忙しすぎてクルシミマスになりやすい

忙しすぎてクルシミマスになりやすい

どの職場でもそうだと思うが、牧会伝道の現場はまるで戦場のようだ。特にクリスマスの時期は、忙しすぎてクルシミマスになりやすい。

2016年のクリスマスは、クリスマス前後に90歳と97歳のご夫妻が相次いで天に召された。22日(木)午後、クリスマスプレゼントを持って病院に行くと、既にお父様は召されていた。ご遺体と一緒に24日(土)夜にクリスマスイブ礼拝、25日(日)にクリスマス礼拝と祝会、そして夕礼拝を行い、眠りに就いた。

けれども、26日(月)の午前1時ぐらいに携帯電話の呼び出し音が鳴り、お母様危篤の知らせを受けた。真夜中息子さんと一緒に車で病院に駆けつけ、そして看取る。朝まで葬儀の打ち合わせなどをして、27日(火)にご夫妻一緒に葬儀を行い、順番に火葬することになった。

さらに代務教会の会員で遠隔地におられるおばあちゃんも天に召されてしまった。遠隔地なので、さすがにそのおばあちゃんの葬儀は近隣の牧師先生に依頼した。

そんなこんなで1月1日の新年礼拝が終わるまで、ジェットコースターに乗ってノンストップのような状態だった。

牧師家族の冬休み1日目

けれども、新年礼拝の後、予定していた2日からの冬休みが取れそうな状況になり、家族でゆっくりと時を刻むことができた。

自分らしく時を刻む。これは昨年からの1つのテーマ。

2日月曜日、荷物をまとめ、車に積み込み、そして牧師館兼教会堂を後にする。

幸手ICに乗る前に、すでに昼になっていたので、カスミに寄ってランチを買い、食べながら出発。

圏央道から東北道、そして外環から首都高へと入り、トンネルを抜けてアクアラインを目指す。

かなりの渋滞の中、海ほたるで一休み。

千葉に渡ってからは道路もすいて、のんびりドライブ。

目指すは館山サンセットユースホステル。

子どもを授かる前には、夫婦二人でよくユースホステルを利用したが、子どもを授かってからは初めてのユース利用。

サンライズではなく、サンセットという言葉を用いているからには、きっと夕陽がきれいなのだろう。

アクアラインの渋滞でかなり到着が遅れ、夕方5時過ぎに到着。初日は既にサンセット後で残念。

館山サンセットユースホステル

ここのユースは朝食しか出ないので、夕食を求めて改めてコンビニに向かう。

とにかく無事に宿泊場所にたどり着けたことに感謝。

完全に暗くなる前だったので、見落としやすい案内看板をたどって、細い道を抜けて、運転お疲れさまでした。

家族でお風呂に入り、ベッドで横になりながら聖書を読み、神学書を読み、そしておやすみなさい。

明日から房総半島をまわるのが楽しみ。

牧師家族の冬休み2日目

館山での目覚め。

ユースのペアレントさんが作ってくださったおいしいおせち朝食を食べる。

息子はいつものお母さんの味とは違うので、ちょっと食べれないものが多い。

かまぼこ、たつくり、くりきんとん、なます、昆布巻きなどなど。ごちそうさまでした。

朝ごはんを食べた後、まずは海を目指して出発。

早速袋小路にはまり、Uターンしながら地元の方に道を聞き、そして海へ出る。

房総フラワーラインと呼ばれる道をドライブする。

天気は晴れ。最高だ!

フラワーラインの道沿いには、菜の花がずっと咲いていて、もう春のような気持ちになる。

房総フラワーラインの菜の花

フラワーラインから漁港に入り、さらに海沿いを走る。

赤いアロエの花と青い海と空が美しい。

アロエの花と海と空

遠くに富士山も見えた。

房総半島から富士眺望

漁港を通り越して細い道を進み、そして歩いて海辺に出る。

海辺にて

夏に関東宣教区プロジェクトが予定されている伊豆大島も眺望できる。

伊豆大島眺望

しばらく海辺で遊ぶ。

海辺の子ども

海辺のサーファーがかっこいい。

海辺のサーファー

そして野島岬、房総半島最南端へ

房総半島最南端の地

房総半島最南端にて

野島岬より太平洋眺望

館山サンセットユースホステルより

館山サンセットユースホステルの星空

シーサイドワインディング

房総フラワーライン

・・・続く

福音は全世界に 新年礼拝のご案内

福音は全世界に 新年礼拝のご案内

新年礼拝のご案内

杉戸キリスト教会地図2016

いのちのことば2017-1

いのちのことば2017-1

いのちのことば社というキリスト教出版社がある。そのいのちのことば社の書評誌、月刊「いのちのことば」の巻頭言を3回シリーズで書かせていただいた。世界を覆っている、閉塞感という名の暗雲を、跡形もなく吹き飛ばすはじめの一歩となりますように。

