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「罪人の的外れな祈り」は、主の祈りと正反対の祈りです。 このような祈りをしないように、いつも自らの心を点検しましょう!
主の祈り=神中心の祈り=的を射た祈り=義人の祈り=罪人にとっては不自然な祈り=神の国とその義とをまず第一に求める祈り
自己中心の祈り=的外れな祈り=罪人の祈り=罪人にとっては自然な祈り=自分の国と自分の義とをまず第一に求める祈り
私の名前があがめられますように。
私を中心とした私の国が来ますように。
私が心の中に思い描き、願っていることが、実現しますように。
私は、自分の力と知恵によって、今日も糧を得よう。
だれでも私に罪を犯すものがあるなら、決してその者を赦さないで、報復をしよう。
わたしは自分の力で、試みと悪から自分を救い出そう。
国と力と栄え、世界に満ちるものはすべて、わたしのものだ。
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10:38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、 マルタという女が喜んで家にお迎えした。 10:39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。 10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。 「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。 私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」 10:41 主は答えて言われた。 「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。 10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。 マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」
昨年の8月、私は、「いつくしみ深い神の献身」と題して、良きサマリア人のたとえと呼ばれている聖書の箇所からメッセージさせて頂きました。今日は、あの良きサマリア人のたとえのすぐ後に書かれているみことばに、ご一緒に耳を傾けたいと思っています。 今日、メッセージの題を「人生の中でどうしても必要なこと」とつけました。それは、今日の聖書の箇所が、人生の中でどうしても必要なことについて語っているからです。 先程司会者の方に読んで頂きましたが、もう一度ルカ10章38節を見てください。
10:38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、 マルタという女が喜んで家にお迎えした。… イエス様は弟子を連れて、エルサレムに向かって、つまり十字架の死と復活に向かって旅をされていました。その旅の途中で、イエス様の一行はある村に入られました。登場人物の名前を見ると、この村はベタニヤと呼ばれる村であったと思われます。そのベタニヤ村にイエス様が入られると、マルタという女が、喜んで自分の家にイエス様をお迎えしました。そこから今日の場面は始まります。
続く39節を見てください。とても簡潔な文章ですが、マルタがイエス様を喜んで家にお迎えした後の、その家の中での情景が、いきいきと描かれています。
10:39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
マルタにはマリヤという名前の妹がいました。妹マリヤの姿を思い描きながら、もう一度39節を見てください。「彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。」 妹のマリヤは、主イエスの足もとにすわって、じっとみことば、つまりイエス様のことばに聞き入っていました。静かに、一心に耳を傾けて、マリヤはイエス様の声に聞き入っていたのです。
一方、お姉さんであったマルタは、どのようにしていたのでしょうか?そのことは40節に記されています。
10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。 「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。 私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
静かにイエス様のことばに聞き入る妹マリヤとはまったく対照的に、お姉さんであったマルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、忙しく動き回っていたようです。 マルタは、最初は喜んでイエス様をお迎えし、一生懸命におもてなしをしようとしました。けれども、何もしない妹を横目に見ながら、忙しく動いているうちに、だんだんといらいらとしてきたようです。そしてふつふつと湧き上がってきたその怒りを、マルタはついにイエス様に対してぶつけます。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
おそらくマルタの心の中には、「なぜあの妹は私を手伝わないのかしら?じっと座っててなんとも思わないのかしら?しなきゃいけないことを私だけがしているわ。イエス様もイエス様だわ。何を考えておられるのかしら?」というつぶやきがブツブツとあったのではないでしょうか。 最初イエス様をお迎えした時に、マルタの心は喜びに満ちていました。しかし、だんだんと彼女の心は不平不満で満ちていったようです。自分は正しいとして妹とイエス様を裁く思いに支配されていました。
これに対するイエス様の答えは、41節から42節に記されています。
10:41 主は答えて言われた。 「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。 10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。 マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」
イエス様はマルタもマリヤも愛しておられました。けれどもマルタは、じっと座ってイエス様の話に耳を傾けていたマリヤを、非難しました。ですからイエス様は明らかにマリヤをかばっています。イエス様は、「マリヤはどうしても必要な良いことの方を選びました。だから彼女からそれを取り上げてはいけません」と仰って、マリヤをかばっているのです。
忙しく動き回ることと、静かに座って聞き入ること。おもてなしをすることと、じっと相手の話を聞くこと。この二つの振る舞いが、明らかにここで問題になっています。
このベタニヤ村での出来事の前に、イエス様は良きサマリア人のたとえを話されました。強盗に襲われて倒れていた人の、良き隣人になったサマリア人の話です。そして、そのたとえの締め括りとしてイエス様が言われたことは、「あの良きサマリア人のように、あなたも行って同じようにしなさい。」というものでした。
そのすぐ後に、今日読んだこのマルタとマリヤの話が記されてあるのです。そしてマルタは、イエス様のおもてなしをするために、言わば良き隣人となろうとして、忙しく動いたのです。ですからマルタは、「あなたも行って同じようにしなさい。」というイエス様の教えを、実践したといっても過言ではないと思います。
ですから、イエス様は、「旅人のおもてなしをするために忙しく動くことは悪いことだ」などとおっしゃらないように思います。けれども、マルタの訴えに対するイエス様の答えは、「マリヤはあなたよりも正しい」と言っているようにしか聞こえません。 どうしてイエス様は、忙しく動くこととよりも、静かに座って聞き入ることの方がどうしても必要だと言われるのでしょうか?
この疑問は、マルタとマリヤが家にお迎えした旅人、つまりイエス様自身がどなたであるかを考えるときにだけ解決するように思います。旅人がただの人であれば、おもてなしをするために忙しく動く方が、静かに座って旅人の話に聞き入ることよりも優れている場合が、いくらもあるでしょう。
けれども、マルタとマリヤが家にお迎えした旅人、つまりイエス様は、ただの人ではありませんでした。この方は天地万物をお造りになった造り主なる神、全宇宙を御手の中で治めておられる王の王、主の主なる神ご自身であられたからです。 つまり主なる神のみ前にあっては、忙しく動き回ることとよりも静かに座って聞き入ることの方が、おもてなしをすることよりもじっと耳を傾けて聴くことのほうが、どうしても必要な、選ぶべき一つの良いことなのです。
マリヤが主なる神のみ前で選んだ良いこと、神のみ前でどうしても必要な一つのこと。それは、「人となられた主なる神ご自身であるイエス様の足もとにすわって、神のことばに耳を傾ける」ということでした。これは言い換えれば、「神のことばを聞く祈り」だとも言えます。よく祈りとは神と話すことだと言われます。私たちの方から願ったり叫んだりする祈りもありますが、主なる神様からの呼びかけや語りかけに耳を傾けて聴く祈りの方がどうしても必要なことだと言えます。
ガリラヤ湖という湖をご存知でしょうか?聖書の中心舞台であるイスラエルには、いつも新鮮な水が満ち溢れているガリラヤ湖という湖があります。ガリラヤ湖は、山の方から流れてくる水の流れをいつも受けているので、溢れた水をヨルダン川に注ぎ出しています。 私たち人間が神のことばを聞くということは、ちょうどガリラヤ湖が、流れてくる川の流れをいつも受け続けているような状態だと思います。神のことばは、人の心を本当に潤し、安らぎを与え、喜びと生きる希望で満たすのです。
けれども、神のことばを聞かないということは、ガリラヤ湖に例えると、流れてくる川の流れを受けないという状態になることです。しばらくは、たくわえた水を外に注ぎ出すことができるかもしれません。しかし、受けることを止めて流し続ければ、やがて枯れてしまいます。残った水はよどみ、濁り、そして腐っていくでしょう。
受けることを止めて流し続ける。これがマルタの心の状態だったように思います。最初は喜んでイエス様をもてなしていましたが、イエス様のみことばに耳を傾けなかった故に、すぐにその心は枯れてしまいました。熱心そうに忙しく動き回っている姿とは裏腹に、その心には義務感だけがあり、なぜ私だけがこんなことをしなければならないのか?なぜ妹はのほほんと座って手伝わないのか?という不平と不満といらだちで一杯になって、疲れを覚えていたことでしょう。(青年伝道集会を続けられなくなった時の苦い私の証)
そんな心の状態でもてなされ、さらに面と向かって、「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」なんて言われたイエス様は、心休めることなど、できなかったことでしょう。
けれどももし、マルタが、おもてなしのために動いている時でも、時に手を止めて、主がお語りになっていることに耳を傾けたとしたら、たとえ忙しい中にあっても、不平不満で一杯になることはなかったことでしょう。そして、主イエスを喜ぶ思い、主を愛する思いからイエス様に喜んで頂けるおもてなしを、きっとすることができたでしょう。
人生の中でどうしても必要なこと。それは主なる神の私たちに対する呼びかけ、語りかけに耳を傾けることです。今日ここに、疲れを覚えておられる方や、不平や不満、いらだち、また渇きを覚えておられる方がおられるでしょうか。 あなたのすべてをご存知であられる主イエス様は、あなたにも、こう語っておられます。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。 わたしがあなたがたを休ませてあげます。」マタイ 11:28
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、 その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」ヨハネ7:37-38
「…あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。…」
あわれみ深い主なる神様。 私たちはあなたに聞くことを止めてしまえば、すぐに与えるものがなくなる貧しい者でしかありません。 しかし主よ。あなたは私たちの弱さをご存知で、 御声に耳を傾けることが、どうしても必要であることを覚えさせて下さったことを感謝します。 どうかあのガリラヤ湖のように、いつもあなたからのいのちのことばを受け続けることによって、 それぞれの遣わされる場所において、周りを潤す祝福の基として生かしてください。 その時に良き隣人となることができることを信じて感謝します。 感謝して、愛するイエス様のお名前によって祈ります。 アーメン。
2001年 4月22日 主日礼拝式メッセージ(野町 真理)
11:1 さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」 11:2 そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。 11:3 私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。 11:4 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。』」 11:5 また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。 11:6 友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。 11:7 すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』 11:8 あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。 11:9 わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。 11:10 だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。 11:11 あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。 11:12 卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。 11:13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」
前回私は、「人生の中でどうしても必要なこと」と題して、ルカ10章の最後の部分からメッセージさせて頂きました。ベタニヤ村のマルタとマリヤの家に、主イエス様が招かれた時のエピソードを通して、人生の中でどうしても必要なことは、主の足もとに座って聴く祈りである、ということを教えられました。ちょうどガリラヤ湖が、流れてくる川の流れをいつも受け続けているように、私たちが、いのちのことばである主イエス様の声に耳を傾け続けることが、感謝と喜びにあふれて生きる秘訣であることを教えられたのです。
さて今日は、その後に語られているみことばに、続けて耳を傾けていきたいと思っています。今日の箇所では、キリストの弟子の祈りについて、主イエス様ご自身が語られています。キリストの弟子、クリスチャンが何をどのように祈ったらいいのか。それは主イエスに聴く祈りを通してのみ知ることが出来るのです。キリストの弟子の祈り。それは、「主の祈り」と呼ばれている素晴らしい祈りです。
キリスト教会には、主イエス様から受け取った、この「主の祈り」という素晴らしい祈りがあります。これは、「世界で最も素晴らしい祈り」、あるいは「世界を包む祈り」などど言われています。この「主の祈り」は、主イエス様御自身が、この地上での十字架に向かう苦難の歩みにおいて、生涯祈り続けておられた祈りです。主イエス・キリストは私たちの罪のために十字架につけられ、死んで葬られましたが、三日目に死人の内からよみがえられ、天にのぼり、今は全能の父なる神の右に座しておられます。今も、主イエス様は、父なる神の右において、私たちのためにこの「主の祈り」を祈って下さっていると私は確信しています。
主イエス様はその言葉と生き様を通して、私たちに父なる神の大きな愛を明らかにして下さいました。この神の大きな愛を知った全世界のキリスト者は、時間と空間を越えて、イエス様と一緒に2000年間、全世界で「主の祈り」を祈り続けています。
「主の祈り」はマタイの福音書とルカの福音書の中に記されています。以前私は、祈祷会や東田チャペルの水曜礼拝において、マタイの福音書の方から「主の祈り」について語らせていただきました。これからしばらく、私が住吉チャペルでメッセージさせて頂く時には、ルカの福音書の主の祈りに耳を傾けて、ご一緒に考え、深い恵みを味わいたいと思っています。
11章の1節から2節を見てください。
11:1 さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。 「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」 11:2 そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。…
イエス様が、ある所で祈っておられました。聖書を見ると、よくイエス様が祈っておられたということを知ることが出来ますが、今日の聖書の箇所でも、そのことを知ることが出来ます。主イエスが、ある所で、祈っておられました。ここでは、「さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、…」とだけ書かれています。この福音書を書いたルカは、イエス様がどんなふうに祈っておられたのか、そのことについては、まったく触れていません。けれども、ちょっと皆さん、想像してみてください。どんなふうにイエス様は、祈っておられたのでしょうか?
そのイエス様の祈っておられる姿をじっと見ていた弟子のひとりが、祈り終わったイエス様に、「わたしたちにも祈りを教えてください!」とお願いしたぐらいですから、おそらく、本当に父なる神様との生き生きとした、素晴らしい交わりをしておられたのではないかと私は想像します。
私は祈っている時、本当にこの祈りは神様に届いているんだろうか、と思ってしまうことがあります。祈りを独り言のように感じてしまう時があるのです。けれども、イエス様の祈りは、独り言のような祈りではなく、生き生きとした祈りだったと思います。天の窓が開いて、祈りの一つ一つが、確かに天に届いている!そのような手応えのある主イエスの祈りを、弟子たちは肌で感じることができたのでしょう。それ故に、弟子たちは、私たちもあのイエス様のような祈りをしたい!という願いが湧き上がってきて、それが「主よ。わたしたちにも祈りを教えてください!」という言葉になったのだと思います。
さて、主イエス様は、この弟子の願いに答えて、「祈るときには、こう言いなさい。…」と、祈りを教えて下さいました。弟子たちは、イエス様に聴くことによって、何をどう祈ったらいいのかを知ることができたのです。今日の私たちも同じです。聖書に書き記された神のことば、主イエス様に聴く祈りによって、何をどう祈ったらいいのかを知ることができるのです。
主イエス様が教えて下さった「主の祈り」を、通して、主イエス・キリストの弟子が、つまり私たちキリスト者が何をどう祈るべきか、そのことを改めて心に刻んでいきたいと思います。
そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。 『父よ!… 先週父の日がありましたが、イエス様はここで弟子たちに、祈る時にはまず「父よ!」と呼びかけなさいと教えて下さいました。祈りにおいて「父よ!」と呼びかけるお方が、どのような父なのか、そのこともイエス様は教えて下さいました。すこし飛びますが、11節から13節を見て下さい。
11:11 あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。 11:12 卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。 11:13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」
ここでは、私たちが「父よ!」と呼びかけるべきお方が、天の父として紹介されています。このお方は地上の人間としての父ではなく、無条件の愛に満ちた、天におられる、すべてのものの造り主、私たちの造り主なる父なのです。
私たちの地上の父は、神様ではないですから愛において完全ではありません。どんなに立派なお父さんでも、弱さや欠けがあります。地上の父は、自分の期待に応えてくれる者、つまり自分にとってかわいいものだけを愛するということが、どうしてもあります。ですから、2人以上子どもがいたら、その子どもたちを同じように愛することは、地上の父にとって、とても難しいことなのです。 しかし天の父は、すべての人をえこひいきすることなく、全く同じように、等しく愛を注いでおられるお方である。聖書はそう語っています。「天の父は悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるお方である」 とイエス様は仰いましたし、パウロも「神にはえこひいきなどはないからです。」と書いていますから。
また、地上の父にとって、親の期待に応えない者、親のいうことを聞かない者を愛することは非常に難しいのです。ですからあなたが父という言葉を聞いてイメージするお方は、一生懸命頑張って、親の期待に応えないと愛してくれない父、何か父親の気に入るパフォーマンスをしないと、愛してくれない父であるかもしれません。 しかし天の父は、一生懸命頑張って、親の期待に応えないと愛してくれない父ではありません。何か父親の気に入るパフォーマンスをしないと、愛してくれない父でもありません。天の父は、無条件に、あなたを愛しておられる。聖書はそう語っています。ですから私たちキリスト者は、神や人に愛されるためにパフォーマンスをするのではありません。神がまず私たちを愛してくださった故に、自分のためではなく、神と人のためにパフォーマンスをすることのできる者に変えられるのです。父なる神の愛を土台として人生を歩み始める時、すべての人は、自分のために必死になってパフォーマンスすることから解放されるのです。
また、世の中には、暴力的な父、無責任な父、あるいは怠惰な父がいることも確かです。ですからあなたが父という言葉を聞いてイメージするお方は、もしかしたら、暴力的な父、無責任な父、あるいは怠惰な父といった、尊敬することが非常に難しい父のイメージであるかもしれません。 しかし天の父は、理由もなく突然暴力を振るったりするような恐ろしい父では絶対ありません。天の父は、無責任どころか、最後まで責任をとって面倒をみてくださる父です。天の父は、怠惰どころか、まどろむこともなく、眠ることなく私たちのことを見守っていて下さり、守っていてくださるお方であると聖書は語っています。
もう一度、11節、12節を見て下さい。イエス様は、こう言われています。
11:11 あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。 11:12 卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。
けれども、21世紀を迎えた現代の社会で実際に起こっている恐ろしい現実を見ると、子どもがおなかがすいて魚を下さいと言うとき、魚の代わりに蛇、すなわち毒を与えるような父親がいるように私は思えてなりません。卵を下さいと言うのに、さそりを、すなわち毒を与えるような親がいるように思えてならないのです。
毎日のように、悲惨なニュースが私たちの目と耳に飛び込んできます。人のいのちや人格があまりにも軽んじられています。その中で多くの人々が、痛みや悲しみ、不安や恐れ、憎しみ、怒りの中で生きています。
私たち日本人が無意識に使ってしまう表現に、「子どもをつくる」という表現があります。 けれども決して、子どもは両親によってつくられるわけではありません。 世の中には、子どもを切に願っていても与えられない方がたくさんいます。子どもは親がつくろうと思ってつくれるものではないのです。 このことを真剣に理解しないと、子どもをまるで自分の所有物のように思ってしまったり、「あなたは望んでいなかったのに、避妊に失敗して、中絶もしなかったから生れてきたのよ!」 というような言葉を、平気で自分の子どもに浴びせ掛ける、鬼のような親になりかねません!
