最も強い誘惑

Sat, 12 Feb 2005 12:52:19 JST (4665d)

 私たち人間にとって、最も強い誘惑とは何でしょうか?それは、自分が他の誰よりもあがめられたい、自分が神様のようにほめたたえられたいという思いです。まことの神様よりも、自分をあがめさせたいのです。この思いを一言で言えば、自分が神のようになりたいということです。すべての栄光と賞賛を自分自身が受けたいのです。他の人に「あの人はすごいですね!〜さんは素晴らしいですね。」という言葉を言わせたいのです。

 実は、この願いこそが、聖書の語る罪というものと、最も深く結びついている野望なのです。創世記3章を見ますと、最初の人間アダムとエバが、そしてすべての人が犯してしまった罪のことが、書かれています。初めに神が天と地を創造された時、造り主なる神がお造りになったものはすべて非常に良きものでした。主なる神はエデンの園(喜びの園という意味)を人間のために設けて下さいました。人間が人間として喜びに溢れて生きていくために必要なものすべてを、造り主なる神は用意してくださったのです。そしてその後、創造の冠として神のかたちに似せて造って下さった人間を置いて下さったのです。

 主なる神は喜びの園に、数え切れないほどの数の、実のなる木を植えられました。そして、「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、園の中央にある善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」とおっしゃられたのです。  しかしそこに試みる者であるサタンが、蛇の形をとって現れ、人間をこう誘惑しました。「あなたがたがそれ(善悪の知識の木の実)を食べるその時、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」と。皆さん、この、「あなたがたが善悪の知識の木の実を食べるなら、神のようになれるんですよ」という言葉こそが、人間にとって、自分が神のようになりたいという野望をくすぐる最も強い誘惑だったのです。

 善悪の木の実を取って食べないという生き方は、造り主なる神を善悪の規準とする生き方でした。つまりそれこそが、神を神とし、御名をあがめる生き方だったのです。しかし、善悪の木の実を取って食べるという生き方は、造り主なる神を善悪の基準とする生き方ではなく、自らを善悪の基準として生きるということだったのです。つまり、善悪の木の実を取って食べる生き方こそ、神を神とせず、自らを神の座に置いて、自分の名前があがめられますようにと願いつつ生きる道だったのです。

 この誘惑は、私共がたとえキリストを信じ、キリスト者になっていたとしても、同じように最も強い誘惑であることには変わりありません。たとえ牧師や伝道師であっても、最も強い誘惑には変わりないのです。キリスト者であっても、人間的に目に見えるような形で成功すればするほど、用いられれば用いられるほど、この誘惑は激しく襲って来るのです。

 人間の心の一番深い所から、密かに頭をもたげてくる願望は、「自分の名前が、自分自身があがめられますように」という願いである。そう言っても決して過言ではないのです。自分の心の王座からまことの神を追い出し、代りに自分自身が王座に座り、自分を神として自己中心に生きること!これこそが、聖書の語る本物の罪なのです。

 いのち、健康、能力、仕事、結婚相手、子供、食べ物、着る者、住む所。数え上げたらきりがありませんが、どれ一つとして、神から与えられたものでないものはありません。けれども、これらすべてのものを、あたかも自分で勝ち得たかのように、神を無視し、感謝もせずに生きる者はすべて、聖書が語っている罪人なのです。この人は他人はもちろん、神様でさえも、自分のために利用します。まるで自分の召使であるかのように。

 こう考えてくると、主の祈りの内容は、その一番最初から、人間が自分からは決して願わない祈りであるということが分かってきます。

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(野町)