日本同盟基督教団・杉戸キリスト教会
野町真理
講解説教「教会の働き」
聖書の中には、様々なジャンルの文章が収められている。新約聖書は、福音書、手紙、そして黙示文学というジャンルに大別されるが、使徒の働きはナラティブ(事実に基づく歴史物語)というジャンルとして読まれるべきことが近年主張されている*1。
ナラティブは、手紙とは違って、普遍的な原理や原則を直接的に語っているわけではない。使徒の働きは読みやすいが、解釈や適用が非常に難しい理由がここにある。使徒の働きはナラティブとして書かれている故に、ナラティブとして読まなければ、普遍的でないものを原理・原則として受け止め、誤った聖書解釈と適用を生み出すことになる。
使徒の働きはルカ福音書の後篇であり、著者は同じくルカである。ルカには、実際に起こった様々な出来事を詳しく調査し、多くの情報を収集し、それらを綿密に調べ、順序立てて記述する賜物が、主なる神から与えられていた。
さらに使徒の働きの中に、「私たち」と書かれている部分(使徒16:10−17、20:5−15、21:1−18、27:1−28:16)があることから、ルカはパウロのエルサレムへの旅やローマへの旅の同伴者であったことがわかる。ルカは実際に使徒たちの命がけの旅に同伴し、使徒たちと直接会話を交わし、使徒たちと共に様々な体験を共有した人物であった。それ故にルカは、歴史的な事実を、生き生きと物語るナレーターとなり得たのである。
ルカが執筆した福音書と使徒の働きは、いずれもテオピロという人物に対して書かれた個人宛の文章であった。このことはそれぞれの書き出しにおいて明記されている。しかしこの書は、その語っている内容から、テオピロの所属していた地域教会、そして諸地方の教会で広く読まれるようになった。そして最後に、新約聖書聖典の中に収められることにより、私たちも使徒の働きの受取人となっている。
ルカとテオピロとの関係を知る上で、受取人であるテオピロに対しての挨拶文に注目したい。
私たちの間ですでに確信されている出来事については、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。…ルカ福音書1:1−4
テオピロよ。私は前の書で、イエスが行ない始め、教え始められたすべてのことについて書き、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天に上げられた日のことにまで及びました。…使徒の働き1:1−2
ルカ福音書の挨拶では、「尊敬するテオピロ殿」と記されているが、使徒の働きでは、「テオピロよ」と記されている。このことから、ルカ福音書と使徒の働きの間には、親密な間柄になるだけの時間的な隔たりがあったと考えられる。
ルカ福音書の挨拶から、ルカが福音書を執筆していた頃のテオピロの様子を伺い知ることが出来る。その時テオピロは、既にイエス・キリストの教えを受けていたが、それらが正確な事実であることを知る必要があった。
使徒の働きの挨拶から、ルカが使徒の働きを執筆していた頃のテオピロの様子も、伺い知ることが出来る。ルカが敬称を付けずに呼びかけていることから、その時テオピロは、神の家族としての交わりの中に、加えられていたと考えられる。
使徒の働き1章12節で、ルカがオリーブ山とエルサレムの間の距離などを述べていることから、恐らくテオピロは、エルサレムから離れているどこかに住んでいて、エルサレム近郊を訪れた経験がなかったと思われる。
テオピロは、キリスト者になっていたが、以下に示すような使徒の働きに記されている一つ一つのナラティブを、耳を傾けて聞く必要があったと思われる。それらのナレーションは、いつの時代においても信仰者が信仰者として歩み続け、福音によって勝利者となるために、そしてキリストの教会の働きが前進し続けるために、どうしても必要な神のことばである。
主イエスの世界宣教のビジョンと約束。主イエスが天に上げられた時の様子。再臨の約束。約束を待ちつつ心を合わせて祈りに専念していた教会の姿。ユダの代わりにマッテヤが使徒として選ばれた経緯。ペンテコステの日に起こった、驚くべき聖霊降臨の様子。ステパノの殉教。迫害によって散らされることによってサマリヤに届けられた福音。教会の迫害者であったパウロが使徒として選ばれ、異邦人伝道が始められた経緯。エルサレム会議の様子。伝道旅行に見る開拓伝道と教会形成の様子。パウロの弁明。ローマで、少しも妨げられることなく宣べ伝えられた神の国の福音。
