム的ユダヤ教は、神の超越性の明確な認識を保持し、神あるいは神のプニューマを、単にある種の汎神論的「世界霊魂」に還元してしまうという誘惑に抗した*2。 

 新約聖書を書き記すために用いられたギリシャ語は、旧約聖書のへブル語的響きを持った言葉として用いられている。このことを覚えるならば、プニューマという言葉も、ルアハの響きを持つ言葉として用いられたものと考えられる。

*新約聖書において

 「神は霊である」という信仰告白を考える時、新約聖書の中で最も注目したいテキストは、ヨハネ福音書4章24節である。ここでは、神が霊であられる故に、その神を私たちがどのように礼拝すべきかということが語られている。

ヨハネ4:24神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

 神が霊であるとはどういうことかをまとめる上で、この個所についてのレオン・モリスの注解を引用したい。

『私たちは神を物質的なものと考えたり、ある場所とか物とかに結びつけて考えるべきではない。語順から見ると「霊」に強調が置かれている。この表現は強意的なものである。神は本質的に霊であるので、神に対する礼拝も本質的に霊的なものでなければならないのである。… 命の水との関連で見ると(命を与える聖霊を象徴)、この文脈ではこの節は神の命を与える活動への言及が含まれていると思われる。旧約聖書が神の霊について言及するときには、通常の考え方は神の活動についてのことであり、物質的なものと対立するものとしての霊のことではないことを考えると、なおさらそうである。ヨハネはしばしば聖霊と命とを結びつけて考える(6:63参照)。神は生きている神である。神は命を与える霊として休むことなく活動しているので、そのような神の霊にふさわしいように礼拝しなければならない。』*3

 神が霊であるという信仰告白には、物質的なものと対立するもの、つまり見ることも、触ることもできない無形のものとしての霊というような考えも含まれている。そしてそのような霊は、時間と空間を超えて遍在される人格的存在である。 しかし、モリスが述べているように、霊なる神は、目に見えない存在というだけではなく、私たちに命を与える霊として、休むことなく活動しておられる霊である。そのような霊として、神は霊であられる。

B、神の唯一性

 まことの神を神とすることを止め、神に背を向けて自己中心に歩んでいる人間は、神々の自動製造機だと言われる。そしてそのような人間を、聖書は罪人と呼んでいる。罪人は多くの神々を自分のために祭り上げ、それらを自分の欲望を成就させるために拝んでいる。 全世界の大半の人々は、宇宙全体、太陽、月、星、大地、大木、大岩、山、何かに秀でた人間、先祖、鳥、獣、はうもの、石・木・金属・紙で作った偶像を、自らの神として拝んでいる(イザヤ44:9−22、ローマ1:21−25参照)。

 そのような多神教、汎神論の世界にあって、聖書は一貫して神の唯一性を語っている。世の中には数え切れないほどの神々があるが、それらの神々は、人間が作った神と人間を造られた神の2つに大別することができる。両者の間には、無限の質的違いがある。

 人間が作った神と人間を造られた神。両者の違いは、私たちが背負わなければならない神か、私たちを背負って下さっている神かという違いである。唯一まことの神は、私たちが生まれる前から絶えず私たちを背負って歩んで下さっているが、人間の作った偶像の神は、背負う者の重荷としかなり得ない(イザヤ46:1−9参照)。 ここでは旧約聖書と新約聖書から、それぞれ神の唯一性を語っている主要なテキストを挙げ、「神は唯一である」という信仰告白の意味を考察したい。

旧約聖書に啓示された神の唯一性

*十戒

 旧約聖書の中でまず注目したいのは、出エジプト記と申命記に記された十戒である。ここでは出エジプト記に記されている十戒を記す。

それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、 あなたの神、主である。 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。 上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、 地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。 あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、 わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、 恵みを千代にまで施すからである。 あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。 主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。 しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。 あなたはどんな仕事もしてはならない。 ・・あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。・・ それは主が六日のうちに、天と地と海、 またそれらの中にいるすべてのものを造り、 七日目に休まれたからである。 それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。 あなたの父と母を敬え。 あなたの神、主が与えようとしておられる地で、 あなたの齢が長くなるためである。 殺してはならない。 姦淫してはならない。 盗んではならない。 あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。 あなたの隣人の家を欲しがってはならない。 すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、 すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」 旧約聖書 出エジプト記20:1−17より

 かつて神によって選ばれたイスラエル民族は、エジプトで奴隷として苦しんでいた。その苦しみをご覧になった神が、モーセという人物を導き手とし、イスラエルをエジプトの苦しみから救い出されたことが、出エジプト記の前半に記されている。 私たちを造られた神は、神に背を向けた結果、罪と欲望の奴隷となって歩んでいた私たちを、いのちがけで救い出して下さった。 そしてこう言われる。

「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。」

 十戒が語られる直前に語られているこの言葉は、そのことを一言で要約している。この言葉は、驚くべき神の介入によって過ぎ越しの救いを体験し、分かれた紅海を渡り、奴隷の家から自由へと解放された神の民に対して語られている。それは、「奴隷の家から解放してくださったお方こそ、唯一まことの神である」ということを、忘れないように心に刻みつけるものであった。 今日のキリスト者に対しても、この御言葉は語られている。

 私たちキリスト者も、かつてまことの神に反逆した故に、罪と欲望の奴隷となって、死と永遠の滅びに向かってさまよう罪人であった。 しかしキリストの十字架の愛に捕らえられて、主イエスをキリストと信じた者は、罪と欲望の奴隷状態から解放され、神と人を愛する自由に生きる者とされたのである。 出エジプトの際、過ぎ越しの子羊の血が塗ってあった家は救われた。同じように、過ぎ越しの子羊として十字架の上でほふられた主イエスの血によって、私たちキリスト者は、信仰によってすでに救いの中に、完全な罪の赦しの中に、永遠のいのちの中に入れられているのである。 エジプトの国、奴隷の家から救い出した神が、救われた民に対して語られた十戒には、神の唯一性と共に、偶像礼拝を禁じる戒めが語られている。

 人間が自らの手で作って祭り上げた偶像は、まことの神様に反逆している高慢な人間の投影でしかない。 偽りの神々は、命がけで仕えられることを求める。偶像の神々は自らが崇められ、ほめたたえられることを求める。そして、偽りの神々は、決して人間に仕えることができない。偽りの神々が他者のためにいのちを捨てることなど不可能なことである。

 しかし、イエス・キリストによって明らかにされた唯一まことの神は、私たちのために仕えてくださり、そして最後にはいのちまでも捨ててくださった愛の神である。かつて現人神と呼ばれた天皇は、わたしたちのためにいのちを捨てることができない。天皇は、人間宣言のあるなしに関わらず、人間であって神ではないからである。

