レビ記

Thu, 27 Nov 2008 14:41:14 JST (3101d)

聖書66巻

 信仰を持ったとしても、聖い神の前に、罪をまったく犯さないで歩み続けることは非常に難しい。私たち人間には、信仰者であったとしても、神の命令を守ることの出来ない弱さがある。そのような私たち人間の弱さや罪深さをよく知っておられる神は、私たちのために、罪が赦される道、きよめられる道、聖なるものとされる道を絶えず備えてくださっている。

 レビ記には、どうすれば罪が赦されるのか、どうすれば汚れがきよめられて聖なるものとされるのかが記されている。それは、キリストが自分の罪の身代わりのいけにえとして十字架でほふられて血を流し、よみがえられたということを信じ、神の命令に従って生きることによる。罪の赦しときよめは、私たち人間にとって、心の健康と肉体の健康をもたらす神の恵みである(聖という言葉は、本来健康でいのちに溢れているという意味である)。

 レビ記には、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。(レビ19:18)」という黄金律も記されている。「あなたの隣人」の中には、貧しい者や在留異国人、あるいは白髪の老人等も含まれている。

レビ記

レビ記は、出エジプト記の続編である。レビ記が教会で解き明かされることは、あまりない。しかしトーラー(律法)の中でも中心的に、レビ記には礼拝の本質が記されている。

神はどのような方で、どのような礼拝を望んでおられるのだろうか?

どのような礼拝が、神に受け入れられる礼拝であろうか?

罪に汚れた人間が、どうやったら聖なる神、義なる神、栄光の輝きに満ちた方に近づくことができるのだろうか?

それらは、レビ記の中に記されている。神の御声に耳を傾け、神に命じられたとおりにしなければならない。

神が命じられたとおりに、傷のないものが受け入れられる。

礼拝は献げるものである。精一杯の献身が求められている。

全焼のいけにえから和解のいけにえまで。

全焼のいけにえ=礼拝者の全き献身

問われているのは、礼拝者の心である。

真の礼拝者となる道、霊とまことによって礼拝する道が、レビ記には記されている。

わたし(イエス・キリスト)を通してでなければ、

25章

安息の年とヨベル(ジュビリー)の年

約束の地にて

安息の年:7年目

ヨベル(ジュビリー)の年:50年目

26章

神に聴き従う歩みがもたらす無尽蔵の祝福 3ー13節

神に聴き従わない歩みがもたらす恐ろしい災い 14ー45節