使徒の働きに耳を傾けると、それぞれの地域で、どのように福音の種まき(開拓伝道)がなされていったのかを知ることが出来る。エルサレムやサマリアでの種まき、シリアのアンテオケでの種まき、ガラテヤ諸地方(イコニオム、ルステラなど)での種まき、マケドニア(ピリピ、テサロニケなど)、アテネやコリントでの種まき、そして「すべての道はローマに通じる」と言われたローマでの種まき。エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、アジア・ヨーロッパ、エーゲ海沿岸や地中海沿岸の諸地方。そしてその当時の世界の中心であったギリシアやローマ。そして地の果てまで。
教会がそれぞれの遣わされている地域において、どのように福音の種まきをしていったらいいのか、どのように教会を建て上げていったらいいのか、そして、どのように問題に対処していったらいいのか。そのような問いの答えを見つけるためのヒントが、使徒の働きには溢れている。
使徒の働きを読むと、初代教会の時代から、問題のない開拓伝道や教会形成はなかったことを知ることが出来る。外からの迫害、内からの批判。実に教会の歩みは、その時々に次から次へと起こってくる問題の連続であった。
けれどもそのような問題の只中にあって、聖霊なる神の励ましや支え、そしてすべての背後にある主の力強い御手によって、蒔かれた種は芽を出し、成長し、そして豊かな実を結んでいったことを知ることが出来る。
使徒の働きという名前が付けられているが、この書を一読するなら、使徒たちだけの働きではないことは明らかである。この書には、教会員一人一人、キリスト者一人一人の働き、つまり「教会の働き」が記されている。
教会とは、教会堂のことではなく、主イエスによって呼び出され、集められたキリスト信者一人一人である。教会はキリストの体であり、かしらはキリストである。私たち一人一人はキリストの体の各器官として有機的に一つとされ、それぞれの働きと使命に生かされているのである。
ルカは教会に、「教会の働きとは何か」を知らせ、そして「教会の働きとしての証し」が続けられていくために、この書を執筆したと私は考える。
ルカが執筆したルカ福音書と使徒の働きは、前後2巻に分けられている。しかしそれらを通読すると、前後2巻を貫く全体的な枠組みがあることを見出すことが出来る。以下にその全体的枠組みを示す。
このような全体的枠組み、ルカ文章の構造を踏まえつつ、使徒の働きを以下のような6つのセクションに暫定的に区分する。
第1区分 1: 1− 6:7 エルサレムにて
第2区分 6: 8− 9:31 エルサレムから周辺地域へ広がる福音
第3区分 9:32−12:24 異邦人宣教
第4区分 12:25−16:5 第一次伝道旅行、エルサレム会議
第5区分 16: 6−19:20 第二次、第三次伝道旅行
マケドニア・アカヤへ広がる福音
第6区分 19:21−28:31 ローマへ届けられた福音
なおこの区分は、ルカが記している要約的説明を区切りにして行った。それぞれのセクションの区切りとした要約的説明を以下に記す。
こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰にはいった。(6:7)
こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。(9:31)
主のみことばは、ますます盛んになり、広まって行った。(12:24)
こうして諸教会は、その信仰を強められ、日ごとに人数を増して行った。(16:5)
こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った。(19:20)
第4区分は、パウロとバルナバがシリアのアンテオケ教会から最初の宣教師として派遣される経緯の説明から始まっている(13:1−3)。この伝道旅行にはマルコ・ヨハネも同伴した。
一行は船でキプロス島のサラミスに渡る。キプロスはバルナバの郷里であった。サラミスからパポスへ移動するが、パポスで偽預言者バルイエスに出会う。ここでバルイエスの友人であった総督が信仰に入る。(13:4−12)
一行は船でパポスから船出して、地中海北岸へ渡り、パンフリヤのぺルガへ行く。ここでヨハネは一行を離れ、エルサレムに帰る(13:13)。
一行はベルガから北上してピシデヤのアンテオケに行く。パウロはユダヤ人と異邦人に会堂で福音を語ったが、ねたみに燃えたユダヤ人たちは敵対心を募らせた(13:14−52)。
一行はイコニオムに移動し、ここで長く滞在した。多くのユダヤ人、異邦人たちが信者となった。ところが彼らを石打にしようという陰謀があることを知った彼らは、ルカオニアの町であるルステラとデルべ付近の地方に難を避け、そこで福音宣教を続けた(14:1−7)。