 しかし、私たちを造られたお方、天地万物を創造されたまことの神は、私たちのためにいのちを捨てて下さり、よみがえって下さった唯一の神であられる。このお方だけをいのちをかけて愛する者でありたい。

*申命記6章4節(シェマー)

次に、注目したいのは、申命記6章4節以下のシェマーと呼ばれている御言葉である。

聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。申命記6:4−5

 旧約聖書には、この地上におけるすべての民族に対する神のことばが記されている。しかし、「聞きなさい。イスラエル。」と語られているように、旧約聖書のほとんどの紙面を割いて、中心的に記されているのは、やはりイスラエル民族に対する神の言葉である。 そして、すべての民族の創造主である唯一まことの神も、やはり中心的には、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神として、つまりイスラエルの神として記されている。アブラハム契約に約束された祝福も、契約としての十戒も、もともとは神の民イスラエルに与えられたものであった。

 旧約聖書を概観すると、イスラエル民族は、ただ神のあわれみによって神の民として選ばれ、神の民として愛され、神の民として育まれ続けた民族であることがわかる。

 しかし、旧約聖書が語る神の民イスラエルの歴史は、罪と恥と裏切りに満ちている。ただ神のあわれみによって神の民として選ばれ、これ以上ないというほどに神に愛されたはずのイスラエルは、ことごとく自らの神に逆らい続け、恵み深い神に反逆し続けたうなじのこわい民であった。

 実にイスラエルの歴史、神の民の歴史は、神によって自由にされたにもかかわらず、ことごとくこのような律法を破り続けた歴史であった。まことの神だけを神とし、まことの神だけにより頼む道から外れ、ほかの神々と共に歩み続けた故に、自ら滅びを刈り取った民、それがイスラエル民族であった。そのようなイスラエルの歴史を、あのエルサレムがことごとく焼き払われ、イスラエルの人々が異国バビロンへ捕囚として強制連行されていった罪の歴史を、旧約聖書は記録している。

 イスラエルという民族は、いわば全世界のすべての国民、すべての民族の代表である。旧約聖書を読み、イスラエルという民族の歴史を見ていくということは、いわば、本当の自分を映し出す鏡の前に立たされ、見たくない本当の自分の姿を見させられるということに他ならない。そして、この事実が、「なぜ旧約聖書にイスラエル民族の歴史が中心的に記されているのか」、「なぜ、ほとんどイスラエルの歴史が記されているこの旧約聖書の語りかけに、全世界の人々が耳を傾ける必要があるのか」という疑問に対する答えだと、私は確信している。

 仮に日本民族が神の民として選ばれていたとしても、イスラエルとまったく同じように、うなじのこわい民としてほかの神々を持ち、神の愛を裏切り続けたであろう。また、救い主として来られた主イエスを拒み、イスラエルとまったく同じように、十字架につけてこの世から抹殺しようとしたことであろう。日本のキリスト教会の歴史を見るなら、そのことを覚えることが出来る。

 日本のキリスト教会にも、真の神だけを神とすることを止め、天皇を現人神として拝み、天照大神(太陽)を拝んだという歴史があった。日本におけるキリスト教会の将来のために、また、私共キリストの弟子が、祝福の基、世の光、地の塩としての使命に生きるために、主イエスの十字架と復活による赦しの宣言をしっかりと聴き取り、赦された過去をしっかりと心に刻むことから始めたい。

 戦時下において、ほとんどの日本のキリスト教会は、日本政府によって、日本基督教団として一つにまとめられた。私共の所属する日本同盟基督教団は、日本基督教団の第八部に所属していた。

 その時日本のキリスト教会は、国家神道ナショナリズム(国家主義)に対して抵抗出来ず、教団の統理は、伊勢神宮に参拝して偶像礼拝の罪を犯した。日本の教会は、神社参拝が宗教であるかどうかという判断をキリスト(聖書)に聞かず、日本政府に聞いた。その結果、教会は教会としてのアイデンティティを失い、神社参拝は宗教ではないという政府の意見を受け入れ、積極的に神社参拝を行ったのである。

 そして戦時下、日本の教会の指導者たちは、特高警察と共にアジア諸国に行き、「神社参拝は宗教ではないから参拝しなさい」と同胞に勧めた歴史がある。韓国のキリスト者にまで神社参拝を勧めに赴いた日本の教会の指導者たちに対して、韓国の抵抗して殉教していったキリスト者は「それは第一戒に反することではないのですか?」と命をかけて問うたのである。

  • 日本同盟基督教団105周年記念大会−横浜宣言より

4.かえりみて、戦時下、特に「昭和15年戦争(1931-1945年)」の間、私たちの教団は、天皇を現人神(あらひとがみ)とする国家神道を偶像問題として拒否できず、かえって国民儀礼として受け入れ、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」・「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない」との十戒の第一戒と第二戒を守り抜くことができませんでした。さらに近隣諸国の諸教会と積極的に平和をつくり出す者として生きることができず、国家が推進した植民地支配や侵略戦争に加担し、アジア地域の侵略に協力しました。こうして神と隣人の前に、とりわけアジアの人々に、偶像礼拝の強要と侵略の罪を犯し、しかも戦後、この事実に気付かず、悔い改めに至ることもなく、無自覚なままその大半を過ごしました。近代日本の100年余の歴史に重なる私たちの教団の歴史をかえりみ、私たち教職・信徒は、「信仰と生活の唯一絶対の規範」である神のみことばに、十分聞き従い続けることができなかったことを主のみ前に告白し、悔い改め、神と隣人とに心から赦しをこい求めます。私たちは、今、あらためて、堅く聖書信仰の原理に立ち、聖霊の助けにより、福音にふさわしい内実を伴ったキリストの教会へと変革されることを心から願います。1996.11.19 MISSION 21 Yokohama

新約聖書に啓示された神の唯一性

 新約聖書においても、旧約聖書と同じように神の唯一性が語られている。マルコ福音書の中に記された主イエスによる申命記6章4−5節の引用は特に注目すべきである。主イエスは、唯一の神がおられ、唯一の神を心、思い、知性、力を尽くして愛することを一番大切な命令として語られた。

律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」そこで、この律法学者は、イエスに言った。「先生。そのとおりです。『主は唯一であって、そのほかに、主はない。』と言われたのは、まさにそのとおりです。また『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する。』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」イエスは、彼が賢い返事をしたのを見て、言われた。「あなたは神の国から遠くない。」それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者がなかった。マルコ12:28−34

 ヤコブ2章19節では、神は唯一であるということは悪霊でさえ知っている事実として語られている。また、1コリント8章4—6節では、偶像にささげた肉を食べるということについて論じる中で、パウロが神の唯一性を記している。パウロは、1テモテ2章5−6節においても神の唯一性を主張している。

