神戸神学館創世記倫理講義まとめ(水草修治)

Fri, 18 Jan 2008 12:05:59 JST (3471d)

神・人・世界・歴史――創世記1‐4章から――

水草修治(日本同盟基督教団小海キリスト教会牧師)

(WEB用に編集中)

はしがき

 本稿は、2006年6月に、改革長老教会の神戸神学館で行なった集中講義のノートに若干加筆修正したものです。以前東京基督神学校で行なった集中講義を整理したものをお話しました。聖書全体がコンデンスされた創世記1−4章を視点として、世界観としてのキリスト教を少しでも明らかにできればと願いました。釈義的な面ではいくつかの内外の注解書を参考にしましたが、なにより長老教会玉川上水教会の清水武夫先生の影響が大きいと思います。

 大学浪人だった晩夏の一日、生きる目的をさがしあぐねていた筆者は、改革長老教会東須磨教会の故増永俊雄牧師から、「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、神の栄光をあらわすことにある」と教えられました。さらに、先生は、その後、進学のため茨城県に転じた筆者を、懇切な手紙によって神学的にご指導くださいました。その数十通にも及ぶ手紙は筆者の宝物です。増永俊雄先生は、カルヴィニズムに立つ神学者であり、情熱に満ちて明快に福音を説くすぐれた説教者でいらっしゃいました。

 今回の講義は、増永俊雄先生へのご恩返しという思いで奉仕させていただいたものです。本稿は講義ノートであって書物ではないために、文章として整っておらず、その点、読者には読みづらいところも多々あろうかとも思いますが、何か役に立つ方もいらっしゃるのではないかと思い、野町真理先生の場をお借りして公開することにいたしました。

2007年11月 筆者

目次

序 本講の意図

1.神――自存性・三位一体・創造主

(1)自存者・創造主  a.自存者・創造主

 b.他の神観との比較・・・汎神論、多神論、理神論、有神論

(2)神の人格性  a.神の行為を表現することば

 b.擬人論的神? むしろ、擬神的人間。

 c.人格神

(3)聖三位一体・・・「われわれ」である唯一の神

  啓示の漸進性

 a.1と3    ①「われわれ」    ②エハドとヤヒード    ③新約聖書の啓示  Mt28:19

 b.愛の構造と三位一体・・・アウグスティヌスとサン・ヴィクトールのリチャード

2.多様にして統一的な被造世界

(1)自然主義(汎神論)と聖書の自然観と人間

 a.自然の有限性(Gen1:1とRev20:11)

 b.人間の特異性(Gen1:26-28とRev20:12)

(2)多様にして統一的な世界

 a.見事なシステムとしての世界

 b.多様性「おのおのその種類にしたがって」

(3)時と歴史について⇒「5」を参照 

(4)聖書解釈と人生の解釈の三要素

3.人―――玉座から落ちた王

(1)神との関係――善悪の知識の木

  a.神のかたち

  b.労働と環境保全

  c.善悪の知識の木

   ア.神の権威の代表――その名の意味      神が禁じたというそれだけの理由で

(2)神に対する反逆

  a.へび――サタンと聖書解釈原理

  b.「神を見ること」と「御顔を避けること」

  c.サタンの奴隷、被造物の奴隷

  d.聖書的な神観・人間観と異教のそれの本質的相違

  e.善悪の知識の木から食べる・・・自律理性    「善悪を知るようになる」=「神のようになる」

(3)自己の内面における反逆――アウグスティヌス『神の国』14参照

  a.裸の恥の意識

  b.自律主義の自己矛盾

(4)人間関係における反逆と強制秩序    「神のかたちに創造し、男と女とに彼らを創造された。」

  a.夫婦関係への呪い      愛と服従の秩序⇒⇒強制と隷従の秩序

  b.被造世界における秩序の混乱と一般恩恵としての強制秩序 ローマ13章      上に立つ権威による強制秩序      被造物の反逆と強制秩序

(5)地の反逆――「文化命令」と堕落後の問題

  a.地に仕える・・・・・Gn1-2

    ア.人――偉大にして卑小な存在

    イ.人の任務「地を耕し、守る」

  b.地の反逆と文明による地の収奪・・・Gn3−4

    ア.人と土地は敵対関係に陥るGn3:18

    イ.カイン族の都市文明・・・土地と人の相互疎外Gn10-12、17

    ウ.希望:全被造物贖いのビジョンRom8:19

4.原福音と三つの神学体系

(1)「へびの頭を踏み砕く女の子孫」(Gn3:15)

(2)「いちじくの葉」と「皮の衣」

  a.神が手ずから(Gn3:21)

  b.血が流されて(Heb.9:22)

(3)原罪―神学体系のアルキメデス点    5.聖書的歴史観の概要

始まりと終わりがある歴史

  a.ギリシャ的(異教的)歴史観、退歩史観、進歩史観

  b.聖書の歴史観(創世記1:1と黙示録22:12,13)

(2)繰り返しつつ前進し完成に至る

  創世記1:14

  レビ記24-25章

  神の国と地の国

  a.創世記3:15;4:16-26

  b.地の国の権力者とサタン(ルカ4:5-8、黙示録13:2)

(4)終わりの時・時の中心

序 本講の意図

 信州の標高1,000メートルほどの山間地の町や村で開拓伝道を始め、今年で13年目になります。田舎で伝道を始めたとき、意外なことに気がつきました。田舎の伝道の方が、神学が必要であるということです。しかも世界観的な意味での神学が。というのは、田舎では地域全体が視野に入るからです。教育も家庭も政治も経済も環境問題もみんな身近にあるのです。人数が少ないだけに、ほとんどの人が自分の町や村をこれからどうしていこうかという意識を持っているのです。また、人口が少ないので一人の発言の意味が大きいのです。

 都会では、ほとんどの人は自分と自分の家族のことしか考える必要がないように思います。教会も、ただ狭義の伝道だけ考えていれば一応ことはすみますし、それ以外のことを発言しても、市長や議員にでもならなければ誰も聞いてもくれません。けれども、田舎では視点を高くもち視野を広くもってものを言うことが、実際に求められています。また過疎の農村は危機的状況にあり、日本の問題性がそこに見えやすいかたちで存在しています。都市への人口集中と農村の疲弊、国の農政の誤り、急速な高齢化と少子化、日本の伝統的因習と家の問題、環境破壊など。

 そういうわけで、田舎に伝道を始めて、世界観的な神学が、福音宣教の現場で必要であり役に立つという観を抱くようになりました。学者はスペシャリストであることが求められるのでしょうが、牧師はジェネラリストでなければならないと思います。とはいえ、薄っぺらなジェネラリスト、単なる雑学家では困るわけで、聖書からの一貫した視点でもって、もろもろの事態の本質を見ぬく知恵が必要であると思います。そして、おそらく都会であっても、ほんとうはそうなのだろうと思います。私などよりもっと大きな器であれば、都会に生きて、かつ広く高い視野に立った神学が生きてくるのでしょう。

 そういうわけで、聖書に基づいて世界を見る目を養うという大それたことをこの講義はもくろんでいるわけです。

 私はあれこれ最新の学説研究をするといった学問的手続きをする、お金も時間も能力もない者ですから、不十分を感じられる方たちはそれぞれご自分で補ってください。また、私は進化論者ではありませんから、最新の学説が最良の学説であるとは信じていませんので、「最新の学説」には余り関心がないのです。聖書を神のことばと信じる私にとっては、聖書的な学説こそ古かろうと新しかろうと最良の学説と信じているのです。 では、世界観の基本構造を聖書、特に創世記の最初の四章から学んでまいりましょう。

「だから天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。」マタイ13章52節

1.神―――自存性・三位一体・創造主

(1)自存者・創造者

a.自存者・創造主・摂理の主

初めに、神が天と地を創造した。」創世記1:1

 この一節が教えていることは、神以外の一切のものつまり被造物は、自存的ではないということである。たとえば、私という人間は、家族、食べ物、水、空気などの環境、そしてこれらを備えてくださった神に依存して存在している。被造物は、結局創造主に依存しているわけである。なにしろ創造主が「ありなさい」と命じていらっしゃるかぎりにおいて、「ある」のが被造物であるから。

 創世記1:1と対応する個所が、黙示録20:11である。神が意志されれば被造物は無に戻る。

「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。」黙示録 20:11

しかし、創造主である神は他の何者にも依存しないで自ら「ある」。世界が存在する前から存在なさる絶対者なのである。主イエスも次のように祈られた。

「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」ヨハネ 17:5

 神は絶対者であり、唯一である。「わたしは『わたしはある』という者である」とモーセに自己紹介なさった神は、自存的なお方である(出エジプト3:14)。自存性というのは、他の何者にもよらず自分で存在するということである。

b.他の神観との区別

ここで他の宗教や思想における神観との区別を簡単にしておきたい。

①汎神論 pantheism 汎神論は「すべては神である」という立場である。したがって、神はひとつということになる。神の存在は万物の存在と同時的なのである。万物は神の現われである。自然なしに神は存在しない。大乗仏教、ネオプラトニズム、スピノザ、ドイツ観念論はその例である。日本でいえば、たとえば「夏草やつわものどもが夢の跡」と芭蕉が詠むとき、人間の営みは限りがあっても「夏草」に象徴される自然は悠久であるという意識がある。つまり、自然を永遠と見ているのである。日本人の世界観には汎神論的気分がそこにある。

 ②多神論 polytheism   神話における神々である。神々は有限であり、多数いて相争ったりするのであるから、相対的な存在である。典型的には古代オリエント神話、ギリシャ神話、北欧神話、古事記など。汎神論は、こうした神々をも包摂するものである。

 ③理神論 deism   時計と時計工の関係に譬えられる。彼らは、被造物というものは、創造にあたっては神に依存したが、その存続にあたっては自存的であると考える。代表的にはチャーベリーのハーバートが理神論者とされる。またフランス革命期の啓蒙主義思想家たち、たとえばヴォルテールなどはほとんど理神論者であった。 ただしdeismという用語自体は、今日では理神論という意味で定着しているが、少し古い米国独立戦争期のジェファソンやフランクリンの書いた文書では、有神論theismと同義で用いられていることもあるので注意されたい。

 ④有神論 theism   聖書的な神観を意味する。創造主は万物を「無からex nihilo」創造し、かつ、これを保持なさる摂理の主でもある。ご自身が創造なさった被造物世界を摂理しておられる。神は超越者であることを基調としつつ、摂理において被造物に対して内在的に働かれる。

(2)神の人格性について

 創世記1章の創造の記事に出てくる、神の行為を表現することばを注意深く観察して見てみよう。

「創造するarb」(1)「仰せられるrma」(3)「見られるhar」(4)「区別するldb」(4)「名づけるarq」(5)「造るhc\[](7)

 これらの行為から、神がどのようなお方であるということがわかるだろうか。いわば神は人間のように、創造し、語り、見、区別し、名づけ、造るお方なのだということを私たちは知る。神は人間のようなお方なのである。

 ここで問題になるのは、アンスロポモロフィズムであろう。神を擬人化しているという問題である。一般にアンスロポモロフィズムというのは、ギリシャ神話や古事記などにおいてゼウスだのアポロンだの、アマテラスなどスサノウだのが、人間と同じような存在として描かれていることをさす。つまり、神々を人間の延長線上にあるものとして描いているというわけである。人間が本体であり、神々はその延長線上の想像して表現されたのだというわけである。

 しかし、後に見るように、聖書は逆のことを語っている。人間が神のかたちに造られたのである。人間が、擬神的存在なのである。したがって、神こそ本来の意味で創造し、仰せになり、見、区別し、名づけ、造るという行為をなさるお方であるということができる。「耳を植え付けられた方が、お聞きにならないだろうか。目を造られた方が、ごらんにならないだろうか。」(詩篇94:9)私たちは不十分な意味で、創造し、語り、区別し名づけ、造るにすぎないが、神は本来の意味でそうなさるのである。

 また、そうであるからこそ、神はご自分の行為を擬人的な表現をもってあらわしてくださり、我々もそれを理解することができるのである。創世記1章にかぎらず、新約聖書において主イエスのたとえ話を見れば、ルカ伝の放蕩息子の父親や、ぶどう園の主人などに、神をたとえていらっしゃる。

 ところで、「創造し、語り、見、区別し、名づけ、造る」存在者とはどういう存在者であろうか。それは、知性と感情と意志をそなえた人格的存在である。聖書においてご自分を啓示なさる神は人格神なのである。

 神が人格的存在であることについて。A.E.MacGrath「キリスト教神学入門」P366以下に述べていることを参照しながら説明したい。

 人格とはなにか?テルトリアヌスによれば、人格とは語り、行為する存在である。もともと人格ペルソナとは演劇における仮面を意味した。ボエティウスは「人格とは理性的本性を備えた個人の実体である」という。

 そしてマクグラスは「人格というのは、社会という劇において役を演じる者のこと、他者とかかわりをもつもののことなのである。」「人格神という観念によって表現されている根本的な思想は、我々がかかわりを持ちうる神であるということ、そして、そのかかわりが人格を持つ他の人間とかかわりと類比的であるということなのである。」 人格神ではない、「哲学者の神」たとえばアリストテレスの神、スピノザの神は人とかかわり被造物を愛することなどはありえないとされた。神とはアリストテレスにとっては自らは動かず他者を動かす者であったが、神以外のものを愛しかかわると、自らのうちに変化が生じるからである。ギリシャ哲学においては、「神とは変化しないもの」であり、「神とは苦しまない者」であるという観念があり、古代や中世の神学者たちは、その枠を聖書の啓示にあてはめてしまったようであり、その営みには相当無理があったと思われる。聖書にご自身を啓示された神は、放蕩息子がとぼとぼと帰ってくると、矢も盾もたまらず駆け寄って接吻してやまない父にご自身を譬えるようなお方であるからである。

(3)聖三位一体

 しかも、この唯一の神のうちには、父と子と聖霊という三位格の間の愛の交流がある。神のうちに多様性とまったき統一性があり、愛の交流がある。

a.1と3

聖書の啓示は、旧約時代から漸進的にprogressiveにベールを外されて来たが、新約聖書にいたって最も明白にこの真理は明かにされる。しかし、旧約聖書でもすでに神には複数の位格があることが暗示されていた。

①「われわれ」 神のうちには複数の人格があるので、神は唯一のお方であられながら、時々、ご自分を指して「われわれ」とおっしゃるようである。「尊厳の複数」という見かたをする人々もあるが)

「そして神は、『われわれに似るように、われわれのかたちに人を造ろう。・・・・』」(創世記1:26)

「私は、『だれが、われわれのために行くだろう。』と言っておられる主の声を聞いたので、言った。・・・」(イザヤ6:8)

②エハドとヤヒード 参考>Theological Wordbook of OT, Moody press, Herbert Wolf

 旧約聖書がかかれたヘブライ語には「1」を意味することばが、二通りあります。ひとつは「エハド」であり、もうひとつは「ヤヒード」。

 「ヤヒード」は、単純に「一つ」「ただ一つ」という意味。たとえば創世記22:2「あなたのひとり子イサク」と用いられたり、詩篇35:17「私のただ一つのものを若い獅子から奪い返してください。」と一つしかない「命」の意味で用いられる(他に詩篇22:20、アモス8:10)。

 他方、「エハド」は、「一つのうちにおける多様性」を暗示する「1」を意味するときに用いられる言葉である。例えば、出エジプト26:6「・・・幕を互いにつなぎ合わせて一つの幕屋にする。」同26:11「天幕をつなぎ合わせて一つとする。」、創世記2:24「ふたりは一体となるのである。」同34:16「・・・私たちはあなたがたとともに住み、私たちは一つの民となりましょう。」、エゼキエル37:17「その両方をつなぎ、一本の杖とし、あなたの手の中でこれを一つとせよ。」などはそうした用例である。

 では、「聞け。イスラエル。」と始まる申命記6:3のみことば「主はただひとりである」の場合にはどちらが用いられているか。実は、「エハド」が用いられている。「主はただひとりである。」という神の唯一性の宣言文には、そのうちに多様性が暗示される唯一性を示すエハドが用いられているのは意外な感じがするだろう。ここに、聖書を通して語られる唯一の神のうちには複数の人格があるという神秘が暗示されている。    また主に遣わされた御使いが神とされているところがある。創世記18:1から 21でアブラハムのところに現われた御使三人のうち一人は主御自身であるとされる。これは新約における啓示から推して、受肉以前の神の御子であると考えられている。なぜなら、御子は特に人への啓示をその務めとされるから。