ルステラではパウロが足の不自由な人をいやしたことにより、神々としてあがめられ、人々がいけにえをささげようとするのをやっとのことで止めさせた(14:8−18)。その直後、アンテオケとイコニオムから来た敵対者によってパウロは石打にされ、殺されそうになった。群集はパウロが死んだものと思って、町の外に引きずり出した。しかしパウロは、立ち上がって再びルステラの町に入っていった(14:19−20)。
聖書釈義とは、著者の伝えたいことを聖書から聞き出すことを目的とした手続き全般である。
ここで聖書の二重著者性について少し述べておきたい。聖書の二重著者性とは、神のことばそのものである主イエス・キリストの二性一人格、まことの神でありまことの人であるというご性質に基づいている。神の言葉そのものが二重性をもっている故に、書き記された神の言葉である聖書も、神ご自身が著者であり、神の導きを受けた人間が著者であるという二重性を持っているのである。
つまり聖書は、書き記された誤りなき神の言葉であるが、同時に歴史的な人間の言葉でもあると言える。故に、聖書釈義の目指すべきことは、神ご自身と神に導かれた人間が伝えたいと意図した神のことばを、文脈を大切にして聖書テキストから聞き出すことである。文脈には、テキストの前後関係という文脈(literary context)と、テキストの背後にある歴史的な文脈(historical context)とがある。
聖書釈義とは、上記のことを目指して、「そこで何が言われているのか」、「なぜそこで言われているのか」と問いながら、祈りつつ聖書テキストに耳を傾け、文脈の中でテキストを黙想する霊的な作業であると言える。
聖書の無誤性を死守してきた福音派は、当然の帰結として1980年代以降、聖書の福音的解釈のあり方を求め、上記のような釈義に関する課題に真剣に取り組んで来ていると思われる。
そしてこの点で初めて、福音派とエホバの証人の違いが明らかになる。何故なら、エホバの証人も、福音派が死守してきた聖書の無誤性を、同様に主張しているからである。「聖書が誤りない神の言葉である」と言うだけの聖書信仰なら、エホバの証人でも持っている*2。
しかしエホバの証人は、文脈を無視することによって、テキストが語っている神の言葉に耳を傾けず、自分勝手な聖書解釈を行う故に、異端とならざるを得ないのである 。
センテンスフロー作成によるテキストの構造分析、注目すべき単語のワードスタディ等を中心的に行うことによって、そのようなテキストの釈義を試みること。そしてそれらのことを踏まえて私訳を試みることは有益である。
8節の最初に用いられている接続詞Kaiは、8節以降のテキストが7節までの文脈とつながっていることを示している。14章1節から7節には、イコニオムで福音宣教を行っていたパウロとバルナバが、なぜルカオニヤ地方にあるルステラやデルべという町を訪れたのか、その理由が記されている。
それは、彼らを石打にしようと企てている者たちがいた為、難を避け、別の場所で福音宣教を続けるためであった。
6節−7節では、ルカオニアの諸地方一帯での働きを包括して説明している。しかし8節以降では、ルステラという町に焦点が絞られ、ルステラを舞台とした出来事が紙面を割いて語られる。ここで接続詞Kaiは、ルステラという町に焦点を絞る働きをしていると言える。
ルステラは、イコニオムの南約四十キロに位置し、紀元六年、皇帝アウグストによってローマの征服植民地となった町である。ここにもユダヤ人はいたが(使徒16:1)、会堂があったかどうかは分かっていない。
ルステラのあるルカオニア地方の人々は、他の地中海沿岸の諸地方と同じように、普段はギリシャ語を話すことが出来た。しかしもともとは、ルカオニヤ語を話す人々であったようである。
ルステラの町という舞台で、スポットライトを浴びて浮かび上がってくるのは、生まれつき足が不自由な故に、座っていた(直説法未完了過去三人称単数形)一人の男の姿である。
ここで差別用語の問題について考えたい。新改訳聖書改訂第二版では、14章8節を以下のように訳していた。
ルステラでのことであるが、ある足のきかない人がすわっていた。彼は生まれながらの足なえで、歩いたことがなかった。(新改訳改訂第二版)
最近出版された新改訳改訂第三版(http://www.wlpm.or.jp/seisyo/において、変更された個所と内容を知ることが出来る)では、以下のように訳されている。
…ある足のきかない人がすわっていた。彼は生まれつき足のなえた人で、歩いたことがなかった。(新改訳改訂第三版)
改訂第三版では、「足のきかない人」という表現がそのまま用いられており、「足なえ」という言葉が「足のなえた人」と改訳されただけで、同じ響きを残していると思われる。
