もし、おできになるものなら

Sat, 12 Feb 2005 12:51:44 JST (4514d)

マルコ福音書

 マルコ9:22 イエスに対しての不信仰な祈りの中で用いられたスプランクニゾマイ

この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」マルコ9:22

  マルコ9:14−9:32参照

<てんかん息子のいやし> マルコ9:9−32

A復活・受難告知と弟子の無理解

 B解決策を求めての論争

  C弟子の無能力(父親の言葉の中で)

   D地に倒れる息子

    E悪霊による発作のため転げまわる息子

     Fたびかさなる悪霊の脅威

      G「おできになるなら、…お助けください」(←ここでスプランクニゾマイ

       H信仰に不可能なし(イエスの答え)(核)

      G‘「信仰のないわたしをお助けください」

     F‘「二度と入るな」(悪霊に対するイエスの叱責)

    E‘悪霊による発作のため死んだようになる息子

   D‘立ち上がった息子

  C‘弟子の無能力(彼ら自身の問い)

 B‘祈りこそ解決の秘訣(イエスの答え)

A‘受難・復活予告と弟子の無理解

  マルコ9:22においては、汚れた霊を追い出してもらうための嘆願の祈りの中で、この言葉が使われている(マタイ17:15ではエレオスが使われている)。スプランクニゾマイは、イエスに対しての懇願の言葉の中に用いられている。しかし、その願いは「ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで(スプランクニゾマイ)、お助けください。」という非常に不信仰な願いであった。

 これは弟子たちが癒すことができなかったのを見て、失望していた時に出た父親の言葉であると考えられる。しかしイエスはそれに対して、「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」と叱責される。これがこのテキストの核、中心主題になっている。するとすぐに、その子の父は「信じます。不信仰な私をお助けください。」とイエスに叫んだ。イエスはその後、汚れた霊を追い出されるという御業をなさった。森彬はこのテキストにおいても、上記のような集中構造があることを指摘するとともに、「信仰は祈りであり、祈りは力である」という命題をここから汲み取っている*1


*1 森彬『聖書の集中構造下―新約篇』32−35頁