 また、神の御霊が人格であることが明白に啓示されたところがある。「神である主は私を、その御霊とともに遣わされた。」(イザヤ48:16)「しかし、彼らは逆ら い、主の聖なる御霊を痛ませたので・・・」(同63:10)

 このように啓示されているが、旧約時代において強調されているのは、やはり神の唯一性のほうである。まことの神から遠ざかってしまった人間は、すぐに多神論に陥ってしまうので、まず神は唯一であるということを徹底的に教える必要があるからであろう。

③新約聖書 新約聖書にいたって、神のうちに三つの位格があることが明白に啓示される。御子の受肉と聖霊の注ぎが記述されているからである。イエスのバプテスマと関連して(ルカ3:21,22)。ここで、御子がバプテスマを受けたとき、天の父から声がして、御霊が注がれた。

 主イエスがバプテスマについてお命じになったことばの中に三位一体があきらかにされている。

 「父と子と聖霊の御名」(マタイ28:19)というとき、「御名」にあたる名詞onomaは単数形が用いられているが、これは三位一体の神秘を示している。また、御子イエスは世界の存在する前からの御父との愛の交流について、御父に向かって次のように祈っていらっしゃる。「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょに持っていましたあの栄光でわたしを輝かせてください。」(ヨハネ17:5)「あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」(ヨハネ17:24)

 ほかに2コリント13:13,1コリント12:4−6、1ペテロ1:2などを見ていただきたい。父子聖霊の三位が共に表わされている。

 聖書はこのように神が唯一であること、御父、御子、御霊がそれぞれ神であることを啓示している。御子の神性についての証言は、ヨハネ1:1「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」 エホバの証人は「ことばは神であった」の「神」ということばには、定冠詞がないということを理由に、「神のような者」だといい、それゆえ「ことばは人となって私たちの間に住まわれた」イエスは、神ではなく神のような者にすぎないのだと教えている。

 しかし、ギリシャ語において定冠詞の有無は英語のそれとは意味が違う。例えば、明かに父なる神を表わす十八節の神は定冠詞がない。18「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」また同じヨハネ福音書20章28節「私の主。私の神。」トマスがイエスに向かって「私の主、私の神」と告白する時には、この神には定冠詞がついている。この場合「私の」が限定しているので定冠詞が付くのは当たり前であるが。

 実際には、ヨハネ一章一節の「ことばは神であった」は定冠詞を除いて倒置法とすることによる強調語法なのである。だから、ここは丁寧には「ことばはまさしく神であった」とでも訳すべきところなのである。よってイエス・キリストはまさしく神なのだとヨハネ福音書は冒頭から宣言して始まり、結び近くにおいて疑い深いトマスがイエスに向かって「私の主、私の神」と告白しているという構造をなしているわけである。ヨハネ福音書はイエスの神性を高らかに告白していると読まなければ、聖書読みの聖書知らずとのそしりをまぬかれまい。

 御子が神であるという証言は、ほかに「しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。」(1ヨハネ5:20)などがある。

 では聖霊についてはどうか。しばしば、聖霊は油や風や火にたとえられるので、力・影響力と見られて人格的存在であることを見落とされがちなのだが、これは誤りである。聖霊は人格であられる。詳しくは、聖霊についてのところで学ぶが、たとえば・・・ 「そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」使徒5:3,4。

 欺くというのは、モノを相手にはありえないことであり、人格に対してのみありうることである。風のような人といえば、飄々とした人物をイメージするだろう。火のような人といえば情熱的な人物を思い浮かべよう。聖霊が油、風、火、水などにたとえられるのは聖霊のご性格を表現しているのであって、聖霊に人格がないということではない。人格が風のようであることは可能だが、風が人格であることはできない。

b.愛の構造と三位一体

アウグスティヌスは、『三位一体論』において神の三位一体を説明して、「愛する者、愛される者、愛」の三位一体を説明した。真実の愛は、必ず対象を他に求める。ゆえに自己愛は真実の愛ではない。しかも、神は自存的な方であるということは、被造物を対象とせずとも己の内に、しかも他者として愛の対象を持つということである。ということは、神は被造物から超越した唯一の方でありながら、その内に他者を持たれるということを意味する。主イエスのいわゆる大祭司の祈りを見ると御子と御父の人格的な愛の交流のありさまがうかがえる。

「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」(ヨハネ17:24)

 中世期にサン・ビクトールのリチャード(リカルドゥス)は御子が御父から永遠に生まれたことについて次のように言っている。

 「最高善、全く完全な善である神においては、すべての善性が充満し、完全なかたちで存在している。そこで、すべての善性が完全に存在しているところでは、真の最高の愛が欠けていることはありえない。なぜなら、愛以上に優れたものはないからである。しかるに、自己愛を持っている者は、厳密な意味では、愛(caritas)を持っているとは言えない。したがって、『愛情が愛(caritas) になるためには、他者へ向かっていなければならない』。それで位格(persona)が二つ以上存在しなければ、愛は決して存在することができない。」(de Trinitate,LiberIII−11,caput2,P.ネメシェギ訳)

 さらに聖霊の発出について次のように言う。

 「もしだれかが自分の主要な喜びに他の者もあずかることを喜ばなければ、その人の愛はまだ完全ではない。したがって[ふたりの]愛に第三者が参与することを許さないならば、その人の愛はまだ完全ではない。反対に、参与することを許すのは偉大な完全性のしるしである。もしもそれを許すことが優れたことであれば、それを喜んで受け入れることは一層優れたことである、最もすぐれたことは、その参与者を望んで求めることである。最初に述べたことは偉大なことである。第二に述べたことは一層偉大なことである。第三に述べたことは最も偉大なことである。したがって最高のかたに最も偉大なことを帰そう。最善のかたに最もよいことを帰そう。

 故に、前の考察で明かにしたあの相互に愛し合う者[すなわち、父と子]の完全性が、充満する完全性であるために、相互の愛に参与する者が必要である。このことは、以上と同じ論拠から明かである。事実、完全な善良さが要求することを望まなければ、神の充満する善良さはどこへ行ってしまうであろうか。また、たとえそれを望んでも実現することができなければ、充満する神の全能はどこへ行ってしまうであろうか 。」(ibid.caput11)

 リチャードがあたかも論理必然的に、まことの神は三位一体であらねばならないという話し方をしていることは問題がある。人間はその論理によって、三位一体を知ることはできないからである。が、彼は実際には三位一体を啓示された者として、これを「神は愛である」という御言葉をきっかけとして述べているのであって、これは傾聴に値することであろう。

推薦図書>P.ネメシェギ『父と子と聖霊』南窓社

2.多様にして統一的な被造世界と人間

(1)自然主義(汎神論)と聖書の自然観・人間観

a.自然の被造性・有限性

 創世記第一章におけるたいせつなメッセージの一つは、自然界つまり光、天と地、海、植物、天体、鳥、海の生き物、陸の生き物―昆虫から大きな動物、そして人間までのいっさいが、神の被造物であって神々ではないというメッセージである。というのは、当時のオリエント世界においては、これらはみな神々として崇められていたからである。エジプトではファラオは太陽神の息子とされていたし、ナイル川も神とされ、蛙も神々とされ、糞転がしというコガネムシも智慧の神とされていた。つまり、多神教である。これに対してNOを突きつけたのである。

 創世記一章の記述は私たちを多神教の迷信から解放する力を持っている。  「行く川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と棲家と、またかくのごとし。」という長明の慨嘆においては、うたかたにも似てはかない人と家とが、川の流れに象徴される悠久の自然が対照されている。神すなわちまことの永遠を見失った人は、しばしば自然のなかに永遠を見てきた。自然崇拝である。

 詩人だけでなく科学者たちもビッグバン理論が定説化する前は、恒常宇宙論という立場で、宇宙は永遠であると信じ、神に背を向ける理由とした。永遠なる神を信じないかわりに、永遠なる宇宙を信じたのである。科学的合理主義が限界につきあたった今日では、ニューエイジ思想という名で汎神論(自然宗教)が息を吹き返してきている。スコットランドの学者ジェイムズ・ラブロックが提唱する「ガイア仮説」もまた汎神論的な地球観・自然観である。

 汎神論者にとって、神と人と自然は一つである。あるいは神とは自然であり、人は自然の一つの現われに過ぎない。自然である神は悠久の大海であり、人はそこに現われては消える波にすぎない。

 しかし、聖書はそうは言っていない。永遠者は神のみである。この無限の三位一体の人格神が、ご自分の計画にしたがって無から天地を創造されたので、天地は無限でもなければ永遠でもない。天地は神が許すかぎりにおいて存在するものなのであり、神がその存在を意志されなければたちどころに消滅する。実際、最後の審判のとき、新天新地の創造に先立って、古い天地は消え失せる。「大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。」(黙示録20:11)

b.人間の姿

 創世記 1:27-28  神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

 これと対応するのが、 黙示録20:11,12 「また私は、死んだ人々が、大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。」

 地と天が御前から逃げ去って、跡形もなくなった、その時、そこには何が残るのか。大きな白い御座、裁き主永遠なる神がいますのは当然である。驚くべきことは、その御座の前に人間が立っているという事実である。人は決して永遠者ではないが、永遠者である神の前に責任ある存在として復活せしめられて、そこに立つのである。

「神のかたち」として造られたがゆえに、人は、天地が滅びうせてのち、審判者である神の前になお存在せしめられるのである。これは、自然宗教における人間観となんという大きな隔たりだろうか。

(2)多様にして統一的な世界

「おのおのその種類にしたがって」

a.システムとしての世界

 また、三位一体の神は、この天地は多様にして統一的な秩序ある世界として造られたことが、創世記第一章の天地創造のみごとな記述のうちに表現されている。世界は一つのシステムなのである。

 物質界・植物界・動物界は一つのシステムを成していて、どれを欠いても成り立たない。創造の七日間の「日(ヨーム)」を地質学的な非常な長期間と理解すべきであるという説もあるが、もし事実そうだとすると、植物が造られたのが三日目であり、動物が造られたのが五日目、六日目であるから、植物だけで何百万年も存在していたということになる。しかし、それではシステムとしての世界が成り立たない。たしかに動物は植物がなければ食べ物がなくてすぐに死に絶えてしまうが、他方、ほとんどの植物は昆虫に受粉を助けてもらってこそ、次の世代を残すことができるし、また、かりに受粉を必要としない植物であっても、植物である以上光合成をしなければならず、その二酸化炭素は動物から供給されているからである。しばしば温室の中で石油ストーブを焚くのは、保温のためだけではなく、二酸化炭素を補うためでもある。このように、動物が植物に依存しているだけでなく、植物も動物に依存しているのである。

 また、養分のことを考えても、鳥をはじめとする動物たちが自然界における養分の循環に寄与していることが知られている。養分は物理的には、上から下にのみ向かって移動する。川の流れは森林の根っこにある窒素・燐酸・カリを河口部に運び、そこに昆布などが育ち、魚たちの住みかとなる。養分はこのように山から川、川から海へ、つまり上から下へと流れる。このように物理的な力だけであれば、山の養分は失われる一方である。しかし、実際には鳥を始めとする動物たちが栄養分を下から上へと運ぶのである。鳥は魚を食べ、山の巣へもどっては糞をする。サケは産卵のために川をさかのぼり、そこに産卵した後は、氷漬けになって春には動物たちのえさになり、動物たちは森林をかけめぐって糞をしてまわり、それが森林の養分となる。カナダ、シベリヤ、北海道の森林地帯が維持されているのは、サケたちによるとされる。

 植物の光合成のためには太陽エネルギーが必要である。太陽エネルギーがなければ地上の温度を、動植物のいきられる適温に保つことはできない。しかし、単に太陽エネルギーがあるだけでは、地球の温度が適温に保たれるわけでもない。地球は自転しているからこそ、灼熱の砂漠と寒冷地獄の星にはならない。さらに、地球は傾いているので適温面積が広いのである。さらに、地球には、大気の循環システムがあって、雲によって水が簡単に内陸部まで輸送されるようにされていてこそ地球の温度は適温に保たれ、動植物はまた相互にささえあって生命を維持している。もし大気の循環システムがなければ、内陸部は砂漠となってしまう。

 太陽の運行、地球の自転、大気の循環、植物と動物の相互扶助・・・まだまだ知られていないことはたくさんあるが、とにかく地球環境は調べれば調べるほど知恵に満ちたシステムである。

推薦図書>槌田敦『エコロジー神話の功罪』ほたる出版

b.多様性

多様性については、たとえば、生物についていえば植物も動物も「おのおのその種類にしたがって」造られたとあるように(創世記1:11、12、21、24)、自然界は実に豊かな多様性に満ちた世界である。春の野山を散策してみれば、神はどうしてこんなに多種多様な植物をお造りになったのだろうと驚かされる。しかも、この多種多様な自然界がひとつの調和した全体としてあることは、さらに驚くべきことである。

 聖書の自然観は、「種の起源」を一つの原始的単細胞生物とする進化論的な自然観とは、本質的に異なった自然観である。

キリスト者のうちには、特にインテリを自任するキリスト者のうちには有神論的進化論を唱える人々も多くいるが、筆者は進化論は根拠を持たない仮説であると考えている。ここで詳しくは論じる暇はないが、進化論は確率論からも、天文学(コメットの年齢、隕石の堆積)からも、古生物学(化石における中間種の欠如)からも、遺伝学(平均回帰の法則・種と種の壁)からも、疑問が多い。進化論は、生物は非常な大昔(十億年前と無根拠に言われる)にきわめて単純な姿で一つ出現し、非常に長い時間をかけて多種多様な姿をなすにいたったという仮説である。しかし、自然界に残されている実際の証拠は、生物は過去のある比較的最近のある時点に、突然、多種多様な複雑な姿で、地球上に出現したことを告げている。まさに生物は「種類にしたがって」出現したのである。

 御霊と主と父なる三位一体の神の作品が、豊かな多様性をもちつつ、しかも一つであるということは、「キリストのからだ」と呼ばれる教会の姿を思い浮かべても容易に理解できよう。足には足、手には手、耳には耳、目には目の役割があり、しかも、調和して互いに生かし合っているのである。「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」(1コリント12:27)神の作品のうちには、聖三位一体の多様性と統一性が影を落としているといえるのではないか。

 神学において、こうした議論をすることをアナロギア(類比)の論と呼ぶ。トマス・アクィナスは、これをanalogia entisすなわち存在の類比と呼んだ。スコラ哲学者が有限なものから無限なものへとアナロギアによって推論を展開したことには行き過ぎがあった。ウィリアム・オブ・オッカムは、知られている有限から知られない無限を類比によって推論することの誤りを指摘した。もちろん神は創造者であり、被造物は創造主にその存在を依存しているのだから、両者のありかたの質的違いを見落としてはならない。しかし、聖書的に見て、両者の無限者と有限者、自存者と依存者、絶対者と相対者という質的違いをわきまえつつ、そこにアナロギアがあることはみとめて良いのではないだろうか。たとえば、神は人をご自身のかたちに創造された。ゆえに、神と人との間にはなんらかの意味での類比が存在している。だからこそ、そこに祈りにおける人格的な交流がありえる。また、神の三位一体と、神の作品である教会の多様性と一性とにはこのようになんらかの類比があると聖書は暗示している。1コリント12:4−6という教会における一致と賜物の多様性を語ろうとする始まりの部分において、「さて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。」というふうに「御霊・主・神」の三位が組になって啓示され、その後に教会の多様性と一性が啓示されていく。エペソ4:4−6でも「御霊、主、父なる神」という三位一体との関連で、教会の一致が啓示され、教会の賜物と務めの多様性が語られる。

 パスカルも『キリスト教弁証論』の草稿集『パンセ』(ラフュマ版第一部)の結論の直前部分「キリスト教的道徳」のつづりの中に次のように言っている。「神につけば一つの霊となる。われわれはイエス・キリストの肢体であるがゆえに、自己を愛する。われわれは、イエス・キリストが全体であり、われわれがその肢体であるがゆえに、イエス・キリストを愛する。三位一体のように、全体は一つであり、一は他のうちにある。」L372、B483

