世界を変える政治の秘訣 旧約聖書詩篇72篇より

世界を変える政治の秘訣 旧約聖書詩篇72篇より

礼拝メッセージ「心の扉を叩く音」

礼拝メッセージ「心の扉を叩く音」(クリックで聴けます)

聖書箇所:ヨハネの黙示録3章20節

見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。黙示録3章20節

聖書が語る信仰とは、イエス・キリストを信頼し、受け入れるために、心の扉を開く行動です。それは飲食物、薬、ワクチン、点滴などを信頼して、自分の体内に取り込むことによく似ています。イエス・キリストを信頼して受け入れるためには、イエス・キリストを良く知る必要があります。聖書が語るイエス・キリストは、以下のような素晴らしいお方です。

1、イエス・キリストは、暗くて汚くて臭い所に、喜んで入ってくださるお方です。

2、イエス・キリストは、暗くて汚くて臭い所を、おいしく食事ができる所に、明るくてきれいで良い香りのする所に変えてくださり、いっしょに食事してくださるお方です。

3、イエス・キリストは、毒やウイルスや危険因子ではなく、薬やワクチンや健康食品のような方であり、まさに「神の手」であられる名医です。

イエス・キリストは、今あなたの心の扉をノックしておられます。あなたはどうなさいますか?

心の扉を叩く音

心の扉を叩く音

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礼拝メッセージ「冷たいか熱いかであれ」

礼拝メッセージ「冷たいか熱いかであれ」(クリックで聴けます)

聖書箇所:ヨハネの黙示録3章14−22節

また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。黙示録3章14-16節

想定外の大災害を防ぐためには、近い未来に何が起こるのかをきちんと想定し、具体的にイメージして備えることが大切です。そのためには「歴史を心に刻みつつ聖書に聞き従う」必要があります。なぜなら「聖書は時が来ると未来の出来事となる神の言葉」であり、「聖書信仰の本質は歴史を心に刻むこと」だからです。

冷たくもなく、熱くもない人。つまりなまぬるい人は、主イエスの口から吐き出されてしまいます。

深刻なのは、やがて主イエスに吐き出される人に、自覚がまったくないことです。まさに盲目となった裸の王様です。自分を欺き、現実から仮想現実(バーチャルリアリティ)へと逃避し、富んで豊かに生きているつもりになっているのです。

しかし主イエスは、愛する者をしかったり懲らしめたりなさるお方です。それが未来を見ることが私たちに許されている理由です。私たちは、主イエスに熱心に愛されている者として、熱心になって悔い改め、人生の向きを変えようではありませんか。

冷たいか熱いかであれ

冷たいか熱いかであれ

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アブラハムの生き様を通して仰ぐ神の御思い

アブラハムの生き様を通して仰ぐ神の御思い

放射能よりも恐ろしいものは何ですか?

問い:放射能よりも恐ろしいものは何ですか?
答え:それは聖書が語る罪です。

問い:聖書が語る罪とは何ですか?
答え:聖書が語る罪とは、「主の祈り」をひっくり返した以下のような祈りが指し示す生き方です。

主の祈りではまず、「御名(神のお名前)をあがめられますように。」と祈るように教えられていますが、これをひっくり返すと、「自分の名前があがめられますように。」となります。これは「神を神とせず自分を神とすること」を願う罪です。

主の祈りでは第二に、「御国(神の国)が来ますように。」と祈るように教えられていますが、これをひっくり返すと、「自分の国が来ますように。」となります。これは「神を中心とせず自分を中心とすること」を願う罪です。

主の祈りでは第三に、「みこころ(神のご計画)がなりますように。」と祈るように教えられていますが、これをひっくり返すと、「私の願いがかかなえられますように」となります。これは「神を信頼せず自分を信頼し、神でさえも自分のために利用すること」を願う罪です。

主の祈りでは第四に、「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください。」と祈るように教えられていますが、これをひっくり返すと、「私は自分の力と知恵で今日も糧を得よう。」となります。これは「神のおかげで生かされていることを否定し、すべては自分のおかげであること」を願う罪です。

主の祈りでは第五に、「私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに罪を犯すものを赦します。」と祈るように教えられていますが、これをひっくり返すと、「誰でも私に罪を犯すものは赦さず報復しよう。」となります。これは「自己中心な基準を持ち、自分に甘く人には厳しく」を願う罪です。

主の祈りでは第六に、「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。」と祈るように教えられていますが、これをひっくり返すと、「私は自分の力で試みや悪に打ち勝つことができる。」となります。これは「自分が自分の救い主(キリスト)であること」を願う罪です。

主の祈りでは最後に、「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。」と祈りますが、これをひっくり返すと、「国と力と栄えは、永遠に私のものだ。」となります。これは「すべての栄光と所有権を自らに帰すこと、神のものを私のものとすること、つまり自分が神になること」を願う罪です。