新共同訳においては、以下のように訳されていて、差別用語の持つ響きはほとんど残っていないと思われる。
リストラに、足の不自由な男が座っていた。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった。(新共同訳)
また、8節で用いられているウーデポーテは、「決して、一度も」と訳すことが出来る強い否定の言葉である。使徒の働きでは、ここ以外では、10章14節と11章8節でそれぞれ1回づつしか用いられていない。これらはいずれも、ペテロが「まだ一度も」きよくない物や汚れた物を食べていないということを主に訴える際に用いられている。
同じルカが書いたルカ福音書では、15章29節において、2回重ねて用いられている。ここでの用例は、あの放蕩息子の兄が、放蕩息子の帰郷を大喜びで迎えて祝宴を開いている父に対して、自分は戒めを破ったことが「一度も」ないこと、そして自分には子山羊一匹でさえ「一度も」与えられていないことを強く訴える際に用いられている。
上記のことを踏まえた私訳を、以下に記す。
14:8さて、ルステラという所で、ある足の不自由な男が座っていた。彼は生まれながら両足を動かすことが出来ず、一度も歩いたことがなかった。(私訳)
ここで注目したいのはtou+不定法の用例で、新改訳では「いやされる信仰」、新共同訳では「いやされるのにふさわしい信仰」、口語訳では「いやされるほどの信仰」と訳されている。私訳では、以下のように「いやしをもたらす信仰」とした。
14:9この男が、パウロの話していることにじっと耳を傾けていた。パウロは彼に注目し、 彼がいやしをもたらす信仰を持っているのを見て取って、(私訳)
メガーレ フォーネーという表現は、メガフォンの語源と言えるような表現である。
以下に私訳を記す。
14:10大声で言った。「あなたのその足で、まっすぐに立ち上がりなさい!」。すると彼は、勢いよく立ち上がり、そして歩き出した。(私訳)
ルカオニア地方には、以下のような神話が言い伝えられているらしい。
『昔、ゼウス神とヘルメス神が変装し、お忍びでこの地上に来られた。ところが、神々をもてなそうとする人は、どこにもいなかった。最後に、ピレモンとその妻バウキスという二人の老夫婦が神々を招き入れて、もてなした。この結果、ピレモンとバウキスを除くすべての住民は、神々にぬぐい去られてしまった。二人の老夫婦は、すばらしい王宮の門守となり、死んでからは二本の大きな木に変えられた』*3
このような神話を伝え聞いていたルステラの人々は、パウロが足のきかない男をいやすのを見て、今度こそ同じ過ちを犯さず、神々をふたたび粗末にすることはしまいと決意したのかもしれない。
14:11パウロが行ったことを見た人々は声を張り上げ、ルカオニヤ語で、「神々が人間の姿をとって、私たちのところに下って来られた。」と言った。(私訳)
「ゼウス」はギリシャの万神殿の主神であり、ヘルメスはマイアの生んだゼウスの子で、神々の使者であった。*4
14:12そして彼らは、バルナバをゼウス、パウロをヘルメスと呼んだ。パウロが主に言葉の人であったからである。(私訳)
14:13さらに、町の前にいるゼウス神の祭司が、雄牛数頭と花飾りを、群衆といっしょに門に携えて来て、いけにえをささげることを願った。(私訳)
ユダヤ人は、神に対して恐れを抱いたり、がまんならないことが起こった時、また深い悲しみの時に、衣を裂いてその感情を表したようである。衣を裂くという行動は、異邦人に対してもインパクトがあったはずである。
14:14しかし、これを聞いた時、使徒たち、バルナバとパウロは、彼らの衣を引き裂いて群衆の中に駆け込み、叫びながら、(私訳)
ルステラにおいて語られたメッセージは、パウロが聖書の背景を持たないルステラの異邦人たちに証しをしている故に、特に注目すべきである。
パウロはまず、自分たちがルステラの人々とまったく同じ人間であることを強調している。そして、まことの生ける神以外のものを拝むことのむなしさについて触れ、自分たちは、あなたがたがそのようなむなしいことから、生ける神に立ちかえるために、福音を宣べ伝えている者たちであると証言している。そして、生ける神とは、この天と地と海と、その中にあるすべてのものをお造りになった創造主であることを証言している。
14:15言った。「皆さん。どうしてこんなことを、あなたがたはするのですか。私たちは、あなたがたとまったく同じ人間です。私たちは、あなたたがに福音を宣べ伝えている者たちです。このようなむなしいことから、生ける神に立ち返るように。生ける神とは、この天と地と海と、その中にあるすべてのものをお造りになった方です。(私訳)
