デボーション/2004-09-17

Sat, 12 Feb 2005 12:52:03 JST (4570d)

デボーション

1、神はなぜ禁断の木の実を園の中に植えられたのですか?

禁断の木は善悪の知識の木と呼ばれています。 つまり、何が善で何が悪であるかを判断する絶対的な基準です。

もしこれが無いなら、すべての基準が相対的になってしまいます。 何が善で何が悪かを判断する絶対的な基準が無くなってしまうのです。 なぜ人を殺してはならないのか?なぜ姦淫してはならないのか?なぜ盗んではならないのか?なぜうそをついてはならないのか?なぜ他人のものをほしがってはならないのか? なぜ父と母を敬わなければならないのか?そのような問いかけに対して答えることの出来ない、ルールなき世界になってしまいます。

この善悪の知識の木の実を食べないということは、神を基準として生きるということです。 でも、善悪の知識の木の実を食べるということは、神を基準とすることを止めて、自らを基準として生きることを意味しています。 食べるという行為は、それを自分の体内に飲み込んでしまう、自らの中に取り込んでしまうということですから。

自らを基準とするなら、その基準は相対的で、どこまでも自己中心な基準、自己中心なものさしとなります。 自己中心なものさしは、自己中心に長さが変わるものさしです。 自分を測る時には短くなりますが、他人を測る時には長くなります。 自己中心なものさしで測ると、同じことであっても、自分のしたことは善になり、他人がしたことは悪になってしまいます。 あくまでも自分は正しい、間違っていないということになり、責任はすべて他人や環境、そして神に転嫁されます。

おわかりでしょうか。禁断の木の実の存在を忌み嫌うということは、 自らを基準としたいという思いから生じてくる思いなのです。 それは、神を神とすることを止めて、自らが神になるということです。 神を亡き者としてしまうならば、ルールなき恐ろしい世界になってしまいます。 「もし神がいなければ何をしても許される」という結論に至るからです。 自分にとって都合のいい人間や神は利用出来るだけ利用し、自分にとって都合の悪い人間や神は傷つけても殺してもいいということになります。

しかし神が存在する以上、善悪の知識の木、つまり絶対的な善悪の基準も存在するのです。

2、全知全能であるのに何故、禁断の木の実を食べるようにそそのかしたヘビ(悪魔)を見逃したのですか?

神は悪魔を見逃したわけではありません。 ヨブ記の冒頭にあるように、神の許しがなければ、悪魔は人間に対して何も出来ないのです。 神は悪魔が人間を誘惑することを許可されたのです。

悪魔は堕天使と呼ばれるように、もともとは神に仕える天使でした。 神は悪魔を悪魔として創造されたわけではありませんでした。 でも堕落して神に反逆し、自らが神になろうとした結果、地に落とされ、悪魔となったのです。

神は悪を善に変えることも出来る全知全能の方ですから、究極的には悪魔の存在を用いて救いの計画を完成されました。 ご自分のひとり子、御子イエス様を、悪魔の働きによって十字架につけて殺し、そしてよみがえらせることによって、 罪を犯して堕落した私たち人間を救う道を切り開いて下さいました。

3、アダムとエバが誘惑を受けないようにヘビ(悪魔)から守ることが神には出来たのではないですか?(ハッキリ言えば人間の運命が決まる大事な時に神は何をボーっとされていたのか?直ちに悪魔を完全消去するかヘビを根絶やしにしておけば問題なかったでしょう?)そうすれば、人間は幸せなままで子孫を繁栄できたんではないでしょうか?禁断の木の実の存在が無ければ人間の世界に悩みも苦しみも戦争も病気も無かったのではないでしょうか?神は失敗なさったのですか?それともわざと危険な状況に人間をおかれたのですか?

最初神様は、人間を成人としてお造りになりました。保護の必要な子どもとしてではなく、立派な大人として造られたのです。

英語で「責任」を意味する単語はresponsibilityです。 この言葉はresponse(応答)という言葉とability(能力)という言葉から作られています。 つまり、「応答する能力」があるからこそ、「責任」が問われるという意味が込められた言葉です。

善悪の判断もわきまえ、神の愛に応えて誘惑を退けることの出来る能力も与えられていた立派な大人として、人間は造られていたのです。 だからこそ神は、もちろん人間を誘惑から守るということは出来たのですが、あえてそれをなさらなかったのです。 それは、それほどに神が、私たち人間を深く信頼して、すべてを委ねておられたということを意味しています。

人間の運命が決まる大事な時に、神はボーっとされていたわけではなく、信頼している故に委ね、じっと見守っておられたのです。 神は、「応答する能力」を人間に与えたからこそ、「責任」ある行動を、人間に期待されていたのです。

神がどれほど私たちを信頼しておられたのか、そのことを創世記は雄弁に語っています。

人間は神の全権大使、神の代理人として、地のすべてのものを委ねられたのです。 それは現在のような悲惨に満ちた世界ではなく、すべてが非常に良かった世界です。 エデンという言葉の意味は、喜びですから、エデンの園というのは、喜びの園だったんですよ。 神は正しく管理してくれることを期待して、喜びの園の管理を、私たち人間に委ねて下さっていたんですよ。 奴隷どころか、神は私たちを本当に信頼出来る友として、すべてを委ねてくださっていたんですよ。

人間はその神の愛、信頼、そして期待を、見事に裏切ってしまいました。 そして自らの罪を認めず、すべての責任を神に擦り付け、神に反逆し続けています。…