SUGITO GOSPEL CAFE(杉戸福音喫茶)

新約聖書が語る主イエス

新約聖書が語る主イエスは、一言で言えば、エホバの証人が証言するような「最も偉大な人間」ではありません。新約聖書が語る主イエスは、明らかに全てが、私たち人間とは質的に違います。まるで天と地の違いのように。そのような質的な違いが認識されていなければ、新約聖書が語っている啓示のメッセージを本当に聞いていることにはならないでしょう。

新約聖書が語る主イエスは、私たち人間を断罪しつつ、しかも解放する全権を持っておられるお方です。また、私たちを御許に召すと共に、御自身に結びつける全権を持っておられるお方です。そして、人間があらゆる宇宙的制約を持っているのに対して、宇宙的全権を持っておられるお方。主イエスとならんでは、他に先行者も後続者もない救い主・キリスト。すなわち「神の行為」であり「終末的な救いの出来事」であるお方です。主イエスは、「人間になられた神」であられ、万物を創造し、万物を支えておられる「神の言葉」です。

いつもの生活って、奇跡でした。

いつもの生活って、奇跡でした。

何気ない日常生活。実はそこには本当の幸せがあり、それは奇跡。
いつもの生活って、奇跡でした。
そしていつもの生活って、今も奇跡です。
6年目の3.11を覚えつつ。
教会員の生老病死に寄り添いつつ。

いのちのことば2017-3

いのちのことば 2017-3

閉塞感を突き破る神の言葉3

閉塞感を突き破る神の言葉<3> 神のことば=出来事
日本同盟基督教団・杉戸キリスト教会牧師 野町真理

『雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。』イザヤ書55章10−11節

「神のことば」を表すヘブル語「ダバール」は、「出来事」とも訳すことができます。神のことばは必ず出来事になるからです。上記のみことばは、そんな神のことばの力強さを教えています。

旧約聖書には、閉塞感に囚われ、神の約束を信じられなかったアブラハムとその妻サラの姿が記されています。創世記17章17節が語るアブラハムは、本音と建前を使い分け、ひれ伏しながら作り笑いをします。信仰の父アブラハムも、閉塞感に囚われて神の約束を信じられなかったのです。夫婦は似てきます。創世記18章12節が語るサラもまた、神の約束を信じられませんでした。ニヒルな笑いが響くサラの心の中は、まるで氷点下です。

厳密な意味で、私たちが信じたとおりにしかならないのなら、閉塞感に囚われた者に救いはありません。静かにあきらめ、ニヒルに笑う仮面の道化師として、行き止まりの路地裏で死ぬ以外に道はありません。アブラハム夫婦がイサクを授かることもなかったでしょう。アブラハムの子孫としてイエス・キリストが来られるクリスマスも、十字架で私たちのために死なれたキリストが復活するイースターもなかったでしょう。

しかし、「神のことば」は、聖書信仰によって「出来事」と訳すことができます。なぜなら聖書に書き記された神のことばは、私たちの閉塞感を突き破って、時が来れば必ず出来事になるからです。アーメン。主イエスの再臨と救いの完成がますます近づいています。閉塞感を突き破る神のことばをしっかりと握りしめ、天を見上げて地上を旅しましょう。

THERE IS NO B.C. 66巻のイエス・キリスト

The Jesus Bible

THERE IS NO B.C.

聖書=神さまからのラブレター
聖書通読 66巻 旧約聖書から新約聖書
旧約聖書も新約聖書も、すべて、イエス様のことを語っている。
THERE IS NO B.C. Sixty-Six Books. One Story. All about One Name.