C、神の全能性

 ここでは、神の全能性について考えたい。聖書は一貫して、人間の不信仰や弱さ、そして失敗を超えて、約束なさった契約の言葉を必ず成就して下さる神の全能を証ししている。  そのような全能の神は、不信仰や弱さを覚えて挫折している者を、恵みの高き峰を歌いつつ歩む者に変えて下さる。

アブラハムとサラに対する全能の神のお取り扱い

アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、 こう仰せられた。「わたしは全能の神(エル・シャダイ)である。 あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」創世記17:1−2

 アブラハムという人物は、ユダヤ人の父、イスラエル民族の父である。また、ユダヤ人に限らずどんな国籍を持つ人であっても主イエス・キリストを信じる者は、アブラハムを「信仰の父」と呼ぶ。アブラハムはもともとアブラムという名前であったが、後に神から「多くの国民の父」という意味のアブラハムという名前を与えられた。イエス・キリストも、このアブラハムの子孫として生まれて下さった。新約聖書の冒頭に、「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」(マタイの福音書1:1)と記されている通りである。

 アブラハムは、ユーフラテス川の川下のウルという町に生まれ育ち、そこから川上にあるカランに移り住んだ。ウルもカランも月神礼拝が盛んに行われていた所であった。ヨシュア記には、アブラハムの父テラもまことの神ではない他の神々に仕えていたと記されているので、おそらくアブラハムも、父に連れられて偶像の神々を拝んでいたであろう。

 このアブラハムに、ある日神からの呼びかけがあった。神はアブラハムを、多くの国民の父として選ばれた。そしてアブラハムは「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。…(創世記12:1-2)」という神の約束を信じて、妻のサライ、おいのロト、財産、人々をたずさえて旅立った。アブラムが75歳の時、妻サライは65歳の時の出来事である。サライは不妊の女で、サライに約束通り子どもが与えられたのは、それから25年後のことであった。

 アブラハムは神からの約束を信じて信仰の歩みを始め、行く先々で祭壇を築いて神を礼拝した。しかし困難な状況の中で、神を信じきれない弱さが表れることとなった。 信仰生活の中で、いつでも問題になってくるのは、神様と神様の約束を信じきれないという弱さである。約束が与えられていて、そのために祈っているがなかなか答えられない時。祈っていても困難な状況が生じた時。いくら神様でもこの状況で約束が現実のものになるとはとても信じられない時。創世記を見ると、信仰の父と呼ばれているアブラハムも、そういう時を何度も経験したことが記されている。

 そのような時アブラハムは、不信仰から自分の命だけを守ろうとして取り返しのつかないような大失敗をしたり、人間的な小細工によって約束を実現しようとした。信仰にとって危機的な状況の中で、神の約束を信じきれないアブラムの弱さが露呈したのであった。けれどもアブラハムを多くの国民の父として選んだ主なる神様は、そのような時に、力強い御手をもって介入し、問題を解決してくださった。

 人間的な小細工によってどうしようもなくこじれていく人間関係の中でも、神は祝福を与え、問題を解決してくださった。アブラムが不信仰でも、神はいつも真実と忍耐をもってアブラムを導かれた。主なる神は何度も何度も約束を再確認させて下さり、契約を結んで下さった。そして神は、アブラムにアブラハム(多くの国民の父の意)という名前を、妻サライにサラ(女王の意)という新しい名前を与えられた。

アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていた。それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。 それに主人も年寄りで。」そこで、主がアブラハムに仰せられた。「サラはなぜ 『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに。』と言って笑うのか。 主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、 定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」サラは「私は笑いませんでした。」と言って打ち消した。恐ろしかったのである。しかし主は仰せられた。「いや、確かにあなたは笑った。」創世記18:11−15

 創世記18章11節から15節には、不信仰の故に心の中で冷たく笑うサラに対して、全能の主がアブラハムに告げられた言葉が記されている。そしてそこには「主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」という全能の神からの問いかけと約束が記されている。

主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに 主はサラになさった。サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、 年老いたアブラハムに男の子を産んだ。アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子を イサクと名づけた。そしてアブラハムは、神が彼に命じられたとおり、 八日目になった自分の子イサクに割礼を施した。アブラハムは、その子イサクが生まれたときは百歳であった。サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」また彼女は言った。「だれがアブラハムに、『サラが子どもに 乳を飲ませる。』と告げたでしょう。ところが私は、あの年寄りに子を産みました。」創世記21:1−7

 四半世紀、25年の長い歳月の末、アブラハムが100歳、サラが90歳の時に約束の子イサクが与えられた。実に聖書の神は、不信仰な人間の冷たい笑いを笑い飛ばし、感謝と喜びに満ちた暖かい笑いに変えることのできる全能の神であられる。

 なお、不信仰の冷めた笑いをしたのはサラだけではなかった。アブラハムの心中にも、不信仰からの笑いがあったであろうことは、創世記17章17節から容易に想像出来ることである。そしてこれが、旧約聖書が語っている信仰の父アブラハムの赤裸々な姿である。

アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の 女が子を産むことができようか。」創世記17:17

 しかし全能の神は、そのような者を信仰の父として養い、育て上げることの出来るお方である。不信仰を超えて約束を成就してくださる全能の主を深く体験させられたアブラハムは、後にひとり子イサクを全焼のいけにえとしてささげよと主に命じられた時、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考え、死者の中からイサクを取り戻したのである(へブル11:17−19参照)。

 神は人を死者の中からよみがえらせることもできる全能のお方である。実にアブラハムは、そのような信仰をもって全能の神を仰ぐ者へと変えられたのである。

ザカリヤとエリサベツに対する全能の神のお取り扱い

ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、おしになって、ものが言えなくなります。 私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。ルカ福音書1:20

 ルカ福音書の1章には、ザカリヤという祭司と彼の妻エリサベツが登場する。エリサベツは不妊の女であったが、後に全能の神によって身ごもり、バプテスマのヨハネの母となった。ここでも、ザカリヤ夫婦に子どもが与えられる経緯を通して、全能の神がどのようなお方かを知ることが出来る。 ザカリヤは不信仰であった故に、神の言葉が出来事になるまでものが言えなくなった。しかし神の約束の言葉は、人間の不信仰を超えて、その時が来れば実現し、現実の出来事となった。

 もし厳密な意味で、私たちが信じたとおりにしかならないのなら、全能の神の素晴らしいご計画は、計画倒れになるであろう。そして、この世界のすべてを新しく創造するという神の壮大なご計画は凍結し、私たちは罪の中で滅んでいくだけとなってしまうであろう。 しかし全能の神のことばは、人間の不信仰を超えて、時が来れば必ず出来事になることを、聖書は力強く証しし続けている。それ故、神のことば(ダバール)は、必ず出来事とも訳すことが出来るのである。

