神が美しくなられるためにー神学的美学としての実践神学
R.ボーレン著、加藤常昭訳
本書が刊行されて、もう40年の時が流れました。なぜ、今これを訳したのか。・・・しかし、それよりも遥かに切実な思いは、今日の日本の教会と神学の状況を思い、どうしても紹介したくなったのです。当時のドイツの閉塞状況は厳しいものでした。・・・訳者あとがきより
花咲くこと、そして蝶について何ごとも知ることがないような弟子たちの群れは、光の軽やかさを失う。p158
キリスト者たちが創造のみわざを見過ごすようになったときに、伝道する力をも失ってしまうということである。p159
教会は醜い社会である。醜いものと美しいものとの混合体である。そのなかで神は美しくなることをお始めになるのである。美しさは醜いものの将来である。それゆえにパウロは教会を醜い者たちの集まりだと見ているのである。「あなたがた兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことをよく見なさい」(コリントの信徒への手紙一第一章二六節)。教会は愚かな者、弱い者、卑しく生まれた者、侮られている者、認められていない者たちの集合体であった。それが「キリスト・イエスにおいて」美しくなるのである!
この局面は牧師にとっても信徒にとっても非常に大きな重要性を持っている。牧師と信徒が教会を、その可能性において知覚する用意があるかどうかということによって大きく事柄が決定される。教会をその可能性において見るということは、これが何を目指すものとして捉えられているかということにおいて教会を見るということである。
このようにしてこそ、ローマの信徒への手紙第八章二九節以下がアオリストで語られているということを、われわれは理解することができる。われわれが眼前に見ている教会はこのアオリストの文体によって新しく見出される。ローマの信徒への手紙第八章二九節から三〇節までは、教会をレゲンデとして物語るようにと導いてくれる。
「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」p194-195
牧師になるために、神学生は学生時代に三つのことを学ばなければならない。人びとと交わること、自分自身の時間を生かすこと、そして、神ご自身との交わりに生きること、である。これらはキリスト者の存在にとって基本的な要素となる諸局面であって、これが神学生によって模範的に生活化されることが求められるのである。人びととの対話、自分自身との対話、神との対話、それができるようになるということ、学生は、これを三つとも相並んで学ばなければならない。 p27
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閉塞感に囚われる原因とブレイクスルー
閉塞感に囚われる原因とブレイクスルー
1、報い・結果を求めてもなかなか見えないことによる失望。しかし見えない時でも、聖書に約束されている報い・結果から目をそらさないなら、本気で信じて従い、やがて青空を見上げることができる。
2、報い・結果に関する期待と現実の違いによる失望。こんなはずじゃなかったと理想と現実の違いに愕然とする時でも、心を注ぎ出して神に本気で祈るなら、まず心の中で青空を見上げることができる。
3、報い・結果から意図的に目をそらしながら(あるいはそれを否定しながら)、大きな犠牲、献身、ハイリスクを払い続けるため。大きな犠牲、献身、ハイリスクを払い続けるためには、豊かな実り、豊かな報い、ハイリターンがどうしても必要。ぜひご自分で調べてみてほしい。聖書にどれほど多く「報い」の約束がちりばめられているかを。本気でハイリスクな信仰の旅、フェイスミッションをするためにこそ、数え切れないほどのハイリターンの約束が与えられている。おそらく信仰の父と呼ばれる者に変えられたアブラハムも、創世記12章冒頭に約束されているハイリターンの約束がなければ、安住の地に留まり続けたはずだ。
閉塞感に対するブレークスルーは、報い(結果)から目を離さないこと!
閉塞感という名の黒雲を突き破るものは何か?
閉塞感という名の黒雲を突き破るものは何か?それは決して、人間の信仰深さや熱心さではない。
キリステ(切り捨て)教では、人間の信仰深さや熱心さがブレイクスルーの鍵を握っていると教えられる。そしてキリステ教では、「願いかなわざることなし」、「願ったとおりに叶えられていく」と教えられる。けれども、いくら願っても願いがかなえられない状況で悩む人々を、「それはあなたの信心が足りないから。信仰のとおりにしかならないから、信じられなかったらもうおしまい」と切り捨てる。
以下に引用する新約聖書ルカの福音書1章20節は、閉塞感を突き破る鍵となるみことばであり、キリスト教がキリステ教にならないために、真剣に耳を傾けなければならないみことばである。
『ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。」』
主なる神が約束してくださったことは、たとえ人間が信じられなくても、信心が足りなくても、時が来ると必ず出来事になる。だから信じられなくても大丈夫。どんなことがあっても、人間の不信仰でさえも突き破って、神は約束を必ず守ってくださる。
閉塞感という名の不信仰を突き破るものは何か?それは、天地を創造され、万物を御手に統べ治めておられる主なる神の真実な御言葉である。
Look up at the heavens and count the stars-if indeed you can
閉塞感を突き破るもの ブレイクスルーフェイス
最近のデジタルカメラの進歩には目を見張るものがありますが、私はPENTAXのデジタルカメラを愛用しています。
私たちの不信仰を超えて、昨年秋、結婚11年目に子どもを神さまから預かりました。神のみことばは人間の不信仰を突き破って、時が来ると必ず出来事になり、閉塞感を突き破るのです。ハレルヤ!
以下に記すのは、閉塞感を突き破るブレイクスルーフェイスです。死の影と閉塞感に覆われたこの国とこの世界に、神は一条の光を与えてくださいます。人生をあきらめてはいけません!
『ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。 私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。ルカ福音書1:20』
ルカ福音書1章には、ザカリヤという祭司と彼の妻エリサベツが登場する。エリサベツは不妊の女であったが、後に全能の神によって身ごもり、バプテスマのヨハネの母となった。ザカリヤ夫婦に子どもが与えられる経緯を通して、全能の神がどのようなお方かを知ることが出来る。
ザカリヤは不信仰であった故に、神の言葉が出来事になるまでものが言えなくなった。しかし神の約束の言葉は、人間の不信仰を超えて、その時が来れば実現し、現実の出来事となった。
もし厳密な意味で、私たちが信じたとおりにしかならないのなら、全能の神の素晴らしいご計画は、計画倒れになるであろう。そして、この世界のすべてを再創造するという神の壮大なご計画は凍結し、私たちは罪の中で滅んでいくだけとなってしまうであろう。
しかし全能の神のことばは、人間の不信仰を超えて、時が来れば必ず出来事になることを、聖書は力強く証しし続けている。「神のことば」を「出来事」と訳すことが出来る理由がここにある。