日本的思惟について

はじめに

 主の祈りは、主イエスご自身が弟子たちに対して、「祈る時にはこう祈りなさい」と教えて下さったキリストの弟子の祈りです。主イエスはこの地上に来られた時、よく祈られたことが聖書には記されてあります。そして主イエスは今も、神の右の座において、私たちのために祈って下さっていると聖書は語っています。今も主イエスが、私たちのために祈り続けて下さっている祈りは、主の祈りに基づく祈りではないかと私は考えています。ヤベツの祈りもそうですし、詩篇をはじめ聖書に記されているすべての祈りは、主の祈りの中に含まれていると私は考えています。

 「天にいます私たちの父よ!」と神を呼ぶことの出来る神の子どもとされた特権。御名の栄光(自分ではなく神がほめたたえられますように)と神の国(みこころがなされる所、神のご支配)をまず第一に求める使徒的祈り。「私たちの日毎の糧を今日もお与え下さい」という祈り。罪の赦しと人を赦す力を求める祈り、「私たちを試みにあわせないで、悪者から救い出して下さい」という祈り。国と力と栄え、すべての栄光を神にお返しする頌栄。アーメンなる神に信頼して閉じる祈り。

 実に主の祈りには、福音の豊かさのすべてが含まれています。主の祈りは、世界を包む祈り、終末の時代に主イエスの再臨を待ち望みつつ、福音宣教に急ぐ祈りでもあります。ですから教会では、まず何よりも主の祈りを共に味わい、主の祈りを自分たちの祈りとしていくことを学び続ける必要があると私は考えています。

 主の祈りは、マタイ福音書6章とルカ福音書11章に書き記されています。マタイ福音書では、神の国のライフスタイルを教える山上の説教の中心において、主の祈りが教えられています。主の祈りを祈る日常生活こそ、神の国のライフスタイルであり、岩の上に家を建てる確かな生き方だと言えます。

 ルカ福音書では、弟子たちとの対話の中で、主の祈りが教えられています。「私たちにも祈りを教えて下さい」という弟子たちの求めに応じて、「祈るときには、こう言いなさい。」と、主イエスは主の祈りを与えて下さいました。

 ルカ福音書の文脈を見ると、主イエスは、まず何を祈ったら良いのかを教えて下さり、そして次に、その祈りをどのように祈り求めたら良いのかを教えて下さっています。どんなに熱心に祈ったとしても、その祈りが的外れであるならば、決勝点がどこかわからないような祈り、空を打つ拳闘のような祈りになってしまいます(1コリント9:26参照)。主の足もとに座って、御言葉に耳を傾けたベタニヤのマリアのように、何を祈ったら良いのか、どのように祈ったら良いのかを、改めて主に教えて頂きたいと願います。

1、何を祈ったら良いのか

主の祈り(マタイ福音書6:8−13)

・・・だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、 あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。だから、こう祈りなさい。 『天にいます私たちの父よ。 御名があがめられますように。 御国が来ますように。 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 私たちの負いめをお赦しください。 私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』 〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕

 主イエスが弟子に教えて下さった祈りの内容は、「父よ」という呼びかけの後はすべてお願いです(最古の写本には、「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。」という部分はない。最後の部分は、イエス様が祈りを教えてくださった時にはなく、後からキリストの弟子たちが付け加えた部分だと考えられている)。

 つまりイエス様は、「祈る時にはお願いだけでいい!」と教えて下さったのです。このことは私たちにとって、本当に慰めに満ちた、主の深いご配慮ではないでしょうか。

 実際私たちは、自分の罪深さや無力さ、また愛のなさに気づかされるならば、イエス様が教えて下さったように、ただ主にお願いすることしか出来ません。本当に苦しい時には、うめき苦しむこと、あるいは「神様助けて下さい!憐れんでください!お赦しください!お救い下さい!」としか祈れません。「神様、私はあなたの助けなくしては、あなたの聖なる御名を汚すことしか出来ない愚かな者です。どうか憐れんで下さい!」と祈ることしかできないのが私たちなのではないでしょうか。そしてイエス様は、それでいいと教えてくださったのです。

 おそらくキリストの弟子たちはこのお願いだけの主の祈りを祈り続ける中で、溢れる喜びに満たされ、神の恵みに対する応答として、この賛美を捧げずにおれなくなったのではないかと私は考えています。

罪人の的外れな祈り

私の名前があがめられますように。 私を中心とした私の国が来ますように。 私が心の中に思い描き、願っていることが、実現しますように。 私は、自分の力と知恵によって、今日も糧を得よう。 だれでも私に罪を犯すものがあるなら、決してその者を赦さないで、報復をしよう。 わたしは自分の力で、試みと悪から自分を救い出そう。 国と力と栄え、世界に満ちるものはすべて、わたしのものだ。