全能の神の可能と不可能

 聖書が語る全能の神は、罪を赦すこと、死人を生きかえらせ死を滅ぼすこと、雨や雪、嵐といった気象を治めること、病気を癒すこと、悪霊と悪魔を治めること、悪を善に変えること、全宇宙を統べ治めること、すべてを新しくすることの出来るお方である。全能の神は、神に敵対する人間を、神を愛する者、キリストに似た者に造り変えることのできるお方である。全能の神は、人間の不信仰を超えて、時が来れば必ず約束を成就して下さるお方である。しかし、全能なる神にとって不可能なこともある。

神は公義を曲げるだろうか。全能者は義を曲げるだろうか。ヨブ記8:3

神は決して悪を行なわない。全能者は公義を曲げない。ヨブ記34:12

 引用したヨブ記の御言葉に記されているように、全能の神は、聖であられ、義であられるが故に、汚れたことを行うこと、義を曲げること、悪を行うこと、うそ偽りを行うことは絶対に不可能である。

 そのような全能の神を覚えつつ、エペソ人への手紙1章19節から23節の御言葉を引用し、まとめとしたい。

また、神の全能の力の働きによって 私たち信じる者に働く神のすぐれた力が どのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、 教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいの ものによって満たす方の満ちておられるところです。エペソ1:19−23

D、主なる神

神は霊であって、唯一全能の主である。

 これまで神が霊であられ、唯一の神であられ、そして全能の神であられるという信仰告白の意味を論じてきた。ここでは、本論1の締めくくりとして、「神は主である」という告白の意味を考察したい。

旧約聖書の中に啓示された主なる神(YHWH)

 新改訳聖書において太字で主と表記されている所にはすべて、神の御名(YHWH)が記されている。 ここで主なる神(YHWH)とはどのようなお方であるのかを考えるために、出エジプト記3章14節に着目したい。

神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」出エジプト記3章14節

 出エジプト記3章14節には、エヘイエーという動詞が2回使われている。実はこの動詞は、主と表記されている神の御名(YHWH)と同じ語根の言葉である。このエヘイエーという言葉の意味について、浅井導は以下のような考察をしている。

『この「エヘイエー」という動詞は、「ハヤー」という動詞の未完了態(imperfect)、第一人称単数の形です。「ハヤー」は英語のBe動詞にあたる、「ある」という意味の動詞ですが、実は、へブル語では、「…である」という現在時制の意味で、この動詞が使われることはありません。もし、現在時制での「存在」の意味で、「わたしがそこにいる(存在する)」ということが言いたいのであれば、「アニー(わたし)・シャム(そこ)」というように、動詞を使わないで表現します。  そうすると、まず注意しなくてはならないのは、この個所で、聖書は決して、この動詞(ハヤー)を使って、「わたしはある」、つまり「わたしは存在する」というような、ギリシャの形而上学的、あるいは存在論的な意味で、「神が存在する」という提示を行っているのではないということです。…  日本語だけでなく、ほとんどの言語でも、これを「わたしはある」と訳していますが、正確には正しくなく、また誤解を招き易いようです。』*4

 ここで浅井は、エヘイエーという動詞は、「わたしは存在する」というような静的な意味の言葉ではないとし、「わたしはあろうとする」というような動的な意味を持つ言葉であると結論付けている。そして、出エジプト記3章14節の主の語りかけを「わたしは、『わたしはあろうとする(エヘイエー)』者である。」と訳している。

 一般的に、へブル語は動的な言語だと言われ、ギリシャ語は静的な言語だと言われるが、浅井の上述のような考察は、そのような考えを裏付けるような内容となっている。

 旧約聖書の中に啓示された主なる神とは、永遠に存在しておられるお方であるが、ただ永遠に自存しておられるお方というイメージを超えて、「なろうとするものに何でもなれる全能の神」であると言える。 そしてこのお方が、私たちのために、肉体を持った人間の幼子となって降りて来て下さり、私たちの間に住まわれ、その愛を余すところなく示して下さったことを覚え、深く感謝を捧げる。

新約聖書の中に啓示された主なる神(エゴー・エイミ)

 ヨハネ福音書の中には、イエス・キリストが、エゴー・エイミという言葉を7回用いて、ご自分のことを紹介して下さったことが記されている。その内容は以下の通りであるが、それぞれの言葉が主イエスの口から語られた言葉として記されている。

1、わたしは、いのちのパンです(ヨハネ6:48)。

2、わたしは、世の光です(ヨハネ9:5)。

3、わたしは、門です(ヨハネ10:7、9)。

4、わたしは、よい牧者です(ヨハネ10:11)。

5、わたしは、よみがえりです、いのちです(ヨハネ11:25)。

6、わたしは、道、真理、いのちです。(ヨハネ14:6)

7、わたしは、まことのぶどうの木です(ヨハネ15:1、5)。

 エゴー・エイミという言葉は、「わたしはある」のギリシャ語訳である。故にここで主イエスは、ご自分が旧約聖書に啓示された主なる神(YHWH)であることを宣言しておられることになる。 いのちのパン、世の光、門、よい牧者、よみがえり・いのち、道・真理・いのち、そしてまことのぶどうの木。これらはすべて、私たち人間にとってなくてはならないもの、必要不可欠のものばかりである。

 さらに7という数字は完全数であるので、主イエスが7回エゴー・エイミと語られたということは、「わたしはあなたがたの必要に応じて何にでもなれる全能の神(YHWH)である!」という驚くべき主なる神宣言と言える。実に主イエスは、私たちの必要に応じて、何にでもなれる唯一全能の神ご自身として、ご自身を啓示されたお方である。

本論2:神は永遠に父と子と聖霊の三位一体であって、その本質において同一であり、力と栄光とを等しくする。

 第二項で告白されている内容は、三位一体と呼ばれる神観である。これはキリスト教だけが持っているユニークな神観で、聖書の啓示に基づいた神観である。 三位一体という言葉は、聖書に直接書き記されているわけではない。しかし、旧約聖書の創世記から新約聖書の黙示録まで、聖書66巻を通して啓示された神を仰ぐならば、父なる神、御子イエス・キリスト、聖霊(御霊)が、それぞれ永遠の神として存在し、関係において一つである三位一体の神として啓示されている。聖書信仰に生きているキリスト教会は、古代教会の時代から、三位一体の神への信仰告白を持ち続けている。

 本論2では、まず聖書に啓示された唯一神の複数性を考えたい。次に三位、つまり父、御子イエス、聖霊についてそれぞれの神性を確認したい。そして最後に、これらを統合して三位一体の神を論じたい。

A、聖書に啓示された唯一神の複数性

エロヒームのワードスタディ

 聖書に啓示された唯一神の複数性を考察するために、創世記1章1節の御言葉を改めて考えたい。

初めに、神が天と地を創造した。(新改訳第二版、第三版)