あまり知られてはいませんが、人工妊娠中絶によって闇に葬られている小さないのちは、日本で年間100万あるいは、300万ともいわれています。3人の赤ちゃんが母の胎に宿ったら、そのうち1人しか生まれ出でることが出来ないのです!産ぶ声をあげることもなく、1日に数千の割合で、赤ちゃんが闇に葬り去られています。出生前DNA検査がこれに拍車をかけています。「お母さんぼくを殺さないで!」…声なき声をあげて小さないのちは泣き叫んでいます…。法律では罰せられませんが、確かに、人命軽視と殺人の罪はここから始まっています。
天地の造り主であり、全能の父なる神様だけが、子どもをつくることができます。そして、あなたがこの世に生れてきて今生かされているということは、決して偶然でも、両親の意思によることでもありません。あなたは、私たちの天の父なる神様が望まれた故に、愛されるために生れて来たのです。
いのちはもちろんですが、性・セックスを与えてくださったのも、私たちの天のお父さんです。 そして、私たちの天の父は、性を2つの目的のために与えてくださいました。 それは、「結婚関係の中で喜び楽しむため」、そして「子どもを預ける手段」です。 性はいのちと深く関わっていて、全人格的なものです。性を結婚関係以外で用いることは、罪であると聖書ははっきり語っています。 なぜなら、不倫、婚前交渉、援助交際、フリーセックスは、自分と自分の家族だけでなく、相手とその家族までも確実に不幸にするからです。結婚関係以外での性を用いることは、信頼を破壊する道であり、無責任な生き方しか出来ない道です。
この世界は、「成人した世界」であると、ボンヘッファーという神学者は言いました。その意味は、人間が神なしで生きていけると思い違いをして、父なる神なしでうまくやっていこうとし、神なしでひとり立ちした世界、そういう意味でボンヘッファーは成人した世界であるということを言いました。
人間が父なる神から離れて、神なしで歩み始めた時、成人したはずの世界に生じたもの、それはまさに未熟さでした。父親が、母親が、自分の子どものいのちさえ軽んじ、子どもを育てることも出来ない未熟さであります。自分さえよければいいとして、自分のことしか考えることができず、他人の痛みや気持ちがまったく理解できない未熟さであります。神なしで歩んでいる故に生じるそれらの未熟さは、今も、いのちを軽んじ、いとも簡単に他人の命を奪ってしまう悲惨へと人間を追い立てているのです。まさに、罪から来る報酬は死であります。
(大阪の小学校で起こった悲惨な小学生殺害事件などを知らされた時などに祈らずにはおれないこと)
天の父なる神よ!あなたは私たちが苦しむ時、どこにおられるのですか?
…わたしはどこか遠くにいる神ではない。あなたが苦しむ時、そこにいて、あなた以上に苦しんでいるのだ。
なぜ、あなたはその全能の御手をもって、暴虐を止められないのですか?
…もしあなたに苦しみや痛み、なやみやむなしさがなければ、あなたはわたしに叫ぶこともなく、わたしに背を向けつづけて、永遠の滅びへとさまよい続けることを、わたしはよく知っているからだ。けれども、どの苦しみも悲惨も、まずわたし自身を通って、私を刺し貫き、それから後、あなたの所に向かうのだ!
聖書は、世界を包む御手を持って、苦しみ痛んでおられる父なる神が、確かにおられることを語っています。 この世界は、父なき世界に見えますが、そうではありません。あなたが苦しむ時、孤独と絶望に打ちひしがれる時、捨て鉢になろうとする時、天の父はそこにおられ、腸がわななくほどの痛みを味わっておられます。そして、あなたが天の父を呼ぶずっと前から、天の父はあなたを呼んでおられます。そして天の父は、私たちの呼びかけるのを聴いていてくださるのです。
そのことを身をもって示し、明らかにして下さったのが、主イエス・キリストです。まさにすべての苦しみと悲惨が、十字架の上のイエス様を刺し貫きました。実にキリストは、あなたの罪のために、十字架の上で、両手両足とわき腹を刺し貫かれたのです。
イエス・キリストはあなたを愛するために造り、あなたにご自分のいのちを与え、永遠のいのちの中にあなたを生かそうとしておられるお方です。もしあなたが、このイエス様のことを受け入れて、「父よ!」と神を呼び求める歩みを始められるなら、次のような約束があります。
『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、 あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』 エレミヤ書 33章3節
主イエス・キリストの父なる神様! 私たちは、あなたなしで自己中心に生きることを選び、死と永遠の滅びへと向かっていました。 しかし主よ。あなたは私たちのために御子イエス様を遣わし、 その大きな愛を十字架によってあらわして下さったことを、心から感謝します。 この世の中は、今もあなたなしで、神なしで生きていけると勘違いをしています。 それゆえに、毎日、悲惨な事件が起こりつづけています。 どうか主よ、新しく始まった一週間、私たちがあなたを父よ!と呼びながら、 イエス様の祈りにあわせて、私たちもこの主の祈りを祈ることを通して、 まだあなたの愛を知らずに滅びに向かっているこの世界と多くの人々のためにとりなすことができますように。 それぞれの遣わされる所において、世の光として輝くことができますように。 地の塩として、腐敗を防ぐことができますように。 祝福の基として、他者のために生きる存在とさせて下さい。 主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン。
2001年 6月24日 主日礼拝式メッセージ (野町 真理)
11:1 さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」 11:2 そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。 11:3 私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。 11:4 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。』」 主題:御名があがめられますようにという祈りは、ただ神の栄光のために生きるための祈りである。
先程ご一緒に主の祈りを祈りましたが、この前から、主イエス・キリストが、その弟子たちに教えて下さった主の祈りに、ご一緒に耳を傾けることを始めました。前回は「父よ!」という素晴らしい呼びかけについてご一緒に恵みを味わいました。今日はその続きになりますが、 「御名があがめられますように!」 という祈りを、ご一緒に味わっていきたいと思っています。
主イエス様が教えて下さった主の祈りでは、「父よ!」という親しい呼びかけのすぐ後に、「御名があがめられますように」という祈りが来ます。御名というのは、父なる神様ご自身のお名前のことです。名前というのは、不思議なもので、その名前で呼ばれる者自身をよくあらわしています。
例えば、イエス様という名前を、心に思い浮かべてみて下さい。このルカの福音書をよく読まれている方なら、あの良きサマリア人のようなお方をすぐに思い浮かべられるかもしれません。傷つけられて倒れている者のそばを、決して通り過ぎることなく、近寄って下さり、時間と労力と心を裂いて、介抱して下さるいつくしみ深いお方。そのようなイエス様のイメージが、その人の心の中に湧き上がって来るかもしれません。
またある方は、イエス様という名前を心に思い浮かべた時、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」という十字架の上で祈られた言葉を思い出すかもしれません。その人はイエス様という名前を聞いたとき、赦す愛に満ち溢れたお方をイメージされるでしょう。
このように、名前というのは、その名前で呼ばれる者自身をよくあらわしているのです。「名は体をあらわす」という言葉があるとおりです。
さてイエス様は、「御名があがめられますように」と祈りなさいと、教えて下さいました。この祈りは、「名は体をあらわす」ということを考えると、「主イエス・キリストの父なる神ご自身があがめられますように」という祈りであることがわかります。あがめられますようにという言葉には、聖なるものとされますようにという意味があります。ですからこの祈りは、神様ご自身が聖なるものとされますようにという祈りです。言い換えればこれは、神様が神様とされますように、神様が神様としてほめたたえられますように、という祈りなのです。
ここで、私が小学生の時の思い出を少しお話したいと思います。ちょうど今のような夏の暑い時で、プールで泳ぐ時でした。一人のクラスメートがふざけて生意気なことをしていた時、担任の先生が怒って、その子にこう言いました。「おまえ何様やとおもっとるんや!?」と。そうしたらすかさずそのクラスメートは「神様!」と答えたのです。その後に起こったことは、…先生のげんこつがその子の頭に飛んだということでした。…これは笑い話ですが、イエス様を信じた今、この話はとても考えさせられることを含んでいると思います。
それは、今日のこの「御名があがめられますように」、「神様が神様とされますように」という祈りと、とても関係しています。最近、駅前や学校の前などで教会の案内を配っていると、「神様か、俺が神様や!」と笑いながら、でもはっきりとそう言い切る高校生に何人か出会いました。でも普通、「私が神様です」なんてはっきりと言い切る人はあまりいません。だからこそ、さっき笑った人がいたんではないでしょうか。でも皆さん、胸に手をあてて、じっくりと考えて見てください。口で「私は神です」とは言わなくても、心の中では、まるで自分が神様であるかのように考えておられないでしょうか?自分は正しいとして、人を裁いたり見下したり、罪に定めたりということを、あなたはなさっておられないでしょうか?あなたは本当に、あなたの造り主なる神を神としてあがめておられるでしょうか?
そう考えると、実は神様を神様としてあがめる、神様を神様としてほめたたえるということは、私たちにとって、普通はしたくないことだということが分かっていただけるのではないかと思います。
聖書を読むと、実はこの神様を神様としてあがめたくないというところに、人間の罪と呼ばれるものがあるということが書かれています。
私たち人間にとって、最も強い誘惑とは何でしょうか?それは、自分が他の誰よりもあがめられたい、自分が神様のようにほめたたえられたいという思いです。まことの神様よりも、自分をあがめさせたいのです。この思いを一言で言えば、自分が神のようになりたいということです。すべての栄光と賞賛を自分自身が受けたいのです。他の人に「あの人はすごいですね!〜さんは素晴らしいですね。」という言葉を言わせたいのです。
実は、この願いこそが、聖書の語る罪というものと、最も深く結びついている野望なのです。創世記3章を見ますと、最初の人間アダムとエバが、そしてすべての人が犯してしまった罪のことが、書かれています。初めに神が天と地を創造された時、造り主なる神がお造りになったものはすべて非常に良きものでした。主なる神はエデンの園(喜びの園という意味)を人間のために設けて下さいました。人間が人間として喜びに溢れて生きていくために必要なものすべてを、造り主なる神は用意してくださったのです。そしてその後、創造の冠として神のかたちに似せて造って下さった人間を置いて下さったのです。
主なる神は喜びの園に、数え切れないほどの数の、実のなる木を植えられました。そして、「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、園の中央にある善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」とおっしゃられたのです。 しかしそこに試みる者であるサタンが、蛇の形をとって現れ、人間をこう誘惑しました。「あなたがたがそれ(善悪の知識の木の実)を食べるその時、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」と。皆さん、この、「あなたがたが善悪の知識の木の実を食べるなら、神のようになれるんですよ」という言葉こそが、人間にとって、自分が神のようになりたいという野望をくすぐる最も強い誘惑だったのです。
善悪の木の実を取って食べないという生き方は、造り主なる神を善悪の規準とする生き方でした。つまりそれこそが、神を神とし、御名をあがめる生き方だったのです。しかし、善悪の木の実を取って食べるという生き方は、造り主なる神を善悪の基準とする生き方ではなく、自らを善悪の基準として生きるということだったのです。つまり、善悪の木の実を取って食べる生き方こそ、神を神とせず、自らを神の座に置いて、自分の名前があがめられますようにと願いつつ生きる道だったのです。
この誘惑は、私共がたとえキリストを信じ、キリスト者になっていたとしても、同じように最も強い誘惑であることには変わりありません。たとえ牧師や伝道師であっても、最も強い誘惑には変わりないのです。キリスト者であっても、人間的に目に見えるような形で成功すればするほど、用いられれば用いられるほど、この誘惑は激しく襲って来るのです。
人間の心の一番深い所から、密かに頭をもたげてくる願望は、「自分の名前が、自分自身があがめられますように」という願いである。そう言っても決して過言ではないのです。自分の心の王座からまことの神を追い出し、代りに自分自身が王座に座り、自分を神として自己中心に生きること!これこそが、聖書の語る本物の罪なのです。
いのち、健康、能力、仕事、結婚相手、子供、食べ物、着る者、住む所。数え上げたらきりがありませんが、どれ一つとして、神から与えられたものでないものはありません。けれども、これらすべてのものを、あたかも自分で勝ち得たかのように、神を無視し、感謝もせずに生きる者はすべて、聖書が語っている罪人なのです。この人は他人はもちろん、神様でさえも、自分のために利用します。まるで自分の召使であるかのように。
こう考えてくると、主の祈りの内容は、その一番最初から、人間が自分からは決して願わない祈りであるということが分かってきます。
大学時代、研究室の指導教官がよく口にしていた言葉。「君は何が見たくて、何のためにその研究をやっているの?」指導教官の言いたかったことは、具体的で明確な目標を持って研究をしなければ、いい研究など出来ないよ。ということだった。
私は、指導教官が「君は何が見たくて、何のためにその研究をやっているの?」と問われる度に、このように主に心を探られているように思えてならなかった。「おまえは自分の栄光のためにそれをするのか?それとも、私の栄光のためにそれをするのか?」と…。
能力主義、結果主義、実力主義の現代社会における強烈な圧力の中での2つの生き方
1、神に頼るほど自分は弱くない。己こそ己の寄る辺と言い切って生きる 必死になって自分を磨き、学歴をつけ、資格をとり、はくをつける。
必死になって人前でパフォーマンスをし、自分を自分で推薦する生き方。自分で自分を売り込む生き方。
劣等感と優越感の狭間でレッテルを貼りあう生き方。人の目の奴隷。
すべては自分のためにパフォーマンスをする空しい生き方。その土台とするものは自分の能力。
2、神に頼らなければ自分は生きていけないと自分に絶望し、神こそ我が寄る辺と言い切って生きる 自分の弱さ、貧しさ、みにくさ、欠け、マイナス、空手であることを認め、
必死になって神に依りすがり、十字架を見上げ、神の愛の中で憩う。
すべては神のためにパフォーマンスをする喜びと感謝に溢れた生き方。その土台とするものは神の愛。
神の栄光と恵みは弱さのうちに最も輝く!
しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。 2コリント12:9−10
この主の祈りは、人間が本当に人間として生きるためにどうしても必要な祈りなのです。何を生活の中心として置くかで、その人の人生は決まります。私たちが、心からの安らぎと充実感、感謝と喜びに満ち溢れた人間として、永遠のいのちに生きるために必要なこと。それは、私たちの罪のために十字架の上でいのちを投げ出して下さり、3日目の朝に復活され、今も生きておられるイエス様を、心の王座にお迎えし、この主の祈りを自分の祈りとして日々祈る生活をすることです。
私たちの天の父よ! 私たちの心の中で、まずあなたの御名があがめられますように。 私たちの歩みを通して、私たちの名前ではなく、ただあなたの御名だけが、高らかにほめたたえられますように。 天のお父様。この国であなたの御名がほめたたえられますように。 主イエス・キリストのお名前によって、祈ります。 アーメン。
2001年 8月5日 主日礼拝式メッセージ (野町 真理)
さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。 御名があがめられますように。御国が来ますように。私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。』」
少し前から私は、ルカの福音書を順番に読み、そこから聴き取ったメッセージを語らせて頂いています。良きサマリア人のたとえから始めて、ベタニヤ村のマルタとマリアの話、そして主の祈りについて、祈りつつ耳を澄まし、主イエスのメッセージを聴き取ろうとして来ました。 主の祈りは、イエス・キリストの弟子の生き方において、とても大切な祈りです。ですから主の祈りは、何回かに分けて語らせて頂こうと思い、「キリストの弟子の祈り」というシリーズタイトルを付けました。まず最初は?として、「父よ!」という呼びかけについて語りました。そして前回は、?として「御名があがめられますように!」という祈りについて語りました。そして今日は、「キリストの弟子の祈り?」として、「御国が来ますように!」という祈りについて、語らせて頂きたいと思っています。
ルカの福音書に限らず、聖書の文脈、文の流れはとてもよく考え抜かれています。例えば、ルカの福音書では、あのベタニヤのマルタとマリアの話の後に、この主の祈りが記されています。 私はこのルカの福音書を読みながら、こんなことを考えました。「どうして、この福音書を書き記したルカは、あるいはルカを導かれた聖霊なる神様は、あのマルタとマリアの話のすぐ後に、主の祈りを記したんだろうか?」「どうしてあの記事の後に、この記事があるのか?」
このような疑問を持って聖書を読むと、自分に都合のいい聖書の読み方から守られます。私たちは自分の願いや先入観を持って聖書を読みます。それはどうしても避けられないことです。なぜなら、頭を白紙にして、真っ白の状態で聖書を読むということは、実際には無理だからです。 けれども、文脈、文の流れを大切にしないと、自分の目にとまった一節のみことばだけを取り出してきて、「ああ、神様はやはり私にこのことを願っておられるのだ。」というようなことをしてしまう危険があります。私たちは、聖書の中に自分の願いや自分にとって都合のいい考えを読み込んでしまいたいからです。
「どうしてあの記事の後に、この記事が記されているのか?」そんなふうに問いかけながら、文章の前後関係を大切にして、聖書のことばに耳を傾ける。そうすることは、自分の願いや勝手な思い込みではなく、著者が、そして著者を導かれた神様がそこで何をお語りたいのかを聴き取るために、とても助けになる読み方なのです。
マルタとマリアの話のすぐ後に、この主の祈りの記事を記されています。ここに主がお語りになっているメッセージがあります。それは、キリストの弟子が本当に祈るべきこと、キリストの弟子が本当に願うべきことは何かということです。
私たちはキリスト者であっても、自分の願いを一方的に祈り、「神様、 あれして下さい、これしてください。お願いします。」というような祈りをしてしまいやすいように思います。ちょうどあのベタニヤのマルタ姉さんのように。また、うっかりすると、「自分があがめられますように」といった、結局自分の栄光のために神様を利用してしまうような祈りをしてしまいやすいものです。
私たちがキリストの弟子として、本当に祈り願うべきことを知るにはどうしたらいいのでしょうか?その答えは、主イエスのことばに耳を傾けて、主イエスに聞く祈りをするということです。つまり、私たちがあのベタニヤのマリアさんのように、静かに主に聴く祈りをするなら、何をどう願ったらいいのかを知り、みこころにかなった祈りをしていくことができる。そんなことを主は、教えて下さっているのではないでしょうか。
主イエスが祈り終えた時、あの弟子の一人は、「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」 と、主イエスの御許に来てお願いしました。そしてその後、弟子は主のことばに真剣に耳を傾けたのです。それ故に、あの弟子は、この主の祈りと呼ばれる素晴らしい祈りをイエス様から教えて頂くことが出来たのです。この主の祈りの中には、キリストの弟子が本当に祈り願うべきことが、簡潔にしかも美しくまとめられています。
イエス様に尋ね、そしてイエス様のことばに耳を傾ける。これを実践したのが、あの主イエスに尋ね聞いた弟子でした。今私たちには、日本語に翻訳された聖書があります。そしてこの聖書には、主イエスにどう祈ったら良いのかを訪ねたあの弟子と、それに答えて祈りを教えて下さった主との対話が記録されているのです。この聖書のことばに静かに耳を傾けることを通して、私たちも、何をどう願ったらいいのかをはっきりと知ることができるのです。
主イエス様が、「祈るときには、こう言いなさい。」と教えて下さったキリストの弟子の祈りから、今日は「御国が来ますように。」 という祈りを、ご一緒に味わっていきましょう。あるユダヤ教の教えの中には、「御名と御国について祈らない祈りは祈りではない」というふうに記されているそうですが、この御国を求める祈りは、キリスト教にとっても欠かすことの出来ない、とても大切な祈りです。
11章の2節をもう一度見て下さい。
11:2 そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。 『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。
主イエス様は、30歳になられる頃まではナザレという村で、両親に仕えられながら大工をしておられました(大工といってもイスラエルでは石で家を建てるのでかなりの力仕事だったと思われる)。そして30歳になられた頃、公に宣教活動をなさるようになり、イスラエルの各地を歩き、教えを始められました。それまでのイエス様の生活については、ほとんど聖書に記録されていません。けれども、伝道活動に入られた後のイエス様については、詳しく記録されています。イエス様が伝道活動に入れらた時、まずどのようなメッセージを語られたか、皆さん覚えておられるでしょうか?
ルカの福音書にははっきり記されていませんが、マルコの福音書には「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」というメッセージが記されています。
「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」
御国と神の国とは、まったく同じ意味のことばです。「時が満ち、神の国は近くなった。」という御言葉は、「時が満ち、神の国はもうすでに、ここに近づき到来した。神の国はすでにここに来ている。だから悔い改めて福音を信じなさい」というようにも訳せる、驚くべきメッセージなのです。すでに神の国は近づき、到来した。そうイエス様は宣言されて、神の国の福音を宣べ伝えられたのです。
「神の国はもうすでに来ている」という主イエスの宣言は、この主の祈りのすぐ後にも記されています。それは、ルカの福音書11章の14節から20節の所です。 主イエスは悪霊につかれておしになっていた人から、悪霊を追い出されました。それを見ていた人々はびっくり仰天するとともに、主イエスに対して、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」と言い出すものもいました。その人たちに対して主はこう宣言されたのです。11章20節を見て下さい。
「しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。」。つまり御国、神の国とは、すでに来られた主イエスの、愛による支配のことなのです。そして主イエスは、罪と死とサタンに支配されていた私たちを神の愛の支配のもとに救い出し、死から永遠のいのちに移して下さるまことの救い主、キリストなのです。
あのアメリカで起こった同時多発テロを筆頭に、21世紀を迎えたこの世界には、神の国が私たちのところに来ているとは思えないほどの、悲惨な出来事が後を絶ちません。けれども、現実の只中で、主イエスに対しての信仰がぐらついてしまい、すでに神の国は近づき到来しているということが信じられなくなるような経験したのは、決して現代の私たちだけではありません。
あの主イエスの道備えをしたバプテスマのヨハネが生きていた時代。つまり2000年ほど前、主イエスがこの地上に来られた時代も、まさにそのような希望を持つことが非常に困難な時代でした。バプテスマのヨハネは、主イエスが現れた時には、主イエスを力強く指差して「見よ。世の罪を取り除く神の子羊。(ヨハネ1:29)」、「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。(ヨハネ3:30)」と証ししました。
しかしあのバプテスマのヨハネでさえも、捕らえられて獄の中に入れられていた時、主イエスに対する信仰が揺れ動きました。バプテスマのヨハネが弟子に託して、獄中からイエス様に言い送ったメッセージを聞くと、そのことがよく分かります。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。(マタイ11:3)」とヨハネは主イエスに問うたのです。 そしてヨハネのところから来た弟子たちに対して、主イエスはこうお答えになりました。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。(マタイ11:4−6)」と。
目の見えない人が見、足の悪かった人が歩き、らい病人がきよめられ、耳の聞こえなかった人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられる。これらの人たちに共通していることは、社会の片隅に追いやられた人たち、貧しい人たちであるということです。神の国は、そのような孤独と絶望の中に住んでいた人たちの所に、まず近づき来たったのです。
旧約聖書を見ますと、実は預言者によって、これらのことが将来必ず起こるということが預言されていたことを知ることが出来ます。そして驚くべきことに、これらの約束の一つ一つが、主イエスが来られたことによって、出来事となったのです。まさにこれらの出来事こそ、主によって語られたことは必ず実現するということを証しすると同時に、時が満ちて、神の国が近づき、そしてもうすでに到来している。ということを目に見える形ではっきりと証ししていたのです。
その後バプテスマのヨハネは、ヘロデによって首をはねられて地上の生涯を終えました。しかし主イエスのもとに遣わした弟子たちの報告によって、信仰が強められ、獄屋も剣も、ヨハネの信仰の炎を消すことは出来なかったことでしょう。
新約聖書の中には、次のようなことが記されています。それは、私たちの主イエスが、エルサレムに向かって旅をされたこと、そして私たちの罪のために十字架につけられて殺され、墓に葬られたこと。しかし3日目に主は復活され、今も生きておられること。そして今、主イエスは天において、神の右の座で私たちのために、この主の祈りを共に祈り、とりなしていて下さっているということです。 これらのことによって新約聖書は、世界で最初のクリスマスに、あのダビデの町でお生まれになった主イエスこそ、まことの救い主、キリストであることを、はっきりと証言しています。
「この天と地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。(マタイ24:35)」と聖書に記されていますが、たとえこの世界がどんな状況になったとしても、私たちがこの聖書のことばに落ち着いて耳を傾けるならば、揺れ動く地にあっても信仰が支えられ、堅く信仰に立って信仰の勝利者になることができるのです。なぜなら、すでに世に勝って下さった主イエスと共に歩むなら、悲しみが尽きないこの世にあっても、日々神の国を味わいながら、生きていくことが出来るからです。
今も主は、「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。(ヨハネ16:33)」 と語っておられます。
さて、これまで、「神の国とは、どんなに現実が絶望的であったとしても、もうすでにそこに到来している主イエスの愛による支配である」、ということを考えて来ました。この、神の国がすでに近づき、私たちの現実の只中に来ているという事実こそ、私たちの希望の土台、信仰の土台であるとも言えるでしょう。
しかしここで改めて考えてみたいことがあります。それは、主イエスが、「御国が来ますように」と祈りなさいと教えてくださっているということです。「御国が来ますように」と祈らなければならないということは、神の国の到来が「もうすでに」であると同時に、「しかしいまだ」であるという事実を意味しています。 ある神学校の先生は、神の国のことを生徒に教える時、神の国には「すでに」という現実と「いまだ」という現実があって、両方ともとても大事なんだということを、いつも強調されたそうです。それで、あまりにも「いまだ。しかしすでに。」ということを口にされたので、生徒から「いまだ、しかしすでに先生」というようなあだ名をつけられたそうです。私たちも、神の国の「すでに」ということに続いて、今度は「いまだ」というもう一つの大切なことを考えてみましょう。
⇒だからこそ主イエスは「御国が来ますように」と教えて下さった
ここでもう一度、主イエスが公生涯に入られた時、まず最初に語られたメッセージを思い出して下さい。
「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」
確かに神の国とは、どんなに現実が絶望的であったとしても、もうすでにそこに到来している主イエスの愛による支配です。しかし主イエスの「神の国は近くなった。だから悔い改めて福音を信じなさい。」というメッセージは、神の国の中に入るためには、悔い改めて福音を信じる必要があることを語っています。
神なしで、自分の力で生きていけると思っている人、神に頼るほど自分は弱くはないと思っている人、神などいてもいなくても自分の人生には関係ないと無関心な人。神を神とせず自己中心に生きている人。そういう人は皆、神に背を向け続けて生きている人です。けれども神に背を向け続けて生きている人は例外なく、いまだ神の国に自分から入ろうとしない人たちです。神に背を向け続けて生きている人は、主イエスの愛を受けようとしない故に、いまだに神の国の外にいるのです。
自分の造り主なる神に背を向け続けて生きている人に対して、主イエスは「わたしの方に向きを変えて、私の愛の中に入りなさい。」とおっしゃっているのです。悔い改めるということは、方向を変えるということを意味しています。
福音、ゴスペルとは何でしょうか?福音とは、主イエス・キリストが私の罪のために十字架で死なれたこと、葬られたこと、3日目によみがえられたことを信じるならば、信じるだけですべての罪が赦され、神を父よと呼ぶことの出来る神の子どもとされ、神の国の中に入れられるという神からの良き知らせのことです。
福音を信じるということはどういうことでしょうか?それは、神に背を向け続けて生きていた人が、イエス・キリストを主として自分の心の中に、自分の人生の中に受け入れるということです。主イエスは言われます。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(黙示録3:20)」と。 もしあなたが自分の心を開いて、「イエス様。私の心の中に入って下さい。そして私の主として、私の人生を導いて下さい。」と祈るなら、主イエスはどんなに罪に汚れている心であっても、その心の中に入って下さり、内側からあなたを新しく創造し、あなたの心を愛によって統べ治めて下さいます。
キリスト者が「御国が来ますように」と祈る時、それはまず第一に、自らの心の王座を主イエスに明け渡し、主イエスを心の王座に主として迎える祈りなのです。キリスト者であっても、自らが主になってしまったり、イエス様以外のものを主としてしまうことがいくらもあります。ここに主の祈りを日毎に祈る必要があります。主イエスを心の王座に迎える時、そこにはすでに到来している神の国、すなわち主イエスの愛による支配があります。
キリスト者が「御国が来ますように」と祈る時、第二にそれは、聖霊なる神様ご自身を求める祈りです。「父よ!」という呼びかけについてのメッセージの時に読みましたが、実はこの主の祈りのすぐ後に、どういうふうにこの主の祈りを祈ったらいいのか、その祈り方が記されてあるのです。 そこには、真夜中に友人の家の扉を執拗に叩き続け、あくまでも頼み続けるなら必ずその求めに答えて下さるというたとえが記され、そして有名な「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(11:9−10)」という約束があります。主の祈りはそのような熱心さを持って、祈りが答えられるまで、約束が完全に出来事となるまで忍耐もって祈るべきだと主は教えて下さっているのです。
そして最後には、求める者に必ず聖霊を与えて下さる父なる神様の約束が、記されてあります。11章13節を見て下さい。
11:13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。 とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」 ここでどうして突然、聖霊を必ず与えて下さるという約束が記されているのでしょうか?それは、聖霊なる神こそ、主の御名があがめられるためにいまも父なる神、子なるキリストと共に全力で働かれ、そしてこの地上において、神の国がいますでにそこに来ているという力強いしるしを行なってくださり、私たちに神の国を体験させて下さるお方だからです。
キリスト者が「御国が来ますように」と祈る時、第三にそれは、神に背を向け続けて生きている故に、いまだ神の国に自分から入ろうとしない人たち、いまだ神の国の外にいる人たちの人生の中に、神の国が来ますようにというとりなしの祈りなのです。すべてのキリスト者は信仰の先輩たちのこのとりなしの祈りによって、神の国に運び入れられているのです。(私の証し:洗礼を受けた後、祈祷会に行って知ったこと。初めて会った人たちが、「野町さん。あなたのために祈っていましたよ!」と喜びながら語って下さった。⇒祈られていた故に、主を信じ、洗礼を受けることが出来たということの実感と感謝!⇒今度は私たちの番。私たちが、いまだ神の国の外にいる家族・親族、友人、求道者の方々のためにとりなすことを切に願っておられる主。)
そしてこれからも、教会の祈りと出て行く宣教の業を通して、御国の福音は全世界のすべての国民にあかしされて行くでしょう。そして、それから終わりの日がくることを聖書は預言しています(マタイ24:14)。収穫は多いのですが、働き人が少ないのです。主イエスは、この御国の福音のために、喜んで働き人になる人を今も求めておられます。それぞれ献身の仕方、仕え方は違います。けれども、あなたも、この福音のために、神の国とその義をまず求めて生きる生涯を歩んで頂きたい。そうイエス様は願っておられます。
キリスト者が「御国が来ますように」と祈る時、第四にそれは、再び来たり給う主イエスを待ち望む祈りでもあります。最後に黙示録22章12節から15節をお読みしたいと思います。
22:12 「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。 22:13 わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」 22:14 自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。 22:15 犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな、外に出される。 黙示録22:12−15
2001年 9月30日 主日礼拝式メッセージ (野町 真理)
さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。 私たちを試みに会わせないでください。』」
少し前から私は、「キリストの弟子の祈り」というシリーズタイトルで、主イエス・キリストが弟子たちに教えて下さった「主の祈り」について語らせて頂いてます。今日もルカの福音書の11章から、続けて主の祈りを味わっていけたらと思っています。
皆さん、ちょっと週報の裏を見て頂けますでしょうか。この豊橋ホサナキリスト教会の週報の裏には、礼拝式の心得、使徒信条、そして主の祈りが印刷されています(小坂井チャペルの週報にはそれらに加えて、さらに十戒も印刷されている)。 おそらくほとんどのキリスト者、つまりキリストの愛に捕らえられ、キリストの弟子とされた者は、この週報の裏に印刷されている文語の主の祈りを覚え、祈っておられるのではないでしょうか。教会学校でも、この教会付属の幼稚園・愛児舎でも、少し難しいですが、文語の主の祈りを覚えて、一緒に祈っています。(第二礼拝式では、文語の主の祈りがOHPでスクリーンに映し出される)文語の主の祈りを読みますので、聞いていて下さい。
「天にまします我らの父よ。ねがわくは御名をあがめさせたまえ。御国をきたらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らをこころみにあわせず、悪より救いいだしたまえ。国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン。」
さて、次に先ほど司会者の方に読んで頂いた、ルカの福音書11章に記されている主の祈りに、もう一度耳を傾けてみましょう。お読みしますので、聞いていて下さい。
既にご存知の方もおられると思いますし、また今日お気付きになった方もあるかと思いますが、ここで改めて心に留めて頂きたいことがあります。それは、ルカの福音書に記された主の祈りの中には、今日私がメッセージの題にした「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りがない!ということです。
主の祈りは、マタイの福音書6章にも記されてあります。マタイ福音書の方の主の祈りを見てみましょう。(マタイ6:8−13)
マタイの福音書の方には、「みこころが天で行なわれているように地でも行なわれますように」という祈り、つまり「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りがちゃんとあります。けれども、ルカの福音書には、「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りがないのです!