THE JESUS BIBLE と11歳の少年の説教をもとにして

旧約聖書

創世記において、イエス・キリストは栄光に満ちた私たちの創造主です。
出エジプト記では、イエス様は過越の小羊であり、
         奴隷の私たちを奇跡的に解放してくださる方です。
レビ記では、イエス様は私たちの身代わりのいけにえとなって、私たちを聖めてくださる大祭司です。
民数記では、イエス様は私たちの羊飼いとして群れの数を数え、昼には雲の柱、夜には火の柱となって、私たちを約束の地に導かれます。
申命記では、イエス様はモーセのような預言者で、約束された希望です。
ヨシュア記でイエス様は、力強い指導者で、信仰の戦いにおける親分です。
士師記でイエス様は、義をもって私たちをさばき、統べ治めてくださる方です。
ルツ記では、ボアズのように、私たちを買い戻してくださるお方です。
サムエル記第一第二において、イエス様は永遠の王であり、サムエルのように信頼できる預言者です。
列王記と歴代誌では、唯一の希望であり、王であり、預言者であり、真の礼拝の回復者です。
エズラ記とネヘミヤ記では、イエス・キリストは帰還を導き、壊れたものを復興してくださる再建者です。
エステル記でイエス様は、私たちのモルデカイです。
ヨブ記でイエス様は、苦しむ救い主であり、生きておられる私の贖い主です。
詩篇=イエス様は、最高の賛美がふさわしい、王であり羊飼い。
箴言=イエス様は、私たちの神の知恵であり人生の教師です。
伝道者の書=イエス様は、人生という名の、迷いやすい地上の旅における神の知恵
雅歌(SONG OF SONGS)=私たちの最愛の花婿、いっしょにパンを食べるコンパニオンです。
イザヤ書=比類なき全世界の救い主
エレミヤ書=私たちの新しい契約
哀歌=ブルース(悲しみと嘆きの歌)の中にも一筋の希望を与えてくださる真実な主
エゼキエル=いのちの水の源である本当の神殿としてのイエス様
ダニエル=イエス様は、燃える火の中における第四の方、私たちの偉大な王
ホセア=イエス様は、姦淫の妻を追い求める配偶者・夫
ヨエル=イエス様は、聖霊と火のバプテスマを授けられる祝福された希望
アモス=イエス様は、格差社会を裁き、重荷を担われる方
オバデヤ=イエス様は、救いの勇士、義しい裁き主
ヨナ=敵国に向かう宣教師としての神、イエス・キリストの姿。
ミカ=私たちのあわれみ深い王、麗しい足を持つメッセンジャー
ナホム=復讐する神、私たちの力、盾
ハバクク=祈り叫びながら、喜びに満ちた救いをくださるイエス様
ゼパニヤ=力強い私たちの救いの勇士
ハガイ=私たちの現状と優先順位を問い、神を第一にするようにと迫る方
ゼカリヤ=謙遜な王であるイエス様
マラキ=義の太陽のように来られる私たちの救い主

新約聖書

マタイ=インマヌエル、約束された王なる神は私たちとともにおられるイエス・キリスト。
マルコ=しもべとしての本当の神
ルカ=いつくしみ深い世界の救い主
ヨハネ=人となられた神のひとり子、わたしはある
使徒の働き=世界宣教の主と継続するミッション
ローマ=永遠の救いを得させる神の力、被造物・宇宙全体の救い
コリント第一=岩、イスラエルの父、変えられるための希望
コリント第二=勝利を得て凱旋される方、悔い改めへの招き
ガラテヤ=信仰による義認、自由への解放者としてのイエス・キリスト
エペソ=教会のかしら、神との平和
ピリピ=苦難の中での私たちの喜び
コロサイ=すべてのもののかしら
テサロニケ第一第二=慰めの源、再び来られる私たちの王
テモテ第一=我らの唯一の仲介者
テモテ第二=あなたを揺るがない者にする方、私たちの力の源
テトス=真理、偉大な神、救い主
ピレモン=恩人、和解の源泉
ヘブル=信仰の創始者、完成者、完全ないけにえ、大祭司
ヤコブ=あなたの信仰に働く力、完璧な手本・模範
ペテロ第一=永遠の報い
ペテロ第二=救いの主
ヨハネ第一=いのちのことば、愛
ヨハネ第二=受肉された神
ヨハネ第三=交わりの絆
ユダ=私たちを支え続ける恵み
そして黙示録において、イエス・キリストは再び来るべき王の王、主の主。永遠の礼拝
アルファでありオメガ、最初であり最後、初めであり終わりである方。
今いまし、昔いまし、後に来られて報いてくださる方。
十字架で身代わりに死んだが、3日目に復活され、今もいつまでも生きておられるお方。
すぐに来られる方

いのちのことば2017-2

いのちのことば 2017-2

閉塞感を突き破る神の言葉2

閉塞感を突き破る神の言葉<2> 天を見上げて地上を旅する
日本同盟基督教団・杉戸キリスト教会牧師 野町真理

『さあ天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。・・・あなたの子孫はこのようになる。』創世記15章5節

上記のみことばから3つのことを記します。第1に、このみことばは北極星のように不動です。ですからこのみことばを指針とし、天を見上げて地上を旅するなら、確かな方向性をもって旅ができます。目先のことに囚われて見るべきものを見失ってしまう。そのような私たちには、北極星のように変わらない確かなみことばが必要です。

第2に、天を見上げて生きていくように人間はデザインされています。ギリシア語で人間を意味する「アンスローポス」には「上を見上げる」という意味があります。自分の内側を見ても、横を見て人と自分を比べても、暗くて頑固で厳しくなり、俯くことしかできません。上を向いて歩く時、明るく柔和で優しい人に変えられます。人間は上を見上げて生きていくようにデザインされているからです。天を見上げる一番楽な方法は、仰向けになることです。朝目覚めた時、車に轢かれて干からびたカエルのような心であっても、仰向けで天を見上げればいいのです。天を見上げて主を待ち望むなら、新しく力が与えられ、元気に起き上がることができます。

第3に、天国はにぎやかな所です。閉塞感に囚われている人は、天国にはあまり沢山の人がいないというイメージを持っています。しかし全知全能の神は、そのような私たちの不信仰を突き破って、数え切れない人々を天国に招かれます。星の数ほどの人々、だれにも数えることのできない人々を、神は救いに招かれます。天国はにぎやかな所です。私は信じます。神のことばは私たちの不信仰を突き破って、時が来ると出来事になると。私は信じます。万軍の主の真実と熱心によって、注がれる聖なる神の霊によって、近い将来、日本のキリスト者にリバイバルが起き、青年は幻を見、老人は夢を見、そして諸教会に行列が出来ることを。

聖書が語るのは世界泥沼論!

日本泥沼論で終わっていたら、井の中の蛙!聖書が語るのは、世界泥沼論!

ユダヤ人も異邦人も同じ泥沼。日本もアジア諸国も、アメリカもヨーロッパもみんな泥沼。

全ての人間の心の中が泥沼である!つまり、あなたの心の中も泥沼である!

しかし、どんな泥沼であっても、福音の花は美しく咲き乱れ、いつまでも残る豊かな実を結ぶ。

ちょうど泥沼から美しく咲く蓮の花のように。

ペテロを始めとする12弟子たちは全員踏み絵を踏んだような弱い者たち。

主イエスを見捨てて全員逃げ出したから。

特にシモン・ペテロは、3回駄目押しのように、踏み絵を踏みにじったような弱い者。

しかし彼は、先行する恵み、先行する赦し、先行するとりなしによって立ち直り、兄弟たちを力づけることができる強い者、岩(ペテロ)へと変えられた!

ふさわしくない時・弱い時にあなたを愛して、将来必ずあなたをふさわしい者・強い者・勝利者に変えてくださる!これが聖書が語る福音。

泥沼から咲き出でる蓮

日本と世界への挑戦状

日本と世界への挑戦状

火曜日、レイトショーでサイレンス・沈黙を観た。

世界的に見ても非常に厳しいキリシタン迫害が起こった国、日本。

数々の拷問の中で呻き叫ぶキリシタンたち。神が沈黙されているようにしか思えないパーデレ(宣教師)たちの危機。問われる信仰の本質。

殉教する者と転ぶ(棄教する)者。強い者と弱い者。

沈黙という題であるが、踏み絵の前でためらっている時に、沈黙を破って聞こえてくる「踏めばいい」という声。

日本という土壌は、キリスト教の種子を根から腐らせてしまうという日本泥沼論。

棺桶の中に納められた元パーデレの遺体。仏式の葬儀の後、火葬される。その手に置かれた十字架の主イエスの木彫。

最後の誘惑のマーティン・スコセッシ監督が28年の歳月をかけて制作したこの映画は、日本宣教、そして世界宣教への挑戦状だ。

閉塞感に囚われた者は、神が沈黙しておられるようにしか感じられない。

小畑進著 小説「沈黙」論

忙しすぎてクルシミマスになりやすい

忙しすぎてクルシミマスになりやすい

どの職場でもそうだと思うが、牧会伝道の現場はまるで戦場のようだ。特にクリスマスの時期は、忙しすぎてクルシミマスになりやすい。

2016年のクリスマスは、クリスマス前後に90歳と97歳のご夫妻が相次いで天に召された。22日(木)午後、クリスマスプレゼントを持って病院に行くと、既にお父様は召されていた。ご遺体と一緒に24日(土)夜にクリスマスイブ礼拝、25日(日)にクリスマス礼拝と祝会、そして夕礼拝を行い、眠りに就いた。

けれども、26日(月)の午前1時ぐらいに携帯電話の呼び出し音が鳴り、お母様危篤の知らせを受けた。真夜中息子さんと一緒に車で病院に駆けつけ、そして看取る。朝まで葬儀の打ち合わせなどをして、27日(火)にご夫妻一緒に葬儀を行い、順番に火葬することになった。

さらに代務教会の会員で遠隔地におられるおばあちゃんも天に召されてしまった。遠隔地なので、さすがにそのおばあちゃんの葬儀は近隣の牧師先生に依頼した。

そんなこんなで1月1日の新年礼拝が終わるまで、ジェットコースターに乗ってノンストップのような状態だった。

牧師家族の冬休み1日目

けれども、新年礼拝の後、予定していた2日からの冬休みが取れそうな状況になり、家族でゆっくりと時を刻むことができた。

自分らしく時を刻む。これは昨年からの1つのテーマ。

2日月曜日、荷物をまとめ、車に積み込み、そして牧師館兼教会堂を後にする。

幸手ICに乗る前に、すでに昼になっていたので、カスミに寄ってランチを買い、食べながら出発。

圏央道から東北道、そして外環から首都高へと入り、トンネルを抜けてアクアラインを目指す。

かなりの渋滞の中、海ほたるで一休み。

千葉に渡ってからは道路もすいて、のんびりドライブ。

目指すは館山サンセットユースホステル。

子どもを授かる前には、夫婦二人でよくユースホステルを利用したが、子どもを授かってからは初めてのユース利用。

サンライズではなく、サンセットという言葉を用いているからには、きっと夕陽がきれいなのだろう。

アクアラインの渋滞でかなり到着が遅れ、夕方5時過ぎに到着。初日は既にサンセット後で残念。

館山サンセットユースホステル

ここのユースは朝食しか出ないので、夕食を求めて改めてコンビニに向かう。

とにかく無事に宿泊場所にたどり着けたことに感謝。

完全に暗くなる前だったので、見落としやすい案内看板をたどって、細い道を抜けて、運転お疲れさまでした。

家族でお風呂に入り、ベッドで横になりながら聖書を読み、神学書を読み、そしておやすみなさい。

明日から房総半島をまわるのが楽しみ。

牧師家族の冬休み2日目

館山での目覚め。

ユースのペアレントさんが作ってくださったおいしいおせち朝食を食べる。

息子はいつものお母さんの味とは違うので、ちょっと食べれないものが多い。

かまぼこ、たつくり、くりきんとん、なます、昆布巻きなどなど。ごちそうさまでした。

朝ごはんを食べた後、まずは海を目指して出発。

早速袋小路にはまり、Uターンしながら地元の方に道を聞き、そして海へ出る。

房総フラワーラインと呼ばれる道をドライブする。

天気は晴れ。最高だ!

フラワーラインの道沿いには、菜の花がずっと咲いていて、もう春のような気持ちになる。

房総フラワーラインの菜の花

フラワーラインから漁港に入り、さらに海沿いを走る。

赤いアロエの花と青い海と空が美しい。

アロエの花と海と空

遠くに富士山も見えた。

房総半島から富士眺望

漁港を通り越して細い道を進み、そして歩いて海辺に出る。

海辺にて

夏に関東宣教区プロジェクトが予定されている伊豆大島も眺望できる。

伊豆大島眺望

しばらく海辺で遊ぶ。

海辺の子ども

海辺のサーファーがかっこいい。

海辺のサーファー

そして野島岬、房総半島最南端へ

房総半島最南端の地

房総半島最南端にて

野島岬より太平洋眺望

館山サンセットユースホステルより

館山サンセットユースホステルの星空

シーサイドワインディング

房総フラワーライン

・・・続く

マザー・テレサ 日々のことば

マザー・テレサ 日々のことば

8月12日

これは、私がかつてインドの大統領に差し上げたことのあるニューマン枢機卿の祈りです。大統領は、ストレスや困難に直面した時この祈りが自分に安らぎを与えてくれる、と言われました。

「愛するイエスよ、私がどこへ行っても、
あなたの香りを振りまくことができるよう助けてください。
私の魂を、あなたの霊と命で満たしてください。
私の全存在を、全くあなたのものとして支配してください。
私の人生全体があなたの輝きとなるように、
私を通して輝いてください。
あなたが私の中に完全にいてくださるので、
私に出会うすべての人が、
私の中に生きておられるあなたの現存を
感じ取ることができますように。
どうか彼らが、もはや私ではなく
イエスよ、あなただけを
見つめることができますように」

8月13日

ニューマン枢機卿の祈り

「私と共におとどまりください。
そうすれば、あなたが輝かれるように
私は輝き始めるでしょう。
その光が他の人々の灯となりますように。
ああ、イエスよ、
その灯は私のものとなり、
そして、私を通して、人々に輝きかけるのは
あなたです。
こうして、あなたが一番望まれる方法で
周りの人々を照らすことによって
あなたを賛美させてください。
どうか私が、人々に
説教ではなく私の手本と神への愛と
人に与える影響力によって
あなたを伝えることができますように。
私の心に満ちあふれる愛によって
まっすぐあなたに向かいますように。
アーメン。」