閉塞感を突き破る神の言葉1

閉塞感を突き破る神の言葉<1>
日本同盟基督教団・杉戸キリスト教会牧師 野町真理

『ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。』ルカ福音書1章20節

 ルカ福音書1章には、閉塞感に囚われていた祭司ザカリヤと彼の妻エリサベツが登場します。忠実な二人でしたが、祈りが答えられない年月によって年輪を重ねた結果、御使いによって子どもを授かると聞いても信じられませんでした。もう年ですから。長い間祈りが答えられない中での高齢化は、じわじわと効いて私たちを閉塞感へと誘います。けれども不妊の女だったエリサベツは、全能の神によって身ごもり、高齢出産でも守られ、キリストの道備えをするバプテスマのヨハネの母とされました。

 ザカリヤは不信仰であった故に、神の言葉が出来事になるまで、期間限定でものが言えなくなりました。けれども神の言葉は、人の不信仰を超えて、その時が来れば実現したのです。『私のことばを信じなかったからです。(けれども)私のことばは、その時が来れば実現します。』と聖書は語ります。「信じなかったから、あなたはもうおしまい。あなたの信仰の通りにしかならないから。」と切り捨てると、もはやキリスト教ではなくキリステ教になってしまいます。聖書の語る福音は、信じられない者にとっても福音です。

 厳密な意味で、私たちが信じたとおりにしかならないのなら、全能の神の素晴らしいご計画は、計画倒れになるでしょう。世界宣教によって宇宙を再創造するという神の壮大なご計画は凍結し、私たちは閉塞感の中で滅んでいくしかありません。しかし神の言葉は、私たちの不信仰を突き破って、時が来れば必ず出来事になります。そのことを聖書は力強く証言しています。閉塞感を突き破る神の言葉を体験する。それが世界を覆っている暗雲を跡形もなく吹き飛ばすはじめの一歩です。

空港にて 村上龍

空港にて 村上龍

駅前、カラオケルーム、空港、披露宴会場という、どこにでもある四つの場所を舞台にした短編は「オール讀物」に連載した。わたしはそれらの短編に何か希望のようなものを書き込みたかった。希望というのは、将来が今よりも良いものになるだろうという思いだ。近代化途上の日本は貧しかったが、希望だけはあった。
「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」
そういう台詞を中学生が言う長編小説を書いてから、希望について考えることが多くなった。社会の絶望や退廃を描くことは、今や非常に簡単だ。ありとあらゆる場所に、絶望と退廃があふれかえっている。・・・この短編集には、それぞれの登場人物固有の希望を書き込みたかった。社会的な希望ではない。他人と共有することのできない個別の希望だ。 村上龍著「空港にて」あとがきより

2016年に教えられたことの一つ

わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。エレミヤ29:7

2016年に教えられたことの一つは、その町の繁栄を求めて、そのために祈るということ。教会(その地域に呼び集められたキリスト者一人一人)は地域の祝福のために存在し、派遣されているから。

主イエス・キリストの父なる神さま!どうか杉戸町と宮代町を祝福してください。若者たちが移り住み、この町で子どもたちを育てたいと願うような魅力と希望に溢れた町にしてください。年配の方々が移り住み、地上を旅する人生において、終の住処にしたいと願うような愛と平安(シャローム)に溢れた町にしてください。そのために、私たち杉戸キリスト教会が地域にお仕えすることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

先行する恵み

聖書の中に命令が出てきたら、まず神がその命令を私に対して実践してくださったこと(先行する恵み)に思いを向ける。例えば、マタイ22章34−40節に記されている聖書の中で一番大切な命令について、実践してみよう。

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ

<1>まず神が、心(カルディア・ハート・感情)を尽くして私を愛してくださったことに思いを向ける。

 まず神が、喜ぶあなたとともに喜び、泣くあなたとともに泣いてくださっている。

<2>まず神が、思い(プシュケー・ソウル・魂)を尽くして私を愛してくださったことに思いを向ける。

 魂の叫び、心の奥底から、スプランクニゾマイ(内臓がわななく)

<3>まず神が、知力(ディアノイア・マインド・アンダスタンディング・頭・考え、理解)を尽くして私を愛してくださったことに思いを向ける。

  知力を尽くして
  総合的・統合的・包括的・全人的知識・情報を尽くして
  設計、デザイン
  人体の不思議、地球、宇宙の不思議
  Designed by God in Heaven

あなたの隣人を自分自身のように愛せよ

 まず神が、私の良き隣人となって寄り添い、私をご自身のように愛してくださったことに思いを向ける。(ルカ福音書10:30−37 良きサマリヤ人のように、反対側を見て見ぬふりをして通り過ぎずに)

このようにまず私を愛してくださった神に思いを向けるなら、神を喜び、神に感謝し、神を愛することはそんなに難しいことではなくなる。これが福音的な聖書の読み方のコツ。先行する恵みにいつも思いを向けること。

十戒における先行する恵み

一番大切な十戒の前文=まず語られている先行する恵み(救い、愛、赦し)

 出エジプト20章、申命記5章

 わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した(自由へと解放した)、あなたの神、主である(救い主・キリストである)。(だから)

そして先行する恵みの後に続く十戒

 十戒の前半と後半で、それぞれ具体的に展開されていく大切な二つの戒め(十字架の縦棒と横棒)