 日本語の神という言葉は、非常に多用な多神教的イメージ、汎神論的イメージを持った言葉であり、唯一の神という神観はほとんどない。このため日本語訳で創世記1章1節を読んでも、意識しなければ、唯一の神というニュアンスは受け止めにくい。

In the beginning God created the heavens and the earth.(NIV)

 英訳文では大文字で始まるGodが用いられているため、唯一の創造主という神観が直接伝わってくる。

 ヘブル語聖書を改めて調べると、創造主を意味する単語としてエロヒームという言葉が用いられている。実はエロヒームという言葉は複数形である。 普通に受け止めるならば、多神教的だと誤解されかねない書き出しであるが、エロヒームの述語としての動詞バーラー(創造した)は単数形になっている。

 この複数形の語尾を持つエロヒームは、一般的には威厳の複数(a plural of majesty)と呼ばれ、神に対して用いられた場合、神の威厳を示すものであって複数の意味ではないと説明される。しかし、エロヒームは、へブル語聖書の中でだけユニークに用いられており、主として三位一体の神における位格の複数性を表すものであるということが、より確かなこととして主張されている。

 神ご自身の啓示の言葉としての聖書の、しかも創世記の1章の中に、ひとりの神が一つであることと同時に、そのお方が位格の複数性を併せ持つことを伝えるための用語の必要を見出すことが出来るのである。 同じ創世記1章の26節では、さらに明らかに、唯一性の中に複数性を持った創造主が啓示されている。

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。創世記1:26

 ここでは、日本語訳聖書においても、上記のように「われわれ」という複数形の言葉が、創造主に対して用いられていることが明らかである。実に聖書の最初の章に、唯一性の中に多様性を含む創造主、位格の複数性を併せ持ちつつなお一つであられるひとりの神が啓示されているのである。

 26節では、私達人間が唯一性の中に多様性を含む創造主のかたちに似せて造られたということが語られている。関係の中で一つとなって共に生きておられる三位一体の神に似せて造られた私達人間は、関係の中で共に生きていくように造られている。

 また、続く27節では、「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」と記されている。

エハドのワードスタディ

「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。 主はただひとりである。」申命記6:4

 さらに唯一神の内の複数性を考えていくために、神の唯一性を啓示している申命記6章4節の御言葉を再考したい。 申命記6章4節において、「ただひとり」という意味で使われているのは、エハドという言葉である。このエハドという言葉は、二つ以上のものが一つになることと密接な関係がある。

 アダムとエバが「一体」となると表現されている所にもエハドが使われている(創世記2:24)。ここでエハドが表現する一つである状態とは、性的なことを超えて、夫婦が、あるいはキリストと教会が、全人格的に一心同体となることを意味する(エペソ5:31−32)。

 また、エハドが意味する一つという状態は、幕屋によっても視覚的に表現された。何枚かの幕が互いにつなぎ合わされて一つの幕屋となっているような状態。それがエハドが意味する一つである(出エジプト26:6,11)。

 このようにエハドは、一つであることの内に多様性がありながらも、一つとされている状態を意味する言葉である。

 従ってこのエハドを用いて、神はただひとりであると語られた時、位格の複数性を併せ持ちつつ、なお一つであられるひとりの神が啓示されているのである。

B、三位(父・子・聖霊)の神性

神は永遠に父と子と聖霊の三位一体であって、 その本質において同一であり、力と栄光とを等しくする。

上述した三位一体の神に関する信仰告白では、父、子、そして聖霊なる三者が神の三つの位格であると告白されている。この三者の名前が並記されているテキストとして有名なのは、マタイ28章19節の大宣教(教育)命令と2コリント13章14節の祝祷である。

それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、…マタイ28:19

 マタイ28章19節では、父、子、聖霊という3つの名前が並記されているが、御名という言葉は単数形になっている。これは、父、子、聖霊が多神教的な複数性を持った神ではなく、三位一体の神であることを表したものである。

主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。…2コリント13:13

 2コリント13章13節では、主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりと並記されている。 三者の存在が間接的に明示されているテキストとしては、マタイ3章16−17節の主イエスのバプテスマ、ルカ1章35節の受胎告知、ルカ24章49節の弟子たちへの言明、ヨハネ1章33−34節、14章16節、26節、16章13−15節、使徒2章33−38節などが挙げられる。 以下に父、子、聖霊の三位それぞれの神性について、聖書が語っていることを確認したい。

父なる神の神性

 父なる神の神性については、ほとんど議論にならないと思われるが、父なる神がどのようなお方であるかについて、主イエスが紹介して下さった内容を覚えたい。

 マタイ福音書5章−7章に記された山上の説教には、主イエスによって、天におられるわたしたちの父なる神の神性が豊かに紹介されている。主イエスにとって、「神」という言葉と、「あなたがたの天の父」という言葉は、交換可能な言葉である。

 主イエスは、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)」という命令を、天におられる父の子どもにふさわしいこととして語られた。それは、天の父が、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる神であり、自分を愛さない者、むしろ自分を迫害し殺そうとする者を愛される完全な愛を持った神であられる故である。 「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。(マタイ5:48)」という命令の中に語られているように、天の父とは、愛することにおいて完全な神であられる。敵を愛するなどということは、神から離れた人間には不可能なことである。しかし天の父は、神であられる故に、ご自分の敵である私たちを愛することの出来るお方なのである(ローマ5:6−11参照)。 天におられるわたしたちの父なる神は、私たちに報いようとして、隠れた所で見ておられるお方であり(マタイ6:1、4、6、18)、私たちがお願いする先に、私たちに必要なものを知っておられる(マタイ6:8)。

 天の父なる神は、種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしない空の鳥を養っておられ、雀の一羽でさえ、父なる神のお許しなしに地に落ちることがない。そして父なる神は、私たちに必要な良いものをすべてご存知で、豊かに養っていて下さる。  それ故に主イエスは、「だからこう祈りなさい。」と仰って、「天にいます私たちの父よ!」という親しい呼びかけで始まる主の祈りを私たちに教えて下さったのである。

だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕マタイ6:8−13

 もし私たちが、主の祈りを自らの祈りとして祈るならば、つまり神の国とその義をまず求めるならば、天の父なる私たちの神は、それに加えてすべてのものを豊かに与えて下さるお方である(マタイ6:32−33)。

御子イエス・キリストの神性

 御子イエス・キリストの神性は、聖書が明確に証言しているにもかかわらず、いつの時代にも問題にされている。なぜであろうか。その理由を覚えるために、御子イエス・キリストの生涯の中で、特に誕生と死を考えてみたい。

 もし御子イエス・キリストが、本当に神であるとするならば、天地万物を創造された永遠の神が、私たちと同じ肉体を持った人間に、しかも泣くことしか出来ないみどりごとしてこの地上に来られ、私たちの間に住まわれたということになる。