問い:なぜ聖書が語る罪は放射能よりも怖いのですか?
答え:聖書が語る罪は、肉体だけでなく魂を永遠に滅ぼすことができるからです。放射能は肉体を滅ぼすことができても、魂を滅ぼすことはできません。そして私たちの内にある罪は、自分で制御することができず、罪の鎖を自ら断ち切って逃げることも不可能だからです。

問い:罪から逃れ、救われることは不可能なのですか?
答え:イエス・キリストは、私たちの罪悪で放射能以上に汚染されたこの地に、天から降りて来られました。それは、放射能よりも恐ろしい罪から、私たちを救い出すためでした。

問い:イエス・キリストとはどのようなお方なのですか?
答え:イエス・キリストは人となられた生ける神ご自身です。世界で最初のクリスマスに、万物を創造された無限の神が、私たちと同じ有限の肉体を持った人間に、しかも泣くことしかできない無力な赤ちゃんになられたのです。イエス・キリストは、「悲しみを知る方」であり、「痛みを知る方」であり、そして「病を知っていた方」です。

問い:なぜイエス・キリストは、「悲しみ」や「痛み」や「病」を知っておられるのですか。
答え:それはイエス・キリストが、被災地に実際に赴いた結果、もはや支援者ではなく、被災者になられたからです。

杉戸信仰問答 2011年4月5日更新 Ver.1.1

When you believe あなたが信じる時

When you believe

 何年か前、アカデミー最優秀主題歌賞に選ばれた、「When you believe」「あなたが信じる時」というゴスペルソングがあります。(スティーブン・シュワルツという人が作詞・作曲をし、マライヤ・キャリーとホイットニー・ヒューストンによって、デュエットで歌われた)

 この曲は、旧約聖書の出エジプト記を題材にしたアニメ映画「プリンス・オブ・エジプト」の主題歌でした。(この映画は若干脚色されていますが、最新のコンピュータグラフィックスを使って、聖書を生き生きと描いています。海が分かれるシーンや海の底を歩いて渡るシーンなども見ごたえがあります)

 さて、この「When you believe」「あなたが信じる時」という歌の歌詞を、ここで少し、皆さんに紹介したいのです。こんな内容の歌詞です(野町私訳)。

『幾日もの夜、私たちは祈りが聞かれるという確信を持てないけれども祈り続けてきた。私たちの心の中には、小さな希望の歌があった。今、私たちは、たくさんの恐ろしいことがあるのを知っている。でももう恐れない。そんなことができると気付くずっと前から、私たちは山々を動かしていたから。

あなたが信じる時、奇跡が起こる。希望はかすかなものであっても、それを消すことはできない。誰が知っているだろうか、どんな奇跡をあなたが成し遂げるかを。あなたが信じる時、必ずあなたは神の栄光に満ちた奇跡を見るはず。あなたが信じるなら、あなたは神の奇跡を見るはず。

この恐れの時、祈りが次々と空しく消えていく時。希望はまるで夏の鳥のよう、とても素早く空に飛び去ってしまう。でも今、私はここに立っている。私の心はとても満たされて、言葉にあらわせないほど。捜し求めていた信仰、口にしているこの言葉。私がこんなことを言うなんて、思いもしなかった。

あなたが信じる時、奇跡が起こる。希望はかすかなものであっても、それを消すことはできない。誰が知っているだろうか、どんな奇跡をあなたが成し遂げるかを。あなたが信じる時、必ずあなたは神の奇跡を見るはず。あなたが信じるなら、あなたは神の奇跡を見るはず。

あなたが祈り求めても、いつも奇跡が起こるわけじゃない。だから恐れと失望の中に落込んでいくことは簡単なこと。でも、あなたが信仰を通して現実を見るとき、あなたは雨の中で救いの道を見出す。そして「助けはとても近くにある」とその道を歩いているあなたは言うでしょう。』

 この中で、特にわたしの心に印象深く残っているのは、「そんなことができると気付くずっと前から、私たちは山々を動かしていた」という言葉です。これは短い言葉ですが、聖書が教えている信仰を、的確に表現している言葉ではないかと思います。この言葉が意味しているのは、つまりこういうことです。「私たちが心の中で感じているよりもはるかに確実に、私たちの祈りは主なる神に聞かれている」ということです。

 実際私たちキリスト者は、祈ってもすぐに応えられない経験をしばしば味わいます。また、まさに山のようにちょっとやそっとでは動かない、いや不可能だと思われる祈りの課題がたくさんあります。家族・親族や友人を覚えて祈る時、そんなふうに感じます。また、高い地位にある方たちや国々を覚えて祈る時、教会を覚えて祈る時、そんなふうに感じてしまいます。

