人身事故で電車が止まった中でー肌で感じるこの国の疎外感と閉塞感

以前、中野教会で持たれた関東宣教区会議の後、御茶ノ水に立ち寄り、東武線に乗って帰途についた。

しばらくして電車が止まった。人身事故というアナウンスが死傷事故と言い換えられた。

またひとりのいのちが失われた。

搬送作業の後、警察による現場検証が行なわれる。

苛立つ人、疲れた顔をしている人、笑顔で会話をしている人たちの中で、
ひとりのいのちが失われたことを覚えながら神に静かに祈る。

乗っている電車がこのようにして止まるのは、関東に来てこれで3度目。
日本の人口の約一割が暮らしている関東、首都圏近郊。

肌で感じるこの国の疎外感と閉塞感。
生きることをあきらめかけていた過去の自分を思い出す。

今あなたが死んでも、世界は変わりはしない。
でもね・・・あなたが生きていく事で未来はきっと変わっていく。
Acid Black Cherry / 20+∞Century Boysより

TEAM CHRIST チーム・クライスト

リレーや駅伝は、複数の選手がチームとなって試合に臨む。その際、誰かが手を抜くと、チーム全体に迷惑がかかる。しかし、だれも励ます人がいない中で孤軍奮闘するなら、やがてチームワークだということを忘れてしまい、手を抜きたいという誘惑に負けてしまうかもしれない。先行者が手を抜けば、手を抜いた走りを後続者に受け渡すことになってしまう。

教会形成、福音宣教、世界宣教も同じではないかと思う。地理的にも歴史的にも、とても一人で完走できるものではない。だから主なる神はTEAM CHRISTのメンバーである私たち一人一人を必要とされている。TEAM CHRISTには、国籍、文化、時代を越えて、数え切れない人々が招集されている。

日本の場合、単立教会が多い。けれども、そのような場合にこそ、近隣に同労者や助け手を祈り求め、常に一人ではないことを覚えることが必要だと思う。そしてバトンタッチのために、次の時代を担う後継者のために、今すぐに祈り始め、動き始める必要がある。大切な教会の働きが、線香花火のようにならないために。

真のターミネーター

「ターミネーター」という言葉は、映画のタイトルとして使われることで、有名なカタカナ英語になったかと思う。

「ターミネイトterminate」が動詞で、「(何かを)終わらせる・終結させる」という行為を表す。例えば、いのちを終わらせるということで「殺す」とか「中絶する」、雇用を終わらせるということで「解雇する」といった意味になる。

「ターミナル」と言えば「終着駅とか終点」、「ターミナルケア」と言えば、ホスピスや在宅介護のような「終末期医療」となる。そして、「ターミネーターterminator」と言えば、「何かを終わらせる(終結させる)もの」という意味になる。

人間は、恐ろしいターミネーターになり得る。それは、人間が神のようになろうとして一線を越えることから始まる。人間が神のようになろうとして一線を越えようとする時、人は自分の心の中で、まず神をターミネイトする。もしそれを実行に移してしまうと、自分にとって都合の悪いものはすべてターミネイトしようとする、恐ろしいターミネータの誕生となる。

しかしイザヤ書34章4節に耳を傾けると、『天の万象は朽ち果て、天は巻き物のように巻かれる。その万象は、枯れ落ちる。ぶどうの木から葉が枯れ落ちるように。いちじくの木から葉が枯れ落ちるように。』と語られている。

聖書は、「すべてをご自分の栄光のために創造し、すべてを始められた主なる神こそが、すべてのものを終わらせることのできる真のターミネーターである」と語っている。

P.S.私たち人間の罪を完全にターミネイトするために、神のひとり子、イエス・キリストがご自分のいのちを十字架の上でターミネイトしてくださったことに関しては、改めて記すこととします。

病気になったら

病気になったら

病気になったら どんどん泣こう
痛くて眠れないといって泣き
手術がこわいといって涙ぐみ
死にたくないよといって めそめそしよう

恥も外聞もいらない
いつものやせ我慢や見えっぱりを捨て
かっこわるく涙をこぼそう
またとないチャンスをもらったのだ
自分の弱さと思いあがりを知るチャンスを

病気になったら おもいっきり甘えよう
あれが食べたいと言い
こうしてほしいと頼み
もうすこしそばにいてとお願いしよう
遠慮も気づかいもいらない

正直に わがままに自分をさらけだし
赤ん坊のようにみんなに甘えよう
またとないチャンスをもらったのだ
人の情けとまごころに触れるチャンスを

病気になったら 心ゆくまで感動しよう
食べられることがどれほどありがたいことか
歩けることがどんなにすばらしいことか
新しい朝を迎えるのがいかに尊いことか

忘れていた感謝の心を取りもどし
見過ごしていた当たり前のことに感動しよう
またとないチャンスをもらったのだ
この瞬間に自分が存在しているという神秘
いのちの不思議に感動するチャンスを