 そして、もし御子イエス・キリストが本当に神であるとするならば、あのゴルゴタの丘で、神が十字架に磔にされて死なれたということになる。

 このように、イエス・キリストが神であるということから導き出される結論は、すべて衝撃的な内容を含んでいる。そして、御子イエス・キリストの神性は、キリスト教の教理において決定的な重要性を持っている。それ故にキリストの神性は、いつの時代にも問題とせざるを得ないのである。

*ピリピ人への手紙2章

 イエス・キリストの神性について考える際、鍵となるテキストの一つは、ピリピ人への手紙2章であるが、特に2章6節に注目したい。

キリストは、神の御姿(モルフェー)であられる方なのに、神のあり方(神との同等性)を捨てることができないとは考えないで、…ピリピ人への手紙2:6

 ここで「神の御姿」と訳されている言葉は、モルフェーというギリシャ語である。世俗ギリシャ語においてもこの語は、それが何であるかを構成する特性の一群というような意味を持ち、ものごとのまぎれもない本質を示す言葉である。

 ギリシャ語で、単に外見的な姿を表現する場合には、スケーマーという言葉が用いられるが、ここではスケーマーではなくモルフェーが意図的に使われていると思われる。また、同じ6節には、「神のあり方」と訳されている所があるが、これは「神との同等性」と訳すことの出来る表現である。つまりここでは、キリストは本質的に神であられるということが明言され、イエス・キリストの神性が明らかにされている。この手紙がユダヤ教の厳格な教育を受けた正統的ユダヤ人パウロによって書かれていることを覚えると、これは驚くべき言明である。

*ヘブル人への手紙1章

イエス・キリストの神性について語っているもう一つの重要な聖書個所は、ヘブル人への手紙1章である。

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。へブル人への手紙1:3

 ここでは、「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり」と記されている。この句そのものは、御子が輝きであるということより、神は御子を通して神ご自身を完全に啓示されたことを語っているが、文脈から見ると、御子は神であることを告げている御言葉である。

*主イエスご自身の神性に対する態度

 主イエスは、「わたしは神である。」というような直接的言明によって、ご自分の神性を明らかにされたわけではない。主イエスは、前述した「エゴー・エイミ」のような間接的言明によって、ご自分の神性を明らかにされた。 ユダヤ人は、旧約聖書に啓示された唯一の神から律法を与えられた民族である。そのユダヤ人にとって、人間を神として礼拝することは偶像礼拝の罪であり、人間が自らを神としてあがめさせようとすることは神を冒涜する罪であった。

 このことを覚えるならば、主イエスの態度は、ご自分が神であることを認めるものであったし、主イエスを拝んだユダヤ人は、主イエスを人となられた神と認めたということを意味する。

 主イエスは、神にしか出来ないはずの罪の赦しを宣言し(ルカ5:17−26)、安息日に病人を癒し(ヨハネ5:1−9)、ご自身を神と等しくして、神をご自分の父と呼んでおられた(ヨハネ5:18)。

 そして「わたしと父とは一つです。(ヨハネ10:30)」と語られ、「わたしを見た者は、父を見たのです。(ヨハネ14:9)」と語られた。

 そのため多くのユダヤ人たちの目に映ったイエスは、人間でありながら自らを神とし、神を冒涜する者以外の何者でもなかった。だからこそ彼らは、主イエスを石打にして殺そうとしたのである。そして彼らは、主イエスを裁判にかけて訴え、最後には主イエスを「除け。除け。十字架につけろ。」と激しく叫ぶ人々となった(ヨハネ19:15)。

 福音書には、主イエスを神としてあがめ拝もうとする者に対して、主イエスがどう振舞われたのかが記録されている。主イエスはそのような時、衣を裂いてそれを拒むことはなさらなかった(マタイ14:33、28:9−10、16−20、ヨハネ20:28)。

 この中でも特に、ヨハネ20章27節−29節を記したい。

それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。 手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」ヨハネ20:27−29

 弟子のトマスは、復活した主イエスに対して「私の主。私の神。」と告白した。この信仰告白を主は拒まれなかったことは、主イエスご自身が、ご自分の神性を、間接的に明らかにされた態度であると言える。

聖霊の神性

 父や御子に比べて、聖霊は人格性を否定されやすいお方である。神のエネルギーや神の力といった人格を持たない存在として見られやすいのが聖霊である。しかし聖書は、聖霊の人格性と神性を明確に証言している。まず注目したいのは、使徒の働き5章3−4節である。

そこで、ペテロがこう言った。 「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」使徒の働き5:3−4

 文脈を見るならば、ここでは聖霊を欺くことが神を欺くことであると明言されていることがわかる。

しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って 行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに 遣わします。その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。ヨハネ16:7−8

 また、ヨハネ福音書16章7−8節では、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせるお方としての聖霊が紹介されている。ここで聖霊は、わたしたちのところに遣わされる「助け主」と呼ばれており、神のご性質を持って神の業を行われるお方として語られている。

 ヨハネ福音書3章8節では、新しいいのちを与える風のようなお方として聖霊が紹介されている。ここにおいて、聖霊なる神は、旧約聖書に啓示された神の霊ルアハのイメージと重なる。

 また、ヨハネ福音書において聖霊は、信仰者の心の奥底から流れ出る、生ける水の川の源に、飲む者の魂の渇きを潤す永遠のいのちの泉に例えられている(7:37−39、4:13−14)。聖霊の永遠性は、このような例えによって間接的にではあるが明らかにされている。

 1コリント12章4−11節では、賜物を与え、支配するお方として聖霊が紹介されており、1コリント3章16−17節、6章19−20節では、神の宮、聖霊の宮としての私たちの肉体について語られている。ここでも神という語と聖霊という語が、交換可能な同意語として用いられることによって、聖霊の神性が啓示されている。

C、三位一体の神

 これまで述べてきたように、神はただひとりのお方であると同時に、三つの位格を持たれるお方である。そして三つの位格、すなわち父と子と聖霊は、それぞれ本質的に同じ永遠の神性を持っておられる。そして、それぞれの役割は異なるが、力と栄光においては同等であられる。そうである故に私たちは、このお方を三位一体の神として、以下のように告白するのである。

神は永遠に父と子と聖霊の三位一体であって、その本質において同一であり、力と栄光とを等しくする。…信仰告白より

このように告白された三位一体の神の相互関係をイメージ的に表現したのが図1である。

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図1 三位一体の神の相互関係

本論3、父なる神は、永遠のみ旨により万物を創造し、その造られたものの絶対主権者であられる。

 本論3では、上記した信仰告白第二項の最後の部分について述べる。この部分は、父なる神についての告白であるが、まず万物の創造主としての父なる神について、次に絶対主権者としての父なる神について考察を行いたい。