 さらに発展させて考えてみれば、「多様性と統一性の両立している存在のみが、豊かな意味深い存在である。」それはあらゆる存在においてそうなのである。たとえば一幅の絵画であっても、一編の詩であっても、料理であっても、そこに多様性と統一性があってこそすばらしい作品ということができる。

 芭蕉の芸術理念に「不易流行」ということばがある。不易とは「変らない」ということである。以前、フエキ糊というのがあったが、あれは、それまでの米で作った糊がかびが出たのに対して、防腐剤を入れて変質しないように改良した糊ということである。つまり不易とは時代を超えて変らない普遍的なもの、すなわち伝統ということ、すなわち「一」の原理である。他方、「流行」というのは時代に応じて変ること、すなわち「多」の原理である。芭蕉は伝統と流行とが切り結んだところにこそ、よい俳句ができると考えたのである。

 存在は多様性のみで、部分同士が相互の関連を失えば、ばらばらになって無意味になってしまう。他方、統一性だけでは、個が全体に埋没して無意味なものになってしまう。社会の形態に当てはめてみれば、個人がすべてであるという個人主義は社会を破壊してしまうし、逆に全体主義も人間の個性を奪って均質化され社会の豊かさを破壊してしまう。

 この世界の多様性と統一性の見事な調和は、創造主の見事な腕というほかない。まことに世界は三位一体の神の影が落とされている作品である。

(3)時と歴史について

 たいへん重要な項目であるが、これは堕落後の問題を含むので、ヒントだけ言って、詳細は後に扱う。世界には創造による始まりがあり、審判による最後がある。始まりと終わりのある時間がある。したがって、「今」は常に特別な点である。今という時は一回限りであり、二度と来ないのである。

 同時に、時は、暦、季節、日、年のために設定された天体によって(創世記1:14)、繰り返しつつ前に進む。ここで創造主が空間と時間とを関係づけておられるのは、興味深いことである。

レビ記24‐25章には循環的な時がある。時は、循環しつつ前進する、つまり螺旋的な進み形をするのである。一本の線としての時でありながら、それが繰り返されるという構造は、時における多と一の構造なのであろう。しかも、その時の循環は地球の自転と公転という空間運動との関連によっている。

(4)被造世界の認識における統一性と多様性

 オランダの法哲学者ヘルマン・ドーイウェルトは、『理論理性の新批判』において、カントの認識論の批判をし、新たな認識論を打ち立てた。まだその価値は十分に理解され味わわれたとは言いがたいのではなかろうか。ドーイウェールトによれば、われわれの意味ある認識は宇宙的時間によって15の様態的側面modal aspectsに分節されていくことによって、成り立っている。被造世界は15の意味・価値の側面があるのであり、それぞれの様態的側面はそれぞれ固有の核modal kernelを有していて領域主権を有しており、互いに還元することはできない。デカルトやカントの場合、分析論理的側面を絶対化(偶像化)してしまったのである。

15 信仰的側面 14 道徳的側面 13 法的側面 12 美的側面 11 経済的側面 10 社会的側面  9 言語的側面  8 歴史的側面  7 分析論理的側面  6 感覚的側面  5 生物的側面  4 物理化学的側面  3 延長的運動的側面  2 空間的側面  1 数的側面    たとえば「ここに1冊の聖書がある」という事態について考えて見よう。聖書は1冊であるとか、1900ページから成っているという数的側面がある。この1冊の聖書は日本のこの町のこの学校のこの教室のこの教卓の上という空間を占めているという空間的側面がある。この聖書はつい10分前までここにはなかったが、聖書はあちらからこちらに運ばれたという延長運動的側面がある。また、この聖書は化学的に分析すれば紙の成分、表紙のビニールの成分、インクの成分がそれぞれ化学式で説明できるであろう。また、この紙は植物繊維のパルプから作られたという生物的側面があり、この聖書を触ってつるりとした触感を感じ、臭ってみればインクとビニールのにおいがし、見た感じは黒に金文字が視覚に入ってくるという具合に感覚的側面がある。聖書の文章は分析論理的に把握される面があるが、それだけでは不充分で歴史的背景を知ることが必要であり、また、言語的側面としてはこれがヘブル語とギリシャ語から現代日本語に翻訳されているということもある。また聖書の内容には社会的背景がありまた、聖書が社会に及ぼしている影響ということもある。この聖書は5000円であるという経済的側面があり、また、この聖書のことばの表現の美的な側面、また聖書装丁のデザインの美的側面もある。またこの聖書の版権を問題にすれば、聖書には法的な側面があることがわかる。また、聖書の内容には人がいかに生きるか、社会正義はいかなることかという道徳的な教えの側面があり、そして聖書は神と人との関係における信仰的側面がある。

 このように1冊の聖書を取ってみても、そこには多様な側面――とりあえず15と考えられているが――があるわけだ。しかし、人はえてしてそうした多様な側面の一部しか見ることが出来ず、その一側面にすべての価値を還元できるかのように考える還元主義者は、思想的偶像崇拝に陥っている。これがもろもろのイズムである。「愛や正義という観念など大脳における電気のパルスでしかない」として説明して得々としている愚かな分子生物学者は物理化学的側面の偶像崇拝に陥っている。下部構造が上部構造を決定するといって一切の社会現象を経済的側面から説明して得々としているマルクス主義者は経済的側面の偶像化をしている。また人間の思考・感情をすべて性欲から説明できるというフロイト主義者は生物学的側面の偶像化をしており、聖書を解釈するのに法律的観点から説明し尽くせるかのごとき言いかたをする法律家の神学者は法的側面の偶像崇拝者であり、イエスを単なる道徳的教師として理解しようとした「史的イエス」探求者は道徳的側面の偶像崇拝者であり、イエスに注がれた高価なナルドの香油について「ああもったいない、これを売れば300デナリになったのに。」と換算した弟子は信仰的側面を経済的側面に還元した拝金主義に陥っていた者であった。講義の終わりの方でとりあげるデカルトは、分析論理的側面のみを絶対化したために、歴史を見落としてしまったし、デカルト的思惟がフランス革命の悲劇の一因となった。敬虔な信仰者が陥りがちなのは、狭義の信仰的側面の絶対化であろう。お金があれば献金することだけが意味ある行為であって、食事をしたり、部屋の飾りつけをしたりすることは単なる無駄遣いであると考えるというようなことである。

 道徳的側面と信仰的側面の質的違いについて深い考察をしたのは、キルケゴール『おそれとおののき』である。彼はここでアブラハムのイサク奉献を取り上げて、あの場面においてイサクを殺すことは信仰的側面というものと道徳的側面との質的なちがいを際立たせている。

 ともかく、神は多様にして統一的な豊かな世界を用意された。私たちは、これを享受することが許されている。

推薦図書>H.ドーイウェールト『西洋思想のたそがれ』法律文化社      J.M.スピアー『カルヴァン主義哲学』1967

(5)聖書解釈と人生の解釈――多様性・統一性・歴史性をわきまえる

 神の造られた作品の理解において、多様性と統一性と歴史性は決して見落としてはならない三要素である。聖書啓示の解釈ということを考えるときに、これはたいへん重要。

 聖書啓示の構造自体が、多様性と統一性と歴史性によって成り立っているのであるから、それを見落としてはならない。神様は聖書を啓示なさるにあたって、多くの聖書記者たちの能力・性格・環境など多様なものをお用いになった。しかも、聖書は1冊の統一性ある書物として啓示された。そして、啓示は無時間的な体系として与えられるのではなく、歴史の中に――実に1600年ほどもかかってプログレッシヴに与えられるように摂理されたのである。

 こうした聖書の統一性・多様性・歴史性をわきまえて聖書を解釈するときに、意義豊かな聖書解釈が成り立つ。

 正統主義神学の傾向として、聖書の統一性のみを強調したということがあったと言えよう。聖書は教義のプルーフテキスト集のように扱われ、聖書そのものを読むということは信徒にも勧められなかった。そこでは聖書のもつ豊かさが十分に享受されたとは言いがたい。

 逆に、各書を独立的に扱って、パウロ神学、ヨハネ神学、マルコ神学といったことを強調しすぎて、その統一性を犠牲にすることも間違いである。今日の自由主義的な聖書解釈には、こちらの傾向が強い。さらには、各書の統一性をも破壊して、文書資料に分解してタマネギの皮むきのようなむなしい作業をしたということもあった。そこには、多様性のみによる断片化が生じるのである。そこではそもそも組織神学ということが成立すること自体が否定された。さらにポストモダンの聖書解釈は、解釈者の勝手解釈を推奨する傾向がある。いよいよ多様性のみ偏重することによる断片化と無意味化が進むことはいうまでもない。

 聖書の統一性・多様性・歴史性をわきまえて聖書を解釈するときに、意義豊かな聖書解釈が成り立つ。

 あなたの人生も神の作品であることをわきまえるならば、あなたの人生の解釈にも統一性と多様性と歴史性の三要素が適用される。人生の岐路に立つときには、三つの問いを自らにしてみよう。一つ目は「私にもできることはなにか?」である。神があなたをキリストのからだのうちにお召しになった以上、あなたにもできることが必ずある。二つ目の問いは、「私にしかできないことはなにか?」からだは多様な器官から成っているから、あなたにしか、できないことがあるはずである。三つ目の問いは歴史性に関すること。人間は年をとる存在である。「今ならばできるけれども、十年後には出来なくなっていることはなにか?」このように三つの問いをするならば、おのれの人生に対する主の導きを知るために助けになる。

4.人――玉座から落ちた王(創世記1−4)

(1)神との関係――善悪の知識の木

a.神のかたち

 被造物世界のなかで、人間は特徴ある立場を持つ。それは、神が人間を「神のかたち(ツェレム、デムート)」として創造されたからである(創世記1:26、27)。それゆえ、先に述べたように、人間は最後の審判において地と天が御座の前から逃げ去って跡形もなくなったその時にもなお、御座の前に立つべき責任ある存在なのである。 ところで「神のかたち」についていろいろな議論がある。古代教会のオリゲネス、テルトリアヌスは「神のかたち(ツェレム)」と「神の似姿(デムート)」を区別して、前者は堕落によっても失われることなく維持され、後者は堕落によって失われ救済によって回復されるものと考えている(オリゲネス『諸原理について』IIIvi1,テルトリアヌス『洗礼について』5。、A.マクグラス『神学入門』pp600-601)こうした区別は創世記9:7で堕落後の人間においても「神のかたち」があると述べられていることからも裏書きされうるので、簡単に見捨てるにはもったいない。

 ベルカウアー(Man, the Image of God)、K.バルト(我と汝の関係として造られたところが三位一体のかたちだとする)などは、「神のかたち」についていろいろな議論をしているが、ここでは伝統的な改革派神学の表現で整理しておきたい。「神のかたち」の意味する内容は、「真の知識」と「聖」と「義」であることがキリストにあって新生した人のうちに回復する神のかたちにかんする記述からわかる。新生した人は「真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出され」たとあり(エペソ4:24)、また「新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至る」とある(コロサイ3:10)。

 「真の知識」とは真の神を畏れる知性、「聖」とは真の神のみをあがめる宗教性、「義」とは真の神に従う道徳性である。人間は、有限であるゆえに他の被造物と同じく、神の御前にはちっぽけな存在である。しかし、人間は知性と宗教性と道徳性とを備えた神のかたちとして造られたゆえに、神に対しては霊的交流を持つことができ、人に対しては人格的交流ができ、他の被造物に対してはこれを統治・保護する任務がある。人間における、真の知識は預言職、聖は祭司職、義は王職を果たすための基本的な能力である。

b.労働と環境保全

 神は何のために人間をご自身のかたちに造られたのか。それは、人間が神の代理として被造物を支配するためである。この聖書の主張は、環境破壊を嘆く人々の間ですこぶる評判が悪い。いわく「キリスト教は人間を他の自然から特権的な立場においたゆえに、ヨーロッパ文明は自然を破壊してきたのである。」と。たしかに、古代教会がヨーロッパの森林に住むゲルマン人・ケルト人たちに宣教するにあたって、宣教師たちが彼らの前で彼らが神と崇める大木を切り倒すといったデモンストレーションをしたという記録がある。しかし、それは森林破壊というものではなく、偶像破壊にすぎない。ゲルマン人たちが、神木に動物や人間の子どもをいけにえとして捧げていたから、彼らをそういう迷信から解放したのである。創世記1章26節のみことばは、人間を被造物崇拝の迷信から解放する力を持つ。

 しかし、人間の被造物支配は決して暴君的なものであってよいと聖書は教えていない。人間は神のかたちに造られた者として神のみこころにそって、被造物を支配することが求められているのである。では神のみこころにかなう被造物の支配とはどのようなことであろうか。それは創世記2章15節に示されている。

「神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。」  すなわち、「耕し、かつ、守る」ことをもって被造物を支配するのである。神は被造物を利用することを許しておられるが、それを収奪し尽くすことは許しておられない。むしろこれを保護することを求めておられるのである。

 ちなみに歴史を振り返ると環境破壊は、キリスト教文明にかぎらず、多神教文明でも行なわれてきた。多神教が支配していた古代メソポタミアは森林であったが、森林伐採によって農地・放牧地を広げ、灌漑農法をするうちに、地下水や河川の水に含まれる塩分のせいで塩害が起こり、農地は耕作不能となってしまい、砂漠化したことが指摘されている。ヨーロッパもかつて森林がおおっていたが、中世中期に農業革命が起こり農地が拡張されるために森林は伐採されていった。さらに大航海時代になると軍艦建造競争が始まり、各国は競って森林を伐採して軍艦を建造した。一つの軍艦ができるためには、一つの森が消失したといわれる。産業革命以降も同じことである。結局、環境破壊の一番の要因は経済的なもの、つまり、主イエスが指摘なさった最大の偶像である富マモンなのであり、人間の貪欲なのである。

「 だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」マタイ6:24

したがって環境保全を実効あるものとするためには、人間の貪欲をコントロールすることを工夫しなければならない。

 それはさておき、神は「耕しかつ守れ」とおっしゃって、労働の一部として環境保全を命じられた。

c.善悪の知識の木

善悪の知識の木がりんごであると思っている人が結構いる。アダムとエバを描く絵画においてりんごの絵が描かれたからであろう。 善悪の知識の木lignum scientiae boni et maliの実がりんごとして描かれるようになったわけは、ラテン語聖書において、善悪の「悪」にあたることばmalumのスペルが「りんご」malumと同じであることから連想され誤解されたのである。

 アップル・コンピュータでかじられたリンゴAdam’s appleがデザインされているわけ。biteとbyteをかけたのであるというが、かじられたリンゴについては諸説あって定説はない。恐らくコンピュータの知識が人にとって本来禁断の知識であるという意味であろう。

ア.サクラメントまた神の権威の代表(象徴)としての善悪の知識の木 ――「善悪の知識の木」という名の意味

この木について、「善悪の知識の木」と呼ばれているのは、ただ2回であって(2:9,17)、他の個所では「園の中央にある木」(3:2)「賢くするというその木」(3:6)「わたしが食べてはならないと命じておいた木」(3:11)と呼ばれることから、この名にさしたる意味を認めない解釈者もいる(榊原康夫)。しかし、それはいかがなものか。

*旧約聖書の広い文脈において「善悪の知識」とは  善悪をわきまえないことは、幼子の未熟さを意味し(申命記1:39)、年老いて愚かになったことを示す(2サムエル19:35)。「善悪の知識」がないことが未熟さ、愚かさを意味するとすれば、「善悪の知識」があることは成熟や賢さを意味するというふうに逆算できよう(Keil-Delitsch)。

 積極的には、聖書において善悪をわきまえる力は神が王に賜るものとされ(1列王3:9)、神の御使いの知恵(2サムエル14:17)とされている。そして善悪をわきまえることは、最高の意味では神ご自身に帰せられることである(創世記3:5,22)。(以上、カイル・デリッチp85)つまり、「善悪の知識」は本来的には神に属するものであり、理性的被造物である人が善悪の知識を持つという場合は、神がこれを彼らにお与えになっているというかぎりでよいものなのである。