 主の祈りは、罪人である私たちが願い求める「罪人の的外れな祈り」とは正反対の祈りです。このような祈りをしないように、いつも自らの心を点検しましょう。

 また、「アフリカの主の祈り」と呼ばれているメッセージに耳を傾けることも、主の祈りの一つ一つの言葉が本来意味していることを考えながら祈るために、とても有益だと思われます。

アフリカの主の祈り

もしあなたが 神の子として生きていないならば、 「父よ」とは言わないでください。 もしあなたが 自分のエゴイズムの中に 閉じこもっているとすれば、 「私たちの」とは言わないでください。 もしあなたが この地上のことばかり考えているとするなら、 「天におられる」とは言わないでください。 もしあなたが 自分の栄光のこと、名誉のことしか考えないならば、 「あなたのみ名が尊ばれますように」とは言わないでください。 もしあなたが 物質的な成功を考えているとすれば 「み国がきますように」とは言わないでください。 もしあなたが 気に入ったことばかり受け入れているとすれば、 「み心が行われますように」とは言わないでください。 もしあなたが 貧しい人々のパンのために働かないなら、 「私たちの今日の糧をお与えください」とは言わないでください。 もしあなたが 兄弟姉妹に対する憎しみを味わっているとすれば、 「私たちの罪をお赦しください」とは言わないでください。 もしあなたが 誘惑を体験するように身を置くとすれば、 「私たちを試みられないように」とは言わないでください。 もしあなたが 善のためにコミットしないなら、 「私たちを悪から守ってください」とは言わないでください。 もしあなたが 主の祈りのことばを 真剣に受け取っていないなら、 決して「アーメン」とは言わないでください。

I cannot say Our if I live in a watertight spiritual compartment. I cannot say Father if I do not demonstrate the relationship in daily living. I cannot say which art in heaven if I am so occupied with the earth that I am laying up no treasures there. I cannot say hallowed be Thy name if I, who am called by His name, am not holy. I cannot say Thy kingdom come if I am not doing all in my power to hasten its coming. I cannot say Thy will be done if I am questioning, resentful of, or disobedient to His will for me. I cannot say on earth, as it is in heaven if I am not prepared to devote my life here to His service. I cannot say give us this day our daily bread if I am living on past experience or if I am an under-the-counter shopper. I cannot say forgive us our trespasses, as we forgive them that trespass against usif I harbor a grudge against anyone. I cannot say lead us not into temptation if I deliberately place myself in a position to be tempted. I cannot say deliver us from evil if I am not prepared to fight it in the spiritual realm with the weapon of prayer. I cannot say Thine is the kingdom if I do not accord the King the disciplined obedience of a loyal subject. I cannot say Thine is the power if I fear what men may do or what my neighbors may think. I cannot say Thine is the glory if I am seeking glory for myself. I cannot say forever and ever if my horizon is bounded by the things of time.

2、どのように祈ったら良いのか

 何を祈ったら良いのかを教えて頂いたら、次に学ぶべきことは、どのように祈ったら良いのかということです。ルカ福音書では、主の祈りが記されたそのすぐ後に、いくつかのたとえ話によって、どのように主の祈りを祈ったら良いのかが教えられています(ルカ11:5−13参照)。

 まず旅の途中、家に来た友人に出してやるものがないということで、真夜中に別の友人の家にパンを借りに行く人のたとえが記されています。『君。パンを三つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』という言葉には、祈りの原点が自らの無力さにあるということを教えていると同時に、自分のためだけではなく、他者の必要のために、あつかましいほど熱心に祈り続け、求め続けるべきことが教えられています。

 次に記されているのは、お父さんと子どものたとえです。

 子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親はまずいません。卵を下さいと言うのに、さそりを与えるお父さんはいないでしょう。

 「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」と主イエスは教えて下さいました。

 ここでは、「私たちの天の父よ!天のおとうさん!」と親しく呼びかけることの出来る天の父なる神様に、聖霊なる神を祈り求めるなら、必ず与えて下さるという素晴らしい約束が記されています。

 実に主の祈りは、聖霊によらなければ祈ることの出来ない聖なる祈りなのです。しかし聖霊なる神に導かれるならば、ヤコブのように、祈りの内に自らの罪と欲望、そして様々な誘惑と格闘し、神の御力によって勝利することが出来ます。その時に、すべての栄光を神に帰すことのできる真の勝利者とされると共に、キリストの栄光の御姿と同じ姿に変えられていくことを覚え、主に心から感謝をささげたいと思います。

「あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを(聖霊で)満たそう。」 (詩篇81:10b)


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Last-modified: 2019-05-15 (水) 19:23:25