信州夏期宣教講座

Sat, 12 Feb 2005 12:52:29 JST (4453d)

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信州夏期宣教講座に参加して(2000年9月10日更新)

野町 真理

信州、長野県丸子町、霊泉寺温泉街の中屋旅館にて、8月28日から29日にかけて第8回信州夏期宣教講座が開かれました。

私は今回初めてこの講座に参加しましたが、今回で8回を数えたようです。

過去にこの講座で探求され、議論されてきた内容や思いは、信州夏期講座編ブックレットとして、いのちのことば社から出版されています。

『ライフ・ブックレット 時は迫っている』 いのちのことば社 1995年(1200円)

『21世紀ブックレット 中国・韓国・日本の教会』いのちのことば社 1997年(1200円+税)

『21世紀ブックレット 沖縄は問いかける』いのちのことば社 1999年(1200円+税)

また、信州夏期講座編ブックレットではありませんが、

『21世紀ブックレット 敬虔に威厳をもって』いのちのことば社 2000年(1200円+税)

『戦後50年全日本超教派キリスト教徒 罪責告白の歩み』島田プレスセンター(098−897−3785) 2000年

も同様の問題意識とその解決を模索している本です。

先輩たちの学ばれてきたこと、そして罪責告白を共有するために、ぜひこれらの本を読むことをお勧めします。

信州夏期宣教講座は、アジアの中の日本の教会の歴史、宣教史を探求し、その過去の一つ一つの出来事を吟味・考察することによって、歴史的事実を見出し、それを心に刻むことによって、 日本宣教の新たな地平を目指しています。

以下にこれまで私が学んだことや所感を書きたいと思います。

キリスト教は歴史的宗教だとよく言われます。 ある教会史の先生は、キリスト教会の歩みをカッターボートを漕いでいくことにたとえます。 カッターボートを漕ぐ時、船頭以外のすべての乗組員は進行方向とは反対の後ろを向き、協力して一緒に漕いでいくのです。

それと同じようにキリスト教会は、共に過去の歴史に目を向け、一緒に力をあわせることによって、前に進むことが出来るのです。

過去を学ぶことをしなければ、かつてと同じ間違いを何度でも犯し、座礁して沈没することになります。

かつて、私たち日本のキリスト教会は、国家神道ナショナリズムに対して抵抗出来ず、教会の指導者は伊勢神宮に参拝して偶像礼拝の罪を犯しました。 真の神だけを神とすることを止め、天皇を現人神として拝み、天照大神(太陽)を拝んだのです。

そればかりではありません。私たち日本のキリスト教会は、アジア諸国を大東亜共栄圏と呼び、 『日本基督教団より大東亜共栄圏にある基督教徒に送る書翰』を懸賞をつけて募集し、それをアジア諸国に送って主の御名を冒涜しました。

そして、教会の指導者たちは特高警察と共にアジア諸国に赴き、「神社参拝は宗教ではないから参拝しなさい」と同胞に勧めたのです。そして、神社参拝を拒否する者は片っ端から拷問にかけ、殉教させたのです。

ほとんどの諸教会の礼拝式においても、まず日の丸・君が代が歌われ、天皇を拝むことから始められ、戦勝祈祷がなされたようです。戦闘機も献品されました。

脅され、やむなく強いられたというのなら、戦後すぐに、まず主イエス様に対して、悔い改め、総懺悔がなされたはずです。けれども、残念ながらほとんどの場合、事実はそうではありませんでした。

主イエス様を裏切ったという罪責感ではなく、天皇に対して申し訳なかったという思いしか、教会の指導者は持つことが出来なかったようです。

キリシタン時代には多くの殉教者がいたようです。けれども、戦時下の日本の教会には、ほとんど殉教者は起こされなかったのです。

なぜ、かつてはいのちをかけても信仰を守り、抵抗することが出来たのでしょうか?

なぜ戦時下で、ほとんど抵抗することが出来なかったのでしょうか?