 釈義的原則からしてみると、まず、最も近い同じ文脈における「善悪の知識」を中心に理解すべきである。

ここでは、創世記3章5節と22節に見るように、「善悪を知るようになる」ことが、「神のようになる」ことと同値として扱われていることがわかる。「善悪の知識」はここでは本来的に神に属するものとされているのである。人間のばあいは、神がお定めになった善悪の基準にかなって善悪をわきまえることが、知恵とされる。だから、王が善悪をわきまえることは神からの賜物とされている。しかし、神においては、神ご自身が万物の主権者でいらっしゃるから、神を超える善悪の基準があるわけではない。神ご自身が善悪の基準なのである。神が善とすることが善であり、神が悪とすることが悪である。これは絶対の主権者である神においてのみ正当な行為である。とはいえ、善悪の基準と神が別個にあるわけではない。神ご自身が最高善でいらっしゃるのである。

 被造物にすぎない人間が、主権者である神の戒めに背いて、善悪の知識を得ようとすることは、自ら神のようになろうとすることにほかならない。それは言いかえると、自分が善悪を定める権威があるとすること、すなわち、己を自律的(autonomous)な存在であるとすることなのである。神に対する反逆である。これこそ、あのへびの誘惑であり(創世記3:5)、最初の夫婦が犯した罪であった(創世記3:22)。彼らは、神のように全知全能の絶対者になったという意味で神のようになったわけではないが、その資格も実力もないのに自律的自存的な者として思い上がるようになったという意味で「神のようになった」のである。

新聖書辞典(いのちのことば社)はたいへん簡潔に要所を示す。 「霊的にこれを理解すれば、いのちの木とは信仰の木であり、神を信じ、神を愛し、神に従う心構えの木であり、善悪の知識の木とは、自分の知恵で何が善で何が悪であるかをわきまえる道徳的判断の木である。」

イ.神が禁じたまうたというそれだけの理由で    アウグスティヌスは「罪はたんに食物にかんしてなされたのであって、その食物がただ禁じられていたということのほか、悪しきものでも有害なものでもなかった。というのも、神は、あのように大きな幸せの場所に何か(筆者注:悪しきもの有害なもの)をつくられたり植えられたりなさらないであろうから、と。」(『神の国』14:12)という。つまり、「善悪の知識の木」が(神を離れて)それ自体に魔力や毒があるとか、その木の実に知識を与える成分があったといった神話的理解はあやまりであって(カイル・デリッチ、キドナー)、「その掟によって、この被造物にご自身が主であることを思い出せて、かれらにご自身への自由な奉仕を委ねられた神であった。」(『神の国』14:15服部訳p322)つまり、善悪の知識の木は、園に対するそして人に対する神の主権のシンボルであった。

 契約神学の立場から、ここに創造の契約を読み取る立場からは、善悪の知識の木は「契約のしるし」サクラメントであると解釈される(G.Vos、Biblical Theology)。すなわち、ノアに対する契約において虹がしるしとされ、アブラハム契約において割礼がしるしとされ、キリストにある新しい契約において、パンとぶどう液がしるしであるように(Lk22:20)、善悪の知識の木は創造の契約における契約のしるしである。

 聖餐においてパンと葡萄酒それらの物質自体に効力があるのではなく――そう考えると魔術になる――、聖餐を定めた主のことばによって意味と効力が生じるように、その木の実の物質それ自体に意味はないが、神のことばが禁じたがゆえに、意味が生じたと理解することがたいせつ。

 だからこそ、この木にどう対するかが、純粋に神に対する従順・不従順のテストとしてふさわしかったのである。もし木の実自体になんらかの毒や効能があったとすれば、神の禁止をはなれても、毒があるとか効能があるからという理由で、人が食べなかったり食べたりするということが起こったであろう。そうなると、神のことばが神のことばであるがゆえに服従するという中心点が不明瞭になってしまう。

 「けれども、掟においてとくに求められていたのは従順であった。従順はある意味で、理性的被造物においては、すべての徳の母であり保護者の役割をもつものである。たしかに、被造物のつくられた条件というのは、服従していることがそれにとって有益であり、かつ、それをおつくりになったかたの意志のかわりにそれ自身の意志をなすことがそれにとって有害であるというものだからである。」(アウグスティヌス同上個所)

 榊原康夫は次のように言う。 「人はわけもわからずに、中央の木だけを食べるなと、禁じられました。彼にわかっていることといえば、なぜだか知らないが神はこの木を禁じておられるということだけでした。人は訳がわかるからでなく、神がそう言われたという理由だけで、神の言い付けを守らされるわけです。・・・神のみ言葉にしたがっている場合でも、それが神のみことばだからだというより、自分にも納得がいくから従っているということが多くなります。自分に納得できないところは、神のみことばから除外し、飛ばして聞き、無視しがちです。・・・私たちは自分も賛成できるから神の言いつけに従うのではなくて、神のみことばだからというただそれだけの理由で、従うべきなのです。」(榊原康夫『創造と堕落』p123)

 「わけがわかったから、納得できるから、従う」というのは、実は、従っているのではなくて、自分がしたいことをしているにすぎない。主に従うということ、主を信じるということの意味をよく考えて見よう。

 また、あの善悪の知識の木は、人に対して神の権威を代表するものであった。善悪の知識の木を犯すことは、神の権威を侮ること、反逆を意味していたのである。

(2)神に対する反逆

 蛇―サタンと聖書解釈原理(神戸集中のためにキリ神特別講義に付加) 「さて、神が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に行った。『あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。』」(創世記3:1)

 神に対する人間の反逆という問題について入る前に、どうしても誘惑者である『蛇』について考える必要がある。蛇の紹介にあたり、『神が造られたあらゆる野の獣のうちで』と書かれていることを鑑みれば、この蛇をすなわちサタンということはできない。サタンが蛇を自分の道具として、誘惑に用いたと理解すべきであろう。

 世界観を論じるとき、神・人・自然という三者の関係として論じられることがあるが、聖書的観点からいえば、もう一人の役者サタンを見落としてはならない。サタンの実在を見落とすと、現実が見えなくなるであろう。実際、サタンは今日でも暗躍しているからである。私たちはサタンの策略を見抜かなければならない。

 創世記3章1節以下の女への誘惑において明らかになる点のひとつは、サタンはときに神の言葉の解釈問題について誘惑を仕掛けてくるということである。

 女は、「この木に触れてもいけないと神は言われた」と言った。サタンの術中にはまって、善悪の知識の木を魔術的なことがらとして考えているらしい。

 荒野の試みにおいて、空腹のきわみにあった主イエスにサタンが「石をパンに変えよ」という誘惑をしたところ、主イエスが旧約聖書申命記を引用して撃退された。そこで、サタンは今度は旧約聖書詩篇を引用して主イエスを試みた。これに対して主イエスはさらに旧約聖書の引用「あなたの神である主を試みてはならない。」をもって答えた(マタイ4:6−7)。これは、正しい聖書解釈はなにかをめぐるサタンとの戦いなのである。ある聖書注解者は、サタンの旧約聖書解釈がまちがっているということを、文脈や文法などから長々と議論しているが、その作業はナンセンスである。タンと対峙している緊急のときに、BDBやゲゼニウスを引用して、原語ではこういうことばだとか言う釈義の議論をしてなんの意味があるだろうか。ここでの主イエスの返答は、神を畏れ愛するという態度をもって聖書を解釈することの重要性を私たちに教えている。聖書解釈は、単なる文法的・歴史的に正しければ正しいということではすまない。解釈者の神に対する愛の態度が重要なのである。

第一スイス信条第二項を見ておきたい。 「2 聖書の解釈について  この聖にして神的なる聖書は、まさにそれ自身からのみ、信仰と愛との規準によって、解釈され説明されるべきものである。」

『ウェストミンスター信仰告白』は聖書解釈について、神と神のご計画については、「聖書の中に明白に示されているか、正当で必然的な結論として聖書から引き出される」といっているが、聖書解釈の態度としての神への愛や信仰に触れていない。これは欠陥ではないだろうか。

 J.H.リースは言う、「改革派の解釈学は、解釈原理として愛の法則を主張していた。律法の要約は、神を愛し、隣人を愛することである。それゆえ、すべての聖書解釈は愛を深めるのであり、兄弟愛を築けないなら、どのような解釈も再検討されねばならない。・・・(中略)・・・しかしながら、ウェストミンスター信仰告白から解釈原理としての愛の法則が抜け落ちてしまったことは、破壊的な結果を後にもたらすことになった。教理が信仰生活から遊離してしまう傾向を招いたのである。」(『改革派神学の光と影』pp100-101)。

「問6 では、神についての真の正しい知識はなんですか。  答 神をあがめる目的で神を知ることであります。」(ジュネーブ教会信仰問答)

b.「神を見ること」と「御顔を避けること」 「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。」(創世記3:8)    あたかも夕暮れどきの散歩のように、「園を歩き回る神」という表現は、比喩として取られるむきもあるのだが、むしろ筆者としては、受肉以前のロゴスが人としてのかたちを取って来られたという解釈を取りたい。人にいとも親しくご自分を適応させてくださる主である。この解釈は創世記において受肉以前のロゴスが人の姿として何度か出現していることからも、無理のない解釈である。アブラハムにも旅人の姿をもって近しく臨んでくださったあの主のお姿(創世記18:1,13)、ヤコブとすもうまで取ってくださった主のお姿である(創世記32:22−30)。そして、これは、後の日に人となって地上にくだり、私たちと同じようになってくださった主イエスのお姿の予型であると読み取れる。実際、主イエスご自身が、受肉以前にご自分がアブラハムに会ったことを示唆していらっしゃる(ヨハネ8:56−58)。

 善悪の知識の木から取って食べる前には、あたかも人のように親しく臨んでくださる主の前に出ることはアダムにとってこの上ない喜びであった。しかし、今や、彼らは「主の御顔を避けて園の木の間に身を隠さ」なければならなくなった。

 「主の御顔を見る」「神を見る」ことは人間にとっての究極の祝福を表わす。この個所と直接に対応するのは、新しい天と新しい地にあって神の民が神の御顔を仰ぎ見るといわれているところである(黙示録22:4)。アダムにあって失われた、御顔を仰ぎ見る祝福が、この御国の完成の時に回復する。

 本来、「神の御顔」を見ることは、人にとってすばらしい祝福だった。だが、堕落以後、それは人にとって恐怖となり、神の御顔を見る者は死ぬと信じられた(創世記32:30、出エジプト3:6、イザヤ6:5etc.)。旧約時代にあって、親しく神を見ることが許されているのは極度に特殊な例であり、モーセのみといってよい(民数記12:8)。大祭司アロンにさえそれは許されなかった。

 終わりの日に神の御子が受肉され、十字架と復活によって、恩寵において、神との交わりが著しく回復された。これによって、神を見ること、神の御顔を見るということが、一般の信徒に、もうひとたび祝福として帰ってきた。アダムの堕落以来の画期的なことである。主イエスは山上の祝福において、弟子たちに対して言われる。「心のきよい者はさいわいです。その人は神を見るからです。」(マタイ5:8)。キリストにある者は、すでにこの世にあってある程度、神を見ているのであるが、それはあたかも古代の銅鏡に映すようにぼんやりと見ているにすぎない(1コリント13:12)。しかし、究極的な祝福にあずかるときには、「顔と顔とを合わせて見ることになる。」(同)  ちなみにアウグスティヌスは「神を見る」ことと関係させて聖化論を『三位一体論』で展開している。関心ある人は読まれたい。

 善悪の知識の木から取って食べ、自分が「神のようになった」とき、人は神を見ることができなくなってしまった。神は恐怖の的となり、人は神から逃げ出すようになってしまったのである。また、善悪の知識の木からとって食べた人間は、自分を神のように考えているので、まことの創造主の指導・支配をいとわしく思うようになったのである。ちょうど放蕩息子が、父親の監督をいとわしく思うようになったように。

 参照>マックス・ピカート『神からの逃走』

c.サタンの奴隷,被造物の奴隷

 善悪の知識の木から食べた人間は、このように自律者としての誇り、自分は神のようなものだという傲慢に膨れ上がっている。「私は神である、私の私による私のための人生である」とうそぶいている。しかし、実態はどうだろうか。  実際には善悪の知識の木から取って食べた人は、サタンの罠にかかり、罪の奴隷、被造物の奴隷となってしまう。その被造物は神に代わる偶像である。

 家の家による家のための人生  カネのカネによるカネのための人生  会社の会社による会社のための人生  国家の国家による国家のための人生  思想的には、××主義ということになる。

 ちなみに、ヘルマン・ドーイウェールトはさまざまな「主義」とは、被造物世界における15の様態的側面modal aspectsの一つを取り上げて、これに一切を還元しようとする思想的偶像礼拝にほかならないと指摘している。

d.聖書的な神観・人間観と 異教のそれとの本質的相違

 サタンはアダムを誘惑するとき、「あなたがたは善悪を知るようになり、神のようになれる」と言った。被造物にすぎないものが、神のようになろうとする。ここに罪の本質がある。

 ここに異教思想との根本的な違いがある。異教にあっては、人が神になることこそ、究極的理想とされるのである。ギリシャ思想において人の不幸は人が神のようでないことにあるとされる。そして、ギリシャ思想における理想は、人が神のようになることにほかならない。人は弱い、強くなって神のようになることが理想なのである。 哲学の例でいえば、「一者」との合一を目指すプロティノスの瞑想がある。しかし、これはギリシャにかぎらずインドにおいても同じ。ブラフマン(宇宙の最高原理、大宇宙的概念)とアートマン(個体の本質、自己、小宇宙的概念)の合一。梵我一如。ブリハド・アーラヌカ・ウパニシャッド第四章『自己の探求』参照

「ウパニシャッドの確信をなすのは、いわゆる『梵我一如』――ブラフマンとアートマンとが本質的に一体であるという思想である。ブラフマンは宇宙の最高原理として、アートマンは個体の本質として、先行する時代からすでに重要な概念となっていた。ウパニシャッドは一歩進めて両者を神秘的に合一化したのである。そしてその同一化を成り立たせたのが呪法の論理であり、大宇宙と小宇宙との等質的対応の思想であった。」(服部正明)  現代のニューエイジ・ムーブメントにおける救いの理解も、これと同じことである。

 ところが、聖書は、人が人であることにとどまらないで、神のようになろうとするところに罪を見る。人が己の越えて思い上がることが罪。御使いの堕落も、その点にあった(ユダ書6)。異教においては、人が神となることに人類救済の理想を見るのだが、聖書はむしろ逆に、神が人となられたという受肉の出来事にこそ、人類救済のかぎがあるという。

 では、「あなたがたの父が完全であるように、あなたがたも完全でありなさい。」といわれた主イエスのみことばはどのように理解されるべきか。文脈的には、「あなたの敵を愛しなさい」という命令にかんするところ。これは人が本質において神と合一することを意味しない。神の愛を模範として、愛を実践せよという意味である。神のかたちとして造られた人として、「神のかたち」である分にとどまりつつ、神のかたちらしく生きよとも言えようか。あるいは、神が人となられた主イエスの、その完全な人性にならって生きよと言っても良いのであろう。

<付加的考察>  東方教会において救済を「神化(theosis)」と理解する神学的伝統がある。 「アタナシオスにとって救済は、神の存在への人間の参与にある。神のロゴスは受肉によって人間に分け与えられるのである。普遍的な人性という前提に立って、アタナシオスはロゴスは単にイエス・キリストという特定の人間存在をとっただけではなく、人間の本性一般の存在をとったのであると結論する。その結果、あらゆる人間は受肉から来る神化に参与出来るわけである。人間の本性は神の存在に参与するという目的をもって創造された。ロゴスが降ってくることで、この能力が最終的に現実化されるのである。」(マクグラス『入門』pp589-590)

「神的位格としてのキリストが降ること(katabasis)で人間は聖霊において上昇すること(anabasis)が出来るようになった。神の子の自発的な謙卑、贖いをなす自己無化(kenosis)が起こることは必要であった。罪に堕ちた人間が本来の召命であるtheosis、つまり造られざる恵みによる被造物の神化を達成するために、である。こういうわけでキリストの贖いの業は、むしろもっと一般的に言うならば言の受肉は、被造物の究極的目的である神との結合を知ることと直接に関係している。この結合が人となった神である神の子の位格において達成されたのであれば、今度はそれぞれの人間が恵みによって神となること、聖ペトロの言葉によれば『神の本性にあずか』る者となること(2ペトロ1:4)が必要となる。」