この前、「御国が来ますように」という祈りについてのメッセージを終えた後から、実は私はこのことをずっと考えていました。そして、次のメッセージはどうしょうかと、悩んでいました。ルカの福音書には書かれていないので、初めは「御国が来ますように」という祈りに続いて、そのまま「私たちの日ごとの糧を毎日お与え下さい。」という祈りに移ろうかと思っていました。けれどもおそらく皆さんが、日々の生活の中で、この主の祈りを文語で祈っておられることを考えると、「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りをとばすわけにはいかない。少なくても、どうしてルカの福音書には「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りがないのか、という説明をしなければいけない。そんなふうに思わされたのです。
また、先の見えない不安と恐れに覆われている今日の世界情勢、テロに対する報復攻撃とそれに対する化学テロ、経済的に豊かな国の影にあって、飢餓や貧困にあえいで死の影の谷を歩んでいる多くの国の人たちを覚えますと、前回語らせて頂いたあの「御国が来ますように」という祈りと共に、今日ほどこの、「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りを、真剣に祈らなければならない時はないのではないか。そんなふうに私は強く思わされているのです。
ですから今日は、キリストの弟子の祈り?として、「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りについて、主なる神様が今を生きる私たちにお語りになりたいことを祈り求めつつ、御言葉に耳を傾け、このメッセージを準備させて頂きました。
「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」。「みこころが天で行なわれているように地でも行なわれますように」。初めて教会に来られた方や、教会に来て間もない方々にとって、「みこころ」ということばは、あまり聞き慣れないことばだと思います。簡単に言いますと、みこころとは「天の父なる神様が願っておられること」です。 神様からのラブレターと呼ばれ、全世界でベストセラーを続けているこの聖書は、「初めに、神が天と地を創造した」と語り始めます。つまり聖書が語っている神とは、天地万物を創造された私たちの造り主なる神なのです。
つまり「みこころ」とは、天地万物を創造され、私たちを愛するために造って下さった神様が、私たちのために願っておられることなのです。実はこの主の祈りを教えて下さった主イエス様は、すべてのものを造られた神様ご自身でした。けれどもイエス様は、世界で最初のクリスマスにこの地上に天から降りて来て下さり、私たちと同じ肉体を持った人間として私たちの間に住んでくださったお方です。造り主が肉体を身にまとわれ、私たちの住んでいるこの地に来て下さった。それが最初のクリスマスに起こった、驚くべき出来事だったのです。そうすることによってイエス様は、私たちに一番わかりやすい形で、みこころを教えて下さったのです。
聖霊なる神様に導かれて書かれたこの聖書には、イエス様が明らかにして下さった、「神様が最も願っておられるみこころ」がはっきりと書き記されてあります。それは、「究極のみこころ」と表現したらいいでしょうか。「究極のみこころ」、それは「私たち一人一人が、造り主なる神と共に歩むことを通して、全世界のすべての人のために祝福の基とされる」ということです。
主イエス様は聖書全体を通して、私に、そしてあなたに、こう語りかけて下さっています。
「私があなたを愛するために、世界でただ一人しかいない特別な(スペシャルな)存在として造ったのだ。私があなたを母の胎の中で組み立て、目的をもってこの世に生まれさせた。だから私の瞳に映っているあなたは、私にとってとても高価で大切な存在だ。そう、おまえは私に愛されている特別な存在なのだ。
けれどもあなたは私の愛から離れ、私に背を向けて自分勝手に歩み始めた。そしてあなたは、死と永遠の滅びに向かって歩み続ける失われた存在となってしまった。しかし、永遠の愛をもって、私はあなたを愛し、あなたに誠実を尽くし続けた。あなたまだ罪人であった時、私は十字架の上であなたのために死に、あなたへの愛を明らかにした。あなたのそむきの罪のために私は刺し通され、あなたの咎のために私は砕かれた。あなたは羊のようにさまよい、自分勝手な道に向かって行った。しかし父なる神は、あなたのすべての罪を私に負わせた。私があなたのすべての罪のために十字架に釘づけられ、血を流した故に、今あなたと私の間を引き裂いていた罪はすべて取り去られた。罪の負債は私がすべて払い終わったから。
もしあなたが、私を信じ受け入れるならば、あなたは私と共に生きることが出来、死から永遠のいのちに移される。私が三日目によみがえり、死人の中から復活したように、あなたも死の向こうに復活のいのちの希望を持つことが出来る。その時死は終わりではなく、新しい永遠のいのちのはじまりとなる。
それだけではない。私はあなたがたのために計画を立てている。それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたに将来と希望を与えるためのものだ。私はあなたを全世界の祝福の基、世の光、地の塩とした。渇き切った砂漠のようなこの地で、あなたはオアシスのような存在として生きるであろう。」
主イエス様は、十字架に架かられる前に、 ゲツセマネというところで、血のしずくのような汗を流されながらこの祈りを祈られました…。
「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。 しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」 これが、ゲツセマネで主イエスが祈られた祈りでした。 これは、わたしの願いとみこころとの葛藤の祈りでした。 わたしの願いをすべて主にゆだねる祈りでした。そして主イエスが私たちのために十字架の死という杯を受けることがみこころの中心だったのです。
さて、このようなみこころ、つまり神様が望んでおられることが行なわれるならば、そこは御国、神の国になります。なぜなら、神様ご自身が来て下さり、愛によって統べ治めておられる神の国では、神様ご自身によってみこころが行なわれるからです。ですから、「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りは、「御国を来たらせたまえ。」という祈りの中に含まれているのです。これが、ルカの福音書の中に「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りがない理由ではないかと私は考えています。
「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」。「みこころが天で行なわれているように地でも行なわれますように」。
この祈りでは、天と地が対比されています。「天と地の違いがある」などどよく言われますが、天と地という対比は、おそらく最もかけ離れた状態を言い表すのにピッタリな表現ではないでしょうか。
聖書が天ということばを使うとき、それは、地上から見上げた大空のことを意味しています。朝には太陽が昇り、雲が浮かぶあの大空、太陽が沈んでやみに包まれると、月や星が輝き昇るあの大空のことを意味しています。でもそれだけではありません。聖書が語る天とは、天と地を創造された造り主なる神がおられる所という意味があります。そして聖書が地ということばを使うとき、それはこの地上のすべてを含んでいます。
天。そこではいつでも、みこころが完全に行なわれています。しかし一方、私達が住んでいるこの地はどうでしょうか。毎日の新聞やテレビを見ると、本当に気持が暗くなります。同じ地球の上ですが、私達の住むこの地では、偶像礼拝、殺人、姦淫、盗み、偽証、むさぼりなどが行なわれています。それらはすべて、みこころとはまったく正反対のことです。そのため私達の心の中は、不安と恐れでいっぱいになっているのではないでしょうか。
みこころの生き方とは、絶対的な神の物差し(神のことば)をもって、 何が善で何が悪なのかを判断していく生き方です。みこころでない生き方とは、自己中心で相対的な自分の物差しをもって、善悪の判断をしていく生き方です。
人間が神に背を向ける前には、地においてもみこころが行なわれ、そこは神を中心とした喜び(エデン)の園、神の国でした。 けれども人間が神を神としなくなった地では、みこころよりも自己中心な意志、エゴを押し通そうとする私たちの欲望や願望が行われています。
この地上ではみこころが行われていないかのように見えます。しかし決してそうではありません。
■みこころは必ず出来事になる!
雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、 それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、 食べる者にはパンを与える。 そのように、 わたしの口から出るわたしのことばも、 むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送ったことを成功させる。…イザヤ55章10−11節
神のことば、神の意志、神の約束、神のみこころは必ず出来事となるのです! これがへブル語の「ことば」という単語が同時に「出来事」とも訳せる理由です。
さらに、ヨハネの手紙第一の5章14−15節を見ますと、こんな約束があります。
何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。…1ヨハネ5:14−15
みこころにかなう祈りは必ず聞かれる。だからすでにかなえられたと知って祈ることができる。これは、本当に素晴らしい約束ではないでしょうか!
映画「親分はイエス様」の豊橋上映決定の知らせを聞く中で、覚えさせられていることがあります。それは、「神のみこころは時が来ると必ず出来事になる」ということです!私たちの不信仰をはるかに超えて、必ずみこころを成し遂げて下さる主の力強さを覚えます。このような神のことば、神の国の力強さは、あの種蒔きのたとえにおいても語られています。アスファルトを押しのけて生え出でてくる植物をご覧になったことがあるでしょうか。ちょうどそのように、私たちの心がどんなに不信仰な堅い地であっても、私たちの心がどんなにいばらで覆われていたとしても、そこに神のことばという力を秘めた種が落ち、芽を出すなら、必ず成長し、豊かな実を結ぶのです。
私たちがすべきこと。それは、信仰を持って祈り続けることです。神のことば、神のご計画、神のみこころは必ず出来事になる。そのことを心に刻んで、信仰を持って祈り続けましょう。
もしあながた信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか(ヨハネ11:40)
■先が見えなくても、ゆだね切れなくても大丈夫!共におられる主が道を備え、導いて下さるから!