エイアセンはエアオーの直説法アオリスト能動態三人称単数の形である。エアオーは、「許す」、「許可する」、「行かせる」というような意味の言葉である。
このエアオーという言葉は、新約聖書に11回用いられているが、その内の9回がルカ文章の中で使われている。使徒の働きの中で最も多用されている故に、エアオーをキーワードとして注目したい。
以下に使徒の働きにおける14章16節以外での用例を列挙する。
16:7 こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。
19:30 パウロは、その集団の中にはいって行こうとしたが、弟子たちがそうさせなかった。
23:32 翌日、騎兵たちにパウロの護送を任せて、兵営に帰った。
27:32 そこで兵士たちは、小舟の綱を断ち切って、そのまま流れ去るのに任せた。
27:40 錨を切って海に捨て、同時にかじ綱を解き、風に前の帆を上げて、砂浜に向かって進んで行った。
28:4 島の人々は、この生き物がパウロの手から下がっているのを見て、「この人はきっと人殺しだ。海からはのがれたが、正義の女神はこの人を生かしてはおかないのだ。」と互いに話し合った。
エアオーの主語は、ある時は御霊なる神であり、ある時はパウロの弟子たちである。そして、小舟の綱を断ち切って流されるままにすること、錨を切って海に投げ込むこと。これがエアオーという言葉によって描かれている行動である。
このようなエアオーの用例は、日常生活において起こってくるすべてのことは、神がお許しになった結果として、あるいは神がお許しにならなかった結果として生じているのだという真理を物語っている。
ルカは、エアオーという言葉を多用することによって、すべてのことの背後に、生ける神の大きな御手があることを伝えている。使徒の働きにおいて、エアオー「許す」は神の主権を表すキーワードである。
そしてここでパウロは、「この生ける神は、過ぎ去った時代には、すべての国の人々がそれぞれの道を歩むことを許しておられた(エアオー)」と語っている。
上記のことを踏まえた私訳を以下に記す。
14:16この生ける神は、過ぎ去った時代には、すべての国の人々がそれぞれの道を歩むことを 許しておられました。(私訳)
ハマルテュロンはハマルテュロスの対格男性単数形で、新約聖書中唯一の用例がここである。この言葉は、ハという接頭語がマルテュロス(マルテュースの属格男性単数形「証人」の意)という言葉に付けられた合成語である。
接頭語のハは連結や強調の意味でも用いられるが、ハマルテュロスの場合は否定の意味で用いられている。従ってこの言葉は、「証人がいない」、「証言がない」、「あかしがない」といった意味の形容詞である。
新約聖書においてマルテュースは全部で35回用いられているが、そのうちの13回は使徒の働きにおいてである。後の用例は、黙示録で5回用いられている以外は各書において1回か2回しか用いられていない。新約聖書全体から見るならば、マルテュース「証人」という言葉も、使徒の働きのキーワードであると言える。
興味深いことは、「証人がいない」という意味のハマルテュロスという言葉が、「罪」を意味するハマルティアという言葉と、非常によく似ているという事である。ハマルテュロスとハマルティア。最初の5文字はまったく同じ綴りになっている。
それぞれの言葉の意味を考えながら、両者の関係を考察したい。ハマルティアという言葉が表現している罪とは、「的外れ」ということである。「的外れなこと」をするのが罪だと聖書は証言している。ところが、「的外れなこと」をしないためには、的を指し示すものがどうしても必要となる。
私たちの人生においても、もし的を指し示すものがなければ、どんなに熱心に、また真剣に生きようとしても、ルステラの人々がそうであったように、的を外したむなしい人生を送ることしかできない。
「罪」という言葉と「証言がない」という言葉が似ている理由。それは、証言がなければ、的外れな罪を犯してしまうという関係がある故ではないかと私は結論付ける。
パウロとバルナバは、生ける神以外のものを神として拝むことがむなしく的外れであること、そして、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神こそが、礼拝を捧げるべき方であり、この生けるまことの神に立ち返り、この方を拝み、この方に感謝を捧げることが的を射た生き方であることを必死になって訴えた。
アフェーケンという動詞は、アフィーミーの直説法アオリスト三人称単数形である。アフィーミーは、「放任する」、「見過ごしにする」、「大目に見る」、「許す」、「赦す」、「去る」、「放っておく」、「捨てておく」、「そのままにしておく」といった多様な意味を持つ言葉である。ここで私は、これらの意味を考慮しつつ、文脈からこの言葉を、「なすがままにしておられた」と訳した。
