スピリチャル川柳

スピリチャル川柳
人は知る 目からウロコが 落ちる時
スピリチャル 大切なもの 目に見えず
熱心さ 的外れなら テロリスト
方向を 確認したら アクセルを
いつまでも 残るものとは 信望愛
実践が 伴わなければ 砂の上
生き方が 変えられてこそ 本物だ

音楽を奏でることの意味や音楽が果たす役割について

浜田省吾のツアー「ON THE ROAD 2011 “The Last Weekend”」は、史上希に見るツアーだった。それは、2011年に起きた人類史に残る悲劇的な出来事に起因していたことは言うまでもない。こんな時に音楽なんかやっていて良いのか、という空気も経験したことのないものだったし、そうだったからこそ、音楽を奏でることの意味や音楽が果たす役割、コンサート、あるいはツアーという形が、観客やスタッフも含めたチームワークの産物であることも再確認させられた。  田家秀樹著「僕と彼女と週末に」あとがきより

人間が音楽を奏でることの意味や音楽が果たす役割。それは次の言葉に要約されているかもしれない。

いつか子ども達に この時代を伝えたい
どんなふうに人が 希望(ゆめ)をつないできたか
One day I want to tell the children about this era,
How hope was passed on through mankind.
by Shogo Hamada

「ON THE ROAD 2011 “The Last Weekend”」ツアーDVDの最後に、”Dedicated to J.”と書かれていることも興味深い。

ペンテコステ礼拝メッセージ「聖霊とは何か」ローマ17

ペンテコステ礼拝メッセージ「聖霊とは何か」ローマ17(クリックで聴けます)
聖書箇所:ローマ人への手紙8章1ー17節

1 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が
 罪に定められることは決してありません。
2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、
 罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
3 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、
 神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、
 罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、
 肉において罪を処罰されたのです。
4 それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、
 律法の要求が全うされるためなのです。
5 肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、
 御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。
6 肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。
7 というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。
 それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。
8 肉にある者は神を喜ばせることができません。
9 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、
 あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。
 キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。
10 もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、
 からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。
ローマ人への手紙8章1-10節

樋口了一/手紙~親愛なる子供たちへ~

素敵ないい歌です^・^。

礼拝メッセージ「怒りを下す神は不正か」ローマ7

礼拝メッセージ「怒りを下す神は不正か」ローマ7(クリックで聴けます)
聖書箇所:ローマ人への手紙3章1ー18節

しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。「善を現すために、悪をしようではないか」と言ってはいけないのでしょうか‐‐私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが。‐‐もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。ローマ3章5-9節

悲惨な出来事の中で、「神がいるならどうしてこんなことが起こるのか?」という問いが生じます。
この問いの背後には、「怒りを下す神は不正である」という人間中心的な神学があります。「愛の神は正しいが、怒りを下す神は正しくない」、「赦す神は正しいが、裁く神は間違っている」というような考えです。このような神学は、「十字架を必要としない見せかけの神の愛と赦し」に行き着きます。
このような人間中心的な神学に対して、パウロは、「絶対にそんなことはありません」と強調します。
本当の神は、私たちの身代わりとして、十字架に磔にされたひとり子イエス・キリストの上に、容赦のない怒りを下された神です。

聖霊論ブックレポート

聖霊論ブックレポート

礼拝メッセージ「初めの愛」

礼拝メッセージ「初めの愛」(クリックで聴けます)

聖書箇所:ヨハネの黙示録2章1−7節

あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。黙示録2章3-5節

すべての中から、特に、何も良いものがないようにしか見えないものの中から、グレイスは美しいもの、キラリと光る宝石のようなものを見つけ出します。

グレイスは、まず美しいものを見つけ出してねぎらい、評価し、ほめてくれます。そのようにしてグレイスは、積年まとわりついたサビ、汚れ、シミ、傷、そして疲れを取り除き、ピカピカにします。

次にグレイスは、美しくない点を指摘しますが、「じゃあどうすればいいのか」も具体的に提示します。カーナビのように目的地周辺で無責任に案内を中止したりはしません。グレイスはかゆいところに手が届く最高のナビゲーターなのです。

これらがグレイスのパーソナリティ(人柄)であり、スキル(熟練技術)です。グレイスは、そのようにして世界を変えて来ました。これからもグレイスは、そのようにして世界を変え続けることでしょう。