昨日私は、名古屋に行って来ました。青年宣教会議が名古屋の一麦教会であったからです。そこでは、いろんな分野で活躍されているクリスチャンの方々をお招きして音楽、芸術、政治などの分科会が持たれました。私は政治の分科会の司会をさせて頂きましたが、この教会の教会員で国会議員をされている木俣佳丈さんと、東海市で市会議員をされている森田さんという二人の方をお招きして、いろいろな話を伺うことができました。お二人とも、それぞれの所で主にあって奮闘しておられる様子でした。祈って支えていきたいと思っています。
さて、その森田さんとの対話において、とてもおもしろいことを伺うことができたので、すこしそのことを紹介したいと思います。私は、「クリスチャンになられてから、人生のハンドルをイエス様にお渡しして歩む中で、政治の方に導かれたのですか?」とお聞きしました。すると、「いや、自分は助手席に乗って、イエス様にハンドルを任せていたわけではなかった。」と仰るわけです。そして続けて、このようなことを話して下さいました。「私は洗礼を受けても、やっぱり自分で人生のハンドルをしっかり握って、自分の行きたい方にハンドルを切りつづけてきたんです。でも、車は道なりにしか、進めないわけです。ある時はその道を進みたくても通行止めってことがあるでしょう。そして、道を備えて下さったのは主でした。」と。
私はこの話を聞いていて、「ああなるほど。私もそうだな。」と思ったわけです。私たちキリスト者は、イエスキリストを主と信じているわけなんですが、やっぱり自分の願いどおりに進みたいと思い、そしてみこころよりも自分の願いがかなえられることを切に願ってしまうのではないでしょうか?けれども、道を備えられるのは主なのです。主はすべてのことの背後に働いておられ、本当の主権者として私たちの歩みもみこころにかなった最善の道に導いてくださっているのです。
天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、 わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。…イザヤ55章9節
とあるとおりです。
先は見えません。恐れや不安があります。けれども大丈夫だと主は語って下さっています。なぜなら、すべてをご存知で、すべてを統べ収めておられる主イエス様が、私たちと共にいてくださり、私たちを最善の道へと導いてくださるからです。
最後に、この祈りは、「主よ、あなたご自身が再び天から降りて、この地に来て下さい。そしてあなたが、この地を統べ納め、みこころが行なわれる神の国として下さい」という切なる祈りでもあります。
2001年 10月28日 主日礼拝式メッセージ (野町 真理)
さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。 私たちを試みに会わせないでください。』」また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。 あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」
イエス様は弟子たちに、「祈るときには、こう言いなさい。」とおっしゃって、主の祈りを教えてくださいました。その主の祈りを教えて下さったそのすぐ後で、イエス様は弟子たちに、一つの意味深なたとえ話を語られました。11章5節以下に、そのたとえが記されています。
11:5 また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。 11:6 友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。
ちょっと想像してみてください。家に帰って今日の夜になりました。ねむくなったので明かりを消し、布団に入って眠りにつきます。ところが寝静まった真夜中、ピンポーン、とドアチャイムが鳴ったかと思うと、ドンドンドンドンと玄関の扉を叩く音で叩き起こされました。眠たい目をこすりながら時計をみると、なんと夜中の3時!誰だこんな夜中に。うるさいぞ!とぶつぶつ言いながら玄関に行き、扉を開けてみると、なんと、あなたの友だちが立っています。そしてその友だちが、「君。パンを三つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。」と言ったとします。…
さあ、その時あなたは、どんな気持ちになるでしょうか?続く17節を見てください。きっとあなたも、この気持ちがわかるはずです。
11:7 すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』
そんなことで真夜中に叩き起こされたら、まさに「めんどうをかけないでくれ。」という一言に尽きるでしょう。そしてあなたはドアをバタンと閉めて、再び布団に潜り込みます。でももしその友だちが帰ろうともせず、あくまでもピンポーン、ドンドンドンドンと頼み続けたとしたら、あなたはどうなさるでしょうか。続く8節から10節を見てください。イエス様は、続けてこんなふうにたとえ話をまとめられました。
11:8 あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。 11:9 わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。 11:10 だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
最初このたとえ話を聞いた時、夜中に寝てる人を叩き起こすなんて、なんて非常識な人だろうかと、私は思いました。けれども、このメッセージを準備しながら、何が彼をそこまで駆り立てたのかと、改めて考えてみました。
こんどは真夜中に、「君。パンを三つ貸してくれ」と頼みに行った人の立場に立って、どんな状況だったのかを考えてみたいと思います。しばらくぶりの友人が、旅の途中で私の家に寄ってくれた。長旅で疲れているようだし、とてもお腹がすいているようだ。でも、私には、何も出してあげるものがない。どうしようこんな夜遅くに…。
この 『君。パンを三つ貸してくれ。」と真夜中に友人の家を訪ねた人は、今日の私たちクリスチャンの姿でもあると私は感じています。いつの時代でも私たちクリスチャン、キリストの弟子は、友人やまわりの人たちから大いに期待されているからです。
なぜなら、この世の中はクリスチャンでしか答えることの出来ない真剣な疑問で満ち溢れているからです。わたしを本当に愛し、大切にしてくれる存在はどこにいるの?どうすればショッピングでは満たされない心が満たされるの?どうすれば孤独から救われるの?。どうすれば罪が赦され、心からの平安を持つことができるの?どうすれば一度しかない人生を無駄にすることがないの?すべてが相対的で頼りにならないこの世の中で、何を信じて、何を基準にして生きていけばいいの?どうすれば死の向こうにも確かな希望を、永遠のいのちを持つ事ができるの?それらすべての答えが、クリスチャン、キリストの弟子には与えられているからです。
しかし私たちは、本当の自分を見るときに、やはり相手の期待に応えることが出来ない自分の無力さを思い知らされます。私たちクリスチャンは、自分の力では、相手の期待に応えることができない、無力で何も持たない存在なのです。
しかしここにこそ、祈りの原点があります。祈りの原点は、友人の期待に応えることができない私たちの無力さにあるのです。自分の限界を覚えさせられたとき、自分の無力さや愛のなさをいやというほど覚えさせられたとき、私たちはその時初めて、祈らずに自分の知恵や能力に頼ってことを進めることを止め、まず神の前に跪いて御声に耳を傾け、必要を具体的に祈り求めることができるのです。
実は私たちクリスチャン、キリストの弟子は、他の誰よりも、神様に大いに期待されている存在です。旧約聖書の時代、神の民イスラエルに大いなる期待を持って、主なる神様は養い育てて下さいました。それは神の民が、全世界の祝福の基として生きるというものでした。そして新約聖書の時代から今日に至るまで、クリスチャンが世界の光、地の塩として生き、私たちを通して、福音が全世界、地の果てにまで宣べ伝えられるという大きな期待を持って、今も神様は導いて下さっているのです。そして主なる神様は、私たちがその期待に応えていくことができるように、私たちが本気になって天の父に祈り求めることを切に願っていてくださるのです。そのために、「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」 という確かな約束も与えられています。
「世界がもし100人の村だったら」という本の紹介(インターネットを駆け巡ったEメールについて)
「世界には63億人の人がいますが、もしもそれを100人の村に縮めるとどうなるでしょう。52人が女性で48人が男性です。30人が子どもで、70人が大人です。そのうち7人がお年寄りです。… 20人は栄養が十分ではなく、1人は死にそうなほどです。でも15人は太り過ぎです。75人は食べ物の蓄えがあり、雨露をしのぐところがあります。でも、あとの25人はそうではありません。17人は、きれいで安全な水を飲めません。もしあなたが、銀行にお金を預けており、財布にもお金が入っており、家の中に小銭があるなら、 あなたはこの村で最もリッチな人ベスト8に入っています。 もしあなたが車を一台持っているなら、あなたは最もリッチな人ベスト7に入っています。村人のうち、1人が大学の教育を受け、2人がコンピュータを持っています。けれども、村人のうち14人は、文字も読めません。…」
私は車も持っていますし、コンピュータも持っています。そう考えていくと、いかに私は恵まれているのかということを思い知らされるわけです。これは物質的なことだけですが、皆さんは、永遠のいのちを持っておられるでしょうか?イエス・キリストが私の罪のために十字架にかかって死んでくださり、3日目によみがえってくださったということを信じ、「イエス様、私の心に入って下さい」と祈った人は誰でも、永遠のいのちが与えられていることを聖書ははっきりと約束しています。永遠のいのち、それはどんなにお金を積んでも買うことができないほど高価なものです。どんなに修行をしてもそういう方法では手に入れることができません。罪からくる報酬は死でした。しかしイエス様が、私のそして皆さんの罪を身代わりに背負って十字架で死んで下さったゆえに、イエス様を信じるなら、永遠のいのちを無代価の贈り物、プレゼントとして受け取ることができるのです。もし私達が永遠のいのちを持っているなら、私達は世界で一番恵まれている存在なのではないでしょうか。私は本当にそう思っています。
実はこの「私たちの日ごとの糧を毎日お与えてください。」という祈りについてのメッセージは、11月に語らせていただく予定でした。けれども私の担当の週に、国際飢餓対策機構のスタッフになられた村松勝三先生が来られることになったので、今日、この祈りについて語ることになりました。けれどもそのことを私はとても感謝しています。なぜなら、「私の日ごとの糧を毎日お与えてください。」とは祈れても、「私たちの日ごとの糧を毎日お与えてください。」とはなかなか祈れない自分自身に葛藤を覚えていたからです。自分が出来ていないことを語れない。少なくとも自分がその御言葉に生きようとして努力していないことは、メッセージ出来ないと悩んでいたからです。そんなところに2週続けて、国際飢餓対策機構の先生が来られたので、私はとても助けられました。
辻本先生が来られた時、私は個人的に次のようなことを質問しました。「この世界に食べ物がなくて死んでいるたくさんの人がいることを知らされます。けれども速やかに、そのような人たちのことを心の中から忘れ去り、自分さえよければという生活をしてしまいやすいのです。どうしたらいいのでしょうか?」と。
すると辻本先生はこんなふうに答えてくださいました。「豊かさは神様の祝福です。豊かさそのものは、神様からの恵みであって罪ではないですよ。 でも、もし豊かさを神様からの恵みとして受け止めることが出来ず、感謝もなく自己中心に、自分さえよければと生きているならば、それは罪です!」と。
そういうアドバイスを受けながら、改めてこの主の祈りを祈っていますと、この主の祈りは、まさにすべてのものを神からの恵み、神からの贈り物として受け止めるための祈りだということに気づきました。 そしてこの祈りは、「父なる神様、今日も私たちを生かしてください!」という切なる祈りでもあると感じています。 この祈りは、神を神ともせず、感謝もしない自己中心な罪人の生き方から、感謝と喜びに溢れた神様中心の生き方へと変えられる祈りです。 そして、この祈りは、私たち自身が、祝福の基、世界の光、地の塩として、他者のために生きるためにどうしても必要な祈りでもあります。
1時間ごとにデボーションする時計・デボ1くんの話 −絶対狂わない時計の秘密(金曜日の午前中に持たれている有志による祈祷会での小川さんのメッセージから)
1時間毎に正しい時刻を電波でキャッチして、自らの時刻を修正する。1時間以内の誤差はほとんどないので、いつも正確な時を指し示すことが出来る。自分は完全ではないということをいつもわきまえていて、完全なものからのメッセージにいつも耳を傾け、時刻修正をする謙虚さ。一時間ごとにデボーションしているということでデボ1くんというニックネーム。
私たちはどうか?やはり完全ではない。天の神様から離れると、時間が経つにつれてどんどんずれていってしまう。私達は、放っておくと必ずずれる方向に向かってしまう存在。そして、最初は微妙なずれだけれども、時が経つとどんどんとんでもない方向にずれていってしまう。そんな私たちに対して、日ごとに、毎日祈るように命じてくださっている主の深いご配慮を覚えることができる。毎日祈ることが命じられているのは、私たちが天の父から離れやすいから。
2001年 12月30日 主日礼拝式メッセージ (野町 真理)
さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。 私たちを試みに会わせないでください。』」
主イエス様が弟子たちに対して、祈るときにはこう祈りなさいと教えて下さった主の祈り。少し前から、この主の祈りを、礼拝式において味わってきました。
今までこの主の祈りを味わってきたことで、改めて教えられたことが、私にはたくさんあります。その中で一番考えさせられていることは、主イエス様が教えて下さった祈りは、私たちが神様に対して、自然に願い求める祈りとはまったく違っているなー。ということです。イエス様に教えて頂かない限りは、自然には祈れない不自然な祈り。それがこの主の祈りではないか。そんなことを考えさせられているわけです。
祈る時にはまず、「父よ!お父さん!」という親しい呼びかけをもって、あなたの造り主なる神様、天地万物の創造者なる唯一の神様に呼びかけなさい。そうイエス様は教えてくださいました。しかし神様ご自身が恵みによって、「父よ!」と呼びかけて祈りなさいと命じてくださらなければ、誰が「父よ!」と祈れるでしょうか。神様ご自身が、恵みによって私たちを神の子どもとして受け入れてくださっていなければ、誰が「父よ!」と祈れるでしょうか。
「御名があがめられますように」と祈りなさい。そうイエス様は教えてくださいました。けれども、私たちが自然に願ってしまうことは、「私の名前があがめられ、私自身がほめたたえられますように」という正反対の祈りではないでしょうか。
「御国が来ますように」 と祈りなさい。そうイエス様は教えてくださいました。けれども私たちは、すぐに神様を押しのけて自分が心の王座に座ってしまい、「自分の思いどうりになる、自分を中心とした世界が来ますように」と祈ってしまうのではないでしょうか。
「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈りなさい。そうイエス様は教えてくださいました。しかし私たちは、「口ではイエス様が主ですと言いながら、やっぱり人生のハンドルをしっかりと自分で握り締め、神様、私の願いがかなえられますように。私の願っている道、これこそがみこころだと確信していますから。」と自分勝手に祈っているのではないでしょうか。そうして自己実現のために、神様でさえも利用してしまうのではないでしょうか。
「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈りなさい。そうイエス様は教えてくださいました。しかし、経済的に貧しい時に「私の日用の糧を今日も与えたまえ」と祈ることが関の山で、満ち足りている時には、そう祈ることさえしない。飢餓などで苦しんでいる人たちのことは速やかに忘れ去り、あくまでも自分の必要だけを求めて生き続ける。それが私たちが流されやすい、自分にとって楽しいことだけを追い求め、自分さえよければという生き方ではないでしょうか。
実はそんな私たちの弱さや貧しさ、そして愛のなさを、主イエス様は良く知って下さっています。けれどもイエス様が私たちのことを心にとめ、よく知っていてくださるのは、私たちを本当に愛してくださっているからです。そしてイエス様は、私たちを本当に愛してくださっている故に、「私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。」という祈りを、私たちに教えてくださいました。 今日はこの、「私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。」という祈りから、主イエスの豊かな恵みを、ご一緒に味わっていきたいと考えています。
まず、もういちどルカの福音書に記された主の祈りを確認したいと思います。11章4節を見てください。
11:4 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。
私たちが主の祈りを祈る時、文語で「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」と祈る方が多いのではないでしょうか。私たちが使っている新改訳聖書では、まず「我らの罪をもゆるしたまえ。」という祈りがあって、それから次に「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく」という祈りがあります。文語の主の祈りと比べると、順番が逆になっています。
もともと新約聖書は、当時の世界の共通語、多くの人たちがしゃべっていた言葉がギリシア語だったので、ギリシア語で書き記されました。聖書のために使われたギリシア語は、民衆の使っていたギリシア語だということなので、少し親しみが湧きます。けれどもギリシア語の聖書を読むのは難しいです。けれども苦労しながらギリシア語の新約聖書で、この主の祈りを見てみますと、ちょうど新改訳聖書のように、まず「私たちの罪をお赦しください。」という祈りがあって、それから次に、「私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。」という祈りが来ています。
私はこの順番が、とても大切だと考えてます。普通に文語で、「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」と祈るならば、まず私たちが人を赦すこといが大切だ。というふうに受け止めてしまいやすいと思います。けれども新改訳のように、「私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。」という順番で祈るならば、まず神様の恵みによる私たちの罪の赦しがある、まず先行する神様の恵み、無条件の赦しがあると受け止めて祈れる。私はそう考えるのです。 ですからまず、「私たちの罪をお赦しください。」という祈りについて、考えていきたいと思います。
A、私たちは的外れなことばかりをしている罪人である。
「私たちの罪をお赦しください。」という祈りの中で使われている罪という言葉には、ハマルティアという言葉が使われています。これは「的外れ」という意味の言葉です。皆さんの中で弓道やアーチェリー(弓矢)をされた方がおられるでしょうか。離れた所から的を目掛けて矢をかまえ、的を射抜くあの競技です。見事に的に命中すると、「当たーりー!」という声が掛かりますが、見事に的を外れてどっかに矢が飛んでいってしまうと、「ハマルティア−(はずーれー!)」ということになるわけです。
この、的はずれとか的を射るというようなことに例えて表現するならば、実はイエス様の教えて下さった主の祈りこそ、見事に的を射た祈りであると言えます。けれども、今日最初に述べたように、主の祈りからずれた自分勝手な祈りは、見事に的を外した罪人の祈りだと言えます。
弓を射る時、手元におけるずれは本当に微妙なずれであったとしても、時が経つにつれて、そのずれは大きくなっていき、やがて大きく的を外すことになります。私たちの人生においても、同じようなことが言えます。
旧約聖書の創世記3章というところを開いていただけますでしょうか。そこには、私たち人間が、どこから的を外したのかが記されています。(創世記3章1−6節を読む)
あの最初に造られた人間アダムとエバも、最初は神を心から信頼し、お互いを愛する、的を射たとても幸いな歩みをしていました。二人は神を神として歩んでいたのです。けれども、試みる者である悪魔が巧みにエバを誘惑し、的外れな罪の歩みへと誘いました。最初サタンは、神の命令をほんの少し変えて、エバに対して、「本当に神はそんなふうに言われたのですか?」と質問を投げ掛けただけでした。しかしエバは、神のことばを正確に記憶していなかった故に、自分の思いで神のことばを微妙に変えてしまいます。サタンはその隙をついて神のことばとは正反対のことを堂々と主張し、そしてエバの、神様に対する素直な信頼を崩しにかかったのです。
決定打になったのは、サタンの、「あなたがたがそれ(神が食べることを禁じられた善悪の知識の木の実)を食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを、神は知っているのです。」 という言葉でした。これは主の祈りの「御名があがめられますように。神がほめたたえられますように」という祈りからの決定的なずれでした。 最初の人アダムとエバ、そしてすべての人は、「自分の名前があがめられますように。自分が神のようにほめたたえられますように。」という野心を持って、神を神とすることを止めた的外れな歩みを続けているのです。
弓の場合は、一度矢を放ったら、もう軌道修正が出来ません。けれども私たちの日々の生活においては、主の恵みとあわれみによって、何度でも軌道修正出来ます。何度でもやり直すことができるのです。日毎に毎日、この主の祈りを祈れることは、私たちにとって本当に大きな恵み、大切な軌道修正の時だと思います。
B、恵み深いイエス様が、十字架で私たちのすべての罪を赦した後復活なさり、今もとりなしていてくださる故に、罪人に救いがある。
天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり−使徒信条より
●父なる神の右の座で、主イエス様は今何をなさっているのでしょう?
主イエス様は、私たちのために祈って下さっています。(とりなしの祈り、弁護士のよう)1ヨハネの手紙2:1−2、ヘブル人への手紙7章24−25節参照
●主イエス様は、どんな祈りをして下さっているのでしょう?
