Kazo Kitamori, a Japanese theologian wrote the book named "Theology of the Pain of God"(translated into English in 1965).And Karl Barth wrote "Evangelical Theology: An Introduction".In this foreword to Japanese, he presented a very serious question to Kitamori's Japanese style theology.
In this thesis, having addressed to Jesus Christ described in the Synoptic Gospels, the author is trying to seek the Christ-centric understanding of "Theology of the Pain of God", by focusing the Greek word "splagchnizomai", which has the same nuance as the phrase in Jeremiah 31:20 : "my bowels are troubled for him".
By "splagchnizomai", the painful heart or joy of God is in a Christ-centrically spoken of more eloquently and abundantly. It is the amazing love of God that forgives repentant betrayers without condition and brings about a reconciliation only by grace.
The Christ-centric understanding of "Theology of the Pain of God" enabled me to avoid being affected by Japanese style theology and understand "Love based on the Pain of God" more concretely and abundantly.This concrete and abundant understanding of "the Pain of God" moves us humans from the bottoms of our hearts.The sympathy toward "Love based on the Pain of God" prompts us to love God as God in the true meaning of the word.And this moving love will improve our sensibilities to pain and become the motive for us to love and forgive each other and to live together being neighbors.
共観福音書に記されているイエス・キリストに目を向け、エレミヤ31:20の「我が腸かれの為に痛む(わななく)」と同じ響きを持つスプランクニゾマイというギリシア語に注目することによって、キリスト中心的な『神の痛みの神学』を試みた。
共時的に見たスプランクニゾマイは、キリストに対してだけ用いられており、まさしく神の神性の内に含まれた神の人間性を表現している。
通時的に見た場合、あわれむ、かわいそうに思うといった隠喩(メタファー)的意味は、ユダヤ教の文献と新約聖書にしか見出すことが出来ない。スプランクニゾマイによるラハムの翻訳は70人訳においては実際に導入されていなかった、しかし後期のユダヤ人の文献(12族長の遺訓)において、新しい翻訳として明確に取り入れられた。そしてその用例は新約聖書における用法のための直接的な前提である。
新約聖書において、イエス・キリストに対してだけ用いられたスプランクニゾマイの持つニュアンスは、エレミヤ31:20における「我が腸かれの為に痛む」という表現のニュアンス、また、同じテキストにおいて強意形で重ねて用いられているヘブル語ラハムの持つ「深くあわれまずにはおれない、必ずあわれむ」という言葉のニュアンスをさらに豊かにまた雄弁に語っていると考えられる。スプランクニゾマイによって、キリスト中心的に神の痛む心、また歓喜がさらに雄弁に、豊かに語られている。それはただ恵みによって、悔いた裏切り者を自由に赦し、和解へと招く、驚くべき愛である。
『神の痛みの神学』のキリスト中心的理解によって、日本的思惟の影響を避けることができ、より具体的に、また豊かに「神の痛みに基礎づけられた愛」の認識が可能となった。この具体的、また豊かな「神の痛み」の認識が、私たち人間を心の底から揺り動かす。この「神の痛みに基礎づけられた愛」への共鳴が、私たちを本当の意味で神を神として愛することへと促す。そしてこの揺り動かす愛が、私たちが持っている痛みの感受性を引き上げ、隔ての壁を越えて私たちが互いに愛し、赦し、隣人となって共に生きる原動力となる。
エレミヤ31:20の「我が腸かれの為に痛む」という言葉、また「彼をあわれまずにはおれようか。私は彼を必ずあわれむ」という言葉によって表現される神の心の動きは、自らの高ぶり、偶像礼拝、背信によって神の怒りの懲らしめを受けたエフライムが、砕かれた、悔いた心をもって、自分の罪を嘆いているのを聞いたときに、主なる神の心の底から生じた動きであった。
スプランクニゾマイで表現される心の動きも受動的である。まず良き羊飼いである神から迷い出た人間の、救いなき姿がイエスの瞳の中に映り、その砕かれた望みなき姿こそが、イエスの心を心底からゆり動かしているのである。それは羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている姿、強盗に襲われて道端に倒れている姿、返済不可能な莫大な負債を抱えてあわれみを乞う姿である。それは、やみの中、死の影の地、涙の谷、愛のない砂漠、荒れ野を満たされることなく、自分勝手にさまよう罪人たちの姿である。
スプランクニゾマイは、キリストにだけ用いられることによって、キリストの痛み・あわれみの質的差異を啓示している。同時に、この語はキリストの最も深いところからの痛み・あわれみを表現している。
ルカ15章の放蕩息子の父親に対する用例は、文脈から失われていた息子を見つけた時の心底からの歓喜を表現している。 この心の底からの動きが、イエスを具体的な愛の行動へと揺り動かしている。これが神を受肉と受難(COMPASSION)へと向かわせる神の大いなる情熱(PASSION)であり、和解によってあくまでも私たち人間と共に生きようとする動機である。
スプランクニゾマイは、まさしく神の神性の極みとしての神の人間性(受苦性)を表現している言葉である。イエス・キリストは地上で最も偉大な人間以上の、人間とは質的に異なった、天地万物を創造された無限の神である。しかし同時に、イエス・キリストは私たちと同じ肉体を持たれ、一人のユダヤ人として私たちの間に住んで下さった人間である。イエス・キリストは喜ぶ者と共に喜び、痛む者と共に痛んで下さった、本当の人間、神のかたちそのものであったと言える。イエス・キリストによって明らかにされた真の神は、人間とは質的には異なるという意味で「絶対他者」であるが、私たちのために仕え、痛んで下さる恵み深い神である。
(神の5つのチャレンジ)
1、 赦し(あわれみ)による和解への招き 一万タラントの借金(罪の負債)を十字架によって赦された者として、隣人を赦し、和解の務めに生きる苦難へのチャレンジ
2、 良き隣人となることへの招き 良き隣人キリストに助けられた者として、他者のために生きる苦難へのチャレンジ (自ら造った壁を超えて、憐れみ深く共に生きること)
3、悔い改めと喜びへの招き 信仰によって神の愛を体験した者として、共に喜ぶ苦難へのチャレンジ
4、祈りによる宣教の情熱への招き 他者の為に祈る苦難へのチャレンジ
5、信仰への招き 信仰の苦難へのチャレンジ
スプランクニゾマイの用例を見ると、上記のような5つのチャレンジが語られている。これらはいずれもキリスト者の生活における苦難の積極的意味を提示している。苦難と表現したのは、キリストの愛に揺り動かされて、本気でキリストの命令に従おうとする時、しばしば葛藤や苦痛、困難を感じる故である。キリストは「自分の十字架を負ってわたしについて来なさい。」と言われる。このキリストに従う歩みとは、キリストの苦しみの欠けたところを満たすことに他ならない。苦しむこと、自己否定が目的(ゴール)ではない。しかし、苦難を通して、人間性がその極み(真の人間であるイエス・キリスト)の身丈まで成長すると私は確信する。苦難の意味は、キリストに従うことを通して、私たちがキリストのように変えられるというところにある。それは、私たち自身が全世界の祝福の基として他者のために存在する教会となるためである。福音宣教の使命に生きる教会として、ともに公同のキリストのからだである世界教会のキリストの身丈まで成長していきたい。