前半:たいせつな第一の戒め=十戒の前半=対神関係=十字架の縦棒
  「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
  1、ほかの神々をもたない
  2、自分のために偶像を造らない
  3、主の御名をみだりに唱えない
  4、安息日を覚えて聖なる日とする

後半:同じようにたいせつな第二の戒め=十戒の後半=対人関係=十字架の横棒
  『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』
  5、生まれてきた時に最初の隣人となってくれた父と母を敬う
  6、隣人を殺さない
  7、隣人と姦淫しない
  8、隣人のものを盗まない
  9、隣人に対して偽りの証言をしない
 10、隣人の家・妻を欲しがらない=むさぼり

主の祈りにおける先行する恵み

マタイ6章7−8節に、「先行する恵み」が明記されています。驚くべきことに、私たちが願う前に、父なる神は、私たちに必要なものを知ってくださっています!

また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです

だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕

⭐️先行する恵みをいつも覚えることができるように

私たちは愛しています。**(なぜなら)神がまず私たちを愛してくださったから**です。
1ヨハネの手紙4章19節

ヨハネ福音書の主イエスの新しい戒め 福音的な聖書の読み方

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。**わたしがあなたがたを愛したように**、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。ヨハネ福音書13章34−35節

互いに愛し合いなさい。なぜなら、主がまず私たちを本気で愛してくださったから。
互いに仕え合いなさい。なぜなら、主がまず私たちに仕え、汚れた足を洗ってくださったから。
互いに赦し合いなさい。なぜなら、主がまず私たちを赦してくださったから。

実は主の愛と赦しは、実は私たちの悔い改めにも先行します。
あらゆるものに先行する恵み。それを知った時初めて、私たちは真に悔い改めることができるのです。
ルカ福音書23章34節には、私たちの悔い改めに先立つ神の赦しが、十字架の主イエスによって明確に啓示されています。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」
 私たちがまだ神の敵であった時。

内藤容子LIVE 090621 キリスト賛歌

閉塞感を突き破る神の言葉<3>神のことば=出来事

閉塞感を突き破る神の言葉<3>神のことば=出来事
日本同盟基督教団・杉戸キリスト教会牧師 野町真理

『雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。』イザヤ書55章10−11節

「神のことば」を表すヘブル語「ダバール」は、「出来事」とも訳すことができます。神のことばは必ず出来事になるからです。上記のみことばは、そんな神のことばの力強さを教えています。

旧約聖書には、閉塞感に囚われ、神の約束を信じられなかったアブラハムとその妻サラの姿が記されています。創世記17章17節が語るアブラハムは、本音と建前を使い分け、ひれ伏しながら作り笑いをします。信仰の父アブラハムも、閉塞感に囚われて神の約束を信じられなかったのです。夫婦は似てきます。創世記18章12節が語るサラもまた、神の約束を信じられませんでした。ニヒルな笑いが響くサラの心の中は、まるで氷点下です。

厳密な意味で、私たちが信じたとおりにしかならないのなら、閉塞感に囚われた者に救いはありません。静かにあきらめ、ニヒルに笑う仮面の道化師として、行き止まりの路地裏で死ぬ以外に道はありません。アブラハム夫婦がイサクを授かることもなかったでしょう。アブラハムの子孫としてイエス・キリストが来られるクリスマスも、十字架で私たちのために死なれたキリストが復活するイースターもなかったでしょう。

しかし、「神のことば」は、聖書信仰によって「出来事」と訳すことができます。なぜなら聖書に書き記された神のことばは、私たちの閉塞感を突き破って、時が来れば必ず出来事になるからです。アーメン。主イエスの再臨と救いの完成がますます近づいています。閉塞感を突き破る神のことばをしっかりと握りしめ、天を見上げて地上を旅しましょう。

SUGITO GOSPEL CAFE 2016-11-25

杉戸福音喫茶20161125.001

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杉戸福音喫茶20161125.004

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杉戸福音喫茶20161125.009

杉戸福音喫茶20161125.010

杉戸福音喫茶20161125.011

杉戸福音喫茶20161125.012

牧師にとって両刃の剣のような本

ある意味で、本書は、牧師にとって、また牧師を志す人々にとって、「両刃の剣」のようなものであると言えるかもしれない。それはつまり、私たちが本書を、牧師としての進むべき道を指し示し、その道を切り開く上での力強い助けとして受けとめることもできると共に、他方では、それと同時に、本書が私たちを刺し通し、私たちの内なる思いや考えを奥底まで切り分け、明るみにさらすようなものとして立ち現れてくる場合もあるということである。おそらくは本書における著者のねらいもそうしたところにあるのであって、さらに想像をたくましくするならば、こうした複雑な叙述の奥には、著者自身も歩んできた牧師としてのいろいろな体験が、ことに痛みを伴う失敗や挫折といった経験とそこから学んだことが、色濃く反映されているようにも思われてならないのである。

ウイリアム・ウイリモン著『牧師 その神学と実践』の訳者あとがきより(p566-567)

牧師 その神学と実践