聖書には記されていません。けれども、聖書に記された主イエスの生き様と主イエスの御言葉をもとにして想像するなら、おそらくイエス様は、次のような祈りを今もなさっているのではないかと私は考えています。
「父よ!キリスト者を通して、全地で御名があがめられ、御名が聖とされますように。 キリスト者を通して、 御国・神の国が、全地に来ますように。そのために彼らが私を信頼し、 地に住み、誠実を養うことができますように。 キリスト者を通して、みこころが、天で行なわれているように、 全地でもことごとく行なわれますように。父よ!私が彼らを愛したように、そのように彼らも、互いに愛し合うことができますように。 キリスト者を通して、全世界の飢えている人々、貧しい人々に、 神の口から出た日ごとの糧が届けられますように。 父よ! どうか私が十字架の上で流した血潮の故に、打たれた打ち傷の故に、彼らを赦して下さい!彼らは何をしているのか自分でわからないのですから。キリスト者を通して、福音が全世界にくまなく宣べ伝えられ、1人でも多くの者が永遠のいのちを得ることができますように。父よ! 彼らを試みに会わせず、 すべての悪から救い出して下さい。 キリスト者が私に似た者になるように。そして、家庭で、学校で、職場で、地域で、全世界で、 彼らが祝福の基となるように。」
マタイの福音書18章21節から35節に記されている、赦しに関するとても素晴らしいたとえ話の紹介
⇒メッセージ「イエス様の顔は7度を70倍するまで」参照 http://shinrinomachi.at.infoseek.co.jp/message5.html
2002年 1月13日 主日礼拝式メッセージ (野町 真理)
さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。 私たちを試みに会わせないでください。』」
これまで6回に分けて、主イエス様が弟子たちに教えて下さった主の祈りをご一緒に味わってきました。今日は、7回目ですが、キリストの弟子の祈り?ということで「私たちを試みに合わせないでください。」という祈りを共に味わい、このキリストの弟子の祈りを、いよいよ私たちの祈りとしていきたいと思っています。
改めて見てみますと、この主の祈り、キリストの弟子の祈りは、それ自体、一つ一つの祈りが、すべての試み、誘惑に勝利するための祈りになっています。どうすれば誘惑に打ち勝ち、福音によって人生の勝利者となることが出来るのか、その秘訣がすべて、この祈りにには込められているのです。
早速ですが、この主の祈り、キリストの弟子の祈りに沿って、様々な誘惑に打ち勝つ秘訣を学びたいと思います。
まず「父よ!」という呼びかけです。時に私たちは、「父よ!」と呼びかけることをためらってしまうことがあります。特に信仰を持った後に、何か罪を犯してしまった時、私たちは「父よ!」と呼びかけることをためらってしまうのではないでしょうか。罪を犯してしまった後で、もう私は神を父と呼ぶ資格のない者だ。そんなふうに思ってしまったことはないでしょうか?私はしょっちゅうあります。そしてそのような罪責感に追い討ちをかけるように、「おまえのような者が父よと呼ぶ資格があるのか!」というような試みる者の声を聞くかもしれません。
しかしそんな時こそ、私たちのために十字架で死なれ、よみがえられた主イエス様が、「祈る時には、こう言いなさい。まず父よと呼びかけなさい。」と教えて下さったこの主の祈りを思い出すべきです。ただイエス様が命じて下さっている故に、私たちは神に向かって「父よ!」と呼びかけることができるのです。
また、そんな時こそ、ヨハネの福音書1章12節「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」を心に思い浮かべるべきです。イエス様を心に受け入れた人、すなわちその名を信じた人々には、神の子どもとされる特権が与えられていることを心に刻むべきです。
また、ルカ11章13節「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」のみことばを信じて、聖霊なる神を願い求めるべきです。なぜなら、私たちの内に住んで下さる聖霊なる神によってこそ、私たちは「アバ、父!」と呼ぶことができるからです。そして私たちが神の子どもであることをあかししてくださるのも聖霊なる神なのです。(ローマ8:14−16参照)
次に「御名があがめられますように。神ご自身がほめたたえられますように。」という祈りです。
私たち人間にとって、最も強い誘惑。それは、自分が他の誰よりもあがめられたい、自分が神様のようにほめたたえられたいという思いです。一言で言えば、自分が神のようになりたい、他の人に「あの人はすごいですね!〜さんは素晴らしいですね。」という言葉を言わせたいのです。そして、あの善悪の木の実を食べることによって選び取った生き方こそ、試みに負けて自らを神の座に置き、自分の名前があがめられますようにと願いつつ生きる道だったのです。
しかし私たちが、「御名があがめられますように。」と祈るならば、自分の名前があがめられること、自分が神のようにほめたたえられることを願う強い誘惑に打ち勝つことができます。御名があがめられますように。と祈るならば、私たちは自分を指し示す生き方ではなくて、神を指し示す生き方をすることができるからです。
金曜日の夕方、私は豊橋技術科学大学の図書館で持たれている聖書研究会にたいてい出席しています。先週はヨハネの福音書の3章22節から36節までのみことばに共に耳を傾けました。そこにはイエス様の道備えをしたバプテスマのヨハネのことが記されています。バプテスマのヨハネは、「イエス様の方にたくさんの人々が集まっていますよ」という声を弟子たちから聞かされた時、「人は天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。…あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」と明言しました。
あのグリューネバルトが、祭壇画として十字架につけられたキリストを力強く指差しているバプテスマのヨハネを描いたように、バプテスマのヨハネは、主の祈りが指し示している生き方、つまり「御名があがめられますように」と祈りながら、自分ではなく、主イエスをはっきりと指差し、すべての栄光を主イエスに帰する生き方をした素晴らしい証し人だったのです。
森川牧師もべテル聖書学校などで証しをしてくださっていますが、私たちは用いられれば用いられるほど、高慢になってすべての栄光を神に帰すことが困難になります。自分の名前があがめられること、自分が神のようにほめたたえられることを願う誘惑は非常に強いからです。しかし「人は天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。」ということを覚えながら、「御名があがめられますように」と祈るならば、この試みにも勝利することができるのです。
次に「御国が来ますように。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」という祈りです。キリスト者が「御国が来ますように」と祈る時、それはまず第一に、自らの心の王座を主イエスに明け渡し、主イエスを心の王座に主として迎える祈りです。キリスト者であっても、誘惑に負けて自らが主になってしまったり、イエス様以外のものを主としてしまうことがいくらもあります。
この祈りを自分の祈りとして祈るならば、たとえこの世界がどんな状況になったとしても、私たちがこの聖書のことばに落ち着いて耳を傾けるならば、揺れ動く地にあっても信仰が支えられ、堅く信仰に立って信仰の勝利者になることができるのです。なぜなら、すでに世に勝って下さった主イエスと共に歩むなら、悲しみが尽きないこの世にあっても、日々神の国を味わいながら、生きていくことが出来るからです。
この祈りを自分の祈りとするなら、自己中心で自分勝手な思いを押し通し、自分の願いどおりに生きたいという恐ろしく危険な誘惑から解放されて、喜びと平安に満たされた幸いな人生を生きることができるのです。自分で人生のハンドルをしっかり握って、自分の行きたい方にハンドルを切りつづけたとしても、車は道なりにしか、進めません。みこころ(最善)でない時はその道を進みたくても主なる神様が通行止めにしてくださいます。そして、最善のみこころの道を備え、それを実現に至らしめて下さるのは主ご自身なのです。
次に「私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。」という祈りです。毎日祈ることが命じられているのは、私たちが天の父から離れやすいからです。天の神様に祈ることを止めると、時間が経つにつれてどんどんずれていってしまう弱い者でしかありません。私達は、放っておくと必ずずれる方向に向かってしまう存在なのです。そして、最初は微妙なずれだけれども、時が経つとどんどんとんでもない方向にずれていってしまいます。そんな私たちに対して、日ごとに、毎日祈るように命じてくださっている主の深いご配慮を覚えます(デボ1くんのように)。
また、この世界に食べ物がなくて死んでいるたくさんの人がいることを知らされます。けれども私たちは速やかに、そのような人たちのことを心の中から忘れ去るという誘惑があります。
けれどもこの祈りは、すべてのものを神からの恵み、神からの贈り物として受け止め、感謝するための祈りです。そうすることを通して、神を神ともせず、感謝もしない自己中心な罪人の生き方から、感謝と喜びに溢れた神様中心の生き方へと変えられる祈りなのです。無力で愛のない私たちが祝福の基として生きるためには、日ごとに父に祈り求めることが必要なのです。
私たちの罪(ハマルティア:的外れ)をお赦しください。私たちは的外れなことばかりをしている罪人です。けれども、恵み深いイエス様が、十字架で私たちのすべての罪を赦した後復活なさり、今もとりなしていてくださる故に、罪人に救いがあるのです。
そして、恵みによって赦された者は、負いめのあるものを赦しますと祈りながら、 相手のためにとりなすことを通して、不恵みの鎖を断ち切ることが出来るのです。
さて、いよいよ「私たちを試みに会わせないでください。」という祈りです。一箇所、聖書を開いて頂けますでしょうか。新約聖書ヘブル人への手紙4章15ー16節という所を、ご一緒にお読みしたいと思います。
私たちの大祭司(イエス・キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。…ヘブル人への手紙4章15−16節
ここには、イエス様が大祭司なるお方として紹介されています。祭司というのは、人の側に立ってとりなすのが仕事です。イエス様はその祭司の長、大祭司として、私たちのためにとりなしの祈りを今もしていてくださいます。そのイエス様は、私たちと同じ肉体を持った生身の人間となってくださり、罪は犯されませんでしたが、すべての点で私たちと同じように、試み・誘惑に会われたと聖書は語っています。ですからイエス様は、私たちの弱さに同情できない方ではないのです。
それゆえに聖書は勧めます。「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」 と。ここに「大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」 ということばがあります。私はこの御言葉を覚えつつ主の祈りを祈っていた時、次のようなことを覚えました。主の祈りの最初に、「父よ!お父さん!」と私たちが呼びかけることは、まさに大胆に恵みの御座に近づくことではないかと。「父よ!」という呼びかけは、私たちが父なる神のふところに飛び込む祈りです。また、「父よ!」という祈りは、私たちが御翼の影に飛び込む祈りでもあります。
今もあると思いますが、かつて日本では、「駆け込み寺」というものがありました。なにか試練や問題に出会った時、自分の力ではどうしようもない困難にぶつかった時、お寺に駆け込んで行けば、そこに和尚さんがいて、相談に乗ってくれたのです。キリスト教会には、この駆け込み寺ならぬ、駆け込み祈りがあります。それがこの主の祈りではないでしょうか。私たちが「父よ!」と呼びかけるならば、天の父は24時間いつでも、どんなときでも、私たちの声に耳を傾けて下さって、相談に乗って下さるのです!
しばらく前のトラクト(教会案内のちらし)に、森川牧師の「心からの安らぎをあなたに」というメッセージが載っていました。その中には、ある国の王様が、「心からの安らぎ」というタイトルで、絵を書いてほしいと言った時の話が紹介されていました。二人の画家が、王様の声に応えて、それぞれ絵を書いて持って来ました。一人の画家が書いた絵は、波風一つ立ってない静かな湖の湖面に、月が丸く映っている絵でした。王様はその絵をご覧になって、とても気に入ったようでした。
けれどもその時、もう一人の画家が、自分の書いた絵を王様に見せました。その絵には、ゴウゴウという爆音が聞こえてきそうな滝が描かれていました。とても安らぎの絵には見えませんでした。それで王様は、「どうしてこれが心からの安らぎなのか?」と画家に問いかけました。するとその画家は、こう答えたようです。「王様。私たちの人生の中で、波風立たない、何の問題も試練もないような日は、ほんの数えるほどしかありません。ですからそちらの絵は現実離れしています。けれども私の書いたこの絵をよくご覧下さい。滝の傍に木があって、そこに鳥の巣があります。その巣には親鳥の翼の下で、スヤスヤと寝ているひな鳥たちがいるのです。周りがどうゆう状況であろうと、親鳥の翼の下にいるならば、ひな鳥たちは心からの安らぎを持つことが出来るのです。」と。ここに試練の只中にあっても、心からの安らぎもって試みに打ち勝つ秘訣があります。
かつてダビデもこのような詩を書いています。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。(詩篇23篇4節)」たとえ私たちが、死と隣り合わせのような試練の中を通されても、主が共にいて下さるなら、試練の只中でも、心からの安らぎを持って生きることができるのです。
私たちも、様々な試練や試みの只中に生かされております。時に祈ることも出来ないほどの忙しさに忙殺されそうになります。聖書を見ると、イエス様もそのような中を生きてくださいました。たくさんの人々がイエス様の所に助けを求め、病人をつれて来ました。枕するところもないほどの忙しさの中で、あるときイエス様は、船の上でどろのように眠られた時もありました。
イエス様が試練に勝利された秘訣も聖書に記されています。それは、忙しい時ほど、時間を作って静まり、そして祈られたということにあります。この主の祈りのすぐ前には、あのマルタとマリアの話も記されてありました。私たちはマルタのように、忙しさの中で、心が滅び、主に命令してしまい、隣人を裁いてしまうことがよくあります。しかし、もしマリアのように、主の足元にひれ伏し、主の御声に耳を傾けるならば、試みに打ち勝つことが出来るのです。
「父よ!」という呼びかけをもって、父なる神のふところに飛び込む時、「父よ!」という呼びかけをもって、御翼の影に飛び込む時、私たちは試みの声を遠くに聞き、そして試みに勝利することができます。
主イエス様はこうおっしゃっています。
「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」…ヨハネの福音書16:33
新しく始まった一週間も、このキリストの弟子として、「父よ!」と神を呼びながら、大胆に恵みの御座に近づき、そして福音によって勝利していきましょう!