A、万物の創造主としての父なる神

父なる神は、永遠のみ旨により万物を創造し、

永遠の御旨

 ここには、「永遠のみ旨」という言葉が用いられている。この言葉は、父なる神が万物を創造なさった理由をほめのかしている。信仰告白には、「永遠のみ旨」についての説明はまったくないので、聖書を概観しつつ、永遠のみ旨について考えてみたい。

 創世記1章を見ると、「この天地万物は、偶然に存在するようになったわけではなく、進化したわけでもない。神によって創造されたのだ。」というメッセージが、力強く基調音として響いている。

 父なる神のお造りになった万物の中には、夜空を見上げた時、無限に思えるこの大きな宇宙も、そしてこの美しい地球に住む小さな私たち一人一人も含まれている。 そして天地創造に先だって、まず神の「永遠のみ旨」があったのだと、私たちは告白している。「なぜ私は存在しているのか。」、「なぜ父なる神は私をお造りになったのか。」その理由も、「永遠のみ旨」という言葉に集約されている。

 創世記1章から2章3節には、「こうして夕があり、朝があった。第何日。」ということばが繰り返し使われ、これによってリズムが生まれている。それは、「まず夕があり、そして朝がある」という2拍子のリズムである。普通私たちが一日の始まりと考えるのは朝である。しかし旧約聖書のへブル的感覚では、夕方が一日の始まりなのである。

 夕方から夜にかけて、私たちは働きを止めて休み、そして眠りに就く。そして新しい朝を迎え、私たちが目を覚ます時、すべてが整えられ、神の計画が進んでいることに気づく。創造主なる神は、私たち人間が何もしない間にすべてのことを備え、またご自身の計画を進めておられることを覚えさせられるのである。 この世界とこの宇宙の営みは、人間がスタートさせたわけではない。すべてを備えて下さり、動かし始められたのは父なる神である。まず父なる神の備えと素晴らしいご計画、すなわち「永遠のみ旨」があったと創世記は語っている。

 人間が何かをする前に、まず父なる神のご計画と働き、そして備えがある。そうして後に父なる神は、ご自身の働きを私たちに委ねられる。私たちを神の働きの中に招き入れて下さるという恵みがここにある。「こうして夕があり、朝があった。第何日。」という御言葉は、いつでも恵みの2拍子を奏でている。

 神が天地万物を創造なさった時、私たち人間は、一番最後に造られたことが記されている。しかも私たちは、神のかたちに似せて造られたと記されている。私たち人間は、土地のちりから形造られ、神の息が吹き込まれた時に生きものとなった。 父なる神が天地万物を創造された時、すべてが良きものであった。すべてにおいて、そこには調和・ハーモニーがあった。

 三位一体なる神との関係において、人間関係において、また自然との関わりにおいて、人間は調和の中で、父なる神を中心として生きていた。父なる神は、エデンの園に人間を置かれた。エデンとは喜びを意味するへブル語である。つまりエデンの園とは、神を中心とした喜びの園であった。人間は、自らが造られたものであることをわきまえ、神を神として歩んでいたからである。 父なる神は人間に、自然を正しく管理していくこと、耕して守ること委ねられた。耕すという言葉は、英語のカルチャー・文化の語源になっている言葉である。つまり父なる神は、人間にあらゆる文化的な創造力も与えて下さり、それを神の栄光のために用いるようにされたのであった。

 エデンの園の中央には、父なる神によって特別な2本の木、いのちの木と善悪の知識の木が置かれていた。父なる神は、「園のどの木からでも、実を思いのまま食べて良い。いのちの木からも食べていい。」と仰った。

 エデンの園に何本の木があったかはわからないが、その中にたった一本だけ禁断の木の実があった。それが善悪の知識の木の実であった。父なる神は、「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。もしその実を取って食べるなら、あなたは必ず死ぬから。」と警告された。 けれども私たち人間は、悪魔の誘惑に負けて、この禁断の木の実を食べてしまったのである。そしてその時から、不協和音が全地に響き渡るようになった。

 聖書では、善悪の知識の木の実を食べたことが罪の始まりであると語っている。善悪の知識の木とは、善悪を判断する基準を意味していたと考えられる。善悪の知識の木の実を食べないということは、何が善で何が悪かを判断する基準が神にある生き方をするということであった。しかし、善悪の知識の木の実を食べるということは、自分勝手な善悪の基準、自己中心に曲がるものさしを持って生きることを意味していた。つまりそれは、神を基準とする生き方をやめて、自らを基準とする生き方、自らを神として生きる生き方を選んだということであった。

 神を神としないで、自らを神として生きること。それを聖書では罪と言っている。むなしさ、孤独、不安、いらだち、絶望、死。それらすべてのものを、私たちは罪を犯すことによって、自らの人生の中にもたらしてしまったのである。いまでも世界中で、その不協和音は響き続けている。

神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。創世記3章21節

自らの犯した罪を認めないばかりか、平気で神に責任転嫁するアダムとエバ。父なる神は、神に反逆する彼らをエデンの園から追放された。 けれども園から追放する前に、父なる神は、アダムとエバのために皮の衣を作り、それを着せて下さった。ただ神のあわれみによる和解への道を、ここにはっきりと見ることが出来る。聖書全体が描いている、罪を赦す権威を持った父なる神の姿を、ここに見ることが出来る。

 皮の衣を作るためには、動物を殺さなければならない。そこで動物のいのちが絶たれ、血が流された。たとえ人間が罪を犯しても、決して人間を見捨てることがない父なる神のあわれみがここにある。しかし同時に、聖書が語る罪の深刻さを改めて考えさせられる。

 旧約聖書には、人間が罪を犯すたびに動物の血が流され続ける歴史が記されている。そして新約聖書には、「永遠の御旨」の時が満ちて、罪のために血が流される歴史に終止符が打たれたことが記されている。

 それは、父なる神のひとり子であられるイエスが十字架の上に上げられ、まるで動物のようにほふられて血を流されたことによって、古い契約に終止符が打たれ、新しい契約が結ばれた時であった。私たちの罪がおおわれて赦されるために、罪のない御子イエスが、十字架にかかって死ななければならなかった。罪のないイエス・キリストが十字架にかかって死なれたのは、他の誰のためでもない、私のためであったということを深く覚え、ただ感謝をする。

 主イエスは3日目によみがえられ、今も生きておられる。主イエスは、父なる神との和解の道を備えて下さったキリストである。もし私たちが主イエスをキリストとして信じ受け入れるならば、罪をすべて覆って下さる白い衣を、主イエスは私たちに着せてくださる。そして私たちを、聖霊によって、キリストに似た者に変えて下さるという「永遠のみ旨」が、聖書に約束として啓示されている。

