夕があり、朝があった

Sat, 19 May 2007 14:06:02 JST (3688d)

創世記

あなたは、一日の始まりはいつだとお考えでしょうか?

いろいろな考えがあると思いますが、普通私たちが一日の始まりと考えているのは、大体朝ではないでしょうか?夜が明けて、陽が昇ってくる朝、休んでいることを止めて起き上がり、動き始める朝こそが、一日の始まりだ。そう考えておられる方がほどんどではないかと思います。

けれども、聖書に改めて耳を傾けてみますと、実は朝ではなくて夕方が、一日の始まりだと教えています。

創世記1章から2章3節は、詩的に記述されています。「こうして夕があり、朝があった。第何日。 」ということばが繰り返し使われ、恵みのリズムを奏でています。それは、「まず夕があり、そして朝がある」という2拍子のリズムです。

普通私たちが一日の始まりと考えるのは朝です。しかし、旧約聖書のへブル人的感覚では、夕方こそ、一日の始まりなのです。これは、天地万物が創造される前、まず初めにあったのは、やみで、神様が「光よ。あれ。」と仰せられると、朝が訪れたということに基づいている恵みのリズムです。

夕方というのはどういう時でしょうか?私たちが活動を止める時です。夕方から夜にかけて、私たちは明かりを消して眠りにつきます。すべての働きを止めて、布団か何かにくるまり、休息の時を持つのです。眠っている時、私たちは何か仕事をすることは出来ません。人間的に考えるならば、眠っている時間、睡眠時間というものは、非常に非生産的で価値のない時間だと言えます。けれども、もし私たちが眠らなければ、次の日に元気に動くことは出来なくなります。

朝はどういう時でしょうか?夕方とは反対に、私たちが目を覚まして活動を始める時、休むのを止めて動き出す時です。新しい朝を迎えると、私たちは目を覚まします。そして朝起きてみると、実は私たちが起きる前から、世界は既に動いていることに気づかされます。そして、私たちが寝ている間も、神様は働き続けていて下さっているということを覚えさせられるのです。

夕方から夜にかけて、人間は眠りにつきます。働きを止めて休むのです。そして新しい朝を迎え、私たちが目を覚ます時、すべてが整えられ、神のご計画が進んでいることに気づくのです。創造主なる神は、人間が何もしない間に、すべてのことを備え、またご自身の計画を進めておられるのです。

聖書は、「夕があり、朝があった。」ということばを繰り返し用いることによって、恵みのリズムをいつも奏でています。ところが、普段私たちが社会の中で聞き続けているのは、「まず朝があり、そして夕がある」というリズムです。「朝があり、夕があった」というリズムは、同じ2拍子なんですが、聖書が語っている恵みのリズムとは正反対の、逆転したリズムです。

「朝があり、夕があった」というリズムは、「まずおまえが必死になって働かなければ、何事も始まらない。おまえが何とかしなければ、すべての問題は解決されないままだ。すべてはおまえの努力にかかっている。休んでいる暇などないぞ。」、というような、暗くて、重苦しい響きを持った恵みではないリズムです。ですから、これを聴き続けても、心からの安らぎや癒しを得ることなど、とても出来ません。ますます気持ちが暗くなり、絶望的になるだけです。

多くの人が、自分の力ですべての問題を解決しようと必死になるあまり、「朝があり、夕があった」というリズムの中で、神様の豊かな恵みを覚えることのできない悪循環の中に落ち込んでしまっています。そしてその結果、抱えきれない重荷と疲れを抱えて、心と体の不調を覚えることになっています。

仕事中毒という病気があります。これは、「朝があり、夕があった」という恵みではないリズムの中で、休む時間を何か無駄な時間のように感じて、働き続けてしまうという病気です。まるで休むことは罪であるかのような強迫観念に囚われてしまうのです。休むことをしないで働き続けるという仕事中毒にかかった人は、遅かれ早かれ、過労で倒れてしまうか、燃え尽き症候群になるかのどちらかです。そして、過労で倒れたり、燃え尽き症候群になると、かなりの療養期間、リハビリ期間が必要になってしまうようです。そして最悪の場合は過労死ということになるようです。

聖書が語っている「夕があり、朝があった。」というリズムは、「あなたの神様は小さすぎるよ。私たちが何かをする前に、まず神様が問題の只中にいて、働いていて下さるんだよ。全知全能のあなたの神様は、必ずすべての問題を解決へと導いていて下さるんだ。そして神様は、あなたに出来るあなたのなすべきことを備えて下さっているよ。あなたの小さな働きも、神様は大きく用いて下さるんだ。」、そんな希望と喜びに満ちた明るい響きですから、この恵みのリズムを聴き続けるなら、心からの安らぎと生きる力を得ることが出来るのです。

もともとこの世界と、この宇宙のすべての動きは、私たち人間が始めたわけではありません。まず創造主なる神様が、私たちが豊かに生きていくために必要なすべてを備えて下さり、それから私たち人間を造られたのです。創造主なる神は、私たち人間が何もしない間に、まだこの地上に存在しない時に、すべてのことを備えて下さったのです。そして次に、神様は私たち人間に、ご自身の働きを委ねて下さるのです。それは、私たちを神様の働きの中に招き入れて下さる素晴らしい恵みです。

人間がどんなに何かが出来ることを誇ってみても、聖書の視点、神様の視点で見るならば、それはたいしたことではありません。何かができる健康、何かができる能力、何かが出来る職場や仕事、そして何かをするための助け手。実はこれらすべてのものは、神様が与えて下さっている神からの贈り物なのです。これらの贈り物が与えられて初めて、私たちは何かをすることが出来るのです。私たちは日毎に毎日、神様の前に出て、「夕があり、朝があった。」という恵みのリズムを聞く必要があります。

聖書が語るまことの神様は、不必要な人間をお造りになるほど愚かではありません。どんな人であっても(寝たきりの方、ご高齢の方、生まれたばかりの赤ちゃんなどなど)、その人にしか出来ない使命と存在価値が与えられていると聖書は語っています。神はあなたを、高価で尊い、かけがえのない存在としてお造りになり、愛しておられるのです。

驚くばかりの恵み(アメイジング・グレイス)というゴスペルソングがありますが、「夕があり、朝があった。」ということばは、驚くばかりの恵み(アメイジング・グレイス)のリズムを奏でているのです(野町)。

キリストの弟子の自由5 「安息日を覚えて聖なる日とせよ」より http://shinrinomachi.at.infoseek.co.jp/message22.html