カルポフォリュースという言葉は、新約聖書中ここでしか用いられていないが、カルポス(果実)という言葉とフェロー(結ぶ)という言葉の合成語で、結実を意味する言葉である。カイロスと共に用いられているので、私訳では「収穫の時」とした。
エンピプローンはエンピプレーミーの分詞で、現在能動態、主格、男性、単数形である。この言葉の訳し方には幅があるので、いくつかの聖書翻訳を比較してみたい。
14:17とはいえ、ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです。」(新改訳)
エンピプローンは、新改訳聖書では「心を満たしてくださったのです」と過去形で訳されている。
14:17しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」(新共同訳)
新共同訳は「喜びで満たしてくださっているのです」と現在形で訳している。
14:17それでも、ご自分のことをあかししないでおられたわけではない。すなわち、あなたがたのために天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たすなど、いろいろのめぐみをお与えになっているのである」。(口語訳)
口語訳では上記のようになっており、エンピプローンを「あなたがたの心を満たすなど」と訳し、代わりにディドース(ディドミーの分詞。現在能動態主格男性単数形)を主動詞として「いろいろのめぐみをお与えになっているのである」と訳している。
センテンスフローでは、アガサルゴーン(この言葉は使徒14:17節と1テモテ6:18節でしか使われていない)、ディドミー、エンピプローンという3つの動詞がいずれも現在分詞、能動態、主格、男性単数形であり、同じように生ける神のあかしの働きを述べていることから、並記した。
旧約聖書の背景を持たないルステラの異邦人たちに証しをする際、パウロは、良いことをなして下さっており、天からあなたがたに雨と収穫の季節を与えて下さっており、食物と喜びであなたがたの心を満たしてくださっている生ける神を証ししている。
なお、ギリシャ語テキストでは、「あなたがたに」、「あなたがたの」という2人称複数形が用いられて証しがなされているが、英語の翻訳聖書においては、「私たちに」、「私たちの」と1人称複数で訳されているものもいくつかあるので以下に示す。
Nevertheless he left not himself without witness, in that he did good, and gave us rain from heaven, and fruitful seasons, filling our hearts with food and gladness. King James Version(KJV)
"Nevertheless He did not leave Himself without witness, in that He did good, gave us rain from heaven and fruitful seasons, filling our hearts with food and gladness." The New King James Version(NKJ)
Nevertheless he left not himself without witness, in that he did good, and gave us rain from heaven, and fruitful seasons, filling our hearts with food and gladness. The English Noah Webster Bible(WEB)
上記のことを踏まえた私訳を、以下に記す。
14:17とはいえ生ける神は、ご自身のことをあかししないで、なすがままにしておられたのではありません。すなわち、良いことをなして下さっており、天からあなたがたに雨と収穫の季節を与えて下さっており、食物と喜びであなたがたの心を満たしてくださっているのです。(私訳)
モーリスという言葉は、使徒の働きにおいては、14章のこの個所で1回、そして27章で3回用いられている。27章での用例は、船旅での困難を表現する言葉として、「ようやくのことで」(6節、16節)、「ようやく」(7節)、とそれぞれ訳されている。私訳では、困難な状況を乗り切った時の心情を表現するより一般的な言葉、「やっとのことで」を用いた。口語訳聖書も同様に訳している。