天にいます私たちの父よ! 私たちを試みに会わせないで、悪からお救い下さい! 父よ。 私たちは、あなたを父とおよびするにはまったくふさわしくない、資格のない罪人でした。 しかし私たちが、ありのままの姿で、汚れと罪にまみれた姿であなたの所に帰る時、 ちょうどあの放蕩息子の父が走りよって息子を抱き、最高のもてなしをしたように、 あなたはわたしたちを愛をもって受け止めてくださいますから感謝します。 どうか、試みに満ちたこの世の只中にあって、いつもあなたのふところに憩い、 そしてすべての試みに勝利させてください。 主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン。
2002年 2月17日 主日礼拝式メッセージ (野町 真理)
さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。 私たちを試みに会わせないでください。』」 ルカ11:1−4
〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕 マタイ6:13
これまで皆さんと一緒に、主イエス様が教えて下さったキリストの弟子の祈り、主の祈りを学んできました。今日は、キリストの弟子の祈り?ということで、「国とちからと栄えとは限りなくなんじのものなればなり」という祈りを、味わっていきたいと思っています。そして4月21日には、一番最後の、アーメンという言葉についてのメッセージをさせて頂く予定です。
皆さんお気付きになられたと思いますが、この「国とちからと栄えとは限りなくなんじのものなればなり」という祈りは、ルカの福音書の中に記された主の祈りにはありません。新改訳聖書ですと、マタイの福音書6章に記された主の祈りの中に、括弧付きで記されています。けれども口語訳の聖書や、新共同訳の聖書には、この祈りはどこを探しても見つけることができません。
マタイの福音書6章13節を見て下さい。
〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕 マタイ6:13
新改訳聖書ですと、括弧の中に収められたこの祈りの横に、星印が2つあります。星印は、下の欄外にコメントがありますよという印です。下の欄外の13節の所、星印が2つある所を見ますと、「最古の写本ではこの句は欠けている」と書かれています。
ここで写本ということばが出てきましたので少し説明します。ご存知の方もおられるとおもいますが、この新約聖書が書かれたのは、今から2000年近くも昔の時代です。2000年も前には、コピー機や印刷機などはもちろんありませんでした。ですから聖書をコピー(複写)するのは全部手作業でした。一字一句丁寧に書き写すしか、方法がなかったんですね。ここで写本という言葉が使われているのは、そのように手で書き写した聖書のことです。羊皮紙(羊や山羊の皮で作られ、とても丈夫)とかパピルスと呼ばれる植物で作った紙に、驚くほど正確に書き写された聖書の写本が、今ではたくさん発見されています。当時は今のような紙もなかったわけです。
「最古の写本ではこの句は欠けている」ということは、最も古い写本には、「国とちからと栄えとは限りなくなんじのものなればなり」という祈りがなかった、ということです。つまりこの最後の部分は、イエス様が祈りを教えてくださった時にはなく、後からキリストの弟子たちが付け加えた部分だと考えられているのです。口語訳の聖書や新共同訳の聖書では、マタイの福音書の中にこの祈りがないのもそのためです。新改訳聖書のマタイの福音書の中に、括弧付きで記されているのもそのためなのです。
さて、そう考えると、イエス様が弟子たちに、祈るときにはこう言いなさいと教えて下さった主の祈りは、最初から最後まで、すべてお願いであったということになります。もう一度主の祈りを注意して聞いてください。
「天にまします我らの父よ。 ねがわくは御名をあがめさせたまえ。 御国をきたらせたまえ。 みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。 我らの日用の糧を今日も与えたまえ。 我らに罪をおかす者を、我らが赦すごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。 我らを試みにあわせず、悪より救いいだしたまえ。」
このように、イエス様が弟子に教えて下さった祈りの内容は、父よという呼びかけの後はすべてお願いなのです。つまりイエス様は、「祈る時にはお願いだけでいい!」そう教えて下さったんです。このことは私たちにとって、本当に慰めに満ちた、主の深いご配慮ではないでしょうか。
実際私たちは、自分の罪深さや無力さ、また愛のなさに気づかされるならば、イエス様が教えて下さったように、ただ主にお願いすることしか出来ないのではないでしょうか。本当に苦しいとき、人間的なあらゆる方法に行き詰まった時、とてもではありませんが、「ハレルヤ!」などと言って神様を賛美することなど出来ません。ただ、ため息をつきつぶやくこと、うめき苦しむこと、あるいは「神様助けて下さい!憐れんでください!お赦しください!お救い下さい!」としか祈れないのではないでしょうか。「神様、私はあなたの助けなくしては、あなたの聖なる御名を汚すことしか出来ない愚かな者です。どうか憐れんで下さい!」と祈ることしかできないのが私たちなのではないでしょうか。そしてイエス様は、それでいいと教えてくださったのです。
そのような慰めに満ちた教えは、ヤコブの手紙にもあります。ヤコブの手紙5章13節という所を開いて見てください。このようなみことばがあります。
「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。」ヤコブの手紙5章13節 あなたがもし悩んでいたり苦しんでいるならば、神に祈りなさい。けれどももしあなたが喜んでいるなら、神に賛美しなさい。これが、イエス様が、そして父なる神様が私たちに対して願っておられることなのです。聖霊なる神は、私たちを神の神殿として私たちの内に住んでいて下さり、私たちが苦しむときにはともに苦しみ、私たちがどのように祈ったらいいのかわからない時には、いいようもない深いうめきをもってとりなしの祈りをしてくださるお方です。また聖霊なる神こそ、私たちのこころを平安と喜びで満たし、賛美をさせてくださる助け手、人格を持った神ご自身なのです。
キリスト教会には、牧会的配慮という言葉があります。牧会的配慮。それは魂への配慮です。私たちのまことの大牧者、良い羊飼いであられる主イエス様は、本当に深い牧会的な配慮、魂への配慮をもって私たちの魂の叫びを聞いてくださり、「祈るときにはこう祈るんだよ。」とこの素晴らしく慰めに満ちた祈りを、私たちに教えてくださったのです。
(牧会的配慮の多様性の例)
「兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。」 1テサ 5:14
さて、まず主イエス様が教えて下さったキリストの弟子の祈りは、全部お願いであったということを確認しました。これを言い換えると、主イエス様が教えて下さった祈りのテーマは、賛美ではなかったというふうにも言えるのではないでしょうか。
?天にまします我らの父よ。 ?ねがわくは御名をあがめさせたまえ。
「天にいます私たちの父よ。あなたの御名をあがめます。あなたの御名をほめたたえます。」と祈れば、それは賛美と言えますが、「願わくは御名をあがめさせたまえ。御名があがめられますように。」という祈りは、やはり賛美というよりは神への願いの祈りです。
もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、 みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、 また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている。」と書いてあるとおりです。これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている。」と書いてあるとおりです。(ローマ 2:17-24)
私たちは、有言不実行・言行不一致になることによって(行いのない信仰、悔い改めのない信仰)、そして十戒や山上の説教で明らかにされている罪を犯すことによって、御名を汚す者になる。(なぜイエス様のことばには力があったのか、それは弟子たちに教えられたとおりの生き方をイエス様ご自身がしていたから!言っていることとやっていることが見事に一致していて、裏表がなかったから!)
「私たちの天の父よ!私たちはあなたの助けなくしては、あなたの聖なる御名を汚すことしか、あなたの顔に泥を塗るようなことしか出来ない愚かな者です。どうか憐れんで私たちの生き様を通して、私たちの存在を通して、わたしの遣わされている所の人々が、あなたの御名をほめたたえる者へと変えられますように!」
「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。」詩篇115篇1節
そんなふうに真剣になって祈る時、それは賛美というよりは、罪との戦い、自分自身との戦いにおいて必死になって神にすがる祈りだと言うことができるでしょう。
御国をきたらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
「御国をきたらせたまえ」という祈り、そして「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」という祈りも、やはり賛美というよりは切なる願いです。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らが赦すごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いいだしたまえ。
後半の祈りは、さらに私たちに関する具体的な必要、日毎の糧、罪の赦し、そして誘惑からの救いのための切なる願いです。神への賛美や感謝の祈りではありません。
かつてマルチン・ルターは「大胆に罪を犯せ!」ということを言いました。これは誤解されるかもしれませんが、とても意味のある言葉です。クリスチャンでまじめな人ほど、あるいは純粋な人ほど、人前で賛美したり、証しをしたりするのをためらうということがあります。ちょうど自分が十字架の影に隠れることだけを求め、人目に隠れて地の塩としてだけ生きようとするかのような生き方です。けれども、イエス様は「あなたがたは世界の光です!」とも宣言して下さいました。ルターが「大胆に罪を犯せ!」と言ったのは、「あなたは大胆に人前で光り輝き、あなたの存在と生き様を通して、神の栄光を表わしなさい!」ということだったと思われます。
私は神学校を卒業した2年前から、ほとんど毎週木曜日、夜6時から30分ほど、豊橋駅前のデッキの上で、ギターを持って賛美し、路傍伝道、辻説法をしています。路傍伝道を続けている中で、自分を見せたいためにやっているのではないかとか、自分のような者がそんなことをするのはふさわしくないのではなどと思うこともあります。けれども祈りつつ駅前に出て行って神を賛美し、聖書のゴスペルメッセージを叫んでいると、とても喜びがあるのです。本当に楽しいのです。「皆さん!私を見て下さい!私のような者を愛し、命を捨ててくださったお方、そして皆さん、あなたを文字どうり命をかけても惜しくない存在として、かけがえのない大切な存在として愛してくださっているお方がおられるんです!そのお方の名前はイエス・キリストです!」そんなふうに大胆に、勇気を持って主とともに駅前に立つ時、私のような者を福音のために使って下さる神に感謝をせずにはおれなくなるのです。
私たちは、神の助けなくしては、天の父の顔にどろを塗ること、御名をあがめるどころか御名を汚すことしか出来ません。 しかし、主の力強い助けがあれば、私たちは神によって、栄光と力に満ちた御国・神の国を映し出す鏡のような存在として生きることが出来るのです。
他者のための存在として生かされる時、そこに本当に素晴らしい喜びがあります。おそらくキリストの弟子たちはこのお願いだけの主の祈りを祈り続ける中で、そんなふうに溢れる喜びに満たされ、神の恵みに対する応答として、この賛美を捧げずにおれなくなったのではないでしょうか。
かつて私が自分のためだけに生きていた時、そこには空しさしかありませんでした。自分のためだけに時間と労力を使っていたからだと思います。けれども今は違います。生きる本当の喜びは、他者のために生きるときにあるのです。新しく始まった一週間、それぞれの所に主と共に遣わされ、お願いだけでいいと教えて下さったこの主の祈りを味わい、そして高らかに主を賛美していきましょう。
天にいます私たちの父よ。私たちは、神の助けなくしては、天の父の顔にどろを塗ること、御名をあがめるどころか御名を汚すことしか出来ません。 しかし、あなたの力強い助けがあれば、私たちはあなたによって、あなたの栄光と力に満ちた御国・神の国を映し出す鏡のような存在として生きることが出来ますから感謝します。なぜなら、国と力と栄えとは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。
2002年 3月17日 主日礼拝式メッセージ (野町 真理)
11:1 さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。 「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」 11:2 そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。 『父よ。 御名があがめられますように。 御国が来ますように。 11:3 私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。 11:4 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。 私たちを試みに会わせないでください。』」 ルカ11:1−4
〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕 マタイ6:13
これまで皆さんと一緒に、ルカの福音書の中から、主イエス様が教えて下さったキリストの弟子の祈り、主の祈りを学んできました。今日は、キリストの弟子の祈り?ということで、一番最後の、「アーメン」という言葉の素晴らしさを、ご一緒に味わいたいと思っています。
前回の、「国とちからと栄えとは限りなくなんじのものなればなり」という祈りと同様に、「アーメン」という祈りはイエス様が祈りを教えて下さった時にはありませんでした。
けれども、約2000年の間、キリスト教会は、「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。」という祈りを加えて、主の祈り、キリストの弟子の祈りを祈り続けています。
「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。」この祈りは、祈る時にはお願いだけでいいと仰った主イエスの恵みに応答する賛美だということを前回学びました。神にすべての栄光を帰す喜びの賛美を、キリストの弟子たちは加えずにはおれなくなったんですね。
そして一番最後に、「アーメン」という言葉が、祈りの最後を締めくくる言葉として、付け加えられています。
この「アーメン」という言葉は、今日教会に初めて来られた方でも、一度は聞いたことのある言葉ではないかと思います。なぜなら、キリスト信者が祈る時には、必ず最後に「アーメン」といって祈りを閉じるからです。(発音やアクセントはいろいろですが^・^)また、キリスト信者が二人でも三人でも一緒になって祈る時には、相手が祈っている途中でも、「アーメン」と言って、相手の祈りに心を合わせることをよくするからです。また、メッセージの途中で、「アーメン」と仰るかたもおられます。あまりにもキリスト信者が「アーメン。アーメン」というので、「キリスト教はアーメンの宗教だ」いうふうに言われたり、キリスト信者は、「あいつはアーメンだ」というふうに言われたりもします。
時々、キリスト信者をからかって「アーメン。ソーメン」などという方がおられます。それで、「アーメン」という言葉を、あえて「ソーメン」と比較して考えてみると、アーメンという言葉の力強さがよくわかるのではないかと思います。
ソーメンというのは、皆さんご存知の、あの白くて細い、引っ張ればすぐに切れてしまう麺です。「アーメン。ソーメン」と言われるぐらいですから、アーメンという言葉は、人間的に考えたら、ソーメンと同じように思える、弱々しい言葉なのでしょう。実際、キリストを信じる前の私は、「信仰というものは弱い人間のすることであって、神に頼るほど自分は弱くはない。」と本気で思っていましたので、アーメンという言葉は、まさにソーメンのように弱々しい言葉でした。
けれども、今私は、アーメンという言葉は、ソーメンのように弱々しい言葉ではなく、安全ベルト・腰道具についている命綱のように、本当に力強い、頼りになる言葉だと実感しているのです!(電柱やアンテナなどに登る経験から安全ベルト・腰道具についている命綱の大切さについて)
アーメンの意味
実はこのアーメンという言葉は、ほとんど世界共通語になっています。日本語でも「アーメン」と言いますし、英語でも「アーメン」といいます。新約聖書のギリシア語でも「アーメン」です。けれども「アーメン」という言葉は、もともとはヘブル語の言葉です。旧約聖書はヘブル語で書き記されましたが、この「アーメン」という言葉は、「真実に、本当に、まことに」という意味の言葉です。うそいつわりがないこと、そしてそれ故に、信じることが出来ること、信じて間違いないこと。そういうような意味で使われています。
面白いことに、この「アーメン」という言葉と、「信じる」というヘブル語の動詞とは同じ形をしています。ですから、旧約聖書の中で、「信じる」と言えば、信じることのできる確かなもの、つまりアーメンなるものを信じる、信頼できる確かなアーメンを信じるという意味が込められています。
祈りや会話の途中や最後で「アーメン」という時、そこには、「私も心から、本当にそう思います」「そのとうりになりますように」というような意味が込められています。
新約聖書の一番最後の書である黙示録の3章14節という所には、主イエス・キリストが、 「アーメンである方、忠実で、真実な証人」だと紹介されています。
イエス様が何か大切なことをおっしゃる時には、「まことに、あなたがたに告げます。」あるいは、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。」と言われました。実はこの「まことに」と訳されている所には、「アーメン」が使われています。ですから、「まことに、あなたがたに告げます。」というのは、「アーメン、あなたがたに告げます。」ということですし、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。」という所は、「アーメン、アーメン、あなたがたに告げます。」とアーメンが2回使われています。
この主の祈り、キリストの弟子の祈りを教えて下さった主イエス様こそ、アーメンなるお方、つまり、うそいつわりがないお方、真実なお方、信じて間違いのないお方なのです。
When you believe
数年前、アカデミー最優秀主題歌賞に選ばれた、「When you believe」「あなたが信じる時」というゴスペルソングがあります。(スティーブン・シュワルツという人が作詞・作曲をし、マライヤ・キャリーとホイットニー・ヒューストンによって、デュエットで歌われた) この曲は、旧約聖書の出エジプト記を題材にしたアニメ映画「プリンス・オブ・エジプト」の主題歌でした。(この映画は若干脚色されていますが、最新のコンピュータグラフィックスを使って、聖書を生き生きと描いています。海が分かれるシーンや海の底を歩いて渡るシーンなども見ごたえがあります)
さて、この「When you believe」「あなたが信じる時」という歌の歌詞を、ここで少し、皆さんに紹介したいのです。こんな内容の歌詞です。
『幾日もの夜、私たちは祈りが聞かれるという確信を持てないけれども祈り続けてきた。 私たちの心の中には、小さな希望の歌があった。 今、私たちは、たくさんの恐ろしいことがあるのを知っている。でももう恐れない。 そんなことができると気付くずっと前から、私たちは山々を動かしていたから。
あなたが信じる時、奇跡が起こる。 希望はかすかなものであっても、それを消すことはできない。 誰が知っているだろうか、どんな奇跡をあなたが成し遂げるかを。 あなたが信じる時、 必ずあなたは神の栄光に満ちた奇跡を見るはず。 あなたが信じるなら、あなたは神の奇跡を見るはず。
この恐れの時、 祈りが次々と空しく消えていく時。 希望はまるで夏の鳥のよう、 とても素早く空に飛び去ってしまう。 でも今、私はここに立っている。 私の心はとても満たされて、言葉にあらわせないほど。 捜し求めていた信仰、口にしているこの言葉。 私がこんなことを言うなんて、思いもしなかった。
あなたが信じる時、奇跡が起こる。 希望はかすかなものであっても、それを消すことはできない。 誰が知っているだろうか、どんな奇跡をあなたが成し遂げるかを。 あなたが信じる時、 必ずあなたは神の奇跡を見るはず。 あなたが信じるなら、あなたは神の奇跡を見るはず。
あなたが祈り求めても、いつも奇跡が起こるわけじゃない。 だから恐れと失望の中に落込んでいくことは簡単なこと。 でも、あなたが信仰を通して現実を見るとき、 あなたは雨の中で救いの道を見出す。 そして「助けはとても近くにある」とその道を歩いているあなたは言うでしょう。』
この中で、特にわたしの心に印象深く残っているのは、「そんなことができると気付くずっと前から、私たちは山々を動かしていた」という言葉です。これは短い言葉ですが、聖書が教えている信仰を、的確に表現している言葉ではないかと思います。この言葉が意味しているのは、つまりこういうことです。「私たちが心の中で感じているよりもはるかに確実に、私たちの祈りは主なる神に聞かれている」ということです。
実際私たちキリスト者は、祈ってもすぐに応えられない経験をしばしば味わいます。また、まさに山のようにちょっとやそっとでは動かない、いや不可能だと思われる祈りの課題がたくさんあります。家族・親族や友人を覚えて祈る時、そんなふうに感じます。また、高い地位にある方たちや国々を覚えて祈る時、教会を覚えて祈る時、そんなふうに感じてしまいます。けれども、みこころにかなった祈りを主イエスに祈る時、この世界を包む主の祈りを日々祈る時、「そんなことができると気付くずっと前から、私たちは山々を動かしている」。ということが起っているのです。
ハイデルベルク信仰問答
以前森川先生が、べテル聖書学校や礼拝式において、ハイデルベルク信仰問答というものを少し紹介して下さっていました。ハイデルベルク信仰問答というのは、聖書の基本教理を理解するために良いガイドブックの中の一つです。使徒信条、十戒、主の祈りについての解説が中心ですが、その内容は慰めに満ちていてとても励まされます。このハイデルベルク信仰問答の、主の祈りのアーメンという言葉についての問いと答えは、先ほど紹介した歌の歌詞と共通するものがあります。
問129:「アーメン」という言葉は、何を意味していますか。
答:「アーメン」とは、それが真実であり、確実である、ということです。 なぜなら、これらのこと(主の祈りの内容)を神に願い求めていると、 わたしが心の中で感じているよりもはるかに確実に、わたしの祈りはこの方に聞かれているからです。
神の真実によって?それとも人の真実(信仰)によって?
