#author("2019-05-16T12:15:44+09:00","","")
*1、バトンタッチについて [#b75efcf2]

北京オリンピックにおいて、日本男子リレーチームがメダルを獲得できた理由の一つに、バトンタッチの成功がある。

リレーにおいて、バトンタッチはとても難しいプロセスである。いや、リレーだけではない。あらゆる人間関係において、特に世代交代において、バトンタッチというのはとても難しい。そして、信仰の世界においても、バトンタッチが成功するかどうかで、その後の展開が大きく変わってしまう。だからバトンタッチのためには、何よりも神に祈り求める必要がある。

私の場合、主任牧師というバトンを受け取り、受け渡し、そして再び受け取って今の歩みを続けている。しかしやがて時が来るなら、主任牧師というバトンは次の走者に受け渡していかなければならない。その最善のタイミングを見失わないために、今から祈り備えていく必要を覚える。

バトンを渡す方は、走りつつ徐々にスピードを落としながら、渡す相手にアプローチする。

バトンを受け取る方は、徐々にスピードを上げて走り始めながら、バトンを待ち構える。

それぞれのアプローチがバトンタッチのタイミングにマッチするなら、バトンは落とされることなく、次の走者にしっかりと渡され、働きが世代を超えて豊かに進められていく。

それぞれのバトンタッチが成功し、働きが豊かに受け継がれるようにと神に祈る。

*2、開拓伝道におけるバトンタッチ [#hfe87c8b]

かつて日本の宣教は、宣教師主導でなされていった。宣教師が主導権を持って開拓伝道がなされた。しかしそのようにして生み出された教会において、日本人牧師へのバトンタッチは難しさを極めた。

教会を自分たちで支え、教会の働きを自分たちで担っていくということを教えられなかった多くの信徒たちは、宣教師が手を引いた後、「宣教師と共に去りぬ」という悲しいことになった。後に残ったわずかな信徒の上には、会堂返済のための多額の借金だけが残されるという悲惨なケースも起こった。

将来のバトンタッチを視野に入れるならば、宣教師主導で開拓伝道をすることは止めるべきである。そのような反省がなされ、やがて開拓初期から、日本人牧師と共に開拓伝道を行うという方針が取られるようになった。この場合は、かなりスムーズにバトンタッチが行われ、豊かな実を結んでいる。

教会形成は個人プレーでは不可能である。開拓伝道をするなら、初めからバトンタッチまで視野に入れて長期計画を立てなければ、せっかくの労苦も打ち上げ花火のように、実が残らない働きとなってしまう。

*3、バトンタッチにおいて打ち勝つべきもの [#m78c1513]

那須岳登山をした。まるで指輪物語(The Lord of the Rings)の中に出てくる滅びの山(Mt. Doom)みたいな風景を楽しむことができた。(実際この山は今も活火山です。硫黄臭い煙を立ち上らせている山肌なのです。もし噴火すれば文字通り滅びの山になるでしょう。)

すべてを支配することができる権力の象徴である「力の指輪」を滅ぼすために、フロドとサムがこのような山を登ったことを思い浮かべながら写真を撮りました。

バトンタッチにおいて、打ち勝たなければならないものの一つ。それは、力あるポジションが持つ魔力ではないでしょうか。まるで重力場のように、強力な吸引力を持つポジション。だからこそ、バトンタッチの時期が来ていることを覚えても、なおその座を譲ることができないほどその人を捕らえてしまうのです。

しかし、祈りの力によるなら、そのような力の誘惑にも、見事に打ち勝つことができるでしょう。なぜなら祈りにおいて、私たちは自分の意義と安全を、ポジションにおいて見いだすのではなく、神御自身の中に見いだすことができるからです。

*4、教会形成(伝道、牧会、宣教)におけるバトンタッチ [#zad6d7da]

寺田由弘・ジンジャー宣教師を迎えての国外宣教研修会において教えられ、さらに河野勇一師を迎えての伝道懇談会においても教えられたことがあります。

それは、教会形成(伝道、牧会、宣教)の目指すべきゴールです。

まずは一番パーソナルな、個人伝道というレベルで考えてみましょう。ある人に祈りつつ福音を語って伝道する時、伝える側の責任は、いつ終わるのでしょうか。相手がバプテスマを(洗礼)を受けた時点で導いた人の責任が終わると考えやすいのですが、そうではありません。導かれた人が別の人を導くところまでフォローアップ&フォロースルーし、導かれた人を通して新たに救われる魂が起こされる時、はじめて導いた側の責任が終わると考えるのがより聖書的です。

教会形成というレベルでも同様のことが言えます。新しく生み出した教会を、自立するところまで導けばゴールと考えられやすいのですが、そうではないのです。新しく生み出した教会を自立させ、さらにはその教会が新しく教会を生み出すところまで涙と祈りをもって育て上げる。その教会から新しく直接献身者が起こされるまでフォローする。さらには、その教会から宣教師が派遣されるまで養い育てる。その時はじめて、教会開拓、教会形成のゴールにまで導いたということになり、産みの苦しみをした母教会の責任が終わると考えるのがより聖書的です。

それを英語で言うと、Reproduction。一言で言えば、教会形成(伝道、牧会、宣教)の目指すべきゴールは、再生のサイクル、バトンタッチのサイクルを形成するということです。

*5、手を抜かないバトンタッチ [#n3955024]

リレーや駅伝は、複数の選手がチームとなって試合に臨む。その際、誰かが手を抜くと、チーム全体に迷惑がかかる。しかし、だれも励ます人がいない中で孤軍奮闘するなら、やがてチームワークだということを忘れてしまい、手を抜きたいという誘惑に負けてしまうかもしれない。先行者が手を抜けば、手を抜く走りを後続者に受け渡すことになってしまう。

教会形成、福音宣教、世界宣教も同じではないかと思う。地理的にも歴史的にも、とても一人で完走できるものではない。だから主なる神はTEAM CHRISTのメンバーである私たち一人一人を必要とされている。TEAM CHRISTには、国籍、文化、時代を越えて、数え切れない人々が招集されている。

日本の場合、単立教会が多い。けれども、そのような場合にこそ、近隣に同労者や助け手を祈り求め、常に一人ではないことを覚えることが必要だと思う。そしてバトンタッチのために、今すぐに祈り始める必要がある。あなたの尊い働きが線香花火のようにならないために。




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