私たち人間を、神の栄光を表す創造の冠として、神のかたちに似せて創造されたこと。

私たちが善悪の知識の木の実を取って食べ、神のかたちを失ったこと。

失われた者を探して救うために、アブラハムの子孫、ダビデの子孫として御子イエスが来られたこと。

御子イエスが十字架に上げられ、そしてよみがえり、天に挙げられたこと。

聖霊が一人一人に与えられたこと。

イスラエル人と異邦人、すべての造られた者が、主イエス・キリストの福音によって一つとされること。

主が再び来られ、すべてが新しくされること。

そのようなことのすべてが、「永遠の御旨」の中に含まれていると考えられる。

B、絶対主権者としての父なる神

父なる神は、その造られたものの絶対主権者であられる。

 信仰告白第二項の最後の文には、父なる神に対して、「絶対主権者」という言葉が用いられている。この言葉は、造り主としての父なる神が、その造られたものに対して持っておられる主権について言い表した言葉であるが、最後にこの言葉の意味を考察したい。

陶器師と陶器のたとえより

 造り主としての父なる神が、その造られたものに対して持っておられる絶対的な主権。このことを考えるために、聖書に記されている陶器師と陶器のたとえに耳を傾けたい。

*イザヤ29章16節

ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている。 陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか。造られた者が、それを造った者に、「彼は私を造らなかった。」と言い、陶器が陶器師に、「彼はわからずやだ。」と言えようか。

 イザヤ29章16節は、私たち人間が物事を逆に考えて、陶器師(造り主なる父なる神)を粘土(人間)と同じだと考えやすいことを鋭く指摘している。造られた人間が創造主である父なる神に、「彼は私を造らなかった。」と言うこと、また、陶器が陶器師に、「彼はわからずやだ。」と言うことは、いずれも本来あり得ない越権行為である。

*イザヤ64章8節

しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で 造られたものです。

 イザヤ64章8節には、本来被造物である人間が、造り主なる父に対して告白すべき言葉が記されている。この御言葉は、「父なる神は、その造られたものの絶対主権者であられる。」という信仰告白と同じ意味を持っていると考えられる。

*エレミヤ18章1−6節

主からエレミヤにあったみことばは、こうである。「立って、陶器師の家に下れ。 そこで、あなたに、わたしのことばを聞かせよう。」私が陶器師の家に下って行くと、ちょうど、彼はろくろで仕事をしているところだった。陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。それから、私に次のような主のことばがあった。「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。・・主の御告げ。・・見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。

 陶器師の家で預言者エレミヤが見たもの、それは陶器師が陶器に対して持っている絶対的な主権であった。粘土が陶器師の手の中にあるように、私たちのすべては父なる神の御手の中にある。エレミヤが見ていると、陶器師は制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。 絶対主権者であられる父なる神は、再生の専門家でもあられ、私たちがすべてを御手に委ねるなら、すべてのことを働かせて益とすることが出来るお方である(ローマ8:28)。

*ローマ9章19−24節

すると、あなたはこう言うでしょう。「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことがで きましょう。」しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれ みの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。

 陶器師は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っている。同様に、人間を造られる父なる神は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも造る権利を持っておられる。しかしそのような絶対的主権を持たれる父なる神は、滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださり、あわれみの器として下さるお方である。

結論:聖書が語る一神教の神は三位一体の神である

神は霊であって、唯一全能の主である。神は永遠に父と子と聖霊の三位一体であって、その本質において同一であり、力と栄光とを等しくする。父なる神は、永遠のみ旨により万物を創造し、その造られたものの絶対主権者であられる。

 これまで上記の信仰告白を3つの部分に分けて論じてきたが、それらをまとめて結論としたい。

 この世界には、父と呼ばれる存在が数え切れないほど多くいる。しかし、私達一人一人にとって、肉親としての父は世界でただ一人しかいない。同じようにこの世界には、神と呼ばれる存在が数え切れないほど存在する(日本では八百万いると言われている)。けれども、私たちの造り主なる神は、世界でただひとりしかいない。これが一神教の立場である。

 実際、父と呼ばれる方々とその人の父との間には、明確な区別、質的な違いがある。そのような考えを、多様性と個性を否定する考えだとして否定する人がいるであろうか。同じように、世界に神と呼ばれる存在が何百万あろうとも、その神々とあなたの創造主なる唯一の神との間には、明確な区別、質的相違がある。

 一神教は、神々の多様性と個性を否定する排他性を持っている。しかしそれは決して、人間の多様性と個性を否定することにはつながらない。 むしろ一神教は、唯一の父なる神がすべての人の創造主であるという立場から、ナショナリズムや民族差別の偏狭な壁を越えて、全世界のすべての民族、すべての人間の多様性と個性を真に尊重することの出来る立場に立ち得るはずである。天にいます私たちの父なる神は、私たち一人一人を、誰一人として同じ顔や同じ性格にはお造りになっていないのだから。

 もちろん一神教の立場の人間であっても、なおナショナリズムや民族差別から抜け出せないで、他の人間の多様性と個性を否定するという恥ずべき過ちを犯すことも多くある。特に日本人キリスト者は、他のアジア諸国の人々を見下す傾向が強い。「神は霊であって、唯一全能の主である。」と告白する者にとって、そのような恥ずべきことがあってはならない。そのためには、聖書を通して神の前に自らが何者であるのかを知り、砕かれた魂と悔いた心を持った、キリスト者日本人とされなければならない。

 しかし聖書が語る一神教(キリスト教)は、ユダヤ教(ここで言うユダヤ教とは、旧約聖書信仰とは異なる律法主義信仰を意味する)やイスラム教のような一神教ではない。聖書が語る一神教の神は、唯一性の中に多様性を含む三位一体の神なのである。

 三位一体の神は、互いに多様性と個性を真に尊重し、うそ偽りのない真実な愛によって一つであられ、信頼に基づいた相互の交わりにおいて一つであられる。そして互いに、いのちと力と栄光を完全に共有しておられる。三位一体の神は、福音宣教のために一致協力し、全力をもってそれぞれの使命と役割を果たし、私たちのために働いて下さっているチームワークの神である。

 このような豊かな神観を覚える時、個人主義的になりやすい信仰生活や伝道牧会において、あるいは各個教会主義的になりやすい教会形成において、互いに尊敬をもってそれぞれの賜物や使命を認め合い、交わりのうちに一致協力し、共に祈り合い、共に仕え合うことの必要を覚えさせられる。

参考文献

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*1 レオン・モリス『聖霊論改題「聖霊について」』岸本紘訳、いのちのことば社、1985年、pp.18−23
*2 アレスデア・ヘロン『聖霊−旧約聖書から現代神学まで』関川泰寛訳、ヨルダン社、1991年、pp.58−69
*3 レオン・モリス「ヨハネ福音書上」中村保夫訳,『聖恵・聖書注解』、聖恵授産所出版部、1994年、p.247
*4 浅井 導『神のかたちに−聖書が語るあなたとは』、キリスト新聞社、1993年、pp.160−161

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Last-modified: 2019-05-15 (水) 12:31:46