 けれども、みこころにかなった祈りを主イエスに祈る時、この世界を包む主の祈りを日々祈る時、「そんなことができると気付くずっと前から、私たちは山々を動かしている」。ということが起っているのです。

 実は、ハイデルベルク信仰問答の中にも、「私たちが心の中で感じているよりもはるかに確実に、私たちの祈りは主なる神に聞かれている」という霊的真理が紹介されています。

問129:「アーメン」という言葉は、何を意味していますか。

答:「アーメン」とは、それが真実であり、確実である、ということです。なぜなら、これらのこと(主の祈りの内容)を神に願い求めていると、わたしが心の中で感じているよりもはるかに確実に、わたしの祈りはこの方に聞かれているからです。

http://gospel.sakura.ne.jp/message16.html

霊肉二元論の克服のために

敬虔のための鍛錬(マタイ4:1-4)
河野勇一(緑キリスト教会牧師・現東海聖書神学塾塾長)
クリスチャン市民の会「アーモンド」No.3より引用

物質文明を謳歌している現代。その豊かさを楽しむ一方で、人間性や心の回復の必要を訴える声があちこちから聞こえてきます。そんな時に、クリスチャンならずともよく引用する聖書の言葉に、「人はパンだけで生きるのではない」があります。これを引用する人は、人間は物質的なものだけでは満たされない精神的・霊的な存在だから、パンによって肉体の必要が満たされるだけでなく、神の言葉によって心(霊)も満たされなければ生きることはできない、と言いたいようです。

しかし、このポピュラーなみ言葉の使い方は、誤った解釈に基づいています。ギリシャ的な霊肉二元論の影響を受けて、パン(物質的領域)と神の言葉(霊的領域)を別々の領域のものと考えているからです。物質も大切だが霊も大切だ、という考え方は、物質の問題は霊の問題とは関係ない、という考えに容易におちいってしまうのです。

荒野での誘惑において、サタンは空腹のイエス様に向かって、「あなたには人人を救うための大事な仕事がある。あなたは生きなければならないし、あなたは神の子で奇蹟を行う能力もある。いま、その力を使って石をパンに変え、そして神から託された仕事をしなさい」と語ったのでした。

それに対する答えとして、イエス様が引用されたのがこのみ言葉で、申命記8章からのものです。そこには、荒野での40年間、食べ物も水もままならない環境の中で、神が天からの食物(マナ)によってイスラエルの民を養われたのは、人は神に養われ、守られ、生かされている存在であるということをわからせるためであった、と書かれています。

ですから、イエス様がこのみ言葉を引用しておっしゃりたかったことは、「サタンよ、黙れ。人はパン自体で生きているのではなく、パンを創造し、それをご配慮によって与える神ご自身のみ言葉によってこそ生かされているのだ。だから、私は自分の力でパンを獲得することはしない。この父なる神のみ心に全てをゆだねて生きるのだ」ということです。ここにおいて二元論は克服され、パンをも含めた一元的な神の支配への信頼が語られています。

このように考えますと、飽食の時代に生きるクリスチャンにもサタンが同じように誘惑の手を伸ばしていることが見抜けてきます。あり余る食料に囲まれて自分のお金で自由に好きなものを選べる私たちの生活から、日毎のパンを主に求める祈りが消えます。また、日毎の糧が主から与えられているという感覚がマヒして、感謝がなくなるのです。

そんな中でのこのみ言葉の二元論的誤用は、物質的な事柄を信仰の範囲外のこととする考えを生み、浪費やぜいたくの是認につながりかねず、サタンの誘惑を助長しこそすれ、これに打ち勝つ力にはならない、と言えるのではないでしょうか。

クリスチャンのシンプルライフ指向が、単なる資源の節約や博愛精神ーそのこと自体、もちろん大切なことですがーに終わらないで、信仰生活に統合されるためには、霊肉二元論的な思考からくる、肉体的・物質的な生活と霊的・信仰的な生活との遊離という誤りを克服しなければなりません。

テモテへの手紙第一(4:1-11)において、パウロも二元論に基づく禁欲主義という悪霊の教えに警告をうながし、すべてのものに感謝する生き方を教えています。

ここでパウロが言う「敬虔のための鍛錬」(4:7)とは、まず、すべてのものが神の口から出たみ言葉によることを理解し、次にそれらを「神のことばと祈りとによって、聖めて」(4:5)用いる生き方のことです。すなわち、ひとつひとつのものを神の目的にしたがってふさわしく、適量、しかも楽しんで用いるところの「感謝の鍛錬」です。その意味で、シンプルライフとは、クリスチャンが「本当に霊的なライフスタイル」を確率するための鍛錬としてとらえるべき信仰のわざなのです。