病気になったら すてきな友達をつくろう
同じ病を背負った仲間
日夜看病してくれる人
すぐに駆けつけてくれる友人たち
義理のことばも 儀礼の品もいらない

黙って手を握るだけですべてを分かち合える
あたたかい友達をつくろう
またとないチャンスをもらったのだ
神様がみんなを結んでくれるチャンスを

病気になったら 安心して祈ろう
天にむかって思いのすべてをぶちまけ
どうか助けてくださいと必死にすがり
深夜 ことばを失ってひざまずこう

このわたしを愛して生み慈しんで育て
いつかご自分のもとへ呼んでくださるお方に
すべてをゆだねて手を合わせよう
またとないチャンスをもらったのだ
まことの親である神に出会えるチャンスを

そしていつか 病気が治っても治らなくても
みんなみんな 流した涙の分だけ優しくなり
甘えとわがままをこえて自由になり

感動と感謝によって大きくなり
友達を増やして豊かになり
信じ続けて強くなり
祈りのうちに神の子になるだろう
病気になったら またとないチャンス到来
病のときは恵みのとき

晴佐久昌英 カトリック司祭

杉戸キリスト教会 2011年度方針

杉戸キリスト教会 2011年度方針(教会総会資料2010年11月より)

★ビジョン


『そして、彼を外に連れ出して仰せられた。
「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」
さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。』創世記15章5-6節

 1、星の数ほど老若男女が満ちあふれる教会、行列のできる教会
 2、日々みことばに聴く祈りをし、主の祈りに沿って熱心に願い求める教会
 3、天から聖霊を受け続けることにより、与える幸いに生きる教会
 4、熱い祈りによって信仰、希望、愛、そして賛美が満ちあふれる教会
 5、人と緑を生かしてオアシスを再創造する教会
 6、魂を救い、人を育てることによって神の国を建て上げ、世界を変える教会
 7、日本とアジアと世界に仕える教会(JAWS21:地域、宣教区、国内、国外)

★2011年度の取り組み

 1、各個人が日々聴く祈りをし、目的宣言文に沿った「目的志向の人生」を目指す

 2、私たち杉戸キリスト教会の目的宣言文を共に作成し、
   「目的志向の教会」を目指す

★5つの目的に基づいた教会の働き

 1、礼 拝ーあなたは神の喜びとしてデザインされた
 
 2、交わりーあなたは神の家族としてデザインされた
 
 3、成 長ーあなたはキリストのようにデザインされた
 
 4、奉 仕ーあなたは神に仕えるためにデザインされた
 
 5、宣 教ーあなたは使命(魂の救いと人育て)のためにデザインされた

★目的志向の人生と教会を目指して

 参照聖書箇所:ルカ福音書10章38節-11章13節

ある時主イエスが祈っておられました。「天と地がつながっているような祈りだ。私もあんなふうに祈りたい。」そんな憧れを弟子たちに抱かせるお姿でした。ですから、「主イエス様。祈りを教えてください。」そう弟子の一人が尋ね求め、素直に聴く祈りをしました。その時主イエスが「祈る時にはこう祈るんだよ。」と教えてくださったのが主の祈りです。

主の祈りをひっくり返すと、以下のような大変恐ろしい祈りになります。主の祈りを自分の祈りとし、「目的志向の人生」を日々選び取るために、ぜひ覚えてください。そしてこの祈りに絶対にアーメン(それが私の心からの願いです)と言わないでください。無意識に祈ることがあっても、意識的には祈らないでください。悪魔的な祈りで、これ以上的外れで罪深い祈りはありませんから。これは、善悪の知識の木の実を食べた者の恐ろしい祈りですから。

自分の名前があがめられ、ほめられますように。

自分を中心とした自分の思い通りになる国が来ますように。

私の願い、考え、計画が、その通りになりますように。

私が今日もがんばって、日ごとの糧を得よう。(神など必要ない)

誰でも私に罪を犯す者があるなら、絶対に赦さないで、必ず報復しよう。

私は自分の力であらゆる誘惑に打ち勝つことができ、

 自分で自分を悪から救い出すことができる。(救い主など必要ない)

国と、力と、栄え、世界に満ちるすべてのものは、私(俺)のものだ。

これは「罪人の自己中心な祈り」です。正直にあなたの心の中をのぞいて見てください。心密かに願っている本音がこのような内容と方向性であるなら、あなたも聖書の言う「罪人」です。行き着く先は死と永遠の滅びです。しかし主の祈りの行き着く先は、喜びと感謝と永遠のいのちです。どちらに向かって生きるのか、あなた自身が日々選び取らなければなりません。