 東方教会の伝統とはいえ、筆者(水草)としては、ここに異教的な臭いを感じる。すなわち、ギリシャ的な宗教の伝統が入り込んでいるのではないか、と。 もっとも東方教会の神学では、神に反逆して自力で神になろうとしたことがアダムの罪であり、神の恩寵によって神化されるということは人に対する本来的な召しであるとして、神に対する反逆によって神化を目指した過ちと、恩寵によって神化を受けることとを用心深く区別するのではあるが。

 参考図書>高橋保行『ギリシャ正教』(講談社学術文庫)       日本ハリストス正教会教団『正教要理』

e.「善悪の知識の木」の現代思潮認識への適用

ア.自律的理性の問題  神が善とすることが善であり、神が悪とすることが悪である。神こそが善悪を決定する権威者である。善悪の知識はもともと神に属しているものである。人がこれからとって食べるということは、人が思い上がって神の権威を侵し、自ら神のごとくに善悪を決定する権威を持つという思い上がりを意味している。その罪の内容とは、権威に対する反逆である。

 蛇は、3:11「あなたがたがそれを食べるそのとき、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」と誘惑した。これはあながち嘘ではなかった。実際、人の堕落後、神ご自身が「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。」とおっしゃっている(創世記3:22)これをうがって神の皮肉を読む見解もあるが(清水武夫)、うがちすぎな解釈であろう。人は善悪の知識の木から取って食べたという行為によって、神の主権に服さないで、自律的な(autonomous)存在、つまり自分で何が善であり何が悪であるかを決定しようとする、そういう意味で神のような者となったというのが素直な解釈であろう。

 では、人はほんとうに自分の理性で善悪を決定できるのであろうか。数年前、17歳の殺人事件が立て続けに起こり、そのとき「なぜ人を殺してはいけないの?」という問いが大人たちに突きつけられた。満足な答えを与えることができるものは、だれもいなかった。人にとってなにが善でありなにが悪であるかということは、創造主が決定しているのであって、人自身が決められるわけではないのである。

 罪の本質は神の権威への反逆である。それは思い上がり。傲慢。  自律的理性の問題については、後に少し詳しく扱いたいと思うが、自律的理性こそ近代・現代の西洋思想を貫く根本的問題である。理性の自律というドグマの問題性。 デカルト的理性と近代主義についてここから発想する。デカルトについては講義の後半で、比較的詳しく学ぶ積もりであるが、彼のコギト・エルゴ・スムという考え方は、啓蒙主義・近代合理主義の態度の土台となっていく。合理主義rationalismとは、すなわち理性主義、理性崇拝、理性中毒である。「外的世界は理性によって理性によってのみ知られるという考え方」(マクグラスp133)である。

確実で人類に共通している理性(良識)を土台として、神の存在、外界の存在を証明し、あらゆる首尾一貫した学問体系・世界観を築くことができるとデカルトは構想したのである。理性は目的、計画を持ち、集中的に世界を構想した。

イ.理性と啓示の関係

 理性は神学において必要であるが、理性が神知識の唯一の源泉だとし、理性を啓示の上に置き、あるいは啓示を否定する合理主義は有害であり、過ちである。それはすなわち、善悪の知識の木から実を採って食べた、自律的理性の主張にほかならない。

合理主義者のキリスト教への批判は、理神論によってまずなされた。たとえば理神論者であるジェファソンは、三位一体論、キリストの二性一人格論に対して批判した。彼は創造主を信じ、イエスは素朴な合理的な人間の教師であったと信じる。

18世紀終わり頃からの「史的イエスの探求」という運動は、こうした合理主義的な立場からのものである。彼らのいわゆる「史的イエス」とは分別ある合理的な人間教師であり、彼らによれば、新約聖書は人類の罪からの贖い主という誤解のイエス像を提供しているということになる。

カントは『単なる理性の限界内における宗教』において、イエス・キリストに対する理性と良心の優位を主張し、理性が言うこととイエスが言うことが一致する場合にのみイエスを尊敬すべきだという。(マクグラスp252)

*思想史上、「理性と信仰」の対立構造という言い方がされてきたが、聖書的な観点から見た真相は、理性と啓示の対立でなく、「真の信仰と偽りの信仰の対立」であり、「再生理性と非再生理性の対立」である。詳細は春名純人論文参照。

ウ.プロタゴラスとポストモダン――相対主義  しかし、こうした理性に対する信頼は、現実問題と衝突するときに揺るがされる。人間理性は確実でも絶対でもないからである。

 数年前,17歳の殺人事件が相次いだ。そのとき、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いが17歳の座談会で発せられた。これに対して大人たちは有効な答えを持っていない。そういう書名の本も岩波新書から出たが明晰判明な答えは提供されていない。「なぜ殺人してはいけないのか?」「なぜ姦淫してはいけないのか?」「なぜ盗んではいけないのか?」「なぜ偽証してはいけないのか?」こうした問いに対する答えは,人の中からは出てこない。しかし、善悪の知識の木の実を取って食べたときから、人は自分で自分の善悪を決定しうると思い上がって悲劇に陥った。善悪という絶対の参照点を必要とすることがらを、相対的な人間が決定しうると思い上がったゆえの悲劇であり、喜劇である。

 古代ギリシャにプロタゴラス(前500頃−430頃)というもっとも有力なソフィストがいた。彼は「人間は万物の尺度である」といったことで有名である。  このことばについて、プラトン「テアイテトス」においてソクラテスは言う。 「それでは彼の言おうとしているのは、何でもこういうようなことではないか。それぞれのものは、僕にかくかくの性質のものとして現われているなら、僕にはそのような性質のものとしてあり、また君にかくかくの性質のものとして現われているなら、他方で、君にはそのような性質のものとしてある、というのではないか。そして人間というのは、君や僕のことではないか。…時には、吹いている風は同じでも、僕たちのうち一人は寒気を感じるが、他の一人は感じないということがあるのではないか。」(田中美知太郎訳)

 神が万物の尺度でなくなるとき、人が万物の尺度となる。ところが、人はそれぞれによって考え方も感じ方も異なっている。よって、相対主義に陥って、客観的真理・絶対的な正義などというものはないということになるというわけである。絶対者である神を見失うとき、人は必然的に相対主義、懐疑論におちいる。

・ポストモダンと聖書解釈  ポストモダニズムという今日的思潮はまさにそれ。モダン(近代)とは理性に対する信頼のあった時代である。理性によって一つの普遍的な真理の体系がくみ上げることができるというがかつてあった。デカルト、スピノザ、ライプニッツなど啓蒙主義思想家が、その理想としたのはユークリッド幾何学であった。ところが、非ユークリッド幾何学の発見がなされた。それもまた、内的な一貫性を持っているのである。

 同じような信頼の揺らぎ啓蒙主義に対してもおこる。普遍的合理性などというものは存在しないのである。虚構である。あるのは多様な合理性だけなのだということがいわれるようになった。 

 ポストモダニズムとは「一般に、絶対や確固とした確かさや基礎をもたない文化的感受性といったものとうけとめられている。多元主義と多様性を重んじる。あらゆる思想の徹底的に「具体的な位置」について考え抜こうとするものだというわけである。これらの問題の一つ一つについておいて、ポストモダニズムは啓蒙主義の総合化に対する意図的・意識的な反動である。」(A.E.マグラス「キリスト教神学入門」p162)

 たとえば、ポストモダンの影響下にある聖書解釈者は、「あらゆる思想の具体的な位置」を考え抜こうとする。たとえば、「神」についても創世記1章でいわれている「神」と、1列王記における「神」と、マルコ福音書における「神」とローマ書における「神」と、現代人がいう「神」はそれぞれ別の思想とみなそうということになる。聖書全体を体系として捉えるというのは、ナンセンスということになる。

 ほんとうは、聖書各書において啓示されている神のすがたの多様性を認めつつ、全体としての一貫性を見るという多と一の原理が聖書解釈においても、神学においても重要なことなのである。啓示の多様性を無視して安易に統一性のみで解釈すると、啓示の豊かさを見落とすことになろうが、統一性を犠牲にして、聖書啓示の一貫性・一体性を投げ打つならば、それは断片化と無意味化しかもたらさない。

(3)自己の内面における反逆――いちじくの葉とリビドー

a.裸の恥の意識

 「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らはいちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」(創世記3:7)

 「目が開かれ、自分たちが裸であることを知った」というのは、彼らが以前盲目だったという意味ではない。彼らはもちろん以前から裸であることを知っていたのであるが、それを恥じるべきものとしては知っていなかったという意味である。実際、彼らには恥じる必要がなかったのである。しかし、堕落後、彼らに裸を恥じる必要が生じ、恥じる意識が生じたというのである。

 いちじくの葉について、よく考察しているのはアウグスティヌスをおいてほかにない。  「この神が軽んじられたがゆえに、正義にかなった罰がその結果として伴ってきたのであった。すなわち、あの掟を遵守しておれば、人間は肉においてさえ霊的なものとなるはずであったが、いまやその霊においても肉的なものとなり、そしてその高慢によって自己自身に満足した人間は、神の正義のゆえに自己自身へ任されてしまったのである。」(神の国14:15服部訳p322)

 アウグスティヌスのことばの背景には、ローマ書1:28「また、彼らが神を知ろうとしたがらないので(神を知ることは無益を考えたので)、神は彼らをよくない思いに引き渡され、そのため彼らはしてはならないことをするようになりました。」がある。    以前は神の加護のもとにあった人が、神に反逆した結果、自己自身に任された結果、人は自分で自分を統御できなくなり、悪魔の奴隷となったのである。

「人間は、彼自身においてあらゆる仕方で自己自身の力で統御するというわけにはいかなくなり、かえって、自己自身と不和となって、あれほど熱望していた自由のかわりに、罪を犯すことによってサタンと和合することとなって、そのもとに過酷で悲惨な隷従の生を生きるようになったのである。」p322

 悪魔の奴隷となった人間は、内的な不従順・混乱を経験する。すなわち、意志の下位にあるべき精神と肉が意志に逆らうようになって苦しみを生じるようになった。

 「一言でいうなら、罪にたいするあの罰において、不従順にたいして報復されたものは、まさに不従順にほかならなかったのである。じっさい、人間の悲惨とは、かれがなしえたところのことを欲しなかったゆえに、かれがなしえぬところのことを欲するという、自己自身に逆らう自己自身の不従順をおいて他に何があるというのであろうか。 ・・・・・  自己が自己自身にしたがわないかぎり、すなわち、精神および精神の下位におかれた肉がその意志に従わない限り、かれがなすことを欲しながらもなすことのできないものがどれほどおおくあるか、だれがそれを数え上げることができようか。・・・・」(『神の国』14:15服部訳p324)    善悪の知識の木からとって食べてしまったとき、最初の男女はその腰をいちじくの葉でおおったとある。これについて、近代の聖書注解者たちはあまり考察をしていないのは、どういうわけだろうか。十分に考察をしているのはアウグスティヌスである。アウグスティヌス『神の国』第14巻15章―26章を熟読玩味されるがよい。

 いちじくの葉について、これは人が仮面をかぶるようになったこと、つまり、虚栄心、自己防衛本能と結びつけて理解する向きもある。それもあながち間違いとはいえないだろう。しかし、文脈から推した直接的・正確な理解のためには、彼らが隠したのが、顔でなく、足でなく、腹でもなく、性器であったことに注目しなければならないであろう。欲情(リビドー)とのかかわりがあって、彼らは性器を隠したと理解すべきである。  彼らは神に背く前には、おたがい裸を恥ずかしいと思わなかった。アウグスティヌスによれば、「それは、かれらが自分たちの裸に気づかなかったからではない。裸がまだ恥ずべきものとなってはいなかったからである。それというのは、欲情が彼らの自由な決定力とは無関係に身体のこの部分を喚起するようなことはなかったからだ。肉はまだ、ある意味で、それ自身の不従順によって、人間の責められるべき不従順を示す証拠を見せていなかったのである。」(『神の国』14:17服部訳p328)

 堕落前は、生殖器が意志の統御の下に服していたので、恥じる必要がなかったのである。しかし、堕落後、「この恩寵が除去されることによって、不従順が不従順という罰をもって叩き返された。そのとき、かれらの身体の動きに、ある種の淫らな好奇をそそるものが出現したのであった。それがもとで、裸であることが見苦しいものとなり、自己意識を生じ、かれらを狼狽させたのである。」(『神の国』14:17服部訳p330)恩寵がはぎとられて、情欲に刺激されて生殖器が意志と精神から独立して、ほしいままにふるまうようになった。裸であるお互いを見るときに、それにふさわしいTPOでもないのに、情欲が身体を突き動かすことゆえに恥じたのである。だから、これを恥じていちじくの葉をつづり合わせて腰帯にしたのである。「これ以後、すべての種族が恥部を隠すという習性を保持することになった。」

 アダムとエバの堕落の結果、秩序において下位にあるべきものが、上位にあるものをあなどり、秩序を破壊するという状況は、人の内面においてまず起きたということができる。「不従順が不従順という罰をもって叩き返された」のである。「心の中で情欲をもって女を見る者はすでに姦淫を犯したのである。」と主イエスが言われるとき、ほとんどの男性は罪を自覚しないではいられなくなった。それは、本来、神の権威の下に置かれていた人が、神の権威に逆らったことに対する呪いである。不従順に対して、不従順というのろいがかけられた。人は量るように量り返されたのである。

ローマ書1章21−32節には、神に背いた人間の罪のリストが出てくる。始めに上げられるのは、偶像崇拝である(21−25節)、次に、性的な倒錯(26−27節)、そしてもろもろの罪が上げられている(28−31節)。注目すべきは、性的な倒錯という情欲の問題が、偶像崇拝の次に特筆されていることである。性欲の問題は、おそらく人間にとって非常に根本的なことなのである。

 アウグスティヌスは『神の国』第十四巻十六章において「性的な欲情の悪」について、十七章では「裸の恥について」、」第十八章では「性行為における恥の感情について」・・・と論を展開する。

省略(2)情欲(libidoリビドー)について   近代の心理学者たちは、リビドーにおいて人間を把握しようとした。 『岩波心理学小事典』によると  「リビドー:(性的エネルギー)性欲、性的衝動。本来は欲望という意味であるが、1898年にモルが性欲という意味に使った。フロイトによると、上が栄養摂取の衝動を発動させる力であるように、リビドーは性衝動を発動させる力である。それは性欲をダイナミックに表わしたものであり、性のエネルギーである。しかしフロイトは、性欲は思春期になってはじめて現われるものではなく幼児期の始めから口唇性欲・肛門性欲などとして存在していると考えていたから性欲と言っても、一般に考えられている性欲よりも概念が広い。彼によると、エネルギーを蓄電池に蓄えるように、リビドーはある対象に注がれ、蓄積される。このようなリビドーを対象リビドーといい、逆に自我に満たされたリビドーを自我リビドーという。ユングはリビドーを性的エネルギーと考えず、広く生命のエネルギーつまり、ベルクソンのエラン・ビタールと同様のものと考えた。ショウペンハウアーやハルトマンが・・云々・・」

b.自律主義の自己矛盾 ―――自律を誇りつつ他律に陥る人間  ア.自律・他律・神律

 人は、神からの自律を目指して神のようになろうとして善悪の知識の木の実を食べたのであるが、その結果、自律どころか自分の肉体の欲求さえも律することができなくなってしまったのである。自律主義の自己矛盾である。

 自律主義とは宗教的表現を取れば、自己偶像崇拝の破綻である。自己は神たるにふさわしいだけの実力を持たないのに、自己を神として崇めた結果、偶像崇拝者の悲惨に陥っているのである。