神の真実:全知全能の主なる神のことばは、その時がくれば実現する。 主によって語られたことは必ず実現する(出来事になる)。
人の真実(信仰):信じ切れない弱さ。肉の熱心。不敬虔で貧しい。無力。
もちろん聖書は信仰の書なので、信仰の大切さ、熱心に祈ることの大切さを教えている。しかし、大切なのは人の真実や熱心さ、人の敬虔さではなくて、神の真実、アーメンなる神の真実!
あの信仰の父アブラハムとサラも、バプテスマのヨハネの両親も、イエス様の両親も、みな信じきれない弱さを持っていた。つまり、本当の意味で、もし「私たちの信仰のとおり」にしかならないのなら、聖書に記されているほとんどの奇跡は起らなかったはず。けれども、信じ切れない弱さの中で、すべてをアーメンなる神に委ねて、失望せずに祈り続けるならば、主が栄光に満ちた奇跡を行なって下さるという歴史が、聖書には記されている!
今日はこの後、洗礼式が持たれます。洗礼式がある度に、私は自分が信仰のスタートラインに立った時のことを思い起こします。まさにアーメンなる主イエスに、全幅の信頼を寄せて、生涯キリストだけにすがって生きることを誓った時のことを。キリストとつなぎ合わされ、キリストと共に十字架につけられ、葬られ、そしてキリストと共に新しく生まれた者とされているということを、体全体に刻みつけ、生けるキリストの体である教会の枝とされた時のことを、なつかしく思い出します。アーメン。神の真実によって、そのとおりになりますようにという信仰の言葉で締めくくられたこのキリストの弟子の祈りを、日々私たちの祈りとして、新しいいのちの中を生き抜きたいと願わされます。
HBCの中高生キャンプでも教えられたことに神様の握手というものがありました。まず神様が私たちの腕をつかんで引き寄せて下さった故に、今私たちは礼拝に来ることが出来ています。そして信仰が与えられています。そのアーメンなる神の十字架の愛に応えて、「私はあなたを信じます。」といって私たちは神様の腕を握り返しました。これが私たちの信仰です。
けれども弱い、そして不信仰な私たちは、握っている手を放してしまうことがよくあります。もう信じない。聖書も読まないし教会にも行かないといって手を放してしまうこともあるかもしれません。けれども、あなたの腕をつかんでいて下さる神様は、決してあなたを放すことがないのです。「わたしはあなたを離れず、あなたを捨てない。見よわたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」と約束して下さったアーメンなる神の真実は絶対に変わらないのです。
はじめにアーメンとソーメンの話をしました。もう皆さんわかっていただけたでしょう。人間の真実、人間の信仰こそ、まるでソーメンのように弱くて切れやすいものなんです。けれどもアーメンなる神、うそいつわりのない神の御腕は、まさに命綱なのです。
あなたはこの人生の命綱を持っておられるでしょうか?命綱のない人生ほど、危険な人生はありません。ぜひアーメンなる神の真実を、あなたの命綱として受け入れ、このお方に全幅の信頼を寄せて、永遠のいのちと平安に満ちた、幸いな人生を共に歩みましょう。
2002年 4月21日 主日礼拝式メッセージ (野町 真理)
11:5 また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。 11:6 友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。 11:7 すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』 11:8 あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。 11:9 わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。 11:10 だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。 11:11 あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。 11:12 卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。 11:13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」 (ルカ11:5−13)
81:10 わたしが、あなたの神、主である。わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。 81:11 しかしわが民は、わたしの声を聞かず、イスラエルは、わたしに従わなかった。 81:12 それでわたしは、彼らをかたくなな心のままに任せ、自分たちのおもんぱかりのままに歩かせた。 81:13 ああ、ただ、わが民がわたしに聞き従い、イスラエルが、わたしの道を歩いたのだったら。 81:14 わたしはただちに、彼らの敵を征服し、彼らの仇に、わたしの手を向けたのに。」 81:15 主を憎む者どもは、主にへつらっているが、彼らの刑罰の時は永遠に続く。 81:16 しかし主は、最良の小麦をイスラエルに食べさせる。「わたしは岩の上にできる蜜で、あなたを満ち足らせよう。」 (詩篇81:10−16)
前回まで、主イエス様が弟子たちに、「祈る時にはこう祈りなさい。」と教えて下さった、主の祈り、キリストの弟子の祈りを味わってきました。一番最後の、アーメンという言葉についても語りましたので、今日はその次に進みたいと思います。何を祈るべきかということをよく学ぶことの出来る主の祈りのすぐ後に、今度は、どういうふうにそれを祈ったらいいのかが記されてあります。まず祈る内容を教えて下さった主イエス様は、次にたとえ話をもって、こんどは祈り方を教えて下さっているのです。
真夜中に友人の家の扉を執拗に叩き続け、あくまでも頼み続けるなら必ずその求めに答えて下さるというたとえが記され、そして有名な「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(11:9−10)」という約束があります。
お腹をすかした友人のために、真夜中に寝ている友人の家の扉を叩き続ける人のように。あくまで頼み続けるなら=あつかましさのゆえに⇒求めていた必要なものが与えられる!
必要なものが与えられるまで、あくまで頼み続ける。主イエス様は、そのようなあつかましさを持って、祈りが答えられるまで、約束が完全に出来事となるまで忍耐もって祈るべきだと教えて下さっています。
自分のためにではなく、友人の必要のために、あつかましいほどに主に祈り求めることへのチャレンジ! ここで改めて見たいのは、この真夜中に友人の家の扉を叩き続けた人は、自分の必要のためではなくて、友人の必要のためにあつかましいほどに、あくまで頼み続けたということです。
私たちは、自分の必要のためなら、かなりあつかましく祈ることができるかもしれません。けれども、私自身、他の人のためにこのように祈れていないことを深く覚えさせられ、反省とともに大きなチャレンジを与えられています。
11節から、今度は、私たちが誰に祈り求めるのかということが、改めて記されてあります。ここではお父さんと子どもとの関係が語られています。
子どもが「おとうちゃん!おなかすいた。さかなちょうだい!」と言ったとき、「じゃあ蛇(生きた蛇:毒)をやるか。」なんていう親はまずいないのです。子どもが「おとうちゃん!おなかすいた。たまごちょうだい!」と言ったとき、「じゃあさそり(毒)をあげよう。」なんていう親はまずいないのです。最近はいろんなことがあります。そんな中で私たちは、本当はそんなふうにしたくないけれども、子どもに毒のようなものを与えてしまうということはあるでしょう。けれども、普通私たちは、子どもは目の中に入れても痛くないほどにかわいいもので、その子どもには、ほしいものをあげたいと思うのです。
11:13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。
ここには、じっくり読むと、カチンとくる言葉がしるされてありました。それは、「あなたがたも、悪い者ではあっても…。」という言葉です。はっきり言えば、「あなたがたは悪者なんです!」と、ここで聖書は語っているのです。聖書はすべての人は罪人ですと語っています。聖書が語る悪者、罪人とは、神様でさえも自分のために利用し、そして、自分のまわりにいる人を、自分のために惜しみなく利用する人のことです。自己中心に、自分さえよければいいと思っている人のことです。
けれども、だれであっても、悪者であっても、求める者に必ず聖霊を与えて下さる父なる神様の約束が、ここには記されてあるのです。
聖霊とは、聖なる神の霊。御霊とも呼ばれる。単なる力ではない。人格をもっておられる神ご自身。イエス様が死者の中から復活し、天にのぼられた後、ペンテコステの日(復活から50日後)に聖霊は約束どおり与えられた!…使徒の働き(ルカ福音書の後編)参照
イエスを主と告白することが出来た者には、聖霊がすでに与えられています。誰も聖霊によらなければ、イエスを主とい告白することはできないと聖書にあるからです(1コリント12:3参照)。ですから、聖霊を与えて下さいと、あえて祈る必要はありません。しかし聖書は、聖霊に満たされ続けること(エペソ5:18)は、日々新しく祈り求めるべきだと語っています。
森川先生が今、ヨハネ福音書を順番に語って下さっています。この前7章に入りました。7章をもう少し読んでいきますと、この聖霊なるお方についての素晴らしいみことばがあります。ヨハネ7章37節から39節をお読みしますので、聞いていて下さい。
7:37 …「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、 その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」 7:39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。 イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。 ヨハネ7:37−39
今日は詩篇の81篇を読んで頂きましたが、詩篇の一番最初のところ、1篇を見てください。ここには、水路のそばに植わった木のような生活についてのみことばが記されてあります。
1:1 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。 1:2 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。 1:3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。 詩篇1:1−3
私は四国の高知県で生まれ育ちました。20歳の時に、この豊橋に移り住むようになって、もう10年以上経ちました。この豊橋に住んでいて、だんだんとわかってきたことがあります。それは、この東三河の地には宇連ダムや豊川を水源とする豊川用水(牟呂用水もその中の一つ)という用水、水路があるということです。
牟呂用水は賀茂の菖蒲園のあたりを通り、創造大学の横を通って豊橋の街中に流れ、そして駅のあたりを抜けて神野新田の方に流れています。
豊川用水の東部幹線は、石巻のあたりから葦毛湿原のあたりをくぐりぬけ、ずーっと南の太平洋の方に流れていき、湖西市の方と渥美半島の先端のほうまで流れています。
豊橋市、蒲郡市、豊川市、新城市、田原町、赤羽根町、渥美町、一宮町、小坂井町、音羽町、御津町。そして静岡県湖西市。これら愛知県の東三河地方と静岡県の湖西地方は、昔から大きな川がなく、雨も少なく、干ばつに苦しむ地方だったそうです。今日、この地方が全国有数の農業地帯、工業地帯となり、また、国際港を持つ海外に開かれた都市として発展を続けている一つの理由は、この豊川用水があるからと言っても、過言ではないでしょう。
水は水道、農業、工業のために必要不可欠なライフラインです。まして聖霊なる神、いのちの水の源なるお方は、私たちの全人格的いのちにとって、必要不可欠な、どうしても必要なお方、まさにライフラインではないでしょうか。
⇒時が来ると、御霊の実(愛:単数)を結ぶ生活(ガラテヤ5:22−23)。
潜水艦クリスチャンということばがあります。私もそうなってしまいやすいのですが、日曜日にかろうじて浮上してきて礼拝式に出ますが、月曜から土曜にかけては沈んでしまうクリスチャンのことです。日曜日には疲れた顔をしてなんとか礼拝式に出席しますが、その後、しなければいけないことに忙殺される中で、祈ることも出来ない。聖書を読むことも出来ない。その結果どんどん落ち込んでいく。元気がなくなる。自分のことだけで手一杯というような具合です。
でも神様は、私たちが自分のことだけで手一杯になって、干からびたような生活をすることを望んでおられません。神様は、私たちが豊かにいのちの水を受けて、まわりを潤すオアシスのような存在として生かしたくておれないお方なのです。
詩篇81篇の10節から16節を見てください。主の祈りで祈り求めている天の父なる神は、かつてイスラエルをエジプトの地、奴隷の家から救い出されたお方、出エジプトを導かれた力強いお方でもあります。そのお方がこう仰っています。
81:10 わたしが、あなたの神、主である。わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。 81:11 しかしわが民は、わたしの声を聞かず、イスラエルは、わたしに従わなかった。 81:12 それでわたしは、彼らをかたくなな心のままに任せ、自分たちのおもんぱかりのままに歩かせた。 81:13 ああ、ただ、わが民がわたしに聞き従い、イスラエルが、わたしの道を歩いたのだったら。 81:14 わたしはただちに、彼らの敵を征服し、彼らの仇に、わたしの手を向けたのに。」 81:15 主を憎む者どもは、主にへつらっているが、彼らの刑罰の時は永遠に続く。 81:16 しかし主は、最良の小麦をイスラエルに食べさせる。「わたしは岩の上にできる蜜で、あなたを満ち足らせよう。」 (詩篇81:10−16)
聖書は語ります。神様が私たちに与えて下さるものは、すべて最良のもの、最も良いものだと。
そして最良のものを与えて下さるという神様を思うとき、私は、ヨハネ3:16節のみことばを思い出します。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」。
私たちが献金をする前に、私たちが奉仕をする前に、私たちが神様を愛する前に、このお方は、ご自分の独り子、イエス様を、私たちのために与えて下さったのです!私たちの罪の身代わりに罰するために、天の父は罪のないイエス様を、私たちのために与えて下さったのです。そしてそのお方は、ねたむほどに慕っておられる聖霊を、私たちのために与えて下さったお方なのです。
そして、主の祈りは、この聖霊なる神の助け無しには、本当の意味では祈れないのです。
1、「われらの父よ!天のおとうさん!」と天の父を親しく呼び求めて生きることが出来る。 2、「私の名前ではなくあなたのお名前があがめられますように」と祈ることが出来る。 3、「私の国ではなくあなたの国が来ますように」と祈ることが出来る。 4、「私の願いではなくあなたのみこころがなりますように。天になるごとくこの地にも!」と祈ることが出来る。 5、「私たちの日ごとの糧を毎日お与えください」と祈ることが出来る。 6、「私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。」と祈ることが出来る。 7、「私たちを試みに会わせないでください。悪から救い出してください。」と祈ることが出来る。 8、すべての栄光を父なる神に帰すことができ、アーメンなる方によって祈りが聞かれていると信頼して祈ることが出来る。
最後に、口を大きくあけるということは、具体的にはどういうことなのか?あるいは、聖霊に満たされ続けるにはどうしたらいいのか?ということを考えてみたいと思います。
あの主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていたベタニヤのマリアのように、デボーションの時、つまり一人静まって、心を主にだけ向けて、聖書のことばに耳を傾けることを、キリストの弟子として生きていくためにはどうしても必要なこととして、毎日最優先で持つ。
主に大きな期待をもって具体的に祈り求める。聞く祈りから大きく願い求める祈りに!それが大きく口をあけるということ。そして主の声に聞き、従う聞き従って主の道を歩むこと。罪が示されたなら、すぐに罪を主イエスに告白して悔い改めること。水路のつまりをいつもそうじすること。それが、聖霊に満たされ続ける秘訣。いのちの水を豊かに受け続ける秘訣。そして、主イエスの力によって、敵に勝利する秘訣。
大きなビジョンを持って、大きな期待を持って、共に主に祈り求めましょう!口を大きく開けて、いのちの水を溢れるほど飲んだなら、弱い者が強くされ、無力な者が主の霊によって、力ある大きな働きをすることができるのです。
『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。ゼカリヤ4:6
天の父なる神様。
なんと私たちは、あなたに期待することの少ない者でしょうか。
お赦し下さい。…
2002年 6月2日 主日礼拝式メッセージ (野町 真理)