以前の私は、主の祈りをひっくりかえした内容をいつも願い求めていました。けれども、死と永遠の滅びに向かって暴走していた私のために、十字架で命を捨ててくださり、よみがえった主イエスによって、主の祈りの指し示す内容を目指して、喜んで生きるように変えられたのです。「まず向きを確認し、次にその方向性で、聖霊を与えてくださる天の父にあつかましいほど熱心に祈り続けなさい!」そう主イエスは教えておられます。

用いられれば用いられるほど、目に見える結果が出せれば出せるほど、すべての栄光を神にお返しすることが難しくなります。自分に栄光を帰したいという誘惑、神を十字架につけて殺し、自分が神になりたいという誘惑がますます強くなるからです。

ですから電波時計のように、毎日聖書に耳を傾けて聴く祈りをし、主の祈りがコンパスのように指し示している向きに軌道修正しながら生きる。そうすれば、造られ、救われ、生かされ、杉戸キリスト教会に神の家族として呼び集められている本来の目的に導かれた、目的志向の人生を生きることができます。

礼拝メッセージ「結婚活動」

For Marriage

礼拝メッセージ「結婚活動」(クリックで聴けます)

聖書箇所:創世記2章18-25節

それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。創世記2章24節

「結婚」、「結婚活動」の起源は、聖書にあります。

「神のかたち」として造られた私たち人間は、神との関係の中に生かされ、人との関係の中で共に生きるようにデザインされています。これが、3つ目の視点から見た「神のかたち」の関係論的意味です。

実に人間は「人が、ひとりでいるのは良くない」という御心に基づいてデザインされています。それで神は、「わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう」と言われたのです。そして神は、男性のあばら骨からベストパートナーとしての女性を形造られ、素晴らしい出会いが与えられました。

新約聖書において、夫婦関係はキリスト(神)と私たち教会(人)との関係の反映であるという奥義が、説き明かされています。

「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。(エペソ5章21-33節参照)

礼拝メッセージ「喜びの園エデン」

喜びの園エデン

礼拝メッセージ「喜びの園エデン」(クリックで聴けます)

聖書箇所:創世記2章4-17節

神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。神である主は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」創世記2章15-17節

自転車、オートバイ、車、電車、飛行機、トラクター、コンバイン、照明器具、時計、ラジオ、テレビ、冷蔵庫、電子レンジ、洗濯機、エアコン、携帯電話。あらゆる工業製品には、その製品をデザインし、組み立てたメーカーが存在します。どれ一つとして、偶然に存在しているものはありません。すべての製品はメーカーによってデザインされ、形造られ、存在へと招かれたのです。

時代を超える神の言葉である聖書は、私たち人間、つまりあなたをデザインし、組み立ててくださったあなたのメーカなる神がおられ、その方が私たちを存在の喜びへと招いてくださっていることを語り続けています。あなたは偶然の産物ではありません。

デザイン・設計という行為は、本来目的に基づいて行われます。神が人間をデザインされた時にも、目的に基づいてデザインされました。

神の代理人として、喜びの園エデンをふさわしく管理・運営していくという目的のために、人間はデザインされています。存在の喜びによるマネジメント。それが、神のかたちの目的論的な意味です。

礼拝メッセージ「土地のちりといのちの息」

土地のちりと命の息

礼拝メッセージ「土地のちりといのちの息」(クリックで聴けます)

聖書箇所:創世記2章4-7節

神である主は土地のちり(アダマー)で人(アダム)を形造り、その鼻にいのちの息(神の霊)を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。創世記2章7節

これまで見てきた創世記1章から2章3節には、天地万物の創造の中で、そのクライマックスとして、人間の創造が取り上げられていました。

創世記2章4節からは、創造の冠、最高傑作としての人間に改めてカメラが向けられ、人間がクローズアップされ、スローモーションで描写されています。

人間が神のかたちに基づいてデザインされているというのはどういう意味なのか。そのことが、3つのアングル・視点から紹介されていきます。最初のアングルは、いのちという視点から見た神のかたちです。

上記のみことばを原語で読むと、「人」と訳されていることばは「アダム」です。これは人間を意味する男性形の単語です。興味深いことに、「土地」と訳されていることばは「アダマー」となっており、これはアダムと同じ単語の女性形です。

人が土地のちりから形造られたとき、まだいのちを持つ生きものではありませんでした。いのちの源である主なる神が、その鼻にいのちの息(神の霊)を吹き込まれた時、人は生きものとなったのです。

中野教会にて関東宣教区講壇交換メッセージ「目的志向の人生」

中野教会

中野教会にて関東宣教区講壇交換メッセージ「目的志向の人生」(クリックで聴けます)

聖書箇所:ルカ福音書11章1-13節
今年の関東宣教区講壇交換は、中野教会で奉仕させていただきました。感謝。