 また、アダムは本件について問い詰められたとき、「あなたが私のそばに置かれたこの女が・・・」と言った。人は、神のようになった、自分は神に頼らず生きられると自律や(カント風にいえば)「成人」たることを誇りながら、実際には、神と女に罪を転嫁するという無責任性、幼児性の自己矛盾を見せる。神なしで生きて行けると自律を誇りながら、自らの行動に責任を取ろうとしないという矛盾である。自律を主張する者は、自分で行動を選択する自由があると同時に、その行動とその結果に関する責任を自分で取ってこそ自律の人と言いうるであろう。自分のしたいことをして、その責任は他に転嫁する者は自律した者とは呼ばれず、単なる幼稚な利己主義者つまりわがまま者にすぎない。「あの人が私にこうさせたのだ」と他者に自分の行動にかんする責任を転嫁するということは、自分は他者の奴隷だと言っているのである。自由な者は、自らの行動は自らの責任によるものであるという。

 善悪の知識の木の実を取って食べたということは、人間は自律できるという主張である。神抜きにして己の良心をもって自らを律して生きることができるという、態度表明である。「良心」とは、一般的に「何が自分にとって善、悪であるかを知らせ、善を命じ悪を退ける道徳意識」を意味する(『岩波哲学小辞典』「良心」の説明後半)。ところが、実際に、神を捨て神のようになろうとして神に背を向けた人間は、みずからを律することができたのか。できなかったのである。神の支配を厭い神のいのちから離れた人間は、自分の欲求の奴隷となって、自由ではなく不自由を経験するようになった。theonomy神律を捨てautonomy自律を望んだのに、実際に得たのは肉欲によるheteronomy他律にすぎなかったのである。ここに良心主義の自己矛盾がある。

イ.夏目漱石――良心主義の自己矛盾    夏目漱石が生涯課題として苦しんだのはこの良心主義の自己矛盾という問題であった。彼は明治の家社会のheteronomousな生活から飛び出して、西洋で主張される個人主義によるautonomousな人生を目指した(『私の個人主義』)。ところで、個人主義が倫理的に可能な条件は個人である私という人格の良心の高潔者・完全さである。しかるに、私という人間は自我の病(エゴイズム)に犯されているので、良心の要求するように生きることができないという現実にぶつかってしまったのである。『こころ』の主人公の「先生」の生涯をみよ。「あんなやつ(強欲のおじ)のようにはなるまいと思っていた自分が、あんなやつであった」という悲惨な現実を「先生」は認識したのである。

 漱石はその苦悶のなかで、この自我の苦悶から逃れる方法としては、発狂するか、宗教に自分の自我を放下するほかないと言っている。しかし、彼はそれができないまま苦悶のうちに死んだ。

 良心主義の自己矛盾とは、神学的表現をすれば自力救済の現実的不可能性ということであり、律法主義の自己矛盾ということ  

(4)人間関係における反逆と強制秩序

 「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので・・・」創世記3:17

 「しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配することになる。」創世記3:16後半

a.夫婦関係への呪い

ア.かしらなる夫とふさわしい助け手

 エバが先に誘惑されて木の実を食べ、これを夫にも与えたにもかかわらず、なぜ神はアダムをまず追及されたのか?

 神は本来、夫婦において夫を契約のかしらとして選んでおられる。さればこそ、善悪の知識の木から女が取って食べたときにも、神はまず夫アダムを追及された。

 新約聖書が、キリストにあって回復した夫婦の秩序について、夫は妻のかしらであり、妻はそのからだであるとし、夫には妻を愛することを命じ、妻には夫にしたがうことを命じていることからも、本来的な夫婦の秩序はそのようなものであることがわかる(エペソ5:22−33、1ペテロ3:1−7)。夫は妻にとって神を代表するところの権威であり、夫は家庭におけるかしらである。

 夫婦が神の御前で人として同等の尊厳を持つことは事実であるが、夫と妻が同等の権威を託されていないということは聖書から明らかである。妻は、かしらである夫の権威の下、その保護の下にある。

イ.結婚関係に及んだ呪い  ところが、堕落後、呪いを受けた夫婦の秩序に混乱が入り込む。創世記3:16.妻は本来、子を得ることと夫との愛の交流を祝福として与えられていた。この二つの祝福が完全に奪われたわけではないが、そこに呪いがもたらされる。出産には格別の苦しみが伴うことになり、夫の関係には不調和が生じる。

「女が夫を恋い慕う」という「恋い慕う」(8669 teshuqa:n.f.longing語根shuq)ということばは、創世記4:7に記されている「罪は戸口で待ち伏せし、あなたを恋い慕っている。だが、あなたはそれを治めるべきである。」と同じ語(teshuqa)が使用されていることに注目して釈義されるべきであろう。後者においてteshuqaは罪が擬人的(擬獣的)に表現されカインを食いつくそうとしているととが比喩的に用いられている。実際、罪はカインを捕らえてしまうのである。このことと重ね合わせて考えるならば、3:16にいう「妻が夫を恋い慕う」という表現が意味することは、単に妻が夫のことを好きで好きでたまらなくなるということを意味するのではないであろう。むしろ妻が夫を我が物にして己のコントロールの下に置こうとするという意味だと理解すべきであろう。ちょうどデリラがサムソンを暗い情欲をともないつつ恋い慕って彼をコントロールの下に置こうとしたように(士師記16章)。 

 ところが、このように妻が夫の権威をあなどり、夫を己のコントロール下に置こうとすればするほど、夫は妻を「支配するmashal」であろう。それは、暴君的な支配、強制的な秩序である。堕落前の本来の秩序にあっては夫は妻を愛し、妻は夫に自発的に従うといううるわしい秩序であったが、堕落後、妻は夫の権威を脅かそうとし、夫は妻を強制的に支配するようになったのである。強制的秩序である。本来的な上位の者が下位の者を愛をもって導き、下位の者が上位の者に従順であるという本来のすがたが、上位の者は下位の者を暴君的に支配し、下位の者は隷従するというものになってしまったのである。

「トピック 夫婦の悪循環とよい循環」 悪循環      夫    ↑    ↓   反逆  暴君・無責任    ↑    ↓    妻    アダムの罪に対する神の追求のことばにも着目。

「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地はあなたのゆえにのろわれてしまった。」(創世記3:17)    もともと、このテストは善悪の知識の木という神の権威を代表する者によって行なわれ、この代表権威を侵したことが罪であった。

 推薦書>ラリイ・クリステンソン『幸福な家庭』

  b.被造世界における秩序の混乱と強制的秩序

ア.上に立つ権威の強制秩序  ローマ書13章

 人は善悪の知識の木のテストにおいて、神の権威を犯した。善悪の知識の木は、神の代表権威であった。神に対する不従順に対しては、まず不従順という報いが人の内面において生じた。つまり精神の統御を拒否するリビドーに人は悩まされることになる。それだけでなく、夫婦ひいては社会関係においても同じように不従順という報いが生じたのである。そこで、強制的秩序よってこれを維持するほかないということになった。こうした破壊は、人間社会と被造物世界全体に及ぶことになる。

 人間社会は、剣の権能による権威と隷従という強制秩序によって、ようやく保たれているにすぎないものとなった(ローマ13:1−4)。とはいえ、強制的な秩序は、神によって立てられていると啓示されていることからわかるように、一般恩恵として理解すべきものである。たしかに、この世の権威はえてして悪魔のコントロールによって自らを偶像化して暴走することがある(黙示録13)。しかし、それでも、神は堕落後の世を維持するために、権威を立てていらっしゃる。  よって、この権威を重んじるべきである。  左翼思想との違いを認識しておくべきである。

イ.被造物の反逆と強制秩序

 本来、神は人に土地を耕し守るように、これを治めるようにと命じられた。しかし、アダムの堕落後、「土地adama」も人間の権威に逆らうようになり、人はこれを暴力的に支配するようになった。

 創世記3:17−18「土地はあなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生じさせ、あなたは野の草を食べなければならない。」

翻訳としては、l「あなたのために」ではなく、新共同訳「おまえに対して」のほうが適切であろう。つまりいわゆる自然界(被造物)が人間に対して敵対的になってしまったということである。本来、神は「地を支配せよ」とお命じになって人間に被造物を支配する権威をお授けになったのだが、人が神に背いて以来、被造物は人間の権威に反逆するようになったのである。へブル書2:8後半をも見よ。   以上、見てきたように、善悪の知識の木から食べるなという神の禁止命令に対して、人が傲慢になり、不従順をもって答えた報いは、人間生活の諸関係における権威に対する全般的な不従順・秩序の混乱ということであった。

内的には、欲情が肉を刺激して、肉は意志の統御を無視して動くようになってしまい、精神はその苦悩を味わうことになってしまった。

 夫婦関係においては、妻は夫に統御されることを嫌い、夫を支配することを願うようになった。

 広く社会においても、権威に対して人は反抗的な精神を持つようになった。  被造物は、本来、その統治者である人に反抗的になった。  この混乱に対して、神は強制的な秩序をもって、これをともかくも維持することを意図された。

(5)人と被造物との関係

a.地に仕える

ア.人。偉大にして卑小なる存在

 「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は生きものとなった。」創世記二:七

 我々はこのみことばから、人の尊厳と人の卑小とをあわせて読み取り、それを自覚すべきである。すなわち、人は神の息を吹き込まれた存在であるゆえに偉大なものであり、かつ、人は土地のちりを材料として造られたものであるゆえに卑小なものである。周知のごとく、人はアダマー(土)から造られたゆえに、アダムと呼ばれる。アダムは、土から形造られたものであるゆえに他の土からの被造物たちの一員であることをわきまえ、かつ、神の息を吹き込まれ「神のかたち」に創造されたゆえに神の代理者として地を支配する任にあずかっていることをわきまえるべきであった(創世記一:二六参照)。   しかし、人間の神に似せられたゆえの尊厳と土から造られたという卑小の両面を知ることは有益である。神は「みことばの受肉」と「からだのよみがえり」という啓示を歴史のうちに行なわれることによって、神は単に精神のみならず物質(肉体)をも贖い給うことを示された。

「人間にその偉大さを示さないで、彼がいかに禽獣にひとしいかということばかり知らせるのは危険である。人間にその下劣さを示さないで、その偉大さばかり知らせるのも、危険である。人間にそのいずれをも知らせずにおくのは、なおさら危険である。しかし、人間にその両方を示してやるのは、きわめて有益である。人間は自己を禽獣にひとしいと思ってはならないし、天使にひとしいと思ってもならない。そのいずれを知らずにいてもいけない。両方をともに知るべきである。」(パスカル『パンセ』L121,B418)

イ.人の任務「地を耕し、守る」

 神が人間に与えた任務はなにか。創世記一章は「地を支配せよ」「地を従えよ」とある。しかし、それが悪しき専制君主としての大地の支配・収奪を意味していなかったことは、創世記第二章十五節からあきらかである。「神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。」

 人が地を「支配し、従える」ことの内容とは、園を「耕し、守る」ことであった。ヘブライ語において「耕す(アバド)」と「しもべ(エベド)」が同根の語であることは興味深い。「耕す」を「仕える」とうがって訳してみれば、「地に仕える」ことが人の大地支配の内容である。日本語の語感からいえば「畑の世話をする」というあのことばに当たろう。

 それを裏書きするように、創世記二章五節は言う。「地には、まだ一本の野の灌木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。」注目したいのは、「からである(キー)」である。この文章を原因と結果を倒置して、否定を肯定にして言い換えれば、つまり対偶をとれば、「神である主が地上に雨を降らせ、人が地を耕すゆえに、地は灌木や野の草を生やす。」ということになる。人は神の協力者として、地を世話することによって大地のうちに神が秘め給うた可能性を引き出すことが、すなわち「耕す」ことである。つまり「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。」と主が教えられた神の国の王のありかたこそ、本来の大地に対する人のありかたである。

 なお、新共同訳は、人が耕さないから木も草も生えないというのは不適当と考えてであろうか、「地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨を お送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。」と区切って訳してしまっているが、従来の訳のままがマソレテ本文に忠実である。

 他方、「守る」ということばは、農業という産業には、単に作物を得ることだけでなく、環境保全という重要な役割があることを示唆するものとして読み取れるであろう。農業と工業の本質を比較して、工業は周囲からいろいろなものを取り込んで製品とともに排気ガスや廃水をはじめとするゴミを出す環境破壊型産業であるのに対して、農業は周囲からいろいろなマイナスをプラスに転じうる産業であると指摘する(3)。

 たとえば家畜の糞尿や生ゴミは堆肥化されれば、やがて作物となる。また、水田は豪雨をいったんためて置いてゆっくり川に流すというダムの役割を果たす。日本では水田が五百億トンのダムの役割を果たしている。また、水田には地下水の涵養という働きもある。近年、豪雨があると都市部の河川がいとも簡単に氾濫するようになり、あるいは地下水が枯渇しているのは、都市近郊の田園の宅地化が原因している。今後、コメの輸入自由化により中山間地の水田が破壊されていくにしたがって、河川下流域の洪水が慢性化することは必然である。また、農業は景観の保護という役割もある。

 このように、「耕し、守る」農業には食糧生産のみならず環境保全の機能があるのである。ただし、これは後述するが、工業化された近代化学農法が環境破壊をもたらしていることも事実である。しかし、本来的に農業は工業とちがって、食糧生産のみならず環境保護を同時に行なうことのできる産業なのである。そういう意味で、創世記が神が人間に最初に与えた仕事が農業であったと啓示しているのは、意義深いことである。

b.地の反逆と文明による地の収奪

ア.人と土地は敵対関係に・・・創世記第三章

 人類は始祖アダムにあって、神の戒めに背き、その結果、神との関係、隣人との関係、そして大地との関係において不調和を来すことになった。創世記第三章から見れば、人はかつて信頼と畏怖の対象であった神を恐怖と憎悪の対象と見るようになり(十、十二節)、男はかつて愛と保護の対象であった妻に責任を転嫁したり(十二節)、暴君的に支配するようになり(十六節)、その妻はかつて信頼と自発的従順の相手であった夫を意のままにあやつることを望むようになった(十六節、三章七節)。

 土地はどうなったか。「土地は、あなたのゆえに呪われてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地はあなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。」とあるように、かつて人の働きに従順に答えて豊かに実りを産した大地は、人の懸命の労働を徒労に終わらせようとするような性質を持つものとなってしまった。なお新約聖書の記述から見れば、ここでいう呪われた「土地」は、単に地面だけではなく、被造物全体を指していると見てよい(ローマ八:十八−二二)。

イ.都市文明・・土地に疎外され土地を疎外する・・・・創世記四章  アダムの子カインは、土地に弟アベルの血を流した。神は言われた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。今は、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」(創世記四:十−十二)

 土地に呪われたカインは、主の御顔の前から去って、エデンの東にノデの地に住みつく。ノデという名は流浪という意味だという。流浪の地に住み着くというのは聖書一流のアイロニーである。カインはそこに初めて町を建て、これにエノクという名を付けた。 さらにカインの一族から、最初の一夫多妻主義者にして傲慢な権力者レメクが生まれ、天幕に棲む者、家畜を飼う者、竪琴を奏する者、青銅と鉄の鍛冶屋が出てきたという。都市、権力、文明の華々しい原初の姿がここに記されている。エリュールがいうように、「都市の歴史がカインによって始まるということは、数多ある些末事のひとつとみなすべきではない」のだ。これがアウグスティヌスが言う「地の国(この世の都)」の始まりである。

 創世記第四章末尾には、カイン一族の華々しい「この世の都」の繁栄と比較対照されるように、セツに始まるつつましい「神の都」の記述がある。まことに主がおっしゃったように「この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜け目がない」ものなのである。神は敬虔なアベルの死後、アダムに彼の代わりにセツをお与えになる。セツから生まれたエノシュの生まれた時から、「人々は主(YHWH)の御名によって祈り始め」、ノアに至る一族は神を畏れる敬虔な一族となった。

 ちなみに「エノシュ」という名は、「アーナシュ」つまり「弱い、病気である」という語の派生語と見られ、普通名詞として「人」という意味に用いられる場合には人間の弱さや死ぬべき運命にある存在という意味を含む語として用いられる。たとえば神の御手のわざである星空を見上げたダビデの詩篇八編「人とはいったい何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。」とあるように(6)。あるいはエノシュは、親がその子のために日夜涙かわく暇なく祈らないではいられぬほど病弱な子だったのかもしれない。神が祈りと認められる心の態度の第一は無力さであり、無力である人だけがほんとうに祈ることができるのであり、祈りは無力な人のためのものであると北欧の敬虔な神学者が言うように(7)、無力のなかでこそセツの一族は主の御名によって祈り始めたのであろう。神の 国は心の貧しい者たちのものなのであった。