おそらくその原因の一つは、国家教育にあったと思われます。

今回の宣教講座では、「教育勅語」が作成されるまでの過程も詳しく学ぶことが出来ました。

1879年頃から、天皇周辺によって教育干渉が始められました。そして1890年の「教育勅語」は、明治ナショナリズムの到達点なのです。「教育勅語」は実質的に国教とされた国家神道の経典でした。

「日本は昔からそうであった」というもっともらしい言葉で、全く新しい日本の歴史が作り上げられました。それは天皇を神聖視し、美化し、日本は昔から天皇の国(皇国)だったというフィクションでした。そして、天皇のために、お国のために絶対献身して生きることが、最も素晴らしい生き方であるという教育が国家レベルで導入されていきました。それによって、筋金入りの日本民族優越意識を持った日本人が育てられたようです。

当初、この教育勅語による教育を導入した側は、キリスト教をその最大の障害と見なしていました。

(日本のキリスト教会が今、世からほとんど危険視、あるいは重要視されていないのはなぜなのでしょう?その原因の一つは、あまりにも個人主義的な、貧しい福音理解の故だと私は考えます。口でどんなに福音の素晴らしさを説いても、もしその人が本当に福音の豊かさを知り、 福音に生かされていなければ、態度や顔の表情で「これは本当は素晴らしくないんです」と語っていることになります。世の中には、巧みなコマーシャルや虚言によって飽き飽きしている人々、けれども本物の救いを求めて羊飼いのいない羊のように、空しさと孤独と絶望の中を生きている多くの人々がいます。その人たちに対して、本物の福音を伝えていくためには、まず私たちキリスト者自身が、福音の豊かさを理解し、味わい、福音の神、イエス様を喜んで生きることがどうしても必要です! )

けれども、「教育勅語」導入に対して、当時の教会指導者の多くは、「教育勅語」はキリスト教とは衝突しないものであると弁明し、特別視されること、迫害されることを恐れ、地の塩とされた者の持つ塩気(異質性)を自らなくして、同化していく努力をしたようです。

ある神学校の先生は、「宣教とは異化作用だ!」と教えて下さいました。(視点を変えて神の目から見ると、実は世の中の方が、本来あるべき良きものではなく、異質になっています!)

キリスト者とは、主なる神によって罪の奴隷から開放され、神の民とされた者たちのことです。 この世のものであった者が、十字架につけられ、よみがえられた神によって聖め分かたれ、神のものとされたのです。それはかつて、エジプトで奴隷であったイスラエルの民が、モーセに導かれて出エジプト(エクソダス) をして、真の自由へと解放されたのと同じです。

私たちキリスト者が先に救われた目的(神の計画)は、先に恵みによって神の民とされたキリスト者一人一人が、全世界の祝福の基、世の光、地の塩として神の民(国)のライフスタイルに生き、神の国のために、他者のための存在として生きるためなのです。これが聖書の語る「キリスト教的生」です。

そのためには、世のただ中に異質性、つまり塩気を失うことなく出て行くという戦いをしなければなりません。

キリスト教的生は、光を枡の下に隠して、自らの上に火の粉が降りかからないように、こそこそ生きることではありません。

キリスト教的生とは、ことばと生き様をもって、伝えるべきイエス・キリストの福音を語り続け、主イエス・キリストを指し示し、世の闇を照らす生き方なのです。主イエス・キリストは、真の世の光であり復活された勝利者、真の神であり真の人です。

イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」ヨハネの福音書 8章12節

光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。 ヨハネの福音書 1章5節

聖書ははっきりと、こう語っています。

確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。 2テモテ 3章12節

…わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」ヨハネの福音書 16章33節

このことは教会の歴史を見るなら明らかな真理です。かつて初代教会の少数派キリスト者たちは、ローマ帝国による迫害下でこの真理を痛感しました。けれどもローマ帝国は、主を信頼して闘ったキリスト教会によってひっくり返されました。「殉教者の血こそ、教会の種子であった」のです。

キリスト教的生は、修道院のような所に逃げ込み、世と隔離して生きるという道ではなく、また、世の罪の現実の中で、語るべき時に沈黙を続け、結果的に世に流され、世に同化して生きる道でもありません。

キリスト教的生は、かつての森総理が勧める言葉をそのまま受け入れて、「寝ていること」では断じてありません!

義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。 わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、 また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。 喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。 あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。

あなたがたは、地の塩です。 もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。 もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。 そうすれば、家にいる人々全部を照らします。 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、 人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。 マタイの福音書5章10−16節