上記のことを踏まえた私訳を以下に記す。
14:18このような言葉によって、パウロとバルナバは、人々が彼らにいけにえをささげようとするのを、やっとのことでやめさせた。(私訳)
新約聖書ギリシャ語学者であるスタンリー・E・ポーターは、アオリスト時制の動詞は背景を描くために、現在時制の動詞は前景を描くために、そして完了時制の動詞は前線を描くために用いられると論じている。そしてポーターは、アオリスト時制の動詞を完了的アスペクト、現在時制の動詞を未完了的アスペクト、完了時制の動詞を静的アスペクトと呼び、上述のような動詞のアスペクト論を展開している。 *5
このことを考慮しながら14章8節以降のテキストを概観したい。但しミー活用動詞はすべて、上記のようなアスペクト体系に参与していないのでここでは特に取り上げない。
現在時制の動詞は、以下のような進行形の行動を語るのに用いられている。
男が座っている姿、パウロが福音を語っている様子、座っていた男が内に信仰を持っていたこと、いやされた男が歩き出した状態、群集が声を上げてゼウスヘルメスだと叫ぶ様子、いけにえを捧げたいと願う行動、使徒たちが群集に対して必死になって叫び語る様子、福音を語り立ち返らせようとする働き、生きておられる神、それぞれ自分の道を歩む状態、恵みの良き御業をなさっておられる神、雨を与えて下さる神、食物と喜びで満たして下さる神、必死に訴えたこと、群集がいけにえを捧げないようになったこと。
また、アオリスト時制で語られていることは以下のような完結した無差別な行動である。
男が一度も歩いたことがなかった状態、パウロのメッセージに耳を傾けていた男の姿、男を見て男の信仰を見抜いたパウロの眼差し、いやされることの出来る信仰、大声で立ちなさいと語ったパウロの様子、飛び上がった男の姿、パウロのしたことを見て声を上げた群集の姿、神々が人間のようになられ、降りて来られたこと、門の前にいた祭司、雄牛と花輪を携えて来た人々の姿、事情を聞いて服を裂き、駆け込んだ使徒たちの姿、万物を創造なさった神、それぞれの道を許しておられた神、あかししないでおられたのではない神、おろかなことをやめさせることが出来た状態。
これらの用例を見ると、現在時制の動詞で語られていることは、動きが進行中である故に、背景から浮き出た前景となっているように思われる。また、アオリスト時制の動詞で語られていることは、過去の動きとなっている故に、背景となっているように思われる。
なお、使徒14章8−18節の中では、時代が「過ぎ去った」パロケメナイス(パロイコマイの分詞完了、中または受動態、デポネンティア、与格女性複数形)ということを語る動詞だけが、完了時制で語られている。完了時制は静的アスペクトとして、ギリシャ語時制形の中で意味論上の荷重を一番担っている。
ここでは「時代」が「過ぎ去った」ものとして完了時制で表現されている。この動詞アスペクトが表現していることをもたらした要因は、キリストの来臨であると考えられる。
キリストの来臨は、今から2000年ほど前に起こった出来事であるが、西暦はその時を境に、新しく年月を数え始めた。そしてそれ以前の歴史は、キリストが来られる前の歴史(Before Christ)と呼ばれるようになった。つまり、キリストが来られたことによって、キリストが来られる前の時代が、「過ぎ去った時代」となったのである。その時、全世界の歴史が大きく動いたのである。そのような世界の歴史をひっくり返すような動きを描くために、完了時制が用いられ、静的アスペクトが選ばれているものと考えられる。
まとめとして、使徒の働き14章8節から18節の私訳を以下に記す。
私訳
14:8さて、ルステラという所で、ある足の不自由な男が座っていた。彼は生まれながら両足を動かすことが出来ず、一度も歩いたことがなかった。
14:9この男が、パウロの話していることにじっと耳を傾けていた。パウロは彼に注目し、彼がいやしをもたらす信仰を持っているのを見て取って、
14:10大声で言った。「あなたのその足で、まっすぐに立ち上がりなさい!」。すると彼は、勢いよく立ち上がり、そして歩き出した。
14:11パウロが行ったことを見た人々は声を張り上げ、ルカオニヤ語で、「神々が人間の姿をとって、私たちのところに下って来られた。」と言った。
14:12そして彼らは、バルナバをゼウス、パウロをヘルメスと呼んだ。パウロが主に言葉の人であったからである。
14:13さらに、町の前にいるゼウス神の祭司が、雄牛数頭と花飾りを、群衆といっしょに門に携えて来て、いけにえをささげることを願った。
14:14しかし、これを聞いた時、使徒たち、バルナバとパウロは、彼らの衣を引き裂いて群衆の中に駆け込み、叫びながら、