 以上、創世記第四章の記述において注目すべきことは、神を畏れる敬虔な一族は人間の無力の自覚と祈りをその特徴とし、神に背を向けた土地に呪われたカインの一族は「力への意志」をその特徴とし、都市と文明はこのカインの一族のうちに最初に現れたということである。創世記記者は文明・都市というものにつきまとう性質をこの記述のうちに暗示している。文明が神の御顔から去り、土地にのろわれた一族のうちから生じたというのは、彼らが神の代用品として都市文明を築いたということを示唆している。神から保護の約束をいただいてもなお神の保護を信じられなかったカインは、外敵を防ぐために城壁を築き、町を築いた。土地に呪われたカインは、かえって土を忌み嫌ってこれを石畳で覆い尽くした。神の慰めを持たずたましいのうちに天使の賛美を聞けぬカインの一族は自ら音楽をも工夫して、心の慰みとした。神の大盾を信じられぬカインの一族は青銅や鉄で武器を工夫して敵に備え、さらに侵略を企てた。

 むろん、文明のもろもろの利器はカイン族のうちにとどまらず、セツの一族の用いるものともなって、そういう技術があったればこそ、ノアもあの巨大な箱舟を建造することができたであろう。また、後には神の民も楽器をもって神を賛美するようになるし、青銅器や鉄器も使うようになる。ゆえに、文明即背教と創世記は語っていない。しかし、それにもかかわらず創世記第四章は、都市と文明の発端について、背教的動機を語ることによって、我々に都市と文明を偶像化する危険に警戒を怠らぬように求めている。それは、バベルの塔の記事にも共通している。都市と文明はえてして、人を傲慢にして、人を背教へと走らせる。この事実は、近代都市文明が、どれほど人の心を神から遠ざけてきたかを見てもあきらかであろう。近年、都市文明のかつての栄光が曇りつつあるものの、なお現代人にとって都市文明は巨大な偶像であろう。

 特に、「神と土と人」という主題から都市文明という問題を考えるとき、我々は都市文明が土を忌み嫌い、土を疎外している現実に目を留めたいと思う。都会人は、泥臭いことを忌み嫌う。泥臭いことは田舎じみたことであり、恥ずべきことと感じている。都市文明は土を忌み嫌い、土を石畳で、コンクリートで、アスファルトで覆い尽くしてしまう。家を出てから会社に着くまで、土の道を歩かずに済むことが都会人のあかしであるかのごとく誇りとしている。「職業に貴賤なし」と口先ではいいながら、内心、泥にまみれる仕事はできれば避けたい仕事であり、机に向かってペンを取り、キーボードを打つような仕事が高尚であると信じている。土に呪われ土から疎外され文明化された人間は、逆に、土を疎外することによって土に対して復讐を企てた。その象徴が都市である。

ウ.全被造物贖いのビジョン

 主の再臨が延ばされて、もし二十一世紀があるとすれば、人類が直面する三つの問題は人口爆発と食糧危機と環境破壊である。国連の統計では二○二五年に世界人口は八十三億に達するという。2001年五月、世界人口はついに六十億を数えた。今、世界で十億人か ら十五億人は栄養不良ないし栄養失調である。世界人口が八十三億に達したならば、食糧生産量と消費傾向が現状のままであれば、世界の半分は飢餓に苦しまなければならないことになる。

                                                                                                             

 「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。」(ローマ8:18−22)

                                                                  

「しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」(2ペテロ3:13)聖書に啓示された再臨のキリストが終局的にもたらす救済とは、人類の救済のみならず全被造物の救済である。そこには人口爆発・食糧危機・環境破壊といった問題はない。人間はキリストにあって新しいからだを受け、被造物のかしらアダムの堕落以来、虚無に服していた被造物は、栄光の状態に入れられる。イザヤは幻のうちに凶暴な「熊も獅子もわらを食らう」御国を見た。

 今、我々が置かれているのは、キリストにある贖いが「すでに」なされたことを感謝し、「いまだ」訪れていないこの新天新地の完全成就に希望をおいて生きるという、二つの「時」の間である。ここにおいては、被造物の「産みの苦しみ」があり、我々もまた、産みの苦しみに参与すべきである。それが本来の「神と土と人」を回復することにほかならない。新天新地の訪れまで、それは完成しないであろうが、託されたタラントに応じてその任務を果たすなら、かの日には主に喜ばれより多くのものを任されるであろう。

6.原福音と三つの神学体系

 原福音と呼ばれるのは、周知のごとく創世記3:15。そして、もう一つ考察したいのは、3:21節。

(1)「女の子孫」創世記3:15 蛇に対して語られるのろいの言葉において、「女のすえ」が蛇(サタン)の頭を踏み砕くと予告される。この女の子孫は、先に歴史観について学んだときにアウグスティヌスにしたがって述べたように、アベルーセツーノア・・・とつながっていく神の民の霊的系譜を意味していると見られ、また、ローマ書16章20節にも神の民(クリスチャンたち)を指すという理解に基づいた記述がある。

 同時に、女の子孫が「彼」と単数で受けられていることに、私たちはここに得にメシヤ預言を読み取る。彼はサタンの頭を踏み砕く。蛇は彼のかかとに噛みついて、してやったりと思った次の瞬間、踏み砕かれてしまう。主イエスご在世当時、古い蛇、サタンは当時の祭司階級・律法学者・世俗の権力をつきうごかして、御子イエスに敵対させた。主イエスは彼らを「蛇ども、まむしのすえども」と呼んだ(Mt23:33)。神の御子イエスを十字架につけたとき快哉の叫びをあげたであろうが、次の瞬間、蛇の頭は踏み砕かれていた。

神の民とメシヤが女の子孫と呼ばれるのはどういうわけか。女の出産を通じて救い(主)が来るという約束であるからである。

 旧新約聖書における神の救いの歴史において、女の出産が画期的な出来事として啓示されていることに気づく。イサクの出産によってアブラハムへの約束が成就し、モーセの出産によって出エジプト事件が始まり、サムエルの出産によって霊的暗黒の士師時代に終止符が打たれて王国時代の幕開けとなり、バプテスマのヨハネの出産によって旧約時代の総括がされかつ新約時代が幕開ける。そして究極的にキリストの誕生。女の子孫から神の救いは訪れ、メシヤは到来するのである。女の出産と救いの到来、これは聖書を貫くテーマである。出産に呪いが与えられ苦しみが増し加えられたのは事実であるが、その女のいのちがけの出産を通して、神の救いの歴史が前進するのである。

(2)いちじくの葉と皮の衣・・・創世記3:21 もう一つは、21節「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」

a.神が手ずから このことばは、いわゆるアンスロポモロフィズム(神人同形論)のように映るので、それを警戒して、神が、あたかも毛皮商人や仕立て屋のように、獣を殺し毛皮をなめして縫い合わせて皮の衣を作ったということではなくて、そうすることを人間に許可したという意味であるとカルヴァンはし、おそらくカルヴァンの線にのっとってカイルとデリッチやアアルダースも同じことを言う。おそらく神の尊厳にかかわることとしての心配の注解だろう。また、神が霊であるということゆえの注解だろう。

たしかにそこには人間としてはアダムとエバしかいなかったのであるから、皮衣を製作することが出来るものがいるとすれば、神ご自身か、この二人の人しか存在しなかったわけである。そして、神が自分で動物を殺し、皮をはぎ、これをなめし、縫製したというのを文字通り取れば、難しいこともなくはない。

しかし、このようなゴリゴリした解釈では、「神が彼らのために皮の衣を作って、彼らに着せてくださった」という驚くべき恵み、その恩寵的表現が台無しになってしまう。

 すでに創世記2章、3章の表現を読めば、全体として神がいとも近きお方として、園を歩いて回っていらっしゃるようすがうかがえるのである。先に、「そよ風の吹くころ園を歩き回られる主」という大胆な恩寵的・下降的な愛(アガペー)をすでに、創世記記者は霊感されているのである。ここもまた、神がどのようにしてか、手ずから彼ら罪人のために皮衣を作ってくださったという表現を率直に読み取るべきであろう。

 創世記全体の文脈を考えて見よう。そして聖書全体を。ここに、私たちは後の日には人となられる神を読み取るべきであろう。創世記の中には、主が御使いの姿をしてアブラハムを訪れたという記事もあり(18章)、あるいはヤコブとすもうを取ったりする主の姿も見られる(32章)わけで、上のような解釈は決して唐突ではないであろう。格別、堕落以前、神と人とはこれほど親しい交わりがあったということを啓示されているのである。

 人ではなく、主なる神が皮衣を作り、彼らに着せてくださったということを、すなおに読みとってこそ、先に人が自分の手でいちじくの葉で腰おおいを作ったこととのコントラストが明瞭になろうと言うものである。

b.血が流されて 「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」へブル9:22  カルヴァンは、それが麻やウールではなく荒荒しい皮衣であったわけについて、彼らに自己の下劣さを思い出させるためであったと言い、ぜいたくを戒めているというようなことまで言ったりするが、それはいかがなものか。もちろん彼の聖書講解が聖書研究ではなく、日々、目の前に集うジュネーヴの聴衆を前になされたことを考えれば、こうした適用もあながち否定はできない。

 しかし、ここには、文脈的に見て、あきらかに人間がはだかの恥を覆うために、自分で作ったいちじくの葉の腰おおいとのコントラストがあると見るべきであろう。ちなみに旧新約聖書に一貫して「裸」と「恥」ということばは対になって出現する。コンコルダンスで調べてみよ。裸を誇るのは地中海的な異教文化の名残である。聖書的啓示の伝統においては、裸は恥じるべきものなのである。それはともかく、人間の手製のものはすぐに破れてしまうが、神が作ってくださったものは長持ちする。それは単に着物として長持ちするという以上に霊的祭儀的な意味が読み取られるべきであろう。

ここにキリストの贖いの予型をただちに読むのは、exgesus読み取りでなくeisgesus読み込みであるという指摘もあるだろう。しかし、文脈を十分にわきまえるとき、読みこみとはいえないと思われる。このときアダムとエバのために初めて動物の血が流され――というのは彼らはこのときまだ肉食をしていなかったから――、その衣で彼らが恥ずべき裸をおおったとき、彼らにはそれは大きな衝撃であったろう。自分たちの恥を覆うには生き物の血が流されいのちが求められるのだと認識させられたのだ。「それを取って食べるそのとき、あなたは必ず死ぬ」と言われたのに、率直な意味で死んだのは自分ではなくこの動物だったとき、その動物が身代わりとなったということを彼らは悟らざるを得ないであろう。この衝撃的な出来事に、霊的な意味を読み取らない方が不自然である。

人間が自分の恥をおおうために自分でなすわざを象徴するのが、いちじくの葉であるとすれば、神が人の恥(罪)をおおうわざを表わすのが血を流して用意された動物の皮衣である。

罪深い裸の恥をおおう衣は、Ex28:40-42「裸をおおう亜麻布のももひき」というふうに祭司の服として、そして、新約にあっては「キリストを着る」(ローマ13:14、ガラテヤ3:27)「天からの住まいを着る」(2コリント5:3−4)と展開する。そして殉教者たちに与えられる「白い衣」と。(黙示録6:11)

このように見てくると、神が人のために動物を犠牲にして血を流して彼らの衣を作ってくださったということを、後のいけにえの儀式の予型と見、さらにその延長線上にメシヤの十字架における血による罪の贖い、キリストの賜る義の衣の予型と見ることは、決して荒唐無稽な話ではなく、むしろ妥当な読みであると考える。

C.ホッジは、「人間はみなアダム以来、自力救済主義者となってしまった」と言った。人間の作ったあの無花果の葉の腰覆いは自力救済主義の象徴である。人のわざ(肉のわざ)による罪と恥のおおいは、小一時間もすればしおれて枯れてしまうようなものでしかないのである。イザヤがいうように、人間の義は、神の目にはボロ雑巾にすぎない(イザヤ64:6)。しかし、神が恵みによって血の贖いによって人を罪から救って、義の衣をもっておおってくださる。救いにおいて、主語は人でなく神なのである。「神が皮衣を作り、着せてくださった」のである。

(3)原罪――神学体系のアルキメデス点

創世記第四章に至ると、最初の夫婦の罪はその子孫にまで及んでいるということが判明する。創世記4章1節のエバのことば「私は主によってひとりの男子を得た。」に、私たちは創世記3:15の蛇の頭を踏み砕く「女の子孫」を得たのだという女の喜びの響きを聞き取るのであるが、あにはからんやその息子が人類の歴史上、最初の殺人者となってしまったのであった。罪は、一代でとどまるのではなく子々孫々伝わっていってしまう恐ろしいものなのであるという現実がここに啓示されているのである。

 ダビデはバテシェバ事件において恐ろしい罪を犯した後、悔い改めの詩を歌っている。そこで彼は言う。「ああ、わたしは咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」(詩篇51:5)

 原罪である。これがいかに転嫁されていくのかについての神学議論はここにするつもりはない。関心のある人たちは、ご自分で組織神学書なり、J.マーレー『罪の転嫁』を読まれると良い。

 原罪の教理について、18世紀の啓蒙主義者たち、ヴォルテールやジャン・ジャック・ルソーなどは、原罪の教理が人間の能力についての悲観的な見方を助長して、人間性と人間社会の発展を妨げると主張する(今日の積極思考とか成功哲学を背景とする人々の主張と同じである)。またドイツの啓蒙主義者たちは、原罪の教理はアウグスティヌスつまり4‐5世紀に始まるものであって、本来、聖書から出たものではないかのように主張する。しかし、私たちは聖書の最初に、また旧約聖書に、この人間本性の根本的な堕落の現実を見るのである。

 原罪についての見かたは、神学体系におけるアルキメデス点であるとA.A.ホッジはThe Outline of Theology第四章で述べている。原罪のとらえ方によって、神学は三つの体系をなすことになる。三つの体系とは、 <ペラギウス主義―ソッツィーニ主義の自力救済主義>、 <パウロ―アウグスティヌス主義―ルター・カルヴァンの恩寵救済主義>、 そして、その中間に位置する<半ペラギウス主義―アルミニウス主義>である。  ペラギウスは生まれながらの人間は堕落前のアダムと同じ状態に生まれてくるとし、原罪の教理を否定し、自力救済主義の道徳宗教を主張する。詳細はアウグスティヌスのペラギウス論争のいくつかの書物を学ばれると良い。パウロないしアウグスティヌス主義は、人間が生まれながらに原罪を抱えているとし、全的な堕落を主張する。全的に堕落している以上、人は自分で自分を救うことはできないのであるから、ただ神の恩寵にすがるほかないということで恩寵救済主義となる。半ペラギウス主義は原罪を認めつつ、部分的に堕落しているとする。半恩寵・半自力救済主義ということになる。

 この三つのタイプの救済主義はキリスト論にも影響する。ペラギウスにとって救い主は人間自身であるから、論理的必然としえキリスト観はせいぜい模範者(モデル)ということになる。アウグスティヌスにとっては、人間は自分で自分を救い得ないのであるから、キリスト観の根本は贖罪主ということになる。半ペラギウスにとっては、両者の中間ということになる。

 ドイツの啓蒙主義神学者ライマールスは「史的イエスの探求」をして、新約聖書の描く超自然的な人類の贖い主でなく、常識的な愛の教師イエスを見出そうとした。イエスは単なる模範者、教師にすぎないのである。啓蒙主義・自由主義神学は結局は「キリスト教」を装っていても、本質的にはペラギウス主義の異端であって単なる人間主義的な道徳にすぎない。十九世紀、二十世紀、ペラギウスの異端説にすぎない彼らがメインラインを称してきたのは、奇観というほかない。

<付録> 「自由意思」 堕落前、人は自由意思をもって罪を犯さないことができるposse non peccare状態だった。 堕落後、人は罪を犯さないことができないnon posse non peccare状態になった。ただ罪を犯すときに自由意思を働かせることができる。 完成のときには、罪を犯すことができないnon posse peccare自由を享受することになる。

