真の自己実現に至る道

Sat, 12 Feb 2005 12:52:29 JST (4423d)

少し前から、自己実現ということがよく言われています。もともと自己実現という言葉は、アメリカ生まれのユダヤ人、アブラハム・マズローという心理学者が使い始めた言葉です。自己実現とは、その名のとおり、自分の願いを実現すること、こうなりたいという自分になることを意味します。昔ながらの言葉で言うならば、心願成就、今風の言葉で言えば、自分らしく生きることです。人生の最期に「私の人生大成功だった!」と締めくくれるような人生を目指す。そのような意味でも使われています。

今、かつて仕事人間であった方々、自営業の方々やサラリーマンの方々、あるいは何のために勉強するのかわからない学生、アルバイトに明け暮れる若者といった多くの方が、疲れや弱さを抱えて立ち止まり、自分の人生の意味を改めて考える時間を持っています。今はそういう時代なのだと私は感じています。ですから自己実現を、今多くの人々が求めているのではないでしょうか?そして自己実現を目指す人生こそ最高の人生だと言われています。

私もかつてそうでしたが、自己実現のために教会に来られる方も少なくありません。そしてキリスト教会には、本当の意味での自己実現に至る道があるのです。キリスト教会には、一度しかない人生をあなたらしく生きて、人生の最期に「私の人生大成功だった!」と締めくくれるような生き方があるのです。そしてそれだけではありません。死が終わりではない、永遠のいのちに生きる人生が、キリスト教会にはあるのです。

けれども、自己実現のために教会に来られている方は、自らの罪深さを知って神に心砕かれることがなければ、いつか教会を去る可能性が非常に高いと言わざるを得ません。

なぜならそういう人が持っている信仰というのは、いわゆるご利益信仰だからです。祈っても自分の思い通りにならないと、怒ったり失望したりしながら、「この神様にはご利益がない」とか「この神様はたいしたことない」などと言って、自分の願いをかなえてくれそうな他の神様を求め始めるからです。(実はそういう時には、願ったことが実現することは、その人にとって最善ではなかったから神様がそうされなかったということ:その人にとって最善のものと最善のものを渡す最善のタイミングをよくご存知である神様の、愛の配慮による)

そういう人は、結局何を拝んでも、その拝む対象を本当に敬って拝んでいるわけではないでしょう。はっきり言えば、そういう人は自分の願いをかなえるために、神様のご機嫌取りをしているだけです。そういう人が拝んでいる神様というのはその人の召使でしかなく、その人の本当の神様は、自分自身、あるいは自分の欲望なのです。

そういうふうに考えて来ますと、たとえ拝む対象がまことの神様であっても、自分のために拝むならば、それは偶像を拝むことになるわけです。まことの神を拝んでいても、自分のために拝んでいるなら、結局は自分の欲望を神として拝んでいるだけだからです。

そのような、神を神とせず、自らの欲望を神とする人の行き着く所は、永遠の滅びだと聖書は警告しています。

というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。 ピリピ人への手紙3章18−19節

私が東海聖書神学塾で学びをしていた時、比較宗教学というクラスがありました。そのクラスでは、実際に神社やお寺などに出かけて行って、歴史や教えを調べてくるという宿題が出されました。それで私は、きつねが祭られている豊川稲荷にフィールドリサーチのために出かけたわけです。名鉄電車にも豊川稲荷線があるだけあって、豊川市は豊川稲荷への参拝者で栄えているという印象を受けました。広い敷地と大きな建物にもびっくりしました。けれども、参拝者の方たちの祈祷内容を見ると、家内安全、商売繁盛、交通安全、心願成就、事業繁栄、息災延命といった、まさにこの地上のことだけしか祈られてなかったのです。「彼らの思いは地上のことだけです。」と聖書が語っているとおりでした。

しかし聖書は、そのような自己中心で地上のことしか考えない私たちの罪のために、イエス様が十字架で死なれ、罪の負債を全部返済してくださったことを語っています。そしてイエス・キリストが3日目に死人のうちからよみがえられて、私を罪と死の恐怖から解放してくださったこと。もし私たちがイエス様を主として信じるなら救われ、永遠のいのちが与えられ、天国に国籍を持つ者とされることを約束しているのです。

けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。 ピリピ人への手紙3章20−21節

ここでも聖書は、私たちが将来キリストのように変えられるという約束を繰り返し語っています。なぜ聖書は、私たちがキリストのように変えられるという約束を繰り返し繰り返し語っているのでしょうか?それは、イエス・キリストのように変えられるということが、私たち人間にとって本当の自己実現であるからではないでしょうか?主イエス・キリストは、真の神であると同時に真の人間であられるからです。

自己実現のために、自分の願いをかなえるために教会に集っておられる方がいらっしゃるでしょうか?そのような方々が続けて教会に来られ、イエス・キリストを、主なる神として信じ、キリストのように変えられるという真の自己実現に至る、最高の人生へと導かれますように、私は祈っています(野町)。