14:15言った。「皆さん。どうしてこんなことを、あなたがたはするのですか。私たちは、あなたがたとまったく同じ人間です。私たちは、あなたたがに福音を宣べ伝えている者たちです。このようなむなしいことから、生ける神に立ち返るように。生ける神とは、この天と地と海と、 その中にあるすべてのものをお造りになった方です。
14:16この生ける神は、過ぎ去った時代には、すべての国の人々がそれぞれの道を歩むことを 許しておられました。
14:17とはいえ生ける神は、ご自身のことをあかししないで、なすがままにしておられたのではありません。すなわち、良いことをなして下さっており、天からあなたがたに雨と収穫の季節を与えて下さっており、食物と喜びであなたがたの心を満たしてくださっているのです。
14:18このような言葉によって、パウロとバルナバは、人々が彼らにいけにえをささげようとするのを、やっとのことでやめさせた。
上記の釈義を踏まえて、説教作成の際にポイントとなることを、いくつか記しておきたい。
人間は神から与えられた種を植えることしか出来ない。そして、神が天から、太陽を毎日昇らせ、雨を降らせ、土の栄養分を備え、そして実りをもたらして下さるのである。神は食物を養い育てて下さり、収穫の季節を与えて下さっているのである。食物はすべて人間が作り出しているわけではなく、神が与えて下さっている恵みをあかししているものであると言える。
もし私たちが、生まれつき歩くことが出来なかったとしたら、どんな人生を送るであろうか。 移動するにも、手を使って這うか、他の誰かに助けてもらうしか方法がない人生。這って移動するか、誰かを煩わせなければ動くことも出来ない苦しい人生。
「こんなことなら生まれてこなかったほうがよかった!」、「もういっそ死んだほうがましだ!」、「早く死にたい!」、そんな叫びが、口から出ても不思議ではない人生。自殺したいというような絶望の人生。そのような人生をこの男は生きていたと考えられる。
様々な悩みや苦しみから、自殺者が後を断たないこの時代の日本にあって、このような男の思いは、多くの人々が共鳴できる響きを持っていると考えられる。*6
福音のメッセージが語られる時、そのメッセージに耳を傾ける者の内に信仰が与えられる。「イエス様だったら、私の人生を変えてくれるかもしれない」、「イエス様だったら、私のこの動かない足を癒して、歩けるようにして下さるはずだ!」。
語られたいのちのことばが、冷え切っていた彼の心を暖かく溶かし、そのような信仰を芽生えさせたと考えられる。
もしエホバの証人が主張しているように、「主イエスは最も偉大な人間であったけれども、神ではなかった」とすれば、当然主イエスは、人々が神として拝もうとした時、パウロとバルナバがルステラで行ったように衣を裂き、「私はあなた方と同じ人間です」と言って、それを止めさせたはずであろう。
しかし主イエスは、そのような時、礼拝をお受けになったことを、聖書は随所に記録している。そのような主イエスの態度は、主イエスの神性を明確に主張している。
まことの神ご自身が、私たちと同じ肉体をもった人間となられて、この地上に降りて来られた。これはかつてルカオニア地方にあったような神話でも、あるいは現代の日本にある様々な神話でもない。うそ偽りの話ではなく、生けるまことの神が、本当にこの地上に降りて来られた。
世界で最初のクリスマスは、今から2000年ほど前のことであった。その時、全世界の歴史が大きく動いたのである。西暦はその時を境に、新しく年月を数え始めた。そしてそれ以前の歴史は、キリストが来られる前の歴史と呼ばれるようになり、キリストが来られる前の時代は、実に「過ぎ去った時代」となった。
何故なら、まことの神ご自身が、私たちと同じ肉体をもった人間となられて、この地上に降りて来られたからである。それは、神がご自分のことをはっきりと証言するためであった。的を射た人生、人間が人間として歩むべき道をはっきりとあかしするために、神ご自身が降りて来て下さった故に、それまでの時代は過ぎ去ったのである。
「証しをする者」がいなければ、「的外れな罪」を犯してしまう。そして、生ける神を証しすることは、教会にしか出来ない働きである。そして、生ける神を証しする人がいなければ、人々は的外れな罪を犯し続けて滅ぶ以外にない。私たちが先に救われた目的と使命がそこにある。
「教会の働きとしての証し」
聖書個所:使徒の働き14章8−18節
http://shinrinomachi.at.infoseek.co.jp/churchmission.html
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