5.聖書的歴史観の概要

(1)直線としての時と円環としての時

a.時には始まりと終わりがある 創世記1:1と黙示録22:12,13  宇田進博士は『現代福音主義神学』において、ベルジャーエフの言葉が引用して、ギリシャ思想においては世界を完成したコスモスと美的に捉えているとされ、そこにおいては、時に始まりも終わりもなく、いっさいは永遠の歴史的循環だとされる。しかし、古代ギリシャでもアリストテレスは『自然学』のなかで自然物の運動に即して、時間を「前後に関しての運動の数」と定義したように、時間についての考察が皆無というわけではない。ただ、歴史という意識はないということはできるのであろう。「歴史という語は、一方では過去の出来事の叙述を、他方ではその出来事そのものを意味するが、出来事の単純な反復は歴史ではなく、出来事の継起が、発展の意味をもつ場合に歴史となる」(岩波『哲学小辞典』)からである。ギリシャ的歴史観、異教的歴史観は円であるとされるから、歴史観そのものが無いと言ってもよい。ギリシャにかぎらず自然宗教を背景とすれば、春夏秋冬の循環や、地に落ちて死んだ種から新しい芽ぶきが起こるその生と死の循環を見ていると、時間のイメージは円となるであろう。したがって、思想において歴史は主題的に扱われず、永遠のみが主題とされる。

 ルネサンス以後を近代と見て、これを進歩史観の時代と見る立場もあるが(宇田進『現代福音主義神学』p419)、近世ルネサンス人たちが抱いていたのはむしろ退歩史観というべきではないだろうか。ルネサンス期の人々は、古典古代こそ黄金時代であり、それが銀に、青銅に・・・と退歩してきたと考えたからこそ、古典古代をこそ学ぼうとしたのである。さればこそルネサンス文芸復興と呼ばれる。

ルネサンス以降を進歩の歴史と見たのは、むしろ19世紀ヨーロッパ人の観点によるものであり、彼らこそ進歩史観に立っていたということができよう。ヘーゲル、マルクス、ダーウィンのみならず、コントを代表とする実証主義、デューイなどプラグマティズム、あるいは自由主義神学者たちなど、あらゆる思想家たちは楽観的な進歩史観に色づけられている。思想界は20世紀を迎え世界大戦の惨禍を見て、すぐに悲観的な歴史観が登場する(シュペングラー)が、自然科学と合理主義になお楽観的な見方を持つ一般人の世界では、20世紀末ころまではなおも進歩史観に立っていたということができるのではないだろうか。1970年万国博覧会のテーマは「人類の進歩と調和」であった。進歩史観に立てば、「そんな考え古いよ」ということばは「それはだめだよ」と同義語になる。いまだに「そんな考え古いよ」という一言で人の主張を一蹴できると思っている人、「最新の学説」をひたすら追い回してくたびれている学者もいるかもしれないが、そういう人は19世紀人にすぎない。退歩史観に立てば、逆になる。新しいものほどだめなものであり、古いものほど価値あるものである。

 神が聖書において真理を啓示されたという信仰に立つわれわれは、その主張が新しいか古いかによって価値の有無を判断基準とはしない。それが聖書にかなっているかどうかということこそ、われわれの適切な判断基準である。

 環境問題がクローズアップされ、地球の危機が現実性を帯びてくる状況において、20世紀末、21世紀初頭にいたって、一般的意識も悲観的な歴史観の様相を帯びてきているのではないだろうか。哲学者、思想家というのは、およそ100年くらい早く時代思想の成り行きを感じ取るらしい。

 時には初めと終わりがあるという認識、「今」という時は二度とは訪れない一回かぎりであるという認識、つまり、歴史意識は聖書のなかに現われる。アウグスティヌスの『神の国』はこの枠の中で書かれた。彼はもともとギリシャ・ローマ的な教養人であったが、聖書にふれてこうした歴史を知ったのである。それはまず『告白』における自己史において表現され、『神の国』で大成する。

 聖書は、時に始まりと終わりがあることを教えている。時は、神の創造によって始まり、神の審判において終わるのである。ここに歴史意識が生じる。今というときは、歴史の中において一回限りなのである。私の人生は一回限りであるということ。私の人生において、今というときは一回かぎりであるゆえに、決断を迫る緊迫感。    b.時と空間は密接不可分であり、時は繰り返しつつ前進し完成に至る  時には初めがあり終わりがあるというのが、聖書的な歴史観の大枠である。同時に、聖書によれば、時は天体の回転・運行する空間と関係づけられて、循環的性質を持っている。「光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立て。」創世記1章14節。すなわち、地球の自転一回転が一日であり、地球の公転一回転が一年となる。本来天体の運行は時のために役立てるためであった。神は、このように時と天体の空間的な運行・回転を関係づけておられる。時と空間は密接不可分な関係にある。

 よく考えてみると、天体の空間的運行は具体的な生きている時間と関係している。地球が太陽に対して自転していることによって、昼と夜が訪れる。もし地球が自転せず、昼と夜がなければどういうことになるか。太陽に向かった側は、灼熱地獄となるであろうし、その反対側は暗黒の寒冷地獄となってしまい、そもそも生命の存在が可能であるかどうかが疑わしい。生命の存在がなく、したがって人も存在しないのだから、「時間」をうんぬんすることは意味が無いだろう。天体が自転するというのは、たとえば月がいつも地球に対して同じ面を見せているように、当たり前のことではないのである。月の運行も地球の生命現象に深い影響があることが知られている。満潮・干潮の現象は月の運動によって生じている。また地球の地軸が傾いており、太陽の周りを公転することによって季節の変化が訪れて、動植物のさまざまな移り変わりがあるのである。

  こうして見てくると、地球上における時間というものと、天体の運行という空間的現象とは、きわめて深い関係があることがわかる。そして、そこに生命現象と人の人としての営みとが関係している。

 レビ24−25章には、地球の自転と公転という空間運動によってもたらされた時の刻みを、どのように人生の中に意識化して生きるかが教えられている。七日に一度の安息日、一年一度のいくつかの祭り、七年に一度の安息の年、安息の年を七回繰り返して50年目がヨベルの年。このヨベルの年の解放の出来事は、メシヤ到来による解放の出来事の予型である(イザヤ61:1)。つまり、時は繰り返しつつメシヤ到来という目的・完成に向かってらせん状に進んでいくという構造をしている。

 初めと終わりがあるかぎり、<今日という日は一回限りである>という緊迫感ある。が、時が繰り返すということには、<きょうは失敗したが、明日がある>という慰めがある。時の経巡りのうちにも、私たちはあのことばを思い出すだろう。「見よ、神の慈しみと厳しさを!」

(2)救いの歴史の中心 a.神の国と地の国 「わたしは、おまえと女との間、また、おまえの子孫と女の子孫との間に敵意を置く。彼はおまえの頭を踏み砕き、おまえは彼のかかとの噛みつく」創世記3:15

 創世記3:15に、聖書的観点からの歴史の見方の一つの原理が提示されている。それは、歴史を女の子孫と蛇の子孫との抗争の歴史と見る見方である。 この原理に立って歴史哲学を展開した史上最初の人は、アウグスティヌスであるといわれる。彼は「神の都」において、神の都と地の都との抗争の歴史としての歴史哲学を展開した。女のすえと蛇のすえの歴史である。「神の国」第15巻8章

 女のすえ―――アベル――セツ族――――――――「神の子ら」(Gn6:1−2)

 へびのすえ――カイン――カイン族――レメク――「人の娘」

 創世記6章冒頭の「神の子」と「人の娘」とは誰か。神の子を天使と捕らえる向きもあるが、主イエスによれば天使は娶ることもとつぐこともないので、不適切である。「神の国」22章においてアウグスティヌスは、神の子らとはセツの敬虔な一族つまり神の国の民をを指しており、人の娘はカインの不敬虔な一族つまり地の国の民を指していると解釈している。神の国の男たちが、地の国の女たちの色香に迷って雑婚を始めたことが、ノアの時代――大いなる裁きの前夜――の堕落した世界の発端であったと指摘している。これは終末の時代である現代にも警告である。

  創世記の6章にいたる歴史を簡略に述べてみよう。

 サタンは思い上がって神に背いてしまう。サタンは、アダムとエバを「神のようになれる」と誘惑して、彼らを罪に陥れる。アダムとエバから、カインとアベルが誕生する。カインはアベルを殺し、カインの子孫は神に背く文明――地の都を形成していく。他方、神は死んだアベルに代えてセツをお与えになり、セツ族からは神を畏れる祈りの一族――神の都――が生まれていく。しかし、やがて両種族は結婚によって混じって行き、もはやノアの一家のほかに敬虔な家族はいなくなってしまう。結婚・家庭がかぎである。

 新約聖書は、神とサタンの間の宇宙的な格闘のなかで、カインとアベルという二人の人物の意味をはっきりと決定している。カインは「悪しき者」つまりサタン(1ヨハネ3:12)から出たものである。アベルと同じようにエバから生まれたのであるが、カインは創世記3章15節で描写された女のすえに属するものとみなされることはできない。カインは肉体的にはエバから生まれたが、霊的にはサタンのすえに属するのである。バプテスマのヨハネは偽善的な人々に向かって「まむしのすえ」と言い、主イエスは敵対するユダヤ人たちに対して、「あなたがたは、あなた方の父である悪魔から出たものである」(ヨハネ8:44)と言った。

 女のすえとは、神に属する人々を意味しており(ローマ16:20)、究極的にへびの頭を踏み砕く単数の「彼」と呼ばれる女のすえは主イエスをさしている。 *O.P.Robertson、The Christ of the Covenantsを参照せよ。PP98‐99

 明白に、女とへび(竜、サタン)との格闘として終末的な戦いのありさまが啓示されているのが、黙示録12章である。十二の冠をかぶった女は旧約新約を貫く神の民であり、この神の民のうちから「男の子」キリストが生まれ、天に上げられ、竜は手下どもとともに天から落とされて、女を迫害する。

*プラトン主義との比較  世界観について多様性と統一性というだけでは、実は、プラトン的な世界観とさして変わるところが無い。プラトンは、多様な個物の世界に意味ある統一性を与えている原理をイデアととらえた。しかし、それは永遠的な理想世界を指してはいても現実を十分には把握しているとは言いがたい。

 聖書に特徴的なことは、統一的で多様な世界の認識に、神の聖定の展開としての時間的・歴史的要素が加えられることである。アウグスティヌスは『告白』において自らの思想的遍歴を記し、後に『神の国』で二つの国の抗争の展開としての歴史観をもってこれを記している。私たちが聖書的な世界観というとき、そこに時間的歴史的要素を抜きにしては語ることができない。

 アウグスティヌスが神の国と地の国の抗争の展開として歴史を捉えたのは、一つには彼がかつてマニ教の善悪二元論に染まっていたことが背景にあったからではないかという指摘がある。そうかもしれない。しかし、それだけではなく、彼が聖書を知り、同時に司祭となってもろもろの苦しみ、悪の問題と直面するようになったとき、悪のリアリティと、それにもかかわらず未来に神のさばきを信じるという信仰の真実があったからであろうと筆者は考える。彼の『自由意志論』という書物を読むと、ギリシャ的教養人としてのアウグスティヌスが、司祭として聖書に耳傾けながら、牧会の現場に生きるようになっていく過程で、悪の問題の理解の深まりと歴史というものに目さめていく過程が手に取るようにわかる。

 私たちが聖書的世界観を言うときに、役者としては、神、天使、人、自然だけでは足りない。そこに悪魔がいることを考えに入れなければ、具体的な歴史を捉えることはできない。女の子孫と、へびの子孫の抗争の歴史、そして最終的に主の勝利が約束された歴史として見るときに、はじめて私たちはこの具体的歴史を見、また、具体的な歴史の中になお希望を持って生きることができるであろう。書斎にこもってプラトン的な永遠的無時間的な理想世界をながめているだけでは、私たちは歴史形成に参与することはできまい。プラトンは理想の哲人支配を唱える『国家論』を書きながら、それが実現できずに失望のうちに生涯を閉じた。私たちは正しく聖書的歴史観に立ってこそ、困難な福音宣教の前線に立って、戦うことができる。

b.地の国の権力者 ルカ4:5−8、黙示録13:2 旧新約の時代と貫く教会の歴史において、常に「教会と国家」の問題が繰り返されてきていることに注目せよ。

 もう一つ歴史理解のために聖書から抑えておくべきことは、サタンが「この世の君」と呼ばれていること、サタンにはこの世の権力について一定の権威があり、サタン(竜、悪魔)が女(教会)を迫害しようとするとき、竜は国家を道具として用いるということが、黙示録12章に続く黙示録13章に、記されている。教会と国家の対立抗争というのは聖書を貫き、歴史を貫くテーマであることに注目せよ。

 サタンは、サタンにたましいを売る者(第一の獣)に権力を与えて権力者とする。権力者は横暴に振る舞い、神の民(教会)を迫害する。その際、御用宗教(第二の獣)を利用する。世俗権力が宗教性を帯びることの危険性を私たちは知るべきである。旧約聖書の例で言えば、ヤロブアムの国家神道政策、ネブカドネザルの金の柱。そして、歴史上、教会を迫害したもろもろの悪魔的な統治者たちを思い起こすがよい。ネロ、ディオクレティアヌス・・・ヒトラー、スターリン、毛沢東、ポルポト、金日成など枚挙に暇が無い。  そもそも世界の王たちは、そのほとんどが祭司王として成立したことを文化人類学者が指摘している。ラッシュドゥーニは政教分離的な理念は、ただ聖書的な伝統のなかにのみあったと指摘している。モーセはかなり祭司王的であったが、それでもすでにアロンという祭司を立てていた。サウル王の問題点は、王でありながら祭司職に属することを侵犯したことであった(1サムエル13,15)。ヤロブアムの罪は王でありながら、宗教を作り出して国家の統治に利用したことであった(1列王12:25−33)。名君ウジヤ王の晩年の悲惨は、王でありながら祭司の職分を侵したことが原因であった(2歴代26:16−21)。

 「教会と国家」という問題。それは単にこの世の制度的な問題ではなく、サタンのからむ事柄である。日本宣教の文脈において、靖国問題・天皇の問題について、聖書的な大きな枠をとらえておくことがたいせつ。

c.「救いの歴史の中心」と「終わりの時」   へびの頭を踏み砕くメシアの到来を待望する、女の子孫と蛇の子孫の抗争史として、アダム以後の救いの歴史は展開されていく。

イザヤ61:1にあっては、ヨベルの年と到来は、メシヤの到来の型として理解され啓示されている。そしてイエスご自身、ナザレでの宣教の最初にこのイザヤ書を引用して、ご自分がメシヤであることを暗示された。

神の御子の受肉について、「時満ちて」という表現がガラテヤ書4:4には取られている。アダムの堕落以来、長く長く待ち望まれたメシヤの到来が、時満ちて成されたのである。

へブル9:26「しかし、キリストはただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。」とあるように、聖書的な歴史観によればキリストの初臨によって、「終わりの時」は始まったのである。それは農業に譬えれば収穫のときと言えば良いだろうか。土を耕し種を蒔き水を蒔き草を取り、収穫のときを待つ。収穫の時は目指す「終わりの時」である。収穫の季節が始まって何日間かかけて収穫の作業がある。この期間が「終わりの時」であって、「終わりの時」にも終わりが来る。今、主イエスが来られて始まった収穫の時は、世界宣教という収穫作業として続いているが、やがて「御国の福音が全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから終わりの日が来ます。」(マタイ24:14)という具合に収穫作業も終わる。神様がペンテコステという収穫感謝祭を世界宣教のスタートのときに選んだのは、偶然ではない。

そして、イエス・キリストの到来の後は、すでに来られた女の子孫であるイエス・キリストを持ち、かつ、再び来られるキリストを待望する時として救いの歴史はある。気取った表現として「すでに」と「いまだ」の間に新約の教会は旅するなどと言い習わされている。そういう意味で、キリスト教的な救いの歴史観には、イエス・キリストという中心がある。

このような文脈で、コンツェルマンは『時の中心』というルカ福音書研究を書いている。「救いの歴史の中心」と表現すれば、端的にわかるのだが「時の中心」といった気取った表現で、わざとわかりにくくしてあるように見えなくもない。

旧約時代・・・・・キリストの初臨・・・・・・・キリストの再臨            ←・・